時計〜恋文横丁〜
私は、青木貴音。先日、母親が90歳で亡くなった。渋谷で生まれ育った母親は、女手一つで私を育てた。私は子供の頃から貧困で苦労したし、日本人離れした外見のせいで虐めにもあってきた。
そう、私は長い間母親を恨んできた。昨夜、あの不思議な体験をするまでは。
その夜、私は渋谷の街を歩いていた。この街は私の勝手知った庭みたいなもので、隅から隅まで知り尽くしている自信があった。しかし、その日は初めて見る裏路地を目の前に、その自信が崩れていく音が聞こえた。
自分の庭に自分の知らない路地があることに我慢が出来ず、思わず路地に入った。
そこは、戦後の貧しい雰囲気が漂っていて、異次元の世界に迷い込んだようであった。
恐る恐る歩いていると、暗い建物の奥から男の人の声がした。
「そこのお嬢さん。そう、あなた、恋をしていますね?」
「私はもうそんな歳じゃありませんよ。あなたはここで何をしているのですか?」
「私は、代書屋です。あのワシントンハイツに住んでいるアメリカ人に恋している日本人女性の為に、恋文を代筆しています」
代書屋と名乗るこの男性は、ボロボロになった学生服を着ていて、ビン底のような眼鏡をしている。
「もしや、あなた……青木かなさんではないですか?」
「かなは私の母ですが……」
「いや、かなさんだ。あなたの恋文の返事が届いていたのですが、随分と長い間取りにいらっしゃらなかったので……」
代書屋は店の奥から茶色に焼けた一枚の手紙を、大事そうに持ってきた。ジョージと名乗る男性から母あての手紙だった。
そこには、アメリカ本国に残してきた婚約者がいることや、母へのお詫びが綴られていた。
戦後の混乱期に、この渋谷に、いやこの国に自由を持ち込んだアメリカ。そのアメリカに憧れ、アメリカ人との間で私を産んだ母親。その手紙で、貧困と闘いながら青春期を必死で生きた母親の気持ちが理解できたような気がした。抑えることのできない母親の恋心が私を誕生させ、想像もつかないような苦労をしながら私を育てたのだ。
私は目を閉じて、その時代の空気をゆっくりと吸い込んだ。
気が付くと、私は細い路地の入口に立っていた。塞がれたその路地には、「恋文横丁」と書いてあった。