ベルクソンで考える「生きる意味」
今、ベルクソンを読んでいる。それで色々感興を覚えて、色々な事を言いたい気持ちになっているのだが、そうした事をしても散漫になるので、とりあえず「生きる意味」といった比較的わかりやすい、現代人向きのテーマでエッセイにしてみようと思う。
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「生きる意味」とは何か?といった問いは、ヤフー知恵袋なんかでよく質問されるが、それではっきりした答えが出た試しがない。考えてみれば当たり前の話で「生きる意味とは〇〇です」と仮に、有名な学者か何かが答えたところで(そうか?)という気持ちは残るだろう。どのような答えが出た所で、質問者は納得行かないものが残るだろう。この時、価値のあるのはこの「納得行かない」という感情だけで、後の事はどうでもいいと言える。
ベルクソンであったなら、どう答えるだろうか。答えは明瞭であるように思われる。彼はこう言うだろう。
「君が生きる意味についてどのような結論、答えを見つけようと、実際に生きる事はその答えとは違うものだ。生とはそのような定義付けで解決するものではない」
おそらく、ベルクソンはこのように答えるだろうと思う。しかし、哲学を知らなくて、ここまでの文章を読んだ人は頭に「?」が浮かぶだろう。(それが答えなの?)(答えになっていないじゃないか) …繰り返すが、ここでもその疑問だけが価値あるものである。生きる意味について答えようとする全ては、我々が生を簡素化し、定義に収めて安堵しようとする精神の現れに過ぎない。その装いを捨てれば生の姿は露わになる、とベルクソンはおそらく言うだろう。ベルクソンはそれを「時間」だと言うが、これを空間的に表象する事から間違いが生じる。今この文章の文脈から言えば「生きる意味」の定義化は、生という時間の空間化にあたると言える。
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ベルクソンは繰り返し自分の哲学について語っている。彼もまた、自分が掴んだものを他人に伝えるのがいかに困難か、あまりにも簡単、常識的でしかもみなが見過ごしている事をいかにして他人に伝えるのか、その事に随分苦労した人だった。それが文章からよく読み取れる。
例えば、彼は小説というものについて次のような意見を述べている。私にはこれは非常に重大な事に思える。
「例えば、小説を読むとき、私たちはそうしようとする。しかし、その作者がいかに念入りに主人公の感情を描き、さらにその経歴まで再構成したとしても、その小説の結末は、予見されていたにせよ、あるいは予見されていなかったにせよ、私たちがその人物について抱いてたイメージについて何かを付け加えることになるだろう。してみると、私たちはこの人物を不完全にしか知らなかったわけである。」
(「時間と自由」 中村訳)
ある一人の人物がいて、我々はその人物について実によく知っているとする。我々が万能の神で、その人間の未来まで透視して、その人間がどういう事件を起こして、どう死ぬのか、全て知っていたとする。しかし、それを外側から判断するのと、実際にその人間の中に入って(小説的な想像力でもって)、現に生きる事は全然違う事である。生きる事は知る事とは違うのだ。
我々は未来についてあれこれ考える。あれこれ言う。しかしどれもこれも馬鹿話の感を出ない。なぜか。未来に、現に生きる事は、現在から未来について述べる事とは全く違うからだ。ある予言が全て成就したとしても、それはただそれだけの事であり、もし自分が完璧に定義された通りの人生を生きるにしても、実際にそれを生きる事には何がしかの意味があるのである。
それはなぜか。どういう事か。これもベルクソンが丁寧に説明してくれている。ある小説の筋も、その作品が何を狙って書かれたのか、そのテーマも全て知っていたとしても、実際にその小説を読む事には意味がある。それは、外側から知るという行為では知られないある内部の運動を『経験』するからである。生きるとはそういう事だ。
人はよく言う。未来はどうなりたい、こうなりたい。過去のあの過ちを直したい。しかし、時間はそのような空間的なものではない。ネタバレを極度に恐れる読者、ネタバレされればもう見る価値のない作品、それは作品が「筋」に分解されうるという誤解から来ている。全ての筋を知っていたとしても読む価値のある作品が本当の作品だと言えるだろう。なぜなら、そこには外側からの定義の及ばない、あえて言えば言葉の及ばない内部的な生があるからであり、それを読み、リアルタイムに追体験していく事で、定義を越えた何ものかを得るからだ。生を再構築した偉大な作品はそのようにできている。つまり、それは本物の一人の人間の生涯のように我々の前に現れてくれている。しかも、それはその内部を我々に開いていてくれさえする。
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話を戻そう。「生きる意味」というものも全く同じ事である。生きる意味がなんであるかわかったところで、わからなかったところで、現に生きる事はそれとは全然違ったものになるという事だ。そこで答えは解決されている、と言っても人は首を縦に振らないだろう。というのは人はそれには答えがあるという前提で話しているからだ。人には無邪気な所があり、議論があれば正解があり、論破などというものあれば、勝った方が正しいと考える。ところでそれで我々の生は何か変わったか。現実は変わったのか。変えられるものは、私は「感動」だけであると思う。そうして「感動」は内部的な生に深くささやきかけるからこそ、力強い生命力を持つに至る。人が頭の上っ面で考えた事はタイムラインに乗って右から左に流れていくだけだ。
シオランがこんな事を言っていた。「生きている間、死の意味について考え続け、死ぬ瞬間、それまで考えてきた全てが無意味であると知る。」
私はこれを見た時、そのユーモラスな口吻に噴き出してしまったが、今から考えるとシオランはベルクソン的な真理に触れていたのだった。そうなのだ。死について知る事は現に死ぬ事は違う。そうして現に死ぬ事は実際に死ぬ事を通じて体感されうる。あまりにも当たり前の話だが。
もう少し違う角度から考えると、理想と現実とは違う、という事でもある。人が念願だとか、理想だとか、期待している事と実際にそうである事とは全く違う。人が思い通りの相手と思い通りのシチュエーションになったとしても、それは事前に予想していた期待を必ず裏切るようにできている。というのは、頭の中で空間的にイメージされている事と、現にそうである事は違うからだ。これもベルクソンは詳しく説明している。
我々は明日を予測できる社会に生きている。あなたが明日、会社に何時に行き、何の仕事をして、誰と話して、どんな昼飯を食うのか、だいたいは予測できるだろう。その予測の精度を高めて寸分違わないもと考えてみよう。明日、予測通りの生活をあなたが実際に行うとしても、そこにはやはり事前の予想とは違うものが現れだろう。それはそれを体感するあなた自身の存在、時間としての生の事だ。
おそらく、若年期と中老年期(成熟期)との違いはそこにあるのだろう。私は、小説は四十歳を越えないと書けないのではないか、と人と話す時によく言ってきた。それはもちろんある程度単純化した真理であるが、自分の言った事をベルクソン的に解析するなら次のようになる。
若い時に明敏な人が、人生とは何か、生きる意味とは何か、この社会とは何か、そこでの成功とは何か、失敗とは、不幸とは、幸福とは何か、全部わかっていたとする。そうして彼は自分の人生を入念に設計し、その通り生きようと思う。この計算は準備万端、この社会のあらゆる要素を繰り入れたもので、正しいのは間違いない。彼には全てが見える。後はさて、生きるだけだ。
では、もしこの若い彼が、全て「わかっている」のだから、老大家を越えるような偉大な小説を書こうとしたら、果たして書けるだろうか。彼は全てわかっているのだから、後は書くだけだ。人生の失敗談も、成功談も、バルザックのような、あるいはドストエフスキーを越える筆致で書けるのではないか。しかし、実際には書けない。それは無理であろう。本当に成熟した作品はある程度年齢を経ないと、私には無理であると思われる。というのは、そこには「経験」が欠けているからだ。しかしこの経験の意味とは何か。それは何かを経験するという意味での経験ではない。経験そのものを経験するという意味での経験だ。生きる事について事前に知っている事と、現に「生きた」事には微妙なズレがあり、それを体感する事がここでの経験と呼ばれるものだ。
この経験を経るとはどのような事か。これもまた、そういう言い方をするなら「言葉にできない」ものになる。若い秀才にはこうした真理は疑問に感じられるだろうし、頭が良い人間ほど、私の言っている事が眉唾ものに見えるだろう。もちろんそれで構わない。もっと疑って欲しいぐらいだ。おそらく、その疑問が強いほどに、実際に生きる事が事前に生についてわかっていた事とは違うのだというのがよくわかるはずだ。そうした差異がわからないという事は、知と生との乖離が少ないという事、つまりは現在にあまりにも生が溶け出している事を意味するだろう。
「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフは、作品の終わりで何度も「自分はそうなるとわかっていた」と言っている。読者は次のように疑問に思われるかもしれない。「だったらやらなければ良かったのに」 この声は、傍観者的な人々がいつも発する声である。この声が発せられているという事は、彼らが自分の生をついぞ知る事ができなかった、傍観者にとどまり、人生を生きなかった事を意味する、私にはそんな風に感じられる。無論、ラスコーリニコフのような犯罪者になる必要はないが、生は「そうなるとわかっている」から「避けた」ところで、避けられる事のできぬなにものかなのだ。体感するという行為を通してしか体感できないものだ。それは、人にはあらゆる可能性が開かれているという意味では全くない。(「可能性」はベルクソンが否定するものだ)人にどのような可能性があろうと、なかろうと、そこには全く未知のものがあり、それは現に生きないと『そうならない』というような事だ。人は生きなければならぬ。そうして人は現に生きているのである。
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話が長くなったので、タイトルに戻って話を終えようと思う。
「生きる意味とは何か」というような事は今まで書いたように、答えられる事である。そのような答えが何であろうが、現に生きる事は、その答えとは違うものになるという事だ。だから人は何を望む事もできるし、どのような野心を持つ事も、堕落を目指す事もできるが、それら想像の生に欠けているのは、実際に生きている彼自身である。だから常に、現実の人生はイメージを裏切るのだが、それは想像するというような認識作用にそもそも誤りがあったからである。
「罪と罰」を、理性批判の一種と見るなら、主人公ラスコーリニコフは計画通りに人を殺し、計画通りに金を奪うが、彼は現に達成されたそれが事前に予測していたものと全く違う事に気づく。しかし、それをまた彼は観念の色で塗り込めようとする。事前には計画、事後に反省、そうした理性の機能で生を定義しようとするがどうしてもできない。それで、定義の外側にいるソーニャに全てを話さなければならないのである。
この挿話の中にも生というものの実質、ベルクソンが掴んだ生の本質が現れているように思う。だが、人はこれをフィクション、作品と取るから、計画を練るだけのラスコーリニコフのように、全てがわかったような気になって、同時にもやもやとしただけの人生を送ってしまうのである。ベルクソンが掴んだものもドストエフスキーが掴んだものも、現に自分の人生を生きてみなければわからない。そうしてそれは誰か、あるいは自分が決めた「生きる意味」というようなものとは全く違うもののはずである。生にはそれ自体の実質がある。それは言葉にはできないものだが、ベルクソンの哲学とか、ドストエフスキーの文学とか、そういうものは、それぞれの言葉にならぬ深淵から生まれでてきたものに他ならない。私はそのように思う。




