しかし、没原稿に限って愛おしい。
5、 狼
公歴一七三五年 照葉月、二〇日
聖皇国皇帝の実弟との婚約が決定していたグィーダー公女の突然の死を境に、オストヴァハルとイスガルの関係に軋轢が生じる。また、この事件をきっかけに王と第二王子のかねてからの相剋が浮き彫りになった。
イスガル第二王子の数々の問題行動に王は激怒し、第二王子をシュレスタン監獄に投獄するが、反皇国派重臣メーデルギウスを筆頭に、近隣国諸王侯、軍部から事態の鎮静化を強く勧められ、恩赦を出す。
同月、二九日
第二王子を放免した王は、種々の特権と引き換えに反皇国派の貴族から軍部へ出資され、工廠や食糧庫の整備を急がせる。
イスガル王はサルマリア砦からモルドァ中佐を王城に招聘し、異例の二階級特進、大将位に昇格。また、王は恩赦を出したばかりの、若干十五歳の第二王子を特命全権大使に任命し、聖皇国に派遣する。この時、聖皇国側のイスガル駐在大使は東陽宮に宛てて「王の刹那的で浅はかな決断により、我が国が愚弄されようとしている」との書状を送っている。
イスガルのグィーダー侵攻の、およそ一月前のことである。
■
【サザリー・モルテイルの場合】
その日の早朝、緊急集合を告げる日直の号令で、僕は目が覚めました。いつものように出撃訓練だと、そう思いました。
僕ら春の募兵に応じた見習兵は、来月には修業し、冬営に入りった後、来春、正式に所属する隊が決定します。これが最後の抜き打ち集合訓練かな、なんて、みんな暢気を言っていました。事実、最期になる可能性があることも知らずに。
外に出て整列して教官を待っていると、次々に砦兵が集合し、それでようやく、僕はこれが訓練ではないことに気付きました。
いつか来る日だと、ずっと頭のどこかにひっかかっていたことですから、僕はあまり驚きませんでしたが、中には驚愕して動揺しだす見習兵もいました。
グィーダー辺境領の守備任務がサルマリア砦に下ったこと。
モルドァ中佐がグィーダー辺境領守備兵団の連隊長に任命されたこと。
そして、王城では僕らを反乱軍と見做し、粛清されそうになっていること。
僕はこの時、初めて知りました。
僕らは何一つ知らされることのないまま、言われるまま、号令に従って動いてきただけです。それが兵士というものです。しかし、僕らは人間です。
首筋がじっとりと冷えるのは、けして朝靄の湿気のせいだけではありませんでした。
未だもって砦の塔に引きこもって出てこない第二王子が馬鹿だったせいで、僕らは犬死するのだ。そう思うと、今すぐにでもあの窓に向けて発砲したいところですが、僕には命中させるだけの技術がありません。誰かやってくれないかなぁ、ロボは射撃の腕だけは教官を唸らすほど図抜けているから当たるんじゃなかろうか、と視線だけ巡らせて、僕はロボがいないことに気付きました。
突然の休暇後、一体どんな手を使ったのか、見習でありながら特命が下って、彼は僕らの集団から抜けていきました。挨拶もないままの、突然の異動でした。
生きているのかさえ、僕には知らされないのです。一兵卒とは、そういうものです。
ロボはついに姿を現しませんでした。
守備というのは嘘だと、僕は考えました。
おそらくこの行軍の先にあるのは、侵攻なのです。わざわざサルマリア砦を空にするのは陽動の可能性が高いです。
イスガルの東部国境はサルマリア、リンゼィ、ロイド、そして背後には堅牢なクロヴィエ要塞が凹型に配置され、守備を固めています。このうち、渓谷に築かれたサルマリアを空にしたところで、高台にある左右のリンゼィ・ロイドから挟撃し、もし皇国側から攻撃するとなると、先にリンゼィとロイドを同時に落す必要があります。サルマリア砦の守備をあえて放棄するのは、聖皇国の目をガウカリアに向けさせるためだと、僕は考えます。
本命はグィーダー辺境領の占領、しかし、それを聖皇国に気取られた段階で、この奇襲は失敗です。だから軍上層部は、作戦の出端を挫かれないために、砦兵にも本当の目的を秘匿しているのでしょう。
これは、戦争です。
僕らはこれから、死地に向かうのです。
ロボだったら、こんな時、どうするだろう。ふと、考えてしまいました。
脱走を企てるかもしれません。あるいは、出世の機会だと笑うかもしれません。
逃げるでしょうか。闘うでしょうか。
モルドァ中佐は僕らに言いました。
反乱の容疑は悪意ある者が流布した噂にすぎない、と。准将、つまり、第二王子はサルマリア砦に鎮圧軍が送られることを阻止するために、単身王城に残られた、というのです。
頬の古傷がちりちりと痙攣するのを感じました。
自分だけ逃げ帰ったんだ、と恨めしく思ったのは僕だけじゃないはずです。
だけどモルドァ中佐が准将に跪いたときから、この兵団は、彼のものなのです。
明け方。秋草の葉は、まだ夜露に濡れていました。
昇りきってさえいない太陽に背を向けて、僕らは西へと行進を始めました。
と、僕の腕を誰かがひっぱりました。
こういう全体行動を無視する奴はロボくらいだろうと振り返ると、意外にもジエン・グランツェ教官が胡乱な笑みを浮かべていました。
唇に人差し指を押し当てて茶目っ気たっぷりに声を立てるなと合図する教官は、こうして見ると穏やかそうな中年のおじさんなのですが、片手で脱走兵の大腿骨をへし折ったところを目の前で見ているので、僕はけして油断しません。
グランツェ教官に連れられて、僕は物見台のところへ来ました。教官は僕に蔓籠を渡して、急に父親の顔になって僕にそれを上にいる人と一緒に食べるように言いました。
籠の中には日持ちのする焼き菓子と水筒が入っていました。
娘が焼いたんだ、と、嬉しそうに鼻の下を擦って、教官は僕の肩を叩きました。
お前たちと同じくらいなんだ。母親の気の強いところに似たのかちょっと生意気に育っている。しばらく見ない間に色々と大きくなって、最近じゃ色気づいて化粧を始めて、お父さんは少し心配だ。
とかなんとか、ひとしきり娘自慢をして、グランツェ教官は僕に言いました。
死ぬなよ、と。
僕は敬礼し、教官を見送った後、物見台の梯子を登りました。
上は風が唸りを上げていました。
僕を待っていたのは、黒い髪に、不遜な笑み。墓石のような黒い瞳を細めて、ロボが「よぅ、久しぶり」と手を上げました。
何が久しぶりだ、と僕は気安く応えようとして、はっと口を噤みました。
漆黒に一滴青を落としたような濃紺の軍服に、襟と袖には銀の刺繍。巻房の肩章と飾帯も銀。肩の階級章が本物ならば、僕は今すぐ跪かなければならないのですが、目深に斜めに被った軍帽の下で笑う顔は、間違いなくロボでした。
僕が思考停止して硬直していると、ロボが耐えかねたように吹き出しました。
ロボは何事もなかったかのように、出会った時と変わらない様子で僕を呼びつけ、夜明けに向かって動き出したガウカリアを見渡して、崖の一つを指さしました。
憶えているか、と言われて、僕はようやくこの物見台を待ち合わせ場所にして、踏み外した日のことを思い出しました。
あの崖の下にはまだ骨が残っているだろうか、とロボが意地悪く唇の端を吊り上げるので、僕は、きっともう散らばっている、と答えました。
証拠がなくなっても事実は消えない、とロボは目を細め、それから、証拠がなくても現実は歪められる、と笑いました。
ロボに倣って荒野を見渡すと、凄まじい速さで道なき道を駆けていく黒い点を見つけました。馬ではないようです。
何度追い払っても戻ってくる、二本足で走るトカゲがこの砦に居ついていることは、見習い兵たちの間でも噂になっていました。
蜥というのだ、とロボが教えてくれました。
騎手がいるようだと訊いたら、「ピヨだ」と答えが返ってきました。ピヨだなんてふざけた名前だなと思い、もしかして以前ロボに突匙で襲い掛かったフィオという一般兵かな、と思い当たりました。
ロボはあまりしゃべりませんでした。僕もロボに何も訊きませんでした。
グランツェ教官......いえ、もう擲弾兵長と呼ばなければならなりませんね。グランツェ兵長から渡された朝ごはんを、ロボに渡しました。
僕とロボが知っているジエンは、娘を大事にする父親で、見習兵を震え上がらせながらも慕われている教官で、モルドァ中佐の補佐にして理解者である、今のジエンだけです。傭兵時代の片鱗を垣間見ることはあっても、ジエンがどうやって人を殺すのか、想像できませんでした。
ロボは存外、厳密に焼き菓子を二等分して、僕に片割れをくれました。僕たちは色々なものを分け合う運命にあるようです。銀の水筒に入った酒を口に含むと、ロボは、苦く笑いました。彼が言うには、今年の新酒は近年まれなる出来栄えだそうです。
不味そうに眉間に皺を寄せながら、ロボは肩を揺らしていました。笑っているのか、咽ているのか、僕にはちょっと判断できませんでした。
僕はどうすればいいかな、とロボに訊きました。こんな高い所へ呼び出された僕は、もう行進する隊列には追いつけないでしょう。
ロボは、お前の考えを訊きたい、と言いました。
なので、僕は包み隠さず、出撃の意図は奇襲による占領だ、と答えました。
卑怯にもロボは帽子で表情を隠しています。こういうところは、ロボは本当に巧みです。
お前を引っこ抜いておいてよかった、とロボは言いました。
鼻の良すぎる犬は飼えない、とも言いました。
さらにひどいことに、お前を最前線に入れておいても流れ弾に当たるか、命令の意図を先読みされて反って全体行動を乱されかねない、役に立たない、とまで言いました。
反語だとしても、結構ひどい言いようです。
ロボはさりげなく僕の視界から外れるように隠し持っていた本題[もの]を、とうとう差し出しました。
受け取れ、と横柄に押し付けられたそれは、副官を意味する飾緒でした。
僕は迷いませんでした。この人についていけば、きっと、僕は砦の物見台よりも高いところへ昇れるはずなのです。何故なら、彼には、僕にはまだ見えない、遠くて広い景色が見えているのですから。
「大使権限を以ってサザリー・モルテイル二等歩兵を特使副官に任命する。これより聖皇国に赴きグィーダー辺境領獲得のための交渉に入る。俺についてくるか?」
「地獄の果てまで、御伴いたします」
■
照葉月、三〇日
イスガル駐在大使から、国境線に異変ありとの急報。サルマリア砦の兵が西南に向けて出撃中との情報が入る。聖皇国はこれをイスガル内部における反乱の兆候とみなし、王に調停の申し入れを名乗り出ているが、イスガルは頑として内乱を認めなかった。
反乱の首謀者として名を上げられた第二王子は、聖皇国に目下滞在中であったため、聖皇国は「誤報」としてこれを処理した。
翌、凍砂月一日
第二王子はオストヴァハル駐在大使ロイ・ゼナード・フォン・シュヴェリエンを訪問。二時間の会談の後、大使館にて休憩をとられた。
二日後、東陽宮離宮の植物園にてオストヴァハル宰相ミランと会談予定。
イスガル駐在大使から「出撃の様子あり」との報せを受けるも、宰相はこれに対して「要経過観察」と返信したのみであった。
過去十五年、イスガル王は聖皇国の代理として悪戯に小規模な出兵を繰り返してきたものの、結局は列強諸国に利用されるだけに終わってきた。そのために、今回もアルギーニに騙されて、尖兵として出撃させられているのだと、聖皇国は判断したのである。
なお、グィーダー公女の死を悼む聖皇国の国民にとって、滞在中の第二王子は招かれざる客に他ならなかった。
■
【ロイ・ゼナード・フォン・シュヴェリエンの場合】
親愛なるカナンへ
いつもお手紙ありがとう。君からの手紙は窓の外からやってくる微風のようで、楽しみにしています。
さて、我らが共通の友人、ロボとサザについて、急ぎ伝えたいことがありまして、お手紙を書かせていただきます。
だいたいのことは、ロボ本人から聞きました。
今や彼を支える人間の一人となった同胞カナンに、僕は最大の敬意を表します。
しかし、どうか無理はせずに。君は民間人なのだから、いつでも逃げてよいのです。軍属の僕たちとは違って、君には戦う義務はなく、僕らは君たちを守ることを使命としています。覚悟を決めた貴女にとって、僕の言葉は無礼であるかもしれません。ですが、僕は、男として貴女のような心優しく素敵な女性には幸せになってほしいと願っています。
くれぐれも、無理をしないように。
では、まずは報告を。
二人は無事、聖皇国に到着しました。ロボはよほど疲れていたのか、僕に諸々庶務を押し付けて、自分はさっさと天涯を閉めて丸一日寝ていました。まあ、今の彼にとっては祖国の寝室よりもこちらのほうが安全かもしれません。ここで彼の身に何か起これば、それは大変な問題になりますから、ここではロボが生まれ持った身分と自ら勝ち取った特権が鎧となって彼の生命を守ってくるでしょう。
また、ロボはサザリー・モルテイルを連れてきているので、彼にとってかなりやりやすい環境が整っています。その点は安心してください。目下、僕の仕事は、ロボの行く道を妨害する石ころを先回りして取り除いておくことです。
ところで、サザリー・モルテイルですが、彼はすばらしい才能を持っていました。
ロボは僕に聖皇国の家系図を持ってこさせ、昨日まで一兵卒にすぎなかったモルテイル君に、それを暗記するように言いました。家系図というのは、血による同盟関係でもあるので、特使副官として必要な知識です。
ロボは結構、容赦のないところがありますね。
百年にわたって様々な王家と婚姻を繰り返してきた聖皇国の家系図は複雑怪奇です。しかし、モルテイル君は乾綿に水の浸みるように、すぐに仕組を理解してしまいました。彼はもとから歴史に造詣が深いようで、家系図の暗記は楽しくてしかたない様子でした。
モルテイル君は僕に、誰にも言ったことのない国史編纂官の夢を語ってくれました。
が、どうやらロボは彼を外交官にするつもりのようです。
たしかにモルテイル君は外交に向いている人材です。柔和な印象の少年ですが、例の頬の古傷が警告となって相手に侮りを許しません。ロボに勝るとも劣らない口の達者なところも、資質があると言ってよいでしょう。何より、毒舌です。
僕は若い才能を応援しています。
しかし、この交渉は失敗に終わるでしょう。なぜなら、ロボもモルテイル君も子どもですから、聖皇国は歯牙にもかけません。
グィーダー辺境領の割譲を条件に聖皇国側に組してユリディアを迎え撃つというイスガル側の要求は、まず審議さえされないまま却下されると見てよいでしょう。
ましてや、ロボはこちらではあまり評判がよくないのです。僕のところには今日も匿名の批難文書が寄せられています。ここまでの道中、石やら卵やら、色々なものが飛んできたそうです。花も投げられたが、植木鉢ごとだったと笑っていました。もっとも、ロボも悪玉を演じるのを面白がっている節がありますが。困ったものです。
交渉が失敗した場合、ロボのイスガルでの立場は大変厳しいものとなります。聖皇国では第二王子の軍事反乱がまことしやかに噂されています。
ロボは半年前に比べて遥かに強かになりました。狡猾とも言えましょう。彼は持前の勘の良さと度胸で罠も火の粉も避けて通り、必要とあらば自ら牙を剥くこともできます。しかし、貴女には身を守る爪も、貴女を守れる騎士もいないのです。
こういう時、向かいどころのない怒りは往々にして弱者へと集中します。災厄を一身に引き受ける生贄として君が差し出されない保障はないのです。
貴女は清く正しいからこそ、僕は、それが恐ろしい。
カナン、君さえよければ、聖皇国に来てはくれないでしょうか。君のことが心配です。
聖皇国では年末の魂廻際[ルエナマグラ]の準備が始まっています。この窓から見える街街の装飾も、大変煌びやかで美しいです。
魂廻際は七日間続く大祭で、一年の終わりに天と地が交わり、魂が一廻り終えて浄化されると考えられています。天の銀河に対して、地の金河。無数の命の流れを金色の数珠で表すのですが、さすがは百年都市オストヴァハル、街全体が一つの美術品のように洗練されています。貴婦人の宝石箱のようなこの景色を、カナン、君にも見せてあげたいのです。
少しでも心が動いたのなら、いつでも僕を頼ってください。
僕は君の力になりたいのです。
また、近いうちにお手紙を出します。取り急ぎ、友人たちの息災の報告まで。
貴女のよき友人、ロイより
追記 この手紙を女史へ。必ず焼却すること。ロボ
勇敢なる同胞、カナンへ
お返事ありがとう。商会支部でのお仕事は順調そうですね。安心しました。
それから、前の手紙のことは、忘れてください。貴女の決意を鈍らせ、迷わせるようなことを書いてしまったことを、反省しています。愚かな男の無思慮を、お許しください。
ロボには信頼できる協力者が必要なことも、必要とされることに貴女が誇りを持つことも、理解します。たとえどの史書にも、功労者名簿にも名前が載らなかったとしても、それでも貴女は僕らの未来になくてはならない重要な人です。
我々の運命は貴女の手にあると言っても過言ではありません。
それでもやはり、僕はカナンを窓口に使うのは賛同しかねます。貴女の身に危害が及ぶことを、どうして許せましょうか。
ただ、誤解のないように。貴女の幸福を願っていることだけは、偽りない真心です。
カナンが楽しくお仕事をしている様子をこっそりのぞきにいきたいのですが、以前のように帰省にかこつけてそちらに顔を出すのは、今は難しい状況です。
ロボとサザは、まあまあ、元気にやっています。
サザは緊張してよく眠れないのか、目の下に深いクマを作っています。ロボは完全に休暇だと思ってすっかり羽を伸ばしています。いい御身分ですね、と嫌みを言ったら、事実俺は偉い、と返ってきました。
聖皇国ではイスガルよりも遥かに食糧事情が豊かなので、二人とも毎日しきりに「飯がうまい」と言って色々な者を食べています。腹を壊さないか、ちょっと心配です。食事が充実しているせいか、サザもロボも、少し肉付きがよくなりました。二人とも濡れた鴉みたいにガリガリでしたから、ようやく少年らしい輪郭になったと言えましょう。
さて。
聖皇国との交渉は暗礁に乗り上げるどころか、出航さえままならぬ状況です。東陽宮で行われた最初の会談は、離宮植物園の温室で行われました。
カナンからすると、真冬にも美しい蝶が舞い踊る温室と、そこに設えられた硝子の卓と金の肘掛椅子、陶器の花のお菓子箱なんて聞くと、夢のように思うかもしれませんが、肩章を着けた特使との会談の場に相応しいかというと、そうではないでしょう。
率直に言えば、子ども扱いです。
ロボはいつもの完全微笑でそつなく躱していましたが、それも特使として正しいかどうか甚だ疑問です。柔軟と軟弱は違いますから、ロボの対応が裏目にでないことを祈ります。
勿論、聖皇国はロボが可愛いわけではありません。侮辱することで、交渉に応じる気はないと無言のうちに要求を断っているのです。
最初の会談は一時間もかからず終了しました。交渉にさえ至りませんでした。
明日五日、二度目の会談の予定です。一日体の空いたロボは、さっそく好き勝手しでかしています。僕に許可証を発行させてサザを皇国立大資料館に放り込み、自分は聖皇国側がせっかく付けた護衛をさっさと巻いて街に消えました。只今、その始末の合間にこの手紙を書いております。まったく、そういうことをするから子ども扱いを受けるのです。
ロボは夕刻、大きなウサギのぬいぐるみを抱えて帰ってきました。これには大使館の従事もさすがに眉を顰めていましたが、本人は大変ご満悦そうでした。魂廻祭に合わせて軽業師の一団が興業に来ており、それに合わせて露店も出ていたそうです。的当てでとってきたのだと、自慢する始末でしたので、さすがに苦言を呈しました。
ウサギの首にリボンが結ばれていて、「水平線より愛を込めて」と刺繍が入っていたことと、展示された珍獣の中に蜥が混じっていたことを、ここに書いておきます。
本当に困ったものです。保護者の目から離れた途端にこれです。
ロボの愚痴はさておき。
カナン、貴女さえよければ、やはり一度、聖皇国を訪ねてもらえませんか? 旅費も滞在先も、全て僕が請け負います。
聖皇国では魂廻祭の期間は仕事を休み、家族とともに過ごします。使命を終えて解ける魂を見送り、新たな魂として廻る輪に還るのを、厳かに見守ります。僕は聖皇国に迎合するつもりはありませんが、郷に入らば郷に従えと言います。僕だけ仕事をしているというのも切ないと申しますか......白状します、貴女に会いたくて仕方ないのです。
今回ばかりは待てません。
魂廻祭の始まるまでに、お返事を下さい。それが期限です。祭りが始まってからでは、遅いのです。カナン、どうか決断してください。
貴女の朋友、ロイ
追記 ウサギはやめろ。はずかしい。ロボ
追々記 恋仇が墓参り先を間違えた模様。追い風。末筆なら健勝と商売繁盛を祈る。
「――では、割譲に応じるつもりはなく、交渉は決裂、ということでよろしゅうございますね。ええ、残念です。本国にはそのように報告いたします。幸い、皇帝陛下には年末までの滞在を許されております。魂廻祭も近いことですし、しばらく滞在させていただこうと考えております。万一、皇帝陛下のお気持ちが変わることがなきにしもあらずですから。......お気遣いありがとうございます、いただきましょう。こちらの菓子はイスガルの貴婦人方には評判ですよ。――ごちそうさまです」
■
凍砂月 五日、夕二刻半
グィーダー辺境領の割譲を求める二度目の交渉が、東陽宮植物園で行われた。オストヴァハル宰相ミランをはじめ、五人の官僚を相手に、十五歳の全権大使は大胆不敵にも「宣戦布告」をのたまい、交渉は決裂。
それから何の進展もないまま二週間が経過しても、第二王子はオストヴァハルに留まっていた。聖皇国側はイスガル側に開戦の意図はないとの結論に達し、グィーダー辺境領の各砦に冬営に入るよう伝達。第二王子も交渉再開を申し入れることのないまま、副官を伴って大資料館の図書館塔でほとんどの時間を過ごしていた。
この時、聖皇国側が、イスガルには交渉を成立させる気はなく、もとより決裂するための交渉であったと気付けなかったのは、やはり、相手が十五歳の少年であったからであろう。せめて特使が図書館で何をしていたのか、聖皇国側は把握しておくべきであった。
■
【フィオの場合】
ああ、そういえば俺はススロだったんだっけ。
風の中を泳ぐように駆ける蜥を繰りながら、フィオは胸に熱を覚えた。
尾のしなる感覚。鱗を撫でる風の強度。大地の反響に爪先が震える。蜥と波長がぴたりと重なると、無いはずの感覚を受容するようになる。蜥に乗っているのではなく、自分が蜥になったような錯覚。風角には人間の頭の中を読み取る機能でもあるのか、自分の手足のように動いてくれる。
この機敏さは、馬にはない。
やっぱり俺はまだ、ススロなんだ。
片方だけ残った目から溢れた涙も、刹那に風に乾いて消えていった。
もっと速くならねばならない。この焦りは、あの夜と同じだった。
あの日以降、フィオは駆けるのが怖くなってしまった。
イスガル軍侵攻三日目の深夜。
荒野を行く影は一つ。その夜、隻眼の男が戦況報告を携えてガウカリアの谷を駆け下りていくのを知るのは、空に瞬く凍れる星たちだけだった。
遡ること一月前、照葉月の二〇日のことである。
出撃の朝、フィオはロボに――作戦統括総指令官として、銀の腰帯と指揮官飾剣を提げた第二王子に呼び出された。
総指令は真顔でフィオに「まだ蜥に乗れるか?」と訊ねた。フィオは即座に肯けなかった。フィオ自身の技術的な問題で乗れるかどうかではなく、蜥がフィオに同調してくれるかどうかは、乗ってみなければわからない。
この半年、フィオは自分の蜥に乗らなかった。その一方で、厩舎に押し込めておくは忍びなくて放してしまったことを、ロボは黙っていてくれた。
忘れてくれ、と祈った。
俺の一切を忘れて、荒野で自由に生きて欲しかった。
しかし、フィオは、それが人間の一方的な傲慢であったことを知る。
何度放しても、蜥はフィオのところに戻ってきた。嬉しかったが、辛かった。軍籍に身を置いた以上、フィオが蜥に跨る日は二度とこないはずだった。
否とは言わせない、と総司令は冷厳と告げた。
イスガルの運命が、お前とその蜥の脚力に掛かっているのだ。そう言った。
フィオは半年ぶりに騎具を蜥に装着し、少し馬場を懸けてみる。蜥はフィオを嫌がらなかったが、心は閉ざしていた。当たり前だ。フィオに捨てられたと思っているに違いない。
乗るだけなら、とフィオは答えた。
駆けろ、と総司令は眉一つ動かさず命じた。
一夜でガウカリアの渓谷群を駆け抜けろ。蜥の身体能力なら可能なはずだ。
そんな無茶を言い出す。
フィオは困った。ススロとして狼を追いかけていた頃は、自分の蜥と同調できなくなる日が来るなんて思いもしなかった。離れていく人の心はどうしようもないのと同じように、閉じた蜥の心を開かせるのは難しい。フィオは、ススロではなくなってしまったのだ。
何故だ、と総司令は僅かに目を眇めた。
フィオは、わからなかった。
「......作戦成功までは、お前の前ではロボに戻らないと決めていたんだが、今だけ許せ」
墓石の目をした少年は、乱暴に舌打ちして馬場の柵に背を預けて、不機嫌に腕を組んだ。
「この、ヒヨコ頭。ちっとも軍鶏になれてねぇんだよ」
ロボはフィオの脛を蹴っ飛ばして唸った。
「盛大に失恋してわかったことがある。臆病は、見抜かれる」
「はぁ......」
「何だその間抜けた返事は。何を縮こまっていやがる。この蜥の主人は貴様だろうが。いつまで待たせるつもりだ、この腑抜け」
だけど俺はもうススロじゃない、とフィオはじっと何かを探るように見つめる蜥の円らな瞳から顔を背けた。
「そうか。俺は今でもススロのつもりでいるぞ」
ロボは軍帽の縁を指先で押し上げて、不遜に笑っていた。
「お前が『仲間』だと言ってくれたからな」
とん、と胸を突かれたようだった。
「ロボとして語る最後になるかもしれんから、よく憶えておけ。何者であるか、それは自分で決めてくれ。俺はこれからお前を散々な目に遭わせて、非道な命令を下すこともあるだろう。だけど、お前に在り方までは強制しない。お前が自分の蜥を避ける理由は、何となくわかるが、蜥はお前を避けていないぞ」
蜥が何度でも砦に戻ってくるのは、そこにフィオがいるからだ。蜥にとってフィオは世界で、他に生きる場所はない。たとえフィオの体が砲弾飛び交う死地にあっても、そこが蜥の生きる場所で、駆ける道なのだ。
ロボは「以上だ」と短く宣言し、総司令の顔に戻って留めを刺しにかかった。
この作戦は時間で勝敗が決する。何としてもその蜥には最高速度でガウカリアを往来してもらう。お前に不可能ならば、他のススロを攫ってきてでも敢行する。
にたり、笑う。
彼は蜥を軍馬にしたがる変わった野望に燃える緋色の髪の少女を知っている。
フィオは逃れようもなく、単騎、行軍から外れて蜥を走らせた。
向かったのは、ロボがかの少女の亡骸を火葬した古寺院だった。
最初は、何も伝わってこなかった。
技術だけは体に染みついているので、走ることには問題なかったが、これで崖を駆け下りることができるとは思えなかった。
フィオの使命は、行軍の先頭にいるモルドァ将軍、バルマティス商会支部で待機する女史、そして特使として聖皇国で交渉にあたるロボの三点を結ぶことだった。
女史に出撃の旨を伝え、総司令から託された密書を渡すと、女史から新たに封筒をわたされ、そのまま行軍に先んじてグィーダー辺境領を目指した。
グィーダー辺境領では、背後に迫ったイスガル軍よりも、海に浮かぶ戦艦のほうに浮き足立っている様子であった。
宿を取ろうとしたが、困ったことに、蜥を置いてくれるところがみつからない。馬が嫌がるから厩に入れられないと、断られた。途方に暮れているところに、客引きの売春婦に捕まった。それが女史の言っていた手紙の受取人だと分かったのは、彼女の左手の薬指に、結婚指輪にしては禍々しい黒い石の指輪がはめられていたためだ。
フィオは一日蜥を休ませると、すぐにモルドァ将軍率いる行軍に合流するために東南へ蜥の鼻先を向けた。その頃には方々から各隊が合流し、兵数一万を超えていた。まだ後方に重砲と正規軍の歩兵団二〇〇〇が控えている。
凍砂月の二日、正午。
作戦本部の天幕の外で、フィオは戦闘序列案ができあがるのを待っていた。蜥はしきりに尻尾で地面を叩いている。人間で言うところの貧乏ゆすりみたいなもので、気が立っている徴だった。フィオもまた、苛立って爪を噛んだ。
戦闘の気配というやつだ。一万を超える人間たちの闘志が渦巻いている。人の吐く息や馬の肌から昇る蒸気が白く揺らめいた。硝煙の匂いが、あの夜の記憶を呼び起こした。ゆれる白い靄の向うで火花が弾けたような気がした。
失くした左目は、今でもあの瞬間を見続けている。
と、その時、天幕が開いて、フィオは中に呼ばれた。モルドァ将軍の手から直々に戦闘序列図を受け取り、指示を受けてすぐに陣を飛び出す。
未だに合わせられないまま蜥を走らせて、その日の深夜、バルマティス商会支部に到着したフィオは、女史の協力で興行中の軽業師の一団に紛れ込み、凍砂月三日には聖皇国首都に潜入することに成功した。しかし、肝心の総司令殿は東陽宮で会談中。滞在先の大使邸に蜥同伴で飛び込んだら、せっかくの秘密単独行動の意味がなくなる。軽業師の団長の紹介で的屋の店番をしながら、悶々と頭を抱えたフィオであった。
的屋の主人の指にも黒い指輪が光っていたので、フィオはカマ掛けのつもりで、商会でも同じものを着けている人を見たけれど、と、指輪について訊いてみた。店主は別段動揺した様子もなく、「会員証だよ」と言った。黒蝶会というのだそうだ。ろくでもない醜聞から安くて美味しい調理方法まで、何でもかんでも知り得た情報を各地のバルマティス商会支部に持っていくと、買ってくれることもあるのだそうだ。子どもだろうが年寄だろうが、誰でも会員になれるが、その代わり、時折、商会のほうから用事を頼まれることがあり、それを断ってはいけないのだという。無論、不可能な依頼はまずないし、報酬は出る。
簡単だし小遣い稼ぎにはいいんだよ、と店主は頬を緩ませていた。たとえば君を無償で雇えとかね、と言われてしまっては、黙るしかない。軽業師の団長は黒蝶会の指輪をしていかなかったし、女史本人は的屋のことなど露ほども知らないだろう。的屋は大きな白いウサギのぬいぐるみをフィオに抱かせて「商会から君にお届け物だよ」と笑った。
ウサギの首に結ばれたリボンに気付かなければ、その辺の子どもにやってしまっていたかもしれないし、背中の縫い目にある割れ目も発見できなかったことだろう。
その次の日のことだった。ロボがふらりと現れたのは。
どこまで偶然か知らないが、とにかく、確実に戦闘序列案は総司令の手に渡った。フィオは予定通り、グィーダー辺境領へと駆け戻った。
女史が最初に持たせた封書に、どんな呪いがかけられていたのか知らない。
グィーダー辺境領では人々の口から「聖公女様」という言葉と、「解放軍」という言葉が囁かれるようになった。街頭には語り部が立ち、記者もこぞって公女の自殺の記事を書き立てた。公女事件を原型にしたと思われる歌劇まで流行り出す始末。進行中のイスガル軍に対して歓迎的な雰囲気ができ始めた頃になって、フィオは、本来この土地はグィーダー家自治領、親イスガルであったことを思い出した。
聖皇国は火葬を禁じている他、この地の人々に自国の思想を押し付けすぎたのだろう。
魔法にかけられたように俄かにイスガルに傾倒し、悲劇の公女に熱狂していく人々を、聖皇国軍は力づくで抑え込もうとした。公女事件について取材していた記者は連行され、イスガル軍の内通者と見做された者が次々に追放された。それが反ってイスガル軍への期待と、公女の恋人であったと信じられている黒髪の放逐王子の人気に火を点けた。
一方、人気を上塗りするかのように、本来の婚約者であった聖皇国皇帝の弟君の弔問が街の至る所で宣伝されていた。その死を悼み、土に還れなかったがために今も彷徨う公女の魂を鎮め、輪廻の輪に戻すための祈祷が行われるらしい。日時と場所を確かめて、フィオは目を見張った。予定ではイスガル軍は二〇日に国境を超えることになっているから、ちょうどこの祈祷に進軍がぶつかるかもしれない。
ロボは一体、どこまで計算していたのだろう。
偶然だったとしても、恐ろしい。
それが凍砂月の一〇日頃のことだった。イスガルの一万の軍団は、北部の丘陵に差し掛かっており、フィオはススロの恰好のまま蜥で丘陵を巡回していたところ、皇帝弟君の行列を発見した。威光を示すためか、金ぴかの派手な装飾を施した皇室専用ののろい牽獣でやってきたのは、イスガルにとって有利に働いた。降雪も自軍を援けた。夜のうちに雪を掘り、覆いを被って兵隊や砲を隠した。軍馬は現地の牧場主たちに協力させ、近隣の厩舎と牧場に分散して紛れさせた。薄く降り積もった雪の下に一万の軍が隠れているとは露にも思わず、黄金の馬車はのうのうと雪原を通過していった。
その後、フィオは本軍に合流し、出撃命令を待った。
二〇日正午、ついにイスガル軍一万四〇〇〇はグィーダー辺境領へと侵攻、抵抗を受けることもなくその日の内に内陸部の三つの砦を奪取した。公女と王子の人気のおかげか、イスガル旗を振られながらの攻略であった。地元民の歓迎を受け、夜には祝宴まで開かれたが、赤々と耀く灯に背を向けて、フィオは蜥に跨った。今度はススロとしてではなく、伝令として、戦果報告書を携えての騎乗だった。
珍しく雲のない、月の美しい夜だった。丘陵に降り積もった雪が舞い散る。凍てつく天空の星々と同じ色に、地表に降り積もった雪の礫が輝いていた。
銃声が、鼓膜を打った。きゅっと、心臓を絞められたような感覚があった。
振り返ると、馬に乗った追手が二人、フィオを追跡していた。聖皇国兵だ。
今一度、雪景色に発砲音が響いた。
恐怖を、体が憶えている。弾丸が目玉を抉っていったときの感覚が甦り、フィオは息を止めた。髄の奥から震えが込み上げてきて、これだけ冷え込んでいるというのに、首と掌に汗が滲んだ。
速く。
一歩でも、一瞬でも、速く。
あの夜と同じだと、フィオは思った。
イェナの親父さんとともにススロの邑を出て、狼を追い払い、報酬を受け取ってイェナや母たちに歓迎されるはずだった。ところが、不意に闇夜に響いた銃声が、フィオの人生を狂わせた。皆、逃げ出した。だけど、皆落ちて、フィオだけが、最後まで駆け続けた。
フィオの蜥だけが、気絶した主人を乗せたまま邑まで駆け抜けた。
左目はあの夜の闇に置いてきた。辛い記憶は傷の縫合の奥に閉塞した。だけど生き残ったという事実が、フィオの誇りを打ち砕いた。
イェナは優しかった。生きて帰ってくれてよかったと、泣いてくれた。
皆、優しかった。お前だけが生き残って、なんて言わなかった。
だけど、フィオはもう、邑にいられなかった。
次々と撃ち落されていく仲間を見捨てて逃げてきたくせに、何が「仲間」だ。そういう気持ちを覆い隠したまま、子どもを抱けない。
憎悪した。平穏な日々に転がり込んできた災厄を。それは黒い髪に、墓石のような暗い目をした子どもの姿をしていた。
関係ないとは言わせない。
ススロでいられなくなったフィオは、軍人になることにした。
要するに逃げてきたのだ。
あの夜からフィオは逃げて、逃げて、ずっと逃げてきた。逃げ込んだ先に、自分と同じように逃げてきた負け犬を見つけて、優しい気持ちになれた。自分と同じ種類で、しかし、彼のほうが大きくて深い痛みと弱さを抱えているから、フィオは、自分が大人であるような錯覚を覚えて安心していた。自分はもうあの時とは違うのだから、と、慢心していた。
そんなものは、幻想だった。
心地よい夢から覚めた時、同じ暗がりに蹲っていたはずの共犯者は、遠く、見失うほど遠くに駆け出していた。
彼の駆け抜けた後には風が起こる。その風に巻き込まれているだけの在り方を、彼は、許しはしなかった。
世界一速いという武器を、けして見逃してはくれなかった。
闘え、と言われた気がした。
あの夜から、駆け出さなければならない。
速く、速く。もっと速くなれたはずなんだ。
過去から未来へ、届けるために。
ふ、と体の軽くなる感覚があった。五感が解けて、風の抵抗がなくなるような錯覚。
忘れかけた、蜥と一体なる時の、あの感覚。
――戻ってきた。
ずっと探していた。ずっと、戻ってくるのを待っていたのだ。
おかえり。
言ったのか、言われたのか。
俺はススロだ。そして、ロボの配下だ。
鉄砲を持っていも、軍服に着替えても、片目を失くしても、蜥と運命をともにする。
フィオは速力を上げた。蜥はちゃんとフィオに応えた。もうずいぶん長い事わすれていたような気がする。生まれたときから、いや、産まれる前から繋がってきた魂の片割れ。
駆け抜ける。振り切る。
世界最速の生き物に、もう誰も追いつけない。
「ご報告いたします、閣下。グィーダー辺境領の戦況報告が届いております」
「そうか。早起きは......いくら得だったかな? まあ、いい」
「しかし、本当に一夜でガウカリア荒野を駆け抜ける生き物がいるんですね」
「すごいだろう? 俺は一度だけ乗ったことがあるが、あの速度は、忘れられなかった」
「だからこんな奇抜なことを思いつかれたのですね」
「お前の毒舌を、俺は高く買っているぞ」
「お引き立ていただきありがとうございます、特命全権大使閣下。いえ、ここからは、総司令閣下とお呼びしたほうがよろしいですか?」
「どっちみち、閣下でいいだろう? さて、もう靴紐は結べたかな、モルテイル副官」
「とっくに」
「そうか。ならば我らも」
――進撃開始。
■
【彼女の場合】
「ねぇ、お父様。イスガルの第二王子が来ているって本当?」
冬期休暇で帰省するなり、開口一番そんなことを叫ぶ愛娘に、聖皇国皇帝夫妻は弱冠、渋い顔をした。
「リアセトラ、もっと先に言うべきことがありますよ」
母親に咳払いされ、少女は頬を赤らめた。
「あら、私ったら」
リアセトラ・イセラアクィナ・セイエルク。それが少女の名である。イセラは太陽、アクィナは金色の翼を持つ豊穣と正義を司る女神の名である。天照煌翼[イセラ・アクィーナ]で、聖皇国をそのまま意味する場合もある。セイエルクは大陸でもっとも古い王家の名であり、連綿と受け継がれてきた高貴なる血統の賜物か、少女はあまりに優雅に礼をする。
「親愛なる皇帝陛下、皇后陛下にご挨拶いたします。第一皇国姫リアセトラ、ただいまもどりましてございます」
古の神々の祝福を一身に受けた、輝ける暁の姫君。大陸一の美姫と謳われる愛娘の洗練された姿に、聖皇国皇帝もすっかり冠の重さを忘れて顔を綻ばせた。
「リト、愛する我が娘よ。少し見ぬ間にまた一層麗しく成長したようだの。姫は父の宝ぞ。おいで、リト。顔をよく見せておくれ。ああ、若いころの皇后によう似ておる」
「まあ、陛下。姫の聡明さは陛下譲りでしてよ。ご覧くださいませ。碧き智慧の泉に瞬く星のような瞳は、陛下と同じ色にございますよ」
膝に乗せて頬ずりしだしそうな勢いの父と母に苦笑しつつも、リアセトラは抱きしめてくれる両親のことを、自分もしっかり抱き返す。
聖皇国皇帝一家は仲が良い、というのは本当だし、リトもそのことを疑問に思ったことはない。リトに言わせれば余所の王室がどうしてそんなに険悪になるのかわからなかった。簡単なことである。お互い愛して許せばよいだけのこと。リトだって姉妹と喧嘩もするし、母とぎくしゃくすることもある。父には怒られたことはないが、どんな時だってリトの家族はお互いに支え合ってきた。
家族に不満はないが、強いて言うなら、不満がないことが不満であった。聖皇国の東陽宮の中で幸福に生きる自分は、温室の蝶だと思っていた。吹き荒れる風を知らないから、ふわふわと優雅に舞っていることしかできない。それでは困る、とリトは思っていた。何故困るのかはわからないが、とにかく今のままではいけないと思い立って、留学をせがんだ次第である。
「留学はどうでしたか、リト」
「はい、お母さま。とても楽しかったです。友人もたくさんできました。冬期休暇中にお手紙を書く約束をして、魂廻祭のことを話したら、ぜひ見てみたいと言ってくれました。東陽宮の広間の風景を描いて、送ろうと考えています」
「そう。お勉強のほうはどうでしたか?」
「ご心配なく。先にお送りいたしました成績表の通り、主席にございます」
「先生方の評価も大事ですが、母は姫が何に興味があって、何を学んできたのか知りたいのです」
「そう......ですねぇ。まず三大言語以外の言語を学ぶことができました。友達と手紙を交換するために、お互いに教え合って、その中で、考え方や文化の違いも知りました。中には『違う』ということに否定的な生徒もいましたが、私は『違い』が楽しかったです」
「そう。それは大変、よいことを学んできましたね」
「それから、夏には海に行きました。そうだわ、妹たちにお土産です。海岸で素敵な貝殻を拾ったのですが、実はその中にヤドカリがおりまして......」
「姫、姫よ。リアセトラ」
父帝[ちち]の、何だかちょっと遠慮がちな呼び声に、リトは首を傾げた。
「ところで、その......お友達というのはだね、女の子かな?」
ああ、とリトは納得して、ちょっとだけ嫌な顔をした。
「お父様」
リトは腰に拳をあてて頬を膨らました。
「何度も申し上げましたように、私、好きな人と結婚しますからね」
「その、だな。姫よ。好きな人というのは、その......」
「今はいません」
リトはつんと顎を突き出した。
「でも、きっと素敵な人を見つけますから、安心してください。私の家族や、聖皇国の民を不幸にするような愚か者を選ぶことはいたしませんし、そんな人に心を奪われるほど、私は間抜けではありませんよ」
「そうか。それを聞いて、父は安心したよ」
安心してもいられませんよ、と、母后[はは]は皇帝の脇を突いた。
「ともかく、素敵な経験をさせていただいております。父皇様[おとうさま]、母后様[おかあさま]。ありがとうございます。リトは幸せです」
そう。留学自体は、本当に楽しかったのだ。齢の近い、気の合う仲間たちと一緒に、めいいっぱい遊んで、思う存分学べて、毎日がとても充実していた。その一方、絶え間ない不躾と無礼に、何度怒ったことか。
リトはどこへ行っても男子生徒の注目を浴びた。それは、リトにとって迷惑でしかなかった。何せかたっぱしから振らなければならないからだ。
贈り物でリトの機嫌を取ったり、妙にへりくだったり、そうかと思えば延々家系の自慢話を訊いてもないのに始めたり、一番腹に据えかねたのは、リトの友人の一人を笑いものにすることで気を引こうとした大馬鹿者だ。確かアルギーニの公爵子息だったと思う。友人への侮辱はリトへの侮辱だ。リトは男子しか履修できない兵科剣技の実技授業に忍び込んで、勝負を挑んだ。模擬試合では怪我をしないように防具をつけてやるので、どうせばれないだろうと思ったのだ。そして完膚なきまでに負かしてやって膝を地につけさせたところまでは良かったのだか、暑かったのでうっかり面を取ってしまい、正体がばれて大目玉を喰らったのは、よい思い出だ。
ともかく、リトに悩みがあるとすれば、素気無く振った結果、周囲に被害が及ぶことであった。一度や二度ではなかったから、本当に、本当に、嫌な思いをした。ひょっとしたら男嫌いになっているかもしれない。
「ところで、お父様。イスガルの特使が例の放逐王子だというのは、本当ですか?」
「リト」
「だって、気になりますもの。お隣の国のことですからね」
イスガルの第二王子といえば、その不幸な生い立ちからして噂が絶えない。逆に、リトは彼の噂しか知らなかった。直接会ったことは一度もない。
聖皇国で言われているように、リトと同じ年頃の少女を傷つけて自害に追い込んだのなら、それは絶対に許せないことだと思っていた。かの少女はリトの親戚として、聖皇国の大切な人として迎えられるはずだったのだ。ましてや亡骸を火葬するなんて、非道にもほどがある。ただ、別の噂も聞こえてくる。二人は相思相愛で、王子を陰謀から救うために公女が身を捧げたのだとも。あるいは、公女は偽物で、詐欺が露見しそうになった義父が焦って娘を自殺に見せかけて殺したのだとも言われている。彼女の義理の父親であった教授は、事件の直後に拳銃自殺していた。
「リト、なりません」
「ちょっと見るだけ。だって、第一王子と第三王子の肖像画は出回っているのに、第二王子だけ全く見かけないもの。式典にもほとんど現れないし、もしかして、とんでもない醜男なのかしら」
「こら、リト。失礼ですよ」
「冗談です。でも、やっぱり自国の国民にさえ顔を明かさないのは、何か理由があると思うの。父皇様や母后様だって、私たちの肖像画をたくさん描かせたでしょう? 君主の家庭に生まれたからには、余程の理由がない限り公的な肖像画があってもいいはず。それが一枚もないのは、やっぱりおかしいと思うのです」
皇帝夫妻は顔を見合わせ、諦めたように同時に肩を竦めた。
「ちょっとだけ。お顔を見るだけでもいいのです。お会いできますか?」
「いけません」
母后はきっぱり首を横に振った。
「それとこれとは、話が別です。そもそも、立場が異なります。姫は休暇で帰省している身。相手方は国事でいらしているのです」
そう言われては、リトは反論できない。
「そういえば、リト。軽業師の一団が興業に来ているらしいの」
陛下、と母后はたしなめたが、リトはすでに聞いてしまった。皇帝夫妻は好奇心旺盛な愛娘が、幼い頃から宮殿の外側に興味を抱くのを抑えることができなかった。欲求を押さえつけた結果、自制と冷静さを失って事故が起こることを懼れた夫妻は、彼女の「息抜き」に片目を瞑ることにしていた。
門限厳守。必ず近衛を連れて行くこと。楽しみは独り占めしないで姉妹とわかちあうこと。けして自分の身が皇国のためにあることを忘れないこと。
以上を守っている限り、賢い娘が踏み外すことはないと、皇帝夫妻は信じていた。実際、姉妹が一人でもいればリトはけして無茶はしなかったし、自分の楽しみのために誰かを危険に巻き込むような愚行は犯さなかった。護衛がつくことも、自分の立場を理解しているリトは、許容した。ちなみに、リトは七つのときに脱走をひどく叱られ、国民を知らずして国民の幸福はわからない、と言い返して、「息抜き」の権利を獲得した経緯がある。
好奇心の矛先を巧みに逸らされた感は否めないが、すでに妹たちが浮かれ騒いでしまっているので、行かざるを得ない。まあ、王子様のほうは焦らずとも逃げはしないだろう。
それに、この休みは家族のために過ごすと決めたのだ。リトは母后から、父皇の心臓が弱っていることを聞かされていた。
そういうわけで、お忍びで軽業師の巨大天幕を潜ろうとした時、リトの視界を「何かすごいもの」が掠めた。思わず振り返り、凝視する。
大きな二本足のトカゲが、豹の檻の隣で頭を掻いていた。「何あれ!」と叫びそうになって慌てて口を押さえる。
妹たちを席に座らせて、リトはわざわざ一人でその生き物を見に戻ったほどだ。
初めて見た、こんなすごい生き物。おまけに騎具らしきものが装着されている。乗るのだろうか。見世物用の珍獣にしては、骨格が頑丈そうだ。
興味津々見上げていると、「珍しい?」と声を掛けられた。隻眼の男が的屋の露台から身を乗り出して笑いかけていた。
「蜥っていうんだよ」
「これはトカゲ?」
「蜥は蜥だよ。おっと、手は出しちゃだめだよ。こう見えて結構、気が荒いんだ」
「触ったら怒るかしら?」
と言いつつ、リトは自分の手が伸びていくのを止められなかった。犬でも馬でも鳥でも、動物には触らずにはいられないのだ。
そっと様子を伺いながら指先を伸ばすと、不意に、トカゲが頭の角みたいな突起をリトの手に擦り付けてきた。ひゃ、とリトは思わず声を上げる。隻眼の男が笑っていた。
「おや、気に入られたみたい。可愛い女の子には弱いらしい」
「ふうん。意外と、温かいのね」
リトはすっかり大きなトカゲが気に入って、しばらく触らせてもらっていた。と、そこへもう一人やってきた。黒い髪が珍しい、リトと同じくらいの男の子だった。
「よぉ、ピヨ」
ピヨと呼ばれた眼帯の男が、あからさまに顔を顰めた。知り合いらしい。
「こんな時に女の子ひっかけて、職務怠慢だぞ」
「誰を待っていたと思っていやがる! お前こそ職務怠慢だ!」
「馬鹿いえ。お前が待っているだろうと思ったからこうして出てきた次第だ」
「何もお前自身が......」
と、そこで何故かしら眼帯の男がリトを振り返ったので、リトは首を傾げた。男は黒髪の少年の顔を見ると、何か思いついたのか、にたりと笑った。
「俺はご覧の通り、的屋の番してんだ」
「そのようだな。似合っているぞ。転職するか?」
「俺は職務に忠実なんだ。きっちり当てたら、一等をくれてやるよ」
「ほう? お前、俺を誰だと思っていやがる?」
「さて、誰だったかな?」
黒髪の少年は台の上の長銃を手に取りかけて、ふと、リトを振り返った。
「やってみますか?」
リトは勿論、肯いた。
「射撃は得意よ。剣技のほうが自信あるけど」
「そいつは勇ましいことで」
おや、とリトは黒髪の少年を見た。
「何か?」
「いいえ、何でもないわ。ところで、お代は貴方がもっていただけるのかしら?」
「冗談。自分で支払え」
またしても、リトは違和感を覚えた。嫌な違和感ではない。リトの知るその他大勢の男子とは、ちょっと違うらしい。
「まあ、この的屋のお兄さんは優しいから、弾二発くらい目を瞑ってくれる」
「二発?」
「君と俺で一発ずつ」
「大した自信ね。当然、一等狙うんでしょうね?」
「俺は何としても当てなきゃならんので、本気でいきますよ」
「そうこなくっちゃ」
すっかあり面白くなって、リトは手加減を忘れた。軍の払下げ品を買ったのか、もう十年くらい前の旧式の長銃で、子どもに持たすには些か危険すぎる。これで一等がウサギのぬいぐるみだというから、何だか、ちぐはぐだ。
リトは的の空き瓶をしっかり撃ち抜いた。どうだ、と得意になった瞬間。宙にはじけ飛んだ瓶が、さらにもう一度跳ねて、リトはぎょっと目を見張った。振り向くと、黒髪の少年が隣で長銃を構えており、その筒から煙が上がっていた。
リトが撃ち落した的の空き瓶を、彼はさらに中空で撃ち抜いたのだ。とんでもない。
はっと、息をつめる。
慣れている。ちゃんと訓練を受けた構え方だ。
おまけに所作が自然だ。煩くないし、無駄がない。リトは彼が銃を構えたことさえ気付かなかったのだ。
軍人だ、と直感する。
それに、何と言えばいいのか......。
狙い定める眼差しが、とても研ぎ澄まされていて、目が離せない。かつて他人に対して覚えたことのない引力を感じていた。
彼は銃を下して、にっこり笑う。
その笑顔に、リトはざわりと悪寒を覚えた。こういう微笑み方をするのは王族だ。誰が相手でも、どこから見ても、微笑でしかない表情。無表情よりもよほど表情を欠く。
「ウサギ、要ります?」
「いいえ、遠慮するわ」
リトは素直に敗けを認めた。
「貴方の手柄だもの。貴方のものよ」
「そう? では、遠慮なく」
ウサギを受け取りながら、振り向きざま、片頬で笑う。
なんて素敵な。
そんな風に背中を見せられると、ついつい、追いかけて捕まえてみたくなる。
当面、この顔は忘れられそうにない。
「おい、ロボ。冷や汗かいたぞ」
隻眼の的屋が渋い顔をして言った。ロボというのか、とリトは記憶する。
「あっさり撃ち抜かれた瞬間には、俺もちょっと焦った。獲れないかと」
「あら、それは光栄ね」
リトはウサギの耳の端を引っ張って、お礼代わりに最上級の笑顔を見せてあげる。
「貴方の射撃は『本物』だわ。私が『本物』だと認めるのは、本当に『本物』だからよ」
「お褒めに預かり光栄です」
ロボと呼ばれた少年は、茶目っ気たっぷりにウサギの頭を下げさせて片目を瞑った。
それが凍砂月の四日のことだった。
翌日、リトはイスガルが交渉に失敗したことを知る。反乱の嫌疑で後がない第二王子には、手ひどい結果となったに違いない。が、土台不可能な交渉であった。無理を通して道理を引込めさせるようなことを強制するイスガル王も、為政者としていかがなものかと思う。第二王子は帰るに帰れないのか、皇国立資料館の図書館塔に立て篭もっているらしい。
これは、リトにとっては都合がよかった。
図書館には皇室専用の閲覧席がある。陛下書庫に隠し階段があって、そこから館内を一望できた。またぞろ、彼は非常によく目立った。何せ軍服のまま書架の間をうろうろしているので、ひどく浮いていた。浮きすぎて、彼だけ別の世界から来たようだった。
すぐに見つかったはいいが、策士策に嵌るとはこのこと、あまりに離れて過ぎていて顔がよく見えない。双眼鏡を持って来ればよかった。
さすがに肩章と飾刀は外してきているが、あまりにも、何というか、イドコロとイデタチを間違っている。本人は自分が見られているとは全く気付かないのか、あるいは、他人が自分に注目するなど露ほどにも思わないのか、平然と冊子本を抱えて、来賓用の個室に消えて行った。
それにしても、とリトは彼がいた辺りの棚を見やる。文学や詩集の棚である。彼がユリディアの少年なら何となくわかる気もするが、イスガルは芸術とは縁遠そうな無骨な軍国だ。彼が軍服を外さないのも、自分の立場を内外に示しているからだろうと察するが、それなら、その棚の本を閲覧するのもどうかと思う。
うーん、とリトは唸った。気になるではないか。
リトは一般架まで降りていくと、彼がうろついていた辺りを、自分もうろついてみた。本を抜いた跡のある辺りを見上げてみる。どう見ても文学、それも物語が並んでいる。何を呼んでいるのか気になって、手を伸ばした。半分抜いたところで、本が動かなくなる。おや、と顔を上げると、リトが引き抜こうとした本を抑える意地悪な手が見えた。
何するのよ、と、睨みかけて、つい最近見かけた完全微笑にぶち当たり、凍りつく。
「俺に御用ですか、狙撃姫」
青くなった顔を、今度は真っ赤にして、叫びかけ、ここが図書館であることを思い出す。
ロボが笑っていた。
「ちょっといいかしら?」
リトはいけ好かない馬鹿者の手を捕まえると、来賓用の個室に引っ張り込んだ。誰かに見られていたら大変だが、その辺りは抜かりない。お姫様というのは我儘を言う生き物である。第二王子だけを入れて、あとは自分が閲覧することを理由に図書館の出入りを一時的に禁止させていた。
濃紺の軍服で図書館を徘徊する阿呆こそ、悪名高きイスガルの第二王子であり、若すぎる特命全権大使であり、そして、ロボであったのだ。
「どういうことか、ご説明願えます?」
リトは憤慨して拳を手にあてた。ロボはというと、のんべんだらりと長椅子に腰かけて、やれやれとばかりに頭の後ろを掻いていた。
「貴女があそこにいらしたのと、ほぼ同じ理由です」
「私が誰だか、わかっていたのね」
「とんでもない」ロボは悪びれもせずに言った。
「どこの姫君が存じ上げませんが、その方が我々にとって平和ではございませんか?」
「シラを切るの? 性格が悪いわね」
「わざわざ特権を濫用してまで人の顔を盗み見ようという方が、余程陰湿ですよ」
「ねぇ、その慇懃な物言い、やめてくださらないかしら。腹に据えかねるわ」
これは失礼、と、ロボは口先ばかりは謝ってにっこり笑みを深くした。
「尾行したことは、謝るわ」
「尾行とは、言い難かったですが、お互い様ということで」
「ねぇ、ロボって呼んだらいいのかしら?」
「俺の立場では貴女を気安く愛称で呼ぶのは憚られますが、俺のことは何とでもお呼びください。ただし、本名は避けていただけると、ありがたい」
「そうするわ」
「で、何の御用でしょう?」
「別に用事があるわけではありませんが、私がいると不都合がありますか?」
「それはもう、大いに不都合ですとも。俺は読書しに来ているわけですから」
「何を読んでいるの?」
「何でしょうね」
「馬鹿にしているの?」
「そちらこそ、珍獣にむやみやたらに触れてはいけませんよ。全部の獣が蜥のように貴女に懐くわけじゃないですから」
あ、とリトはようやく自分のしていることがとても失礼なことだと気が付く。
「謝ります」
「はい?」
「私は貴方に対して、とても失礼でした。ですが、知ろうとすることまでは咎められないはすです。私が抱いているのは悪意でなくて、興味です。私は貴方を誤解したくありません。正しく理解するためには、知る必要があります。私は間違っていますか?」
ロボはやけにゆっくり瞬き一つして、不思議そうに首を傾げた。
「独特な価値観を持っておいでのようだ」
「あら、ありがとう。ロボも相当、変わっているわ。どうして軍服で図書館に?」
「公務中ですから」
「なるほど、納得したわ。もう一つ、質問してもよろしいかしら?」
「そういう訊かれ方をされると、なんなりと、としかお返事のしようがありません」
「ではさっそく。ロボは物語が好きなの?」
リトは山と積まれた文学を見やった。もしかしたら共通の話題があるかもしれないと期待したのだ。ところが。
「いいえ、全く」
ロボは素っ気なく首を振った。
「では、どうしてそんなに積み上げているの? 読むつもりなのでしょう?」
「ええ、まぁ」
「はっきりしないわね」
「正直、時間を持て余しておりまして。暇はいけませんね。馬鹿に考える間を与えてはいけません。ろくなことを思いつきません」
「馬鹿とは、御自身のことをおっしゃっているのですか?」
「そうですよ。自分のことをつくづく馬鹿だなぁと考えていて、ふと、以前に、不思議なことを言っていた人がいたことを思い出したのです。その人は、物語を愛する人でした。自分の人生は物語の断章だと言っていました。それを、ふと思い出したのです。一体どんな断章でできていたのか、急に知りたくなりまして」
ピン、とリトの直感の糸が震えた。
かの少女のことを言っているのだと、気付いてしまった。
「その人の存在の片鱗を、探しているのね」
「そんな高尚なものじゃありませんよ。情報を遡っているだけです」
「それを人は、思い出と呼ぶのよ」
リトは相変わらず微笑むばかりの少年をまっすぐ見つめた。
「貴方は本当にグィーダー公女のことを――」
「貴女は聡明すぎるようです」
しまった、とリトは口を噤んだ。ロボは美しく見えるだけの笑顔を向けて、読みかけの本を閉じると、リトに差し出した。
「怒っている?」
「ええ」
「悪かったわ、傷付けるつもりはなかったの」
本を受け取って項垂れたリトに、ロボは言った。
「傷付いたわけではありませんので、その点はご安心を。俺が怒っているのは、軽々しく切り札を口にしてしまう、貴女の軽率さに対してです」
「切り札ですって?」
「その本、グィーダー辺境領で馬鹿売れしたらしいですよ。特に十代女子に絶大な人気を博しているとか」
ロボの言わんとしていることが見えなくて、、リトは「そう」と曖昧に肯いた。
「面白い?」
お座なりの問いに、ロボは真面目くさって肯いた。
「ぜひ、感想を下さい」
ロボはすり抜けざま、自嘲と冷笑と得意と軽蔑、ともかく、皮肉な笑みを残して部屋を去ってしまった。一人残されたリトは、憤然と息巻いた。
その次の日も、ロボは図書館に現れた。本当に暇らしい。
そういう私も暇だわ、とリトは口をへの字に曲げた。
「読んだわ」
リトが借りた本を突っ返すと、ロボはきょとんと目を瞬いた。
「貴方が読めと言ったんじゃない」
ああ、とロボは思い出したのか、自分で貸し付けておいて微塵も興味なさそうに例の小説をリトから受け取り、見向きもせずの積んだ本の山の麓に置いた。
「どうでした?」
「泣けたわ」
「俺も涙を浮かべましたが、抱腹絶倒の末の呼吸困難による生理現象としての落涙でした」
「貴方、本当に性格悪いわね」
リトは眉を顰めた。主人公の少女に感情移入していたので、最後は涙が止まらなかったのだが、二度目に読み直した時には涙ではなく冷や汗を浮かべた。
このままでは公女は伝説に、第二王子は英雄になってしまう。いや、実名こそ避けたものの、十代の夢見がちな少女たちは、この物語の主人公と、目の前のこの少年を、完全に同一視しているに違いない。ましてやロボは顔がいい。百年都市の美の園で生まれ育ったリトがそう思うのだから、事実、美しい。影ある眼差しと端正な横顔に、少女たちは夢中になることだろう。
それはいけない。
しかし困ったことに、本自体を発禁処分にしたとしても、物語はすでに人々の心に触れている。感動したという事実までは?き消せない。
「ねぇ、ロボ。茶化さないで、ちゃんと答えてほしいの。貴方はその物語の王子様のように、彼女のことを愛していたの?」
「いいえ」
「嘘」
リトは目を細めた。
「貴方は自分の真心まで道具にするの?」
「はい、使えるものなら、何でも使います。イスガル王家は貧乏性なので」
「......嫌な人。本当なのね」
リトは考えた。ロボみたいな人間には婉曲な質問は無駄だ。遠回しな言葉にはさらに迂回した答えを返されて、あっという間に撒かれてしまう。
「貴方が反乱を企てているという噂を聞いたわ」
「どこのどいつですか、そんな戯言を吹聴して回るのは」
「ミラン宰相。口止めする?」
「できませんね。その前に俺の息の根を止められそうだ」
「あら、認めるの?」
「貴女はどう判断しますか?」
リトは少しだけ考える。今さらイスガルに駆け戻ったところで、彼は余計に立場を悪くするだけだ。失敗するであろう交渉を彼に押し付けたのは、それを理由に追い落とすためだったのだ。この少年は、自分の故国に死にに戻ることになる。
「そうね......ここにいる限りは、安全だわ。色々とね」
「ご明察です」
ロボはやはり、にっこり笑みを深くしただけだった。
「何だか私ばっかり質問していて、つまらないわ」
「おや、俺は貴女に尋問されているつもりでしたが?」
「まあ、失礼ね。最初に言ったはずよ。私は貴方を正しく知りたいの。ロボはどうなの? 知りたいことがあるはずよ。上手く聞き出せたら、教えてあげないこともないわよ?」
「では、胸囲を教えていだけます?」
ロボが半笑で、リトの胸元の花網[レース]を指さす。リトは慌てて、うっかり乗り出していた身を引いて、頬を赤くした。
本当に、この男はちょっとでもこっちが仕掛けると、鮮やかに躱して反撃してくる。ただ、こういう応酬が、リトは嫌ではなかった。王侯貴族の子息と話していると、時々、お前は肖像画と家系図を相手に話をしているのか、と暴言を吐きたくなることがある。どいつもこいつも、自分の理想の姫君の幻影とお話していて、ちょっとでもリトがその理想からずれようものなら、リトを自分の思い描く「正しい女」へ矯正しようとするのだ。そういう押し付けがましさは、ロボにはなかった。
逆に、リトの方が鬱陶しがられてはいるようだけれど。
ロボは喉で笑って、やらた緩慢に背を伸ばした。
「冗談です。これでも、公務中ですので」
「最低だわ。駐在大使殿に言いつけてやろうかしら?」
「ご勘弁ください。それに、貴女は俺ほど暇ではないはずです」
「私は公務を済ませてきているわ」
「それでも、ばれたら大事ですよ」
「それが面白くって、こうして足げく通っているんじゃない」
「そろそろ飽きていただかないと、俺の心臓がもちません」
「貴方を困らせるのは楽しいもの。しばらく続くから、覚悟なさい」
「ひどいお人だ」
ロボはけして嫌だとは言わなかった。なのでリトは、次の日も、その次の日も、なんとかかんとか余暇を作って図書館に通った。
暇なわけじゃない。聖皇国でのリトの一日は、睡眠時間の外は、常に誰かのために費やされる。半年ぶりに帰ってきた娘を、皇帝夫妻はどこにでも連れて行ったし、次々と客が訪ねてきて、毎日のように観劇や演奏会のお誘いが届き、茶話会や式典や舞踏会が連続で押し寄せて、その上、魂廻祭の準備に追われている。ことに三日目の真大祭に向けて、毎年ながらリトの日程は多忙を極める。魂を大地にお還しする聖女[ルエニア]は、代々皇室の未婚女性が務めることになっていて、ここ五年はリトがその大役を仰せつかっていた。今日は最後の衣装合わせのために、半日も取られてしまった。
ロボと会って話すのは、いつも半刻くらいの短時間。それでもロボは、昼でも夜でも、リトが図書館を訪う時には必ず姿を現した。彼だって四六時中、文学に耽っているわけではないはずだ。現に、リトはこの二週間あまり、一度も彼の副官を見ていない。羊の皮を被って何を企んでいるのか知らないけれど、言外に、リトの行程をほぼ完全に把握していると言っているのだ。そういうところが、面白い。
直接会談した宰相ミランの彼の評価は、とても低かった。ミランは彼を悪戯盛りの仔犬のようだと言っていた。確かに、ロボの素行はとても姉妹たちには真似させたくない、と、リトは自身を棚に上げる。
しかし、リトはわずか十五歳の特使が、皆が言うように、暗愚な犬ではないと見ていた。
彼は違うのだ。他の誰とも違う。この世界に唯一無二。
最初にロボの「異常」なところを垣間見たのは、長銃を構えて静かに的を狙う眼差しを見た瞬間だった。きっと、あの時ロボは、本当に焦ったのだろう。そして滅多に見せない彼の本気を、リトは図らずしも引き出すことに成功したのだ。
あの目。
墓石のような黒い瞳が、その刹那にだけ、息の止まるほど冴えていた。
犬の目じゃない。飼われることに十足し、与えられるだけの生に終息する者は、あんなに必死に何かを狙ったりしない。
あれは狼の目だ。
奪い、屠る、覇者の眼差しだ。
だからリトは誤解しないように、この人物について正しく理解しなければならないと考えたのだ。もっとも、目的達成に付随して、彼との会話が楽しいのも事実だが。
「貴方は『違う』んだわ。だって、皆は私に『正しい』反応しか見せないんだもの」
リトの言葉に、ロボはすっかりおなじみになった苦笑を見せた。
「その言い方ですと、俺の応答が間違っているかのように聞こえますよ」
「ほら、これよ」
リトは一人、うんうん頷く。
「毒っぽいのよね。私、甘いお菓子には辟易しているの。貴方の言葉は香辛料みたいで、面白いわ。貴方は何かを持っている。他の人とは違う。私はそれが、とても気になる」
「俺は何も持っていませんよ」
「嘘」
リトはロボの前に、持参した遊戯盤を広げた。
「私と勝負して」
「俺は、盤上遊戯はすこぶる弱いですよ? お相手になるかどうか」
「嘘ね。絶対強いわ」
「貴女は俺を過大評価しすぎです」
「やるの? やらないの?」
「お断わりできるのですか?」
「逃げるの? 私、今夜は貴方のためにすごく頑張って二刻も捻出したのよ?」
「そうとあっては、敵前逃亡は許されませんよね、やはり」
「あ、まだ全然燃えていないわね? いいわ。本気にさせてあげる。私が勝ったら、明後日の前夜祭の舞踏会で、私と踊りなさい」
「......どうかご容赦を。そんなことしたら俺は、聖皇国の民に呪い殺されてしまいます」
「やっと重大さがわかったようね。本気でかからないと、貴方の恋愛遍歴に私の名が刻まれることになるわよ」
「無論、望むところですが、今は、困ります。......またいずれ、必ず」
「駄目。今よ。はい、先手必勝」
リトは白い石を一つ、マスに進めた。
ロボは、やれやれというのを隠そうともせず、苦い笑みのまま手袋を外すと、黒の石を取り上げた。どきりとするほど白い指先は、とても剣を握る者の手とは思えないほど繊細で、リトは思わず目を奪われた。
率直に言おう。ロボは、驚くほど弱かった。
手抜きしているわけでもなさそうなので、本気で苦手らしい。もうどうにもならないほど負けて、あとは降参宣言をするだけというところまで追い込まれて、ロボが渋く笑った。
「だから、弱いんですって」
「......ごめんなさい、まさかここまでとは。正直、驚いたわ」
むしろ弱い者いじめをしているようで、罪悪感がこみ上げてくる。リトは盤上遊戯に相当な自信があった。うんと小さいころから父帝[ちち]をはじめ家族や親戚を相手に遊んできたし、大抵の貴族たちは嗜みとして心得ているので、リトがふっかければ相手をしてくれた。が、ここまで弱い相手も珍しい。
「この手の遊びは、あまりやらないの?」
「ええ、まぁ。一応、知識としてなら、存じていますが」
リトはふと、この少年が家族と盤上遊戯をしているところが全く想像できないことに思い至った。この人はどんな子ども時代を過ごしたのだろう。普通の相手ならば気軽に訊けることなのに、何故だかロボが相手だと憚られた。
深い、傷に触れてしまうような気がして、リトは今宵、ロボに対して初めて遠慮した。
「あまり遊ばない人?」
「ウサギを抱えて帰った俺を見ているくせに、それを訊きますか? 聡明な貴女らしくないですね。俺は真面目の真逆の人間です」
「そう言えば、そうだったわね。何かないの、得意なこと」
「......情けをかけられるほど、俺は弱いですか。そうですか。別に悔しいわけではありませんが、射撃と札は、多少なら」
「生憎どっちも持ってきてないわ」
「いいですよ、別に。それに、射撃では一度、勝たせていただいております」
「降参する?」
「いえ、もう少し粘りましょう」
どうにもならないところまできていることを知っているリトとしては、顎に手を当てて熟考に入るロボが何だか痛ましいくらいだ。
気になる相手に勝負を吹っ掛けるのは、リトのちょっと性悪な趣味であった。
遊びは人の本質を炙り出す。言葉も顔も身なりも、繕うことはできるけど、夢中で遊んでいる時だけは人は素顔に戻るものだ。本性が出るともいう。盤上遊戯の筋を見ていると、その人がどんなふうに生きてきたのか、どんな考えのもと、どのような戦略を立てるのか、実によく見えてくる。遊んでいるつもりだからこそ、相手は簡単に素性を明かす。
敗北の屈辱に耐えられないから守備に走る者。自信過剰に支配欲に任せて攻撃しかしない者。策を弄して相手を勝負から降ろそうとする者。最低限の動きで勝ちを取ろうとする者。様々だ。盤上には相手の過去と、この先の将来性が露骨に滲み出る。
もっとも、一番知りたいロボの本性は、あまりに弱すぎて引っ張り出すことさえできなかったが。
「私の勝ちよ。諦めなさい」
「逆転するかもしれません」
「逆転できないように包囲されていることもわからないとなると、かなり厳しいと思うのだけれど」
「......俺は、そこまで負けているんですか?」
「三手目には、すでに」
「お強いのですね」
「私には未来が見えるの」
「本当ですか?」
「嘘に決まっているじゃない。でも、盤上遊戯に限っていえば、半分くらいは未来予知みたいなものね。私は、未来を見るの。完全な勝利の形。その形になるように、駒を導いていく。何回盤上の勢力が変わったって、私は自分の勝利の形を見失わない。だから、勝てるの。貴方も、見える人かと思ったわ」
「失望させてしまったようで、申し訳ないですが、俺には未来なんて見えません」
「過去を見ているの?」
「いいえ、俺が見ているのは――」
不意に、ロボが身を乗り出した。あまりに突然で、あまりに素早くて、リトは、自分が迫られていることさえ、咄嗟には気付けなかったくらいだ。
一瞬だったのだ。
夜を凍結したような瞳が、リトをしっかり捕えている。こんなに、近く......。
「――現在[あなた]だけですよ」
ロボはリトの髪に手を伸ばした。
敗けた。
リトは、直感する。
唇を引き上げ、笑う。
「敗北宣言をなさいな。勝ったのは私よ」
「さて、そうでしたっけ?」
見やると、盤上の駒が全て倒れてしまっていた。
「卑怯よ」
「俺は敗けていませんよ」
「本当、狡いわ。許さない」
リトはロボの額を指先で弾いて席を立った。
「逃がさないから。次は札で勝負しましょう」
「そろそろ見逃してください。俺は、貴女とお話している間、薄氷を踏む心地なんですよ」
「あら、私は楽しいけれど?」
「俺も、楽しいですよ。......ええ、かつてないほど」
それが、魂廻祭開催の前日、一九日の深夜のことだった。
ロボは翌二〇日、図書館から姿を消した。
何となく、しかし確信的に、リトはもうロボは二度とここに現れることはないだろうと直感した。胸の奥に風穴があいたような感覚を覚えて、それでようやく、リトは自分が思っていた以上に、彼のことを気に入っていたことを知る。
別の出会い方なら。
聖皇国の第一王位継承者と、その臣国イスガルの望まれぬ王子でなかったのなら、彼とは親友になれたかもしれない。彼はリトの本性を、いともたやすく引き出したのだから。
戦闘を望む、猛禽の本性を。
「ありがとう、ロボ。楽しかったというのは、本当なのよ」
届かない言葉を、無数の本の海に投げかける。
前夜祭の約束も、ロボは反故にした。体調不良を理由に、会場にさえ現れなかった。身勝手で礼儀をわきまえない特使に、聖皇国の重臣たちは眉を顰めたが、リトは何だか落ち着かなかった。華燭の煌びやかな光が、どうにも嘘っぽく見えて仕方なかった。
そして、魂廻祭三日目、真大祭。
無事に魂たちをお還しする式典を終えて、聖女の衣装を解いたリトのところに、蒼ざめた顔をして侍女が駆け込んだ。
特命全権大使が交渉を諦めて帰ったのが二二日早朝。昨日の今日のことである。
雪中より現れ出でたイスガル兵の大軍が、グィーダー辺境領を占領したという。
――これだったのか。
リトは、固唾を飲んだ。
その日、生まれて初めて、世界はリトを裏切った。
■
凍砂月 二三日
魂廻祭真大祭。
北部国境近郊にイスガル兵一万四〇〇〇が集結との急報あり。奇しくも大使が国境を越えてガウカリア東部不戦協定区に入った直後であった。
聖皇国は不意を突かれた形となり、急使が東陽宮に到着する頃には、モルドァ大将率いるイスガル軍はすでに砦を三か所突破していた。
驚くべきことに、占領の事実が皇国に届くよりも一日だけ早く、第二王子は制圧成功の報せを受けていたことになる。ガウカリア渓谷を越えられる、翼の生えた馬を所有していたとしか考えられない伝達速度である。
その一日の誤差により、聖皇国はまだ戦況が転じる可能性の高い序盤戦において、少しでも有利な条件で停戦協定を特使に申し入れる機会を失った。
同月末
二〇日の進軍開始から三日後、イスガル王城に特命全権大使である第二王子が帰還、同時に、戦線指揮を執るモルドァ将軍から作戦の第一段階が成功した旨の報告が届いた。
軍部の推挙とグィーダー辺境領での絶大なる人気の後押しを受け、イスガル王は第二王子を本作戦の総司令に任命。第二王子はその足で前線のサルマリア砦兵を中核とする精鋭連隊に合流。
イスガル軍は要塞攻略を目前に、進軍を一時停止。投降を促すと同時に、コルビア要塞を無視して砲台と攻城兵器を海岸線のクラズウェラ要塞へ輸送させ、偵察隊を送る。
二四日朝、イスガル軍は住民に対して布告を発布。占領宣言は、奇しくも皇帝弟君が公女の追悼式を行う予定であった広間にて行われた。
「全住民に告ぐ! これよりグィーダー辺境領は我がイスガル軍が平定する! イスガル軍総司令閣下の御言葉である! 心して聞け!」
「困った、何も考えていなかったな。......モルドァ、いちいち青筋を立てるな。竦みあがって声が震えてしまう」
「閣下は己の御立場について自覚なさいませ。もう放逐王子ではないのですぞ」
「すると、今の俺は何だ?」
「英雄です」
「......は。俺も偉くなったもんだな」
「心外ですな。いつも偉そうなので、てっきり偉いのだと信じておりましたぞ」
【二四日付 グィーダー辺境領フロイン新聞号外記事より 抜粋】
民衆よ。これより、諸君は我がイスガルの民となる。今日この広間に集まった者の中には、我々の歓迎しない者も少なからずいるはずである。異論のある者は前へ出よ。ご覧の通り、私の背後にはこれだけの兵隊が並んでいる。イスガル軍五〇〇の銃口に身を晒す恐れ知らずに、私は敬意を表する。
いないのか? そうであろう。もしいたのなら、この土地は王家を失っても自治を失うことはなかったはずだからだ。
長年、我がイスガルは聖皇国の臣国として辺境を制圧してきた。侵略し、略奪し、そこに住まう民を攫っては戦場へ蹴りだして、砲弾の餌食にしてきた。このグィーダー辺境領とて例外ではない。聖皇国の掲げる天照煌翼[イセラ・アクィーナ]の御旗のもと、歴史に埋められる無数の小国の一つにすぎない。
名と民が残ったのは、諸君らが従順であったからに他ならない。
諸君らは、皇国に飼われた羊である。そして、我がイスガルは、主人に言われるまま獲物を追いたててきた狗であった。獲物が従順であれば、その番犬であった。
全民衆に宣告する。それは過去である、と。
我々はこの土地を聖皇国から奪う所存である。しかし、諸君らがイスガルを受け入れず、闘うというのなら、我々はそれに応じる。我々は簒奪者ではない。破戒者である。古き時代の軛を食い破り、停滞する時代に風を起こすために来た。
そして、占領という事実として成功を収めた。
選べ。イスガルか、聖皇国か。過去か、未来か。我々は選ぶ機会を作った。
今すぐ、在り方を選ぶといい。今ならば私は諸君らの言葉を待つ。そのために、我が軍は歩みを止めている。
イスガルは選んだ。狗ではない未来を選んで、この土地に軍靴で踏み入れた。
我々は闘う。そして必ず勝利する。
公女の死は痛みであった。
古き時代の象徴する、忘れ得ぬ痛みである。
我々はそれを真摯に受け止め、けして忘れず、その高潔なる魂とともにあることを誓う。
故に、我々は恐れない。
聖皇国の報復を恐れる、羊の性が骨の髄まで染み込んでしまった者たちのために、私は約束しよう。もし聖皇国が大軍を率いてきたのなら、我がイスガル軍は全力をもってこれを迎撃し、必ずや退けて、諸君らを守る。アルギーニからも、ユリディアからも、あらゆる外敵から守ってみせる。そして、もしこの中に、まだ闘うことを忘れていない勇敢なる魂の持ち主がいるのなら、私はその者を同胞と認め、手を取るつもりである。
イスガルを受け入れよ。そうすれば、我々は諸君を受け入れる。
私は、私の兵隊たちに国土を踏み荒らすような真似はさせない。自国の国民を......愛すべき仲間を撃ち殺させるようなことは、絶対にしない。
選ぶといい。ただし、我々は待たない。自ら考え、決断せよ。
諸君には、自分の主を、自分で決めてほしい。
■
年明け早々、雪華月三日
家族とともに新年の音楽会を楽しむ聖皇国宰相ミランのもとに早馬が到着。
亡き婚約者の喪に服し、グィーダー辺境領に弔問に訪れていた皇帝の実弟、バルマティス公が、第二王子率いるイスガル軍の捕虜となったとの報せを受け、急遽、東陽宮に出頭。
早馬を飛ばしてコルビア・クラズウェラの二大要塞に徹底抗戦を命じる。
イスガルは年内に大陸側の全ての砦占領に成功したことで、聖皇国側の連絡線を断つことができた。ほとんど情報のないまま、グィーダー辺境領を守備する聖皇国兵は、ユリディア籍の軍艦の脅威を背後に感じたまま、焔のごとく侵攻するイスガル軍を迎え撃たなければならず、不利な状況にあった。
皇国兵に対して人質の存在は、投降の理由として十分効果を発揮し、イスガル侵攻軍は刃を交えることなく七日のうちに海岸線に到達、コルビア要塞、無血開城。
残すところはクラズウェラ要塞のみとなった。
グィーダー辺境領がイスガルに占領されたことを知ると、かねてより患っていた心臓に負担がかかったためか、聖皇国皇帝は昏倒、そのまま病床に伏した。
■
【彼らの場合 グィーダー辺境領、コルビア要塞にて】
年明け雪華月の一日。
聖皇国では全ての業務が休みになり、誰もがこの日ばかりは家族や大切な人と過ごす。その特別な日に、皇帝弟君バルベッド公は、麗しき東陽宮から遠く離れ、凍てつく冬の海鳴りを聞きながら一人で机に向かっていた。
格子のはまった窓の外では巡回のイスガル兵が、交代の敬礼をしていた。扉の外にも当然、見張りが立っている。そして、この部屋にも。
「貴方も今日くらいは、お休みになられては? 第二王子殿下」
「お気遣い痛み入りますが、そのためにはまず、弟君猊下、さっさと手紙を書き終えていただきたい。別に俺はいつまででも待ちますが、隣の部屋の憐れな生贄は、あまり待っていられないと思いますよ」
コルビア要塞の一室に、バルベッド公は軟禁されていた。追悼式典の祈祷の最中に、イスガル軍が霊廟に押し寄せてきてから九日が経過したことになる。たった九日、とバルベッドは唇を噛んだ。それだけの日数で、イスガルは戦勝国になろうとしている。
それも、たった一人の子どものせいで。
バルベッドは背後を肩越しに振り返った。黒い髪に、黒い瞳。指揮官肩章と防寒のための襟布の白さがやけに目立つ。
虜囚には革張りの肘掛椅子と文机を与え、自身は簡素な木の椅子に腰かけて、不安定に椅子の前脚を浮かせて腕組みしている。その横には手燭と砂時計が、小さな机に置かれていた。もっとも、仰々しい椅子に座るバルベッドの両手には鉄枷が付けられ、硬く頑丈な樫作りの椅子の肘掛に鎖で繋がれていた。この大きな椅子は、窓も扉も通れない。
「ほら、もたもたしているうちに、三本目」
ぎくりと、バルベッドは身を強張らせた。
「待ってくれ!」
振り向こうとして、枷の鎖が激しく鳴る。その音に重なって、隣の部屋から悲鳴が聞こえた。耳を塞ぎたくなるが、手が届かない。バルベッドは呻きながら再び机に向かった。
「本国への手紙は書く。彼女を解放してくれ」
「直筆の手紙と交換だと言ったはずです。さっさとしないと、指、なくなりますよ」
小さな砂時計の砂が落ちきる度に、隣の部屋ではバルベッドの従者の指が一本ずつ切り落とされていく。誰を拷問にかけているのか教えてくれなかったが、女の悲鳴だった。連れてきた侍女は数えるほどしかいなくて、十代の娘は一人だけだった。
「どうか、赦してやってはくれないか。彼女は君と同じくらいの年齢だ」
「それは、かわいそうなことをしました。この先の人生長いかもしれないのに、生きるのが大変でしょうね。しかし、残念です。すでに三本落としてしまいましたから、かくなる上は気絶するまでは続けましょう。ところで猊下、何故、そんな年端もゆかぬ小娘をお連れになったのですか? 彼女は可愛らしい顔をしているので、大変よく目立ちました」
バルベッドは怒りに蒼ざめ、しかし、どうすることもできなかった。
扉が開いて、白い布に包まれた「三本目」が持ち込まれる。
霊廟から引きずり出され、背後に軍勢を並べて笑っていた時には、死神のように思えた。しかし、こうして近くで見ると、確かに少年である。少年の皮を被った、魔物だ。
「彼女のことを思えば、救済を求める文言も真実味を増すかもしれませんね」
「いっそ、私が――」
「寝言は死んでから言ってください。聖皇国の皇室に暴行を加えるなど、畏れ多くてできません。ほら、お喋りしている間にも、四回目の砂が半分落ちました。俺は、急ぎません。でも、片手の指を四本失ったら、後の生活に支障をきたします。それとも、猊下は彼女の悲鳴が聞きたいのですか? 何なら、扉を開けておきましょうか?」
「......覚えておきたまえ」
「はい、けして忘れませんよ」
バルベッドは、不本意ながら、本国へ向けた命乞いの手紙を書き終え、署名を入れる。自分の命と換えて、グィーダー辺境領の譲渡を貴族会議で承認するよう皇帝に懇願する手紙である。
「ご協力感謝します、猊下。モルテイル、早急にこれを東陽宮へ」
取り上げるようにして手紙を手にすると、第二王子は副官を呼び寄せた。副官の少年もまた、子どもであった。彼に比べると、金髪の副官の方は幼い顔をしていた。
バルベットはどっと息を吐きだし、椅子に身を沈める。
「......あの子が、貴方の副官か」
「ええ。あれで、俺よりもずっと性格が悪いんですよ」
「彼にも家族があるはずだ」
「そうですね。存在しているということは、生んだ母親がいるんでしょう」
「君にも、家族が在るはずだ」
「ええ。隣の部屋で啜り泣いている少女にも」
「残酷だ」
「そうですね」
「君は間違っている」
「そうでしょうか? 俺は割と酷いことをしている自覚がありますが、それが間違いかどうか決めるのは、猊下ではありません」
そして、その少年は笑みを?き消し、暗い瞳を向けた。
墓石のような目だと思った。底冷えするような、絶望の瞳。
「正しかったのか、間違ったのはどちらだったか。決めるのは、未来ですよ。無数の、遍く、名もなき民衆たちが決めるのです」
そして魔物はするりとバルベッドの肩に両手を添えると、暴れてずれた上着の肩線を直してくれた。とても繊細で優しげな所作である。それが、余計に空恐ろしい。
「俺は勝ちます。正しくても、正しくなくても、必ず」
「君の思惑通りにはいかないだろう。聖皇国はイスガルが思うほど柔ではない」
「ええ、そうでしょうとも。老獪な方が多くいらっしゃいますから。問題は、賢い方がいるかどうか、です。俺個人としては、第一皇国姫に大いに期待しています」
「リアセトラ様に、お会いしのか?」
「ええ。聡明で心優しく、何より、正しい方でした。全てにおいて、彼女は正しい。正しいことしか知らない彼女なら、けして猊下を見捨てたりはしないでしょう」
「......まさか、皇帝陛下を......」
「呪い殺せるのなら、とっくにやっていますよ。偶然です」
しかし、と、魔物は言い継ぐ。
「運も実力のうちですから」
肩越しに振り返り様、微笑む。綺麗な顔をしていると、バルベッド公は思った。見る者を惹きつけて止まぬ。しかし、見惚れていると、一瞬で命を奪われそうな、そんな貌。
「過ちは必ず正される。覚悟しておいたほうがいい」
幼く美しい魔物は、ご機嫌に肯いていた。
「ありがとうございます。俺も、そういう世界であってほしいと願っているのです」
■
雪華月、十五日
クレー丘陵にてクラズウェラ兵とイスガル兵が会敵。
ほぼ抵抗を受けることなくグィーダー辺境領の砦を制圧することに成功したイスガル軍にとって、クレー丘陵が事実上の決戦地となった。
聖皇国はイスガルに対して反撃を決定。クラズウェラに徹底抗戦を命じ、一万七千の増援を送り込む。これにより勢力は逆転、イスガル兵一万四千、大砲五十門に対し、聖皇国兵は二万八千、大砲八十門。加えて、イスガルは冬期行軍を強行したため、兵に負担をかけていた。
大敗を喫するに違いない。誰もがそう考えていた。
■
「それが何だというのです?」
野営地、作戦本部の天蓋の司令官席で、その時、俺は夕食を取っていた。決戦直前、天幕の外では兵士たちが騒がしい。慰問品として酒と食糧の追加配給を行ったためだ。どうせ、俺たちに明日という時間はない。ただ、浮かれ騒ぐ声はどこか虚しい響きを伴った。皆、不安なのだ。まるでお化けに怯える子どものようだ。聖皇国の援軍の数字を聞いただけで自信を無くしている。そしてその原因は、幸か不幸か、ここに至るまで我々は戦闘を行っていないことにある。
見習兵として「その他大勢」に紛れていたからこそ、俺には彼らの不安がわかるのだ。
死ぬ覚悟なんてないんだ。逃げ込む場所がないだけ。
まだ早いんだ。全滅するには、まだ早い。
だから俺は、彼らの輪の中には交わらない。
相変わらず豆の塩煮と鶏である。くそ不味いことこの上ない上、見たくもない面を拝みながら、聞きたくもない泣き言をまくし立てられ、不味い飯がさらに不味くなる。
聖皇国からの援軍が接近しているという情報に浮き足立っているのは、小妃の実兄、ラビスリール公である。御年三十五の公にしてみれば、俺なんぞ洟垂れ小僧もいいところだろうに、その俺に泣きつくのはどうしたものか。
公が言うには、敵の兵力は我が軍の二倍に達し、その火力も遥かにイスガルを凌駕するという。そこで俺は言ったのだ。それがどうした、と。
「グィーダー辺境領へ侵攻すると決定した時から、それは承知のはずです。それとも公は、我が軍が聖皇国と同等とでも?」
「そうではないからこそ、本国に増援を求めるべきです」
「今からでは間に合いませんよ」
「閣下は勘違いされておられる! ここまでの戦果は閣下の勝利ではございません!」
「知っている」
そう。俺は多分、誰よりも、自分が戦って勝ったわけではないことを知っているのだ。
「公こそ、何かを勘違いされておいでのようだ」
「小官はイスガルの勝利を願うからこそ――」
「統括指揮権があるのは、この俺です」
俺は指揮官飾刀を抜くと、切っ先をラビスリール公に向けた。
「一体、何を恐れていらっしゃるのですか?」
「敗北です」
「落ち着いてください。まだ敗けたわけでありません。兵の姿さえ見ていないのですよ。公よ、言わせていただくが、俺はイスガル軍が聖皇国軍と同等だとは思っていませんよ。我が軍の方が、練度が高い」
一人で二倍の戦力、というのはさすがに盛りすぎだが、集団になったときにこそイスガルの軍隊は真価を発揮する。
何と言っても、あの父王の育てた軍隊だ。同調するということが、骨の髄まで染み込んでいる。人間であることを忘れて、ただ指令にのみ共鳴する。その恐ろしさを、きっと俺は誰よりも知っている。だからこそ、生意気なことも言えるのだ。
「俺に逆らいさえしなければ、敗走する羽目にはなりません」
「閣下......」
呆れたような、苛立ったような。ラビスリール公の顔にはこう書いてある。貧乏くじを引かされるのは御免だ、と。
それに対して、傍らで静かに直立しているサザは無表情、無言のまま、俺にこう伝える。いい御身分だよな、と。
「我々が今一番恐れなければならないのは、まだ見ぬ敵兵の軍勢の幻ではありません。指揮系統のぶれこそ、我が軍を壊滅させる最大の脅威です。翻って、命令伝達の速度と正確さがイスガル軍の強みであります。つまるところ......」
俺は父子ほども齢の離れた親族を、完全に見下して片頬で笑った。
「俺に指図するな」
ラビスリール公が怒りに蒼ざめ、反論しかけた時。
「伝令! クレー丘陵南西に聖皇国軍が展開中の報せ!」
皆まで聞き終わらぬうちに、俺はサザへと目配せする。
「モルテイル副官、各将軍を呼べ」
「了解しました」
すっかり俺の使い走りが板に着いたサザが天蓋を出て行くのを見送ると、俺はちゅしょくを中断してラビスリール公へと視線を戻した。
「公にとって、この戦は人生最大の番狂わせであったことでしょう」
俺の言葉に、ラビスリース公は息を飲んだ。それはけして改心したからではなくて、何か言いかけて止めた、そんな雰囲気であった。
王の恋人を遠ざけ、妹を王籍に入れ、回りくどく陰謀を仕掛け、時には直接的に殺害企て、十五年かけて蹴落とそうとしてきた子どもが、よりにもよって先頭に躍り出てきたのだから、面白くないに決まっている。それだけなら、まだいい。
「公が恐れているのは、聖皇国軍の軍勢か? それとも、俺の復讐か?」
俺は慎重に、しかし、遠慮なく彼の急所へと踏み込む。反皇国派の筆頭であるこの男に、今背かれてはひとたまりもない。
「後者なら安心してください。こうして旗を担いだからには、公は俺にとって重要な人間です。作戦の功労者を無碍にするようなことはしません。だから、くれぐれもお願いします。俺を信じろとは言えませんが、イスガル軍の勝利を信じてください」
「閣下のその自信の根拠を、お聞かせ願いたい。そうでなければ、私も、兵も、圧倒的に数で勝る敵の軍勢に、自分たちが勝利する未来を思い描けません」
「自信など」
俺は鼻で笑ってやった。
「ただ、後がないだけです」
帰る場所などなくて、俺たちはここにいる。
「退路などありません。だから、我々は敗けることは許されないのですよ」
俺の言葉に、ラビスリール公もとうとう黙った。
「ところで、この作戦が終了した後のグィーダー辺境領の処遇についてですが、俺は、貴殿にこの土地を治めていただきたく考えています。いかがでしょう? 悪くないはずです」
え、と息を詰めるラビスリール公に、俺は片目を瞑って見せた。
「王城で傍観していた連中に掻っ攫われるのは、俺としても納得しがたい。ともに闘い、手柄を立てた人物であるほうが望ましいでしょう?」
「しかし、閣下。それでは......」
「別に、こういう話をしているのは公だけではありません。それぞれ、目ぼしい人物には直々に特別褒賞の話をしております。ただ、失態を演じた場合の代償も相応にお忘れなく。突撃に失敗した騎兵連隊は守備隊に降格させますじ、攻撃を敢行しなかった歩兵連隊は軍旗を取り上げ、ことさらサルマリア砦兵隊には階位定色部分を切り取り、除隊することを言い渡してあります。公にはガウカリア守備のクロヴィエ要塞に下っていただきましょう」
否とは言わせなかった。
敗者を待つ者などいない。首に死神の鎌が引っかかっているは、俺だけじゃない。
やがて司令官用の天幕には連隊長以上の各将が集合した。モルドァやジエンなどの久しい顔も見えた。彼らの大半は増援を望み、到着まで待機することを望んでいたが、俺は「王都を裸にするわけにはいかない」と、彼らの意見を一蹴した。
そもそも俺は一万四千でグィーダー辺境領を奪取すると豪語してきたのだ。メーデルギウスとて、今更泣きついたところで援けてはくれまい。
「確かに、聖皇国軍の兵数は圧倒的である」
俺は渋い顔をしている諸侯に言った。
「ならば馬鹿正直に正面から会敵することもあるまい」
俺は司令官席の背後に掛けられた地図をぺしぺし指で弾いた。俺に言わせれば、どうしてこんな単純なことに皆気付かないのか、不思議で仕方ないくらいだ。
「諸君。我らはどこにいる? クレー丘陵にいるのだぞ?」
常識? 正攻法? 無難? 正しいだけで、勝てるのものか。持ちうる札は、兵数だけじゃない。地形も、季節さえも、手札になり得るではないか。
「幸い丘陵は雪で覆われている。白一面で、遠近感も狂うだろう」
気付いたのか、はっと目を見張ったモルドァに、俺はにたりと笑ってみせた。
「奴らの高い鼻をあかそうじゃないか。なぁ?」
遡ること二十日前。
聖皇国の大資料館で、俺とサザは戦闘序列の修正を繰り返していた。クラズウェラ砦が降伏することはない、と俺は断言した。それに対してサザは、それならばクレー丘陵が決戦地になる、と言った。
短期決戦。それも大勝利でなければならない。
俺の言葉に、サザは深く肯いてから、やおら紙を広げた。
――僕、君に言われて皇家の家系図を暗記したよ。それで、思ったんだ。
サザは、悪霊にでも憑依されたかと不気味に思うほど、すらすらと紙一面に人の名を書き込んでいく。一見、思いつくまま脈絡なく並べられたように見える人名を、今度はまごつくことなく線で結んでいった。人脈という名の網を可視化した図形は、俺でさえ唸るほど精密であった。そしてサザは最後に、真ん中の空白に、俺の名を書き入れた。
――気付いちゃったんだ。ほら見て。
君はひとりだね。
サザの金髪が、微かに揺れた。
つまり、聖皇国が本気でグィーダー辺境領を守ろうとして、同盟各国の連合軍で包囲してくれば、俺などひとたまりもないということだ。
それに加えて、一度は陥落した砦で反乱でも起こされようものなら、一巻の終わりだ。
しかし、友だちは多い方がいい、という考え方に俺は肯けない。
サザの引いた人脈戦にバツ印を書き入れながら、俺は、まだサザの頭には完全に入りきっていないであろう過去十五年の戦役を書き入れていく。聖皇国はことさら、多島海域戦で敵を作りすぎた。海の向こうの戦争まで、まだサザの気は届いていないようだ。
結論、連合軍を組織して包囲するだけの余力は、今の聖皇国にはない。
――そうだとしたら、クラズウェラ兵は単独でイスガル軍と交戦することになるかな?
いいや、と、俺はサザを見やる。
援軍はきっとある。サルマリア砦兵のような見捨てられた隊とは、違うのだ。
クラズウェラ砦は、聖皇国の矜持で守られている。大国の誇り。盟主の威光。歴史に裏付けられる優越。それらは盾になる。敗けられぬという、意志になる。
敗けられないという点では、クラズウェラ兵とサルマリア砦兵は、良く似た集団なのだ。
違いがあるとすれば......。
かの姫に言わせると、俺は他とは「違う」のだそうだ。何がどう違うのか、俺はそれが知りたい。そこで、彼女に倣って、サザに「遊び」を吹っ掛けてみることにしたのだ。
戯れだ。あの真っ直ぐなお姫様なら、どうやって俺を叩き潰すか。そんなことを思いついたのだ。幸い、サザの根性のねじ曲がり方は俺に類似している。サザなら俺のように考えるに違いない。
そこで、俺は聖皇国軍を率いて、イスガル軍を率いるサザに仕掛けてみる。無論、机上の空論だ。俺の空想遊びに、サザは面白がって乗っかってくれた。
サザはすぐに俺に敗けた。何度も繰り返し挑戦して、敗けるのが当たり前になった頃、ようやく正攻法ではいかんとも覆しがたい数の差を思い知る。俺も俺で、数に勝っている分、サザを負かすことに頭を使わなくていいことに気が付いた。頭の中で何度もイスガル軍を敗走させているうちに、次第に俺は不気味さを覚えた。
イスガル軍が敗北するのは「あたりまえ」のことだった。だけど、「あたりまえ」が「あたりまえ」のままならば、俺はきっと、ここにいなかったのだ。
俺は「あたりまえ」じゃなかったから、生き残った。
そう思うと、聖皇国側からしてみれば、思いもよらなかった番狂わせがどこかに潜んでいるような気がして、それが空恐ろしい。
撤退するのが普通。敗北するのが正当。
それが運命。本当に?
そう。俺が敗けるのは当然の結果だ。だけど、偶然はどこにでも、誰にでも等しく降りかかって、それを必然に変えられなかった奴が、敗けるのだ。
繰り返し、繰り返し、俺はイスガル軍を撃破した。地形を意識したのは、俺の執拗な水撃から、敗走するイスガル軍を何とか守ろうとして、サザが丘陵の尾根の陰に隠れようとした時だった。何かの陰に隠れたがるサザの習性が、こんなところにも滲み出た。悪いことじゃない。現に、その一回は掃討に失敗した。無論、空想の中での話である。
あたりまえじゃ、駄目なんだ。
俺はサザの向こうにいる、未来の自分のために言った。
次の手なんて考えるな。持っている手札を、使い切れ。
聖皇国は――リトは、多くを持っている。その彼女が言うには、俺は何かを持っているのだという。何も持っていないと思い込んでいた俺には、驚きであった。
俺にあって、リトにないもの。
勇猛な将か? 覇者の沽券か?
否。そんなもん、俺にはない。
俺にあるのだとしたら、傷。
失敗と敗北の記憶。
生まれてこの方、負け犬であったからこそ。
――僕はね、ロボ。自分で自分の向かう先を決められない。
サザがぽつりと呟いた。
――大事なことを決めるときには、いつだって、君ならどうするだろうって考えてきたんだ。だからね、君の思考を複写するのは、難しくないんだよ。
夢中だった。今思い返してみるに、そう、俺たちは我を忘れて遊んでいたのだ。
作戦要綱も、地図さえもない。俺たちの頭の中にしか、架空の戦闘の痕跡は残っていないのだ。しかし、確実に、俺とサザは同じ景色を共有している。俺の頭にも、サザの頭にも、無数の本の海の底で戯れながら作り上げた、形のない切り札が収められている。
指令[おれ]は、一人じゃない。
作戦会議が行われている天幕の中には、冬だと言うのに頬が火照るほど暑く感じた。
俺は今、緊張しているのだろうか。
モルドァやジエンをはじめ、各連隊長の表情が変わったのに、俺は気付いていた。
「はっきり申し上げる。正攻法では、勝てない」
二万八千対、一万五千。二倍の兵数は覆しがたい。例え押し返したとしても我が軍は甚大な損害を被るだろう。恐れるべきは、この一戦の勝敗ではない。辛勝ではいけないのだ。
「この戦いは勝つだけでは足りない。完全勝利しなければならない。理由は二つ。一つは、グィーダー辺境領は現在のところまだ敵地であるためだ。今でこそ我々は抵抗を受けることもなく現地民に歓待されているが......」
俺はそこでモルドァを見やった。さすがは元傭兵隊長、俺の言わんとしていることを察したか、微かに眉間が険しくなった。
「これが占領である事実から、我々は目を背けてはならない。恐れるべきは民衆の結託だ。彼らは、今でこそ聖皇国に反感を抱いているが、その矛先をけしてイスガル軍に向けさせてはならない。彼らの前で、我々はけして弱さを見せてはならぬ。強大で無敵の軍隊であると示さねばならない。でなければ、彼らはイスガルを主とは認めない。未来のために、我が軍には曇りなき勝利が必要である」
それができないときは、たとえこの地をイスガルが手にしたとしても、そう遠くない将来、手放さなければならなくなる。
「二つ目は、過去の軛を解くために。我々イスガルは、もはや聖皇国の僕ではない。狗の国と、二度と侮られぬために、世界に我が国の力を見せつける必要がある。十五年前には、イスガルはこの地を諦めざるを得なかった。二の鉄は踏まぬ。二度と負け犬とは言わせない。我が国はクレー丘陵戦の勝利を契機に、世界最強の歩兵団を有する軍国に成長するのだ。必ず、一万五千で、聖皇国二万八千を撃破する」
俺は諸侯の顔を見渡した。彼らの顔には未だ懐疑の念が拭えない。
できるわけない。世界中のほとんどの人間がそう思っているのだろう。
彼らに俺は宣言する。黙れ、やるしかないのだ。
ここを越えぬ限り、俺たちには未来がない。
「諸侯に問う。世界は、我々が勝利すると信じるだろうか。残念ながら、そうではない。ユリディアもアルギーニも、イスガルの敗北を予想している。世界中が我々を負け犬と見做して振り返らない。それが現状だ。それならばせめて我々だけは、我が国の力を信じてみてはいかがだろう。私は信じる。私なら一万五千の兵を勝利に導ける。さて、美辞麗句ばかりで具体策を示さないというのも説得力がないので、今から作戦を言い渡す」
背後に掛けられた地図を指揮棒でぺしぺし叩きながら、俺は言い放った。
「概要を申し上げれば、クレー丘陵に縦列展開する聖皇国軍の右翼と中央の注意を、我が軍の左翼に引きつける。その間、主力歩兵大隊と右翼騎兵は丘陵南部に稜線に添って移動。斥候の報告によれば、聖皇国軍左翼は守備が甘い。砲兵隊のための急ごしらえの防塞を築いている様子だが、昨夜の段階でまだ防壁が完成していない。そこへ突撃する。陽動は私とラビスリール公が、突撃部隊はサルマリア砦兵団が引き受ける。異論は?」
「閣下、おそれながら申し上げます」
真っ先にモルドァが口を出した。
「発言を許可する」
「失礼ながら、閣下の作戦では数で劣る軍勢を分割し、その大半に、移動中の縦列の側面を敵の砲弾に晒すことになります。自殺行為であります」
その通り、俺は自軍に敵軍の鼻先を斜めに横切らせようと言っているのだ。常識外れの作戦に眉を顰めた将校は少なくない。だが、俺は決行するつもりだ。
「守るものなどなかろう?」
俺の言葉に、モルドァは黙った。
「聖皇国軍と我が軍に決定的違いがあるとすれば、それは兵数ではない。兵の練度でもない。将の武功でも、志気でもない。この戦いの目的だ。聖皇国にとってこの戦闘は、過去に繰り返されてきた無数の反乱の一つにすぎないのだろう。しかし、イスガルは違う。今、諸侯には再考していただきたい。我々は何のためにここにいる? 何のための勝利だ? 私が答えを示そう。これは、生存のための闘いだ」
死ににきたわけじゃない。俺は、モルドァに無言で訴える。俺が欲しいのは破滅でも、名誉でも、ましてや復讐でもない。望むのは、未来だ。
俺は、生き残りたい。
生きて、今日までとは異なる景色を......変わる世界を見てみたい。
モルドァの眦が微かに痙攣した。
「主力側面に集中砲火を喰らうと、壊滅の危険があります」
「そうならないために、この丘を利用する。移動中の隊が主力であると悟らせぬためにも、私とラビスリール公が左翼で陽動を務めるのだ。王族が二人もいれば、敵も無視できまい。陽動部隊が擬装攻撃を仕掛けている二刻の間に、精々、隠れて見つからぬよう早急に移動せよ。聖皇国に気取られたら、この作戦は失敗だ」
はっと、ジエンが息を飲んだ。きっと募兵の時のことを思い出したのだろう。俺も、あの夜のことを思い出したから丘陵の陰を移動しようなんてことを思いついたのだ。
「実際に戦闘が開始したら砲弾の煙で視界が効かなくなる。主力歩兵は梯形で展開することになるが、これは移動しながら丘陵に沿う形で陣を変形させていくことになる故、詳細はその時々に応じて私が直接出す」
「閣下」
モルドァのこめかみに青筋が浮かんでいた。
「場当たりで何とかなると思し召しか」
モルドァが砦の頃のように叱るものだから、俺もつい、地が出た。
「場当たりではない。俺の頭の中にある作戦[ふだ]を、機に応じて切っていくだけだ。馬鹿な頭だがな、手数は多いぞ」
サザが何か言いたげに俺を見たが、発言は求めなかった。サザの言いたいことはわかる。所詮はごっこ遊び。でも、俺は自身の妄想を現実にしてみせる。
あの子がそうして生きたように。
「要するに、めくらましによる奇襲だ。美しくはないだろう。が、聖皇国が自ら撤退しない限り、俺は敵がどのように動こうが、その全てに対処する自信がある。残念ながら作戦案はここにしかないから、全部広げて見せてやるわけにはいかないけれどもな」
俺は自分のこめかみを突いてから、全体を見渡した。
「モルドァ大将軍に限らず、私の作戦の不確定要素について言及したい者はいるはずだ。そこで、私は逆に諸侯に問おう。確実な作戦が、果たしてこの世に存在するだろうか?」
答えはなかった。
「不確定の勝利ならば、自力で引き寄せるしかあるまいよ。諸侯に言い渡すことはただ一つ。勝手は許さぬ。以上だ。全軍に周知せよ。号令があるまで決して発砲してはならない。各連隊長は一斉射撃が整然と行われるよう、監督する責務がある。戦闘が開始したら合流は難しい。今一度、同志諸君に問う。私を信じるか? 肯定は敬礼を以って示せ」
一同、一糸乱れぬ角度で敬礼を決めてくれたことに内心安堵しながら、顔ばかりは横柄に出撃準備を命じ、軍議は解散となった。
「不思議です」
皆が去った後、サザが副官になりきれていない、微妙な表情で俺に話しかけた。
「閣下が思い描く陣形は過去に誰も見たことがないはずなのに、皆、閣下の空想が見えているようでした」
「それは、モルテイル副官よ、お前と散々戯れたおかげだ。空想が鮮明になりすぎて、現実を侵食したのだろうよ」
「僕の言い方が悪かったよ。ロボ、君はやっぱり、特別だ」
「急に地に戻るな。俺もそう、ころころ化け替えていると、さっきみたいに尻尾が出る」
「茶化さないで聞いてほしい。僕は君に仕えたことを、今、本当に誇らしく思っているんだから」
「おい、やめろ。開戦前にそういう話をするな。死ぬぞ」
「死んじゃうかもしれないから言っているんだ。君は、人を率いる人間だ。決して支配される人間じゃない。何故なら、君は人に夢を見せることができるから」
「......よせ」
あなたは私の夢でした。そう言い残して死んだ少女がいたことを、サザは知るまい。
「一万五千で二万八千を蹴散らす爽快な夢を君は見ている。皆その夢に巻き込まれて、酔っぱらって、皆で共有した夢が、こうして現実を侵食するんだろうね」
「夢だと嗤うか」
「泡沫の希望だよ。勝っても負けても、僕らはどこへも帰れない。違うかい?」
「覚悟の上のはずだ。庭を蹴りだされた野良犬についてくると決めたからには、お前ももう、この先を見ているんだろう?」
「......いい夢だったのに、悪夢に変わっちゃうね」
「そうだな。覚悟はできているか?」
「地獄の果てまでって、誓ったはずだよ」
「結構。お前がいてくれて、よかった。だから......」
お前は俺を、おいていくなよ。
■
雪華月、十五日 クレー丘陵戦
早朝、まだ陽の昇らぬうちに別働隊は丘陵線の陰を縫い聖皇国軍左翼側へ移動。
午前一一刻、イスガル左翼軽騎兵が、聖皇国軍右翼側面に向かって前進、攻撃開始。騎兵隊を率いるのが第二王子とその親族であるラビスリール公であったことから、聖皇国軍右翼の司令官は援軍を要請。隊列中央にいた聖皇国総司令は、至急、予備軍を向かわせ、自らも右翼に合流。一方、イスガル軍主力歩兵と右翼歩兵は丘陵戦に沿って弧を描くように移動、二刻の内に聖皇国軍左翼に対して直角に戦列を整え、聖皇国軍戦列の後方に僅かに回り込む形で横列に展開。
戦列移動完了の報告を受けると、第二王子は戦線を一時離脱。サルマリア砦兵団を中核とする自軍右翼に合流するべく自軍後方を移動。
右翼攻撃がイスガルの主力だと思い込んでいた聖皇国は、第二王子離脱と、丘の向こうに後退しているように見える移動中の歩兵集団を、撤退と認識。
イスガルの敗北は、聖皇国にとって「あたりまえ」のことであった。
■
「報告! 突撃準備完了、中央列展開中!」
雪を蹴散らす蜥の姿は、騎馬の中で大変によく目立った。目立ちすぎて、逆に的にされなかったのかもしれない。心なしか伸び伸びと駆けるフィオの姿を見つけた時から、俺は戦線をラビスリール公に預けて後方に下がっていた。
サザはモルドァに預けてきた。副官というのは将の側を死んでも離れないものだと健気なことを言うものだから、特使副官を解任して戦中臨時参謀にしてやった。ざまぁみろ。
二刻。たった二刻の内に、俺が流れ弾で死なんとも限らんのだ。あるいは聖皇国がこちらの手を見切って左翼に予備軍を回すかもしれない。そうなった時の代替案は、あいつの頭の中にある。俺を待っている間に大砲で自軍の陣を削られてはたまらない。
が、それも杞憂に終わった。
聖皇国側の総司令は、可愛い部下の呼び声に応じてのこのこやってきた。おまけに、俺を討ち取らんと、予備軍までこちらに回してくれた。
俺は煙の向こう、さらにその遥か彼方、ガウカリアの向こうの麗しき東陽宮におわします暁の姫君に向かって「べ」と舌を出してみる。
「ラビスリール公、撤退を許す」
信じられない、という顔で振り返った政敵に、俺はにっこり王族的に微笑んで見せた。
「この部隊の役割は囮だ。陽動に成功した今、無意味に騎馬を消耗することもない。機を見て丘陵に展開中の隊列後方に合流せよ」
無論、嫌とは言わなかったが、俺はこの男が焦っているのを知っていた。武功を立てねばこのまま俺が反皇国派を乗っ取ってしまうことになるからだ。
敗けを知らないから、意地を張る。俺ならこの配置が「捨て」だと分かったときから、無事に無傷に帰還することだけに集中するのだが、誇り高き王侯にはそれが難しい。
選べ。俺の配下か、名誉の死か。
「モルドァ将軍に伝えよ。私が合流するまで待機、号令があるまでけして発砲するな」
先んじてフィオを送り出し、俺はそそくさと護衛隊を引き連れて馬を反転させた。
雪原を全力疾走しながら、思う。寒い。襟が三角に開いた軍服は、見てくれはいいが、騎乗には向かない。胸甲冑も邪魔だ。重い。やめてしまおう。代わりに上着の内側にもう一枚着込んだ方がよほど効率的だ。それから、襟は気候に応じて開いても閉じてもいいように改変してもらったほうがよさそうだ。ともかく、寒風の中を馬で駆け抜けるのだから、温かくて軽いことに重点をおくべきだ。などと、考えていた。
中央列後方を左に見ながら駆け抜けようとした時だ。
ふと、お告げがあった。何のお告げだがしらないが、ともかく、直感としか言いようがない。獣で言うなら、髭が震えたような、そんな感じだろう。
俺は馬を引き止めて補給隊の中に入り込んだ。戦線で指揮を執っているものと思い込んでいた守備兵たちを驚かせてしまったようで、こんなことで隊列を動揺させるのはまずいから、俺は彼らが平伏するのを止めさせて各々の仕事を続行するよう言っておく。
以前、「火力が......」と呟いていたモルドァの顔が脳裏を過った。
モルドァ将軍指揮下の突撃部隊に合流したのが正午、背後に配置された予備軍を確かめながら、俺は聖皇国軍左翼を構成する兵団について、ジエンから情報を収集していた。
「元傭兵団の率直な意見を聞きたい。敵軍の編制はどうだ?」
俺の問いに、ジエンは簡潔に「混成軍です」と答えた。
「急場しのぎで買い集めたのでしょう。質も装備も不揃いです。が、けして侮れません。レイオルド・マギナス軽騎兵長の連隊がいます」
「名の知れた将なのか」
「うちのモルドァ将軍と同じような経歴の、傭兵上がりの将軍です。軽騎兵の集団ですが、遊撃に特化しています。鴉[ジル]という渾名がついていますよ」
そこでジエンはふと、苦笑した。
「閣下とは相性が悪いかもしれません」
「何故だ?」
「雌の鴉です。このご時世に短槍を使っています」
「......そりゃあ、困った。レイオルドというのは偽名か」
俺は軍帽の唾を押し上げて、これから攻め入らんとする石垣の向こうを見やる。
「縁起でもない。墓地じゃないか」
「墓に突っ込むなんて、酔狂なことで」
とはいえ、最初の突撃を失敗したら、主力側面を叩かれて壊滅する。
「突撃部隊の方は?」
「すでに準備万端、いつでも進撃可能です」
俺は馬の頭を回らせて、愛すべき馬鹿どもの面を拝みに向かった。
サルマリア砦兵たちの表情は暗かった。「捨て」に使ったラビスリール公の騎馬隊たちが、王族に率いられる矜持に背筋を伸ばしていたのに対し、彼らは皆一様に俯いている。もっとも、聖皇国軍の気を引くのが目的であったから、陽動部隊にキラキラしているように言ったのは俺なのだが、にしても、こちら側の辛気臭いこと、墓守の如し。
「何て顔してやがる。俺たちは敗残兵か?」
腹立たしいことこの上ない。かつて羽飾り貴族にいびられていたサザを見つけたときに似た嫌悪感に舌打ちしながら、俺は旗手から軍旗を引っ手繰って振り上げた。
俺の言葉の届く範囲にいた兵たちは、ぎょっとしたように顔を上げた。俺は彼らに一瞥くれてやると、腹に重心を据えて叫んだ。
「おいこら! 聞け、野良犬ども!」
一斉に、巨大な獣の身じろぐようにして全軍が微かに揺れる。
俺は馬の上から彼らを見渡した。できる限り、一人一人の顔を見ながら、くまなく、全て、彼らの姿を記憶する。
「今にも尻尾まいて逃げ出しそうな顔してんじゃねぇぞ。お前たちはイスガル軍きっての精鋭ではないのか? 俺は唯一無二の特別な精鋭隊だと、そう思っているぞ。何せ正規軍四万五千に反旗を翻そうとした怖いもの知らずたちだからな」
俺の素行の、おそよ王族らしからぬことをよく知る彼らである。驚いた、というよりは、どこか安心したように表情を解いたのがわかった。
大将[おれ]はいつもと変わらない。それを、見せつける。
「断っておくが、負け犬に帰る場所などないぞ」
反乱軍の嫌疑をかけられて、押し立てられるようにして死地に立たされた。そう思っている輩も少なくないはずだ。そうかもしれない。彼らは何も見えず、何も教えられることなく、自ら考えることもしない。一兵卒とは、そういうものだ。
だったら、俺の言葉だけ聞いておけ。
「敗けて帰る俺たちを待つ人間など、この世界のどこにもいねぇんだよ。わけもわからず引っ張ってこられて不満か? なら教えてやる。お前たちがいるのは、時代の最前線だ。この先、世界は変わる。必ず変えてみせる。新しい風の渦巻く景色を見たい奴は、歩みを止めるな。前進あるのみ。殊、突撃部隊においては、後退は許さない。俺たちの退路は敵の屍の向こうにしかないことを覚えておけ。ただし、お前らだけを行かせはしない。俺も供に行く。供に、前進する」
俯いていた顔が一つ、二つ、上がってくる。
彼らの頬が紅潮しているのは、寒さのせいだけじゃないはずだ。
「俺はお前たちと歩みたい。最初で、最後になるかもしれない俺の連隊とともに、変わる世界を見てみたい。終わるんじゃない、これから始まるんだ。俺は運悪く王族に産まれて、こうして偉そうにお前らの頭の上からがなり立てているがな、魂はお前たちの隣にある。俺は同胞諸君を盤上遊戯の石だとは思っていない。仲間だと、思っている」
風が――
「こんなことを口走る総大将など前代未聞だろうな。だが、紛れもなく俺の真心だ。後の世の笑い種になろうと、知ったことか。俺はいつだって、お前らと一緒だ。こんなに高い所にいたとしても、戦線に俺の姿が見つからなくても、この世から俺が消えてしまっても、俺は、お前らとともに歩みたい」
風が、吹いてきた。
そういえば西風[きみ]の生まれた大地だったか。
「馬鹿者どもよ、俺の酔狂につきあうか?」
おう、と声が上がった。ジエンが敬礼して、ニヤリと無精ひげを歪ませた。おう、おう、と、次々声が上がる。声が上がるようになれば、大丈夫だろう。俺は誰にも気付かれないようにそっと息を吐き出した。もはや誰一人として俯く者はなかった。
それから、吠える。
「俺を信じるか!」
おう、と、返答がある。
「声が小さい! 勝つ気はあるのか!」
おう、と、戦闘の気配が返ってくる。綾なす闘志に、肌がぴりぴり震えた。
「よし、お前らを勝利に導いてやる。イスガル軍は俺に続け! 突撃!」
鬨を背に負って、今、駆け出す。
過去には、かなしくて逃げ出した。吠えたてられて、追い立てられて、追いつめられて、狗の性のまま駆けてきた。休まる風は刹那に消えて、それでも逃げ出したからには逃げ切らねばならぬと、走ってきた。
そしたら、どうだ? 気付いたら俺は先頭を駆けていた。
さて。もう後には引けない。逃げ道は人で埋められているのだから、俺は自分の行く先を切り拓かなければならなくなった。
突撃隊を鼓舞して声を上げている最中、ふと、軍靴の金具のズレが気になった。無視しても全く問題ないのだが、一度気になってしまうと何となく落ち着かない。モルドァに見つかったら、余所見をするなと怒鳴られそうだが、どうせ銃撃の煙で見えまい。俺はこっそり馬上で屈んで踵に手を伸ばした。その時だった。目深帽が頭から外れて、冷たい風が首の後ろを掠めた。その冷気、戦場では殺気と呼ばれる。
振り返ると、槍の刃先に貫かれて、帽子だけが宙に残っていた。
偶然と必然が交差する。
俺は左手に軍旗を持ったままだったから、それで槍の刃先を弾き返す。その反動で、鐙から足が外れる。落馬するとわかったので受け身を取りつつ、夢中で腰の小銃を引き抜いて発砲した。
旗が翻り、俺と敵の距離感を誤認させる。敵が振り抜いた槍の切っ先は、雪の上に転がった俺の鼻先を紙一重で行き過ぎる。
銃声に驚いたのか、敵は間合いを引き離した。
単騎、会敵。
鴉の仮面に、俺は息を詰めた。
忘れようもない。ススロの邑を襲撃した鳥の仮面の一団。
それに......
「女か」
一目でわかるほど、顕著な体つきをしていた。お仕着せの男物の聖皇国軍制服では前が閉まらなかったのだろう。この雪景色に上着をだらしなく開いて、襟巻をしていた。
お前寒くないのか、というのが第一印象だった。
短槍使いの女の将。大変によく目立つ。
「レイオルド・マギナス軽騎兵長とお見受けする」
「いかにも。あんたが大将かい?」
粗暴な仕草と言葉使いだが、歯切れがよくて小気味よい。
「近くでみたら乳臭いガキじゃないか。突撃してきた時にはわからなかったよ」
「あばすれが。人のこと言えた身じゃないだろうに」
俺の返しに、彼女は指揮官位肩飾を揺らして笑った。
「さっきの一撃、よく避けたね。仕留めたと、思ったんだけどね」
槍の先から俺の帽子を引き抜いて投げて寄越す。真面目な軍人には見られない外連味だ。俺も俺で、風穴の開いた不吉な軍帽をしっかりかぶり直して言った。
「偶然だ。見切ったわけじゃない」
「謙遜しなさんな。褒めてんのよ?」
事実、俺は靴の金具を直そうとしただけで、背後に迫った槍に気付かなかった。帽子のあった位置には、直前まで俺の心臓があったのだ。
「敵将を前に言う台詞じゃないが、見逃してもらえるとありがたい」
「いいよ、いっちまいな」
「......背中から串刺しにされそうだ」
「わかってんじゃないか。首の繋がっているうちに名乗っておくれよ」
「野盗風情に名乗る名はない」
と、その瞬間。馬の前脚の筋が緊張したのが見えたので、俺は取りあえず手に持ったままの軍旗を眼前に構えて防御姿勢をとった。
馬鹿正直な直線突。が、速い。構えられてからでは間に合わなかった。
馬が動くとわかったから、俺の額は守られた。
がん、と背骨の震えるような思い衝撃。体ごと弾き飛ばされる。どうやら相手は将同士の一騎打ちの礼儀さえ弁えぬ不作法者らしい。
畜生、冗談じゃない。馬の速力と、精密な槍術の相乗効果に、旗一本で対処しろと?
馬が反転する。
一瞬だけ見えた彼女の顔は、要するに、怒っているようだった。野盗と言われたのが気に入らなかったのか、轟々と怒気を燃やして突進してくる。俺の馬はすでに姿さえ見えない。これは、拙い。馬上の人間を止めるのは難しそうなので馬を狙って発砲したが、軽々と踊るようにして避けられてしまった。
見れば、手綱さえ握っていない。脚だけで操作している。跳ねる馬の上で、両手に持った短槍を大仰に回転させる姿は、いっそ華麗でさえある。
見惚れている場合じゃない。
次の一撃は避けられない。覚悟しかけた、その刹那。
明後日の方から、銃声が聞こえた。
硝煙の中から躍り出た自軍の重騎兵の姿に、俺は自分が助かったことを知る。
「閣下! 御無事か!」
「遅い!」
女はあからさまに顔を顰めて馬に退かせる。
「ご無事で何より。肝が冷えましたぞ」
「こっちの台詞だ、モルドァ将軍」
モルドァは最前線に出すぎて孤立した馬鹿大将を回収すべく、騎兵小隊を連れてきてくれていたので、圧倒的数の不利を知った鴉はそそくさと馬の尻尾を向けて逃げ去って行った。危なかったな、と他人事のように思い、今頃になって冷や汗が吹き出す。
「レイオルド・マギナス軽騎兵長か」
モルドァは去りゆく敵将の影を目で追いながらも、俺に予備の馬の手綱を渡した。
「モルテイル副官は何処か」
ぎろりと睨まれ、俺は咄嗟に視線を逸らしてしまう。
「後ろに置いてきた」
「閣下」
「煩い、説教は聞かん」
「閣下も戦線を下がられよ」
「俺は邪魔か?」
「大将としての第一の役割はすでに果たされました。実に勇敢な突撃でありました。兵たちは閣下の言葉で、誇りを持って栄光のうちに死にゆくことができましょう」
モルドァが珍しく褒めるので、俺は反って不気味だった。
「第二の役割とは?」
「死なないことです」
俺は黙って風穴の開いた軍帽の縁を下げた。
確かに、今俺が死んでしまうとちょっと面倒くさいことになる。
「わかった。では、指示を残す。銃撃戦に引き込め。火力で押し切って壊滅させろ。マギナス軽騎兵は厄介だ。個々の乗馬技術は我が軍より高度であると認めざるを得ない。奴らが動き回る前に弾数に物を言わせて撃ち落せ。弾薬は使い果たしても構わん」
「よろしいので?」
そこで、俺は肩を竦めた。
「安心しろ。こっちに来る途中、弾薬車をネコババしてきた」
モルドァが、珍しく青筋以外の表情をこめかみに浮かべた。驚嘆、といったところか。多分、はじめて見る表情なので俺にも読み解くのが難しい。
「なんだ、要らないのか? なら持って帰るが?」
「いえ、むしろ必要です。ただ、柔軟だと、驚いたのです」
「俺の頭はお前より若いからな」
「落ち着いていらっしゃる。初陣とはとても思えないですな」
「そうか? いつもより、俺の心拍数は確実に上がっているぞ」
「楽しいのですか?」
「かもな」
あっちでもこっちでも、敵も味方も倒れ伏す。不幸体質の俺に弾が当たっていないのが不思議なくらいだ。
「モルドァ、お前に言われて気付いたんだがな、俺は王城で父王に対峙している時よりも、銃弾に晒されているほうが安心できるみたいだ」
「それを聞いて確信いたしました。やはり、閣下は引っ込んでいてください。そういうのを死に急ぐというのです」
「俺としては、実に生きいきしていると思うんだがな」
「閣下」
「わかった、わかった。下がればいいんだろう? ......もうちょっとだけいいか? 銃撃戦で敗走した後、聖皇国はおそらくマギナス軽騎兵に最終突撃命令を出すだろう。我が軍の予備騎馬隊を出すのはその後でいい。奥の手は最後までとっておくものだろう?」
「先に聖皇国がこちらの意図に気付いて左翼を増強する可能性は?」
「低い。いや、させない。それに、俺たちと違って聖皇国にとって左翼の兵は数合わせだということがわかった。鴉たちは各々好きに対敵しているにすぎない。俺と一騎打ちになったのも、作戦や意図あってのことじゃない。マギナス騎兵隊は脅威であるが、聖皇国は彼らを自軍の兵士として調練できていない。故に、お払い箱になる可能性が高い」
「了解いたしました」
「素直だな。文句があるなら言ってもいいぞ。俺は初陣、お前は百戦錬磨の傭兵隊長だ」
「ありません。閣下は我々凡人が十年かけて知るところを、すでにご存知のようだ」
「ほう? そりゃ何だ?」
珍しく、モルドァが苦く笑った。
「雇われ者の、かなしみです」
兵の命は羽毛ほどに軽い、と、不敗神話を持つ英雄は目を細めていた。
モルドァとその配下の騎兵の支援で戦線離脱に成功した俺は、今度はサザを伴って小高い丘の上に上り、イスガル軍突撃部隊が、聖皇国の左翼を叩いているのを確かめた。
聖皇国軍右翼側では、ラビスリール公率いる陽動部隊が健気に戦闘を続けている。敗残兵として泥を被るのが余程気に入らないご様子だ。それでいい。できるだけ長く敵の総大将の目を引きつけておいてくれると助かる。
「聖皇国軍の動きに変化は?」
「まだ情報が伝わっていないようです。横列展開を続けています」
サザを後方に置いてきたのには、俺の代わりにフィオの伝令を聞いておいてもらうためでもあった。最大の理由は、単に兵士としては役に立たないから足手まといになるためであったのだが、まあ、それは本人が一番よくわかっているだろう。
聖皇国中央列は、自軍が攻勢であると信じているため弓なりに前進してきている。数に物言わせるだけあって、各隊の間隔と横に大きく広げていた。対するイスガル軍は丘陵線に沿って密集したまま移動中だった。
大資料館で聖皇国の将になりきっていた俺には、今、彼らの目にイスガル軍がどのように見えるのかとてもよくわかる。一見、陣が崩れて後退しているように見えるはずだ。圧勝するという思い込みが、なおさらそのように現実を歪めて映す。
雪原に我が物顔で横に広がる聖皇国軍は、翼を広げた大きな鳥のようにも見えた。
皇国の象徴が凰[とり]ならば、その側面に襲い掛かろうと企む我が軍は何であろう。
聖皇国右翼に寄り集まってしまっている司令官たちに、俺は言ってやりたい。そっちは尻尾だぞ、と。
狗の爪が、今、自信満々に広げた片翼の、風切り羽を毟り始めていた。聖皇国左翼の陣が角砂糖のようにぼろぼろ壊れていく。イスガル軍の銃撃は止まらない。飛び出したマギナス騎馬隊も、突撃隊の背後に梯形展開していたイスガル予備騎馬隊に圧倒されて敢無く散っていく。満身創痍で敗走し始めた彼らに、追い打ちの砲撃が喰らいつく。もはや左翼が立て直すことはあり得なかった。
揺らぐ。それは、歴史か、運命か。
――今だ。
俺は右手を上げた。指示を出す、という意味である。すかさずフィオが蜥を寄せた。
「中央一列、旋回。発砲を許可する」
「了解」
天馬と噂される二本足のトカゲは、あっという間に丘を飛び越えて行った。
――化ける。
狗が、狼になって牙を剥く。
――喰らいつけ。
「次。中央二列、旋回。掃射開始」
いい加減、聖皇国は陽動に気付いた頃だろう。慌てふためくがいい。そして焦って陣形の転換を言い渡せ。九〇度反転させて、イスガル軍に正対するよう指示を出すんだ。それで間に合うものならな。
「中央三列、旋回」
遅い。間に合わない。聖皇国は数の多さで圧倒しようとしていたから、隊と隊の間隔の開いた横列で展開している。陣形移動はどうしたって緩慢になる。ましてや指令が右翼の戦線に行ってしまっている。情報が伝わりにくい。巨体を持て余し、列が崩れる。ほらみろ。火線が乱れた。かわいそうに。砲撃支援のない歩兵なんて撃たれ放題じゃないか。ああ、あれは新兵か? 立っている味方の背に隠れようとして戦線維持どころじゃないじゃないか。盾にするなら足元の死体を使えよ。ほら、死んだ。
――喰い散らせ。
「重砲隊、用意!」
丘陵高台に押し並べた大口砲が聖皇国軍の中央を狙う。
「撃て!」
上から見ていると、陣形の崩れていく様は、まるで鳥の羽の散らばるようにも見えた。
兵の命は羽毛より軽いとモルドァは嘆く。しかし、羽を軽んじる鳥は、風に解けて墜ちていくものだ。
陽動戦の開始から約二刻。サルマリア砦兵の突撃から一刻半。
一瞬だ。百年の歴史ある宗主国が、狗に食い殺されていく。
日没。地平線の先は血を浴びたように赤い。雲は風に押し流されて、煌々と夕暮れの空は緋く、広く、どこまでも遠く。
同じ色の夕陽をガウカリアの荒野で、護送車の中で、砦の窓辺で、そして、名もなき少女の灰を撒きながら眺めていた。
もう二度と。
俺はもう二度と、敗けられない。
ケモノの目に浮かぶ涙を、吹き渡る風だけが知っている。
俺は故意に、聖皇国の、主に正規軍を逃がした。まさか敗走する羽目になるとは考えていなかったのか、彼らは愚直にクラズウェラ砦に逃げ込んだ。しめた、と思う気持ちが半分。馬鹿よせやめろ、という痛々しい気持ちが半分。
日没と同時に一旦、兵を引き揚げ、夜営に入る。
イスガル軍の火力は圧倒的であった。派手にぶっ放してやったが、故に、次がない。
物資が尽きたことを誤魔化すためにも、反って盛大な祝宴であるべきだ。それに、弾薬が尽きた今、食糧だけ温存する価値はない。兵站車を片っ端から解放して自軍の兵を労い、俺は勝利に沸き立つ軍勢に背を向けた。
クレー丘陵での戦果は、我が軍の大勝利と言ってよかろう。
イスガル軍死傷者一八九、対して聖皇国軍の死者は概算五百を超えている。そしてそのほとんどは、増援として送られた非正規の混成部隊であり、左翼に被害が集中している様子だった。捕虜五〇〇〇以上、大砲七〇門を獲得し、聖皇国軍は崩壊。クラズウェラ要塞まで敗走した。
ところで、俺は勝利に酔いしれているかというと、それどころでなかったりもする。犬死した聖皇国兵の呪いか、日没直後辺りから、お馴染みの頭痛に見舞われていた。一刻経たぬうちに頭痛はかつてガウカリアで経験したような激痛に変じ、今回は嘔吐感を伴った。
ヤブ医者から特任軍医に大出世したマシラに鍼を打たせて頭痛は鎮静したものの、吐き気が治まらないのと、気温が下がったためか、寒くて歯の根の合わぬほど震えてきた。
サザが気を利かせて糖蜜で割った燗酒を持ってきたが、生憎と胃が全面拒否するので、それで温まることも叶わない。仕方ないので毛布を三枚巻き付けて、天幕の隅で丸まっていた。今奇襲があったら俺は死ぬ。確実に殺される自信がある。
知恵熱、とマシラが呟いたのを聞き取った。
笑いたければ笑えばよかろう。不敬罪に問うぞ......っと、これは禁句だったか。冗談で言っていたら自分が不敬罪に問われて投獄された身の上である。自重しよう。
そして、そんな時に限って招かれざる客はくるものだ。
アルギーニの特使が勝利祝いを持参したという。追い返そうと手を振りかけて、思い留まる。「普通ではない閣下にお目通りを」という言伝に、心当たりがあった。
アルギーニ大公直々のお出ましとあっては、出迎えぬわけにもいくまい。もっとも、建前上は使者ということになっているらしいが。
いけ好かない髭野郎は、見栄を張って指揮官席でふんぞり返っていた俺の顔を見るや、開口一番、「具合が悪いのなら寝ていてかまいませんよ」と言いやがった。
そんなに俺は病人面をしているのか、と問うたら、敗軍の将の顔色だ、と言われてしまった。やはり無理して兵の前に出なくてよかった。
マシラとサザを下がらせて、人払いを命じる。
「では、お言葉に甘えて」
俺は椅子の上で毛布に包まり、これ以上の体温の低下を防ぐ。そんな俺を見て、リドウェは声を上げて笑い転げた。
「まるで雨に濡れた虚弱な仔犬だ」
「否定しませんよ」
俺はぷるぷる震えながら毛布を掻き抱いて身を竦めた。
「そんな様子だと、私の他に会った要人はいないのだね?」
嫌なことを訊く。
自覚はなくとも、俺は戦勝国の総司令であった。昨日までは見向きもしなかった列強が、こぞってイスガルの作戦本部を訪れたが、俺は誰にも会わなかった。体調不良だ、と、堂々と言ってやった。事実、この様だ。何より、誰にも会わないほうがいいと、長年の負け犬根性が危険信号を出したのだ。十五年前の二の舞になりそうだと思ったから、俺は誰の言葉も聞き入れるつもりはなかった。
それに、俺の戦いはまだ終わっていない。
「ここへ来たのが命の恩人の貴方でなければ丁重にお断りしていました。どうせ貴方も、俺に強引に面会するために自らお運びになったのでしょう?」
「相変わらず可愛げのないことだが、とりあえず、勝利を祝して」
リドウェが酒の瓶を取り出したので、俺は素気無く「飲める状態ではないので」と断っておく。何より、何が入っているか知れたもんじゃない。生血でも飲まされそうで恐ろしいと言ったら、苦笑された。
「まあ、これで君が表の兵たちと同じように浮かれ騒いでいたのなら、戦いには勝ったようだがまだ勝負に勝ったわけじゃない、と釘を刺していたところだった」
リドウェは手酌すると、ゆっくりと杯を揺らした。
「私は、君が愚かでないと信じているよ」
「......地獄耳ですね」
リドウェは実に美味そうに持ち込んだ自国の酒を干して肯いた。
「私は個人として君が気に入っただけで、反皇国派の肩をもつつもりはないんだが?」
ラビスリール公に辺境領伯の餌をチラつかせたことが、すでにばれている。これ以上ないくらい寒いのに、さらに寒気を覚えて、俺は顔の半分まで毛布に潜った。
「俺は、ここに居座るつもりはありませんよ」
「それでは困る。免税特区は難しくとも、すぐにでも港を開いてもらわないと」
「ヘラドとの戦役の経過が芳しくないご様子ですね」
「君のような名将がうちにも欲しいところだ」
言外にイスガルに派兵を打診しているようだが、俺は気付かないふりをした。
「今回はまぐれです。勝利の女神が気まぐれを見せただけですよ。彼女は飽きっぽい」
「その勝利の女神というのは、黒い蝶の翅をもつ妖婦のことかな?」
俺は深々と息を吐いて、さらに毛布の中に沈み込む。
「そこまでご存知ならば、明日からの俺の仕事もおわかりのはずだ。港の解放は可能です。ただ、恒久的にそれを維持するには、もう一山越えなければならないのです。どのみち、俺には......反乱を疑われたサルマリア砦兵には、褒賞は望めません」
「それは、あまりにひどいとは思わんかね? 何なら私が口添えしても構わん」
それが狙いか、と、俺は毛布の隙間からリドウェを睨む。
「第一王子殿下ならば、肯いたかもしれませんね」
アルギーニの干渉は受けない。その代わり、俺はグィーダー辺境領を諦めて狗の生活に戻るしかない。リドウェと俺との間にある密約は、畢竟、守る義務のない約束だった。ただ、リドウェはすでに俺に支払をすませているので、守られなかった時には俺の死体を以って完済する羽目になる。
「約束は守ります。ただし、貴方の理想通りというわけにはいかないでしょう。細かいご注文はお受けしかねます。ご容赦ください」
「つれないな。君の味方になってもいいと言っているのだぞ?」
「今の今まで放置しておいて、いまさら兄貴風吹かされても鬱陶しいだけです」
「生意気を言うものじゃない。素直に義兄を頼らないのは、何故だ?」
「俺は、グィーダー辺境領をイスガルに帰属させると言って、反皇国派に金と兵を出させています。ここで俺が欲張ると、恰好悪いじゃありませんか」
「......私は、君の数少ない出資者の一人であると自負しているが、その私にも言えぬ秘密があるのかね?」
「手を引くつもりなら、今宵、俺を訪ねるはずもないでしょうから」
「その通り。私は君ともっと仲良くなりたいと願っている」
「お願いですから、それを大妃殿下の前では言わないでくださいね。俺は義母二人に、あまり可愛がられておりませんから」
「半分くらいは君が悪い。此度の勝利で、君の立場はますます難しくなった。世界は王でもなく、第一王位継承者ではなく、君という個人に注目するだろう」
「注目されると、ろくなことがない。殊に、女性に。恐ろしいので、俺はこの後、田舎に隠れることにしますよ」
リドウェはまだ何か言いたそうだったが、これ以上俺から条件を引き出すことが無理だと悟ったのか、大人しく帰って行った。
去り際、リドウェが言った。
「いかがでしたか? 勝利の味は」
俺は毛布の中で首を傾げた。
「すきっ腹には、重かった。消化不良で吐きそうです」
「結構。君はきっと、よい指導者になる」
生き残れば、とは、リドウェは言わなかった。もはやその心配もないのだろう。
■
雪華月 一五日
クレー丘陵でのイスガル軍の勝利は、聖皇国だけでなく、大陸全土ををゆさぶった。
後の世に「クレー丘陵斜行戦術」として名を残す鮮やかな陣形移動で勝利を収めたのが、若干一五歳の少年であった事実に世界は驚愕し、イスガル軍作戦本部を訪ねる各国の使者の姿が絶えなかった。が、大胆かつ斬新な本作戦を指揮した第二王子は、面会を謝絶し、開戦にあたって資金を提供したアルギーニの使者とのみ、四半刻ほどの短い時間、会談した模様。
翌一六日
第二王子はクラズウェラ砦を包囲し、自身は停戦交渉のためにイスガル王城へ一時帰還。
イスガル側はクラズウェラの無条件降伏とグィーダー辺境領の帰属、その後の統治の不干渉を再度要求。これが拒否された場合、殲滅戦を実行すると聖皇国を脅迫。
停戦交渉には、イスガル側からは軍を率いた第二王子本人が、聖皇国側からは、未だ回復しない皇帝陛下の代理として、リアセトラ第一皇国姫が臨んだ。
■
うわ、と、俺は危うく飛び出しかけた驚嘆を飲み込む。
聖皇国の、金の西日の麗しい図書館棟では、華やかな衣装で楽しませてくれたお姫様だったが、今日は白を基調とした華麗な軍服で現れた。
こういうところが苦手だ、と俺は、目深帽の影で小さく舌打ちした。発想の時点で、軽々超越してくる。効果は絶大で、十七の小娘だという侮りを寄せ付けない。そういう俺も一五の小僧だった、と思い直す。
万民に愛される姫君としてではなく、敗軍の将として責を負う。そういう演出。が、産まれてこの方、ただの一度も敗けを知らないお嬢様は、どこまでも威風堂々、自信に満ちて輝いていて見えた。
「総司令閣下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
リトは貴婦人の可愛らしいお辞儀ではなく、騎士然とした男性礼で先手を取った。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました。姫も相変わらず麗しくいらっしゃる。よくお似合いですよ」
事実、軍服のリトは一種独特の色香を纏っていた。これで白馬に跨って先陣を切られたら、確かに志気が上がりそうだ。俺なら絶対ついていく。自分の臆病を忘れて突撃できそうだ。この少女は、自分だけではなく、自分の周囲にいる人間にまで己が正義であると錯覚させる。貴女のために戦う、と、男にも女にも言わせてしまう。
もし、クレー丘陵戦で左翼側にリトがいたのなら、壊滅したのはイスガル軍であったはずだ。尤も、暁の姫君が寄せ集めのボロ兵団を率いることなどないのだろうけれど。
見惚れたのがばれたのか、リトが形のよい唇ときゅっと引き上げて危険な色の目をした。
「お気に召されましたか? ならよかった。どんな衣装なら閣下の琴線に触れるか、とても悩みましたから。私どもの運命は閣下のお気持ち次第にございます。小娘の生意気にも寛容を示された閣下ならば、冬の海風に身を竦める傷付いた鴎たちにも、きっと慈悲を示されることでしょう」
ひやりとするようなことを、いとも簡単に。
予め、停戦とグィーダー辺境領帰属を聖皇国側が承認しない時には、殲滅戦も辞さぬと伝えてある。すでに攻城兵器は輸送済みであるから、敗走先にクラズウェラを選んだ時点で彼らは破滅しているのだ。
俺は誰にも知られないように背後の気配を伺う。俺の後ろにはお目付け役としてラビスリール公と第一王子が控えている。要するに、俺が皇国に押し負けてうっかりグィーダー辺境領を取り損なわないように、左には反皇国派が見張りに立っている。一方、右側は親皇国派が、俺が暴走してせっかくの勝利を水泡に帰さないよう、いつでもいなせるよう、やはり、見張っていた。あるいは、小妃と大妃が、自分たちの可愛い息子を押し退けて俺が抜きん出るのを牽制している。
そして、俺の真後ろでは父王が黙って玉座から睥睨する。闘犬でも見ているような気分なのだろうか。俺は、意図的に父王の目を見るのを避けていた。
正しかったのか、間違っていたのか。知るのが、怖くて。
......いけない。
どうしてもこの構図は、俺に負け犬の性を思い出させて弱気にさせる。
馬鹿野郎、と、俺は俺の弱腰を蹴り飛ばす。
勝ったのだ。敗けたんじゃない。
と、その時、リトの青色の瞳に怜悧な光が走った。気取られることを懼れて、俺はすかさず愛想笑いを浮かべて誤魔化す。
「どうぞお掛けになって、肩の力を抜いてください。皇国の運命はさぞや重いでしょう?」
何か言いかけたリトを黙らせ、俺は自らも着席する。皇国の姫君は凛と背を伸ばした。
「まずは謝罪を。我が国の無礼を、どうかお許しください」
開戦前の交渉のことを言っているのだろう。こちらとしても、もとより成立させる気のない交渉であった。
「気になさらないでください。過ぎたことです」
今更媚びてんじゃねぇぞ、という旨を丁寧語に変換して、俺はいつの通り、王族的に微笑んだ。リトは、笑っていなかった。きっと、本当に後悔しているのだろう。過ぎた時は巻き戻せない。油断していた自分を悔いたところで、聖皇国の敗戦は覆らない。
「すでに結果の出たことです。今は過去を語るより、未来について話しあいましょう」
「私どもは、自らの過ちを認めます。大陸の平和と繁栄のためを思い、多くの兵を亡くしました。そのことについて、深く反省しております」
しかし、と、リトは智慧の泉の色をした青い瞳を俺に向けた。
「私たちは、他の道を歩めたはずです」
手はあった。分岐点もあった。しかし、選んだのは、お前だよ。そして俺には、逃げ込む先なんてなかった。戦地にしか、行き場がなかった。
俺は言いたいことを別の言葉に変換する。
「こちらとしては、可能な限りの提案をさせていただいたはずです。そのいずれも受け入れず、認められなかったがための、選択です。今度こそ賢明なご判断をお願いいたします」
俺のやり方は賛否両論、いや、非難轟々であったに違いない。卑劣だと、罵る者も多いはず。だが、俺は言いたい。世界が、俺が敗けることが正しいことだったと言うのなら、俺はその固定概念[あたりまえ]をぶっ壊すことでしか生き残れなかったのだ。
手負いの獣ほど噛み付くということは、俺自身、大変よくわかっている。慈悲を、と懇願するリトに、二月前の自分が重なった。
利用できる手札は全て使う。自分の心も、周囲の同情も。
リトの瞳に、見る間に満ちる綺麗な涙。涙は女の武器だな、と俺はやけに冷静にそれを見ていた。彼女の涙は善良だ。策謀や卑劣を洗って、人の心に善意を呼び起こす。
「私はただ、クラズウェラで助けを待っている我が国の兵を、彼らの無事を祈る者達のところに帰してあげたいだけなのです」
我が国の兵、ねぇ。俺は弱冠、眉間に皺を寄せた。
知っているか、お姫様。先の戦闘で一番死んだのは、左翼で俺の突撃隊に叩き潰された傭兵たちだ。
「失礼ながら、皇国姫殿下。それを決めるのは俺ではありません」
涙ながらに訴える若く麗しい姫に対して、俺は冷酷だろうか。そうだろう。
俺は正しさをかなぐり捨てて、たった一度の勝利に喰いついた。何せ、餓えていたものだから、目の前にぶら下がった可能性が欲しかった。何としてでも欲しかった。
「イスガル側は何度も、聖皇国がグィーダー辺境領の割譲を認めるよう、申し入れてきました。今も変わりません。しかし、敗走した兵が砦に籠城した以上、我が軍はそれを包囲するのは当然の結果です」
何故だ? 何故こだわる?
俺は可憐な少女の形をした宗主国の誇りに問いかける。
たった一度の敗けじゃないか。永く栄えある皇国の歴史に、小さなかすり傷一つ、どうってことないじゃないか。
しかし、彼女はけして引き下がらなかった。
「聖皇国は、何代にも渡ってこの地の安寧を守り続けてきました。広げた翼の下に無数の雛鳥を守り、風雪から温かく庇護してきたのです。どうして、それを壊そうとするのですか? 私たちは......西[オストヴァハル]と東[イスガル]は、同じ天照煌翼[イセラアクィナ]のもとに一つになれるはずです」
それを支配と言うのだ。運命を一方的に押し付け、それを正義と錯覚さえ、自ら考えることをさせず、故に、荒巻く風を羽ばたくだけの力を持たない虚弱な国々。
イスガルは違う。俺は、違う。
違う未来を、望んだのだ。
そのための具体的な方法を、俺はすでに実現している。
「すでに未来は分かたれています。何故なら、俺がそのように導いたからです。貴女の言葉は正しい。貴女の涙は美しい。しかし、すでに動き出した現実を変えるには、理想だけでは無力ですぞ。割譲は認めない。無条件降伏も拒否。それは、単なる我儘です。無理を通して道理を引かせるおつもりならば、具体的な代替案を示されよ」
俺は、つい、作り笑いを解いてしまった。
「我々は、戦勝国です」
リトの瞳には変わらず透明な光が浮かんでいたが、その奥で、ぎらりと何かが蠢いたのを俺は見た。調子に乗りすぎたか、と臍を噛んだが遅い。
やはり、女の涙は武器だ。同情を誘う。油断を誘う。欲を、誘う。
俺の嗜虐は父親似だろうな、と思った。
「私は、大陸の安寧と人民の幸福を願っております。その他に、望むことはありません。閣下もそうでしょう? 方法が違うだけ。良き未来のために命を賭す者として、私は閣下の御心がわかるのです」
「最大の理解者が仇敵同士というのは、お互いにとって悲劇ですな」
「敵であらねばならない理由などありません」
「と、言いますと?」
「私は閣下を理解し、支えることができます。閣下が私を受け入れてくださるのならば、これ以上の血を流さずに私たちは協力し合うことができましょう?」
しまった。
微かに頬が痙攣するのを自覚し、俺は、自分が思っている以上に渋い顔をしてしまったことを知る。リトの柳眉がぴくりと上がった。
「西と東に別れた我々は、今こそ一つに還るべきです」
婚姻による同盟。敢えて俺が避けた道である。
「狗と結ばれることをお望みか。高潔なる聖皇国の民は認めますまい」
「もし閣下が慈悲と寛容を示され、砦の兵を帰してくださるのならば、グィーダー辺境領を私個人の所有にするよう話し合います。それに」
と、リトが奇妙な色の瞳で俺を真正面から見つめた。静謐な青の裏側に、猛禽の金色が光っているように見えた。
「閣下はけして犬などではありません。聡く凶暴な、戦略に長けた狼です」
俺は、否定も肯定もしなかった。
結婚の持参金として彼女に与えられた御料地も付加されることになる。血による同盟は、双方にとって悪くない条件であった。だが、俺は肯けない。
確かに地図上はイスガルの領土が拡大することになる。が、聖皇国が餓えた飼い犬を宥めるためにくれてやった、という傲慢な態度が気に入らない。分け与えることで矜持を守ろうという魂胆を、隠そうともしない。
聡い女だ。女だからこそ。
リトは、イスガルの病巣をよく見抜いたらしい。これで俺が是と答えれば反皇国派の支持を失う代わりに、親皇国派として第一王子の下に俺は組み込まれる。アルギーニもそれを望んでいる。しかし、大妃が在る限り俺が第一王子を押し退けることは難しく、聖皇国姫が正妻にある限り、全面戦争の可能性はほぼなくなる。
俺は、また王城で飼い殺しだ。
せっかく飛び出したのに、そんなの御免被る。もう二度と、俺は過去へは戻らない。
「大陸一の美姫を娶るのは男冥利に尽きる、と申し上げたいところですが、丁重にお断りさせていただきます」
隣の第一王子が俺を睨んだが、俺は敢えて温和な表情で受け流した。
「分際というものを、俺は心得ているつもりです」
反乱軍の汚名を返上すると言って出てきたのだ。皇国の血統は、今の俺には餌がでかすぎて魅力よりも危機感のほうが勝ってしまった。
「グィーダー辺境領については譲歩できません」
「閣下こそ、何故そんなに頑なになられておいでなのですか?」
リトの視線がチラリと俺の左右にずれた。そして一瞬だけ、俺を飛び越えて父王を見る。
賢い彼女のことだ、察したに違いない。
ここでは、俺は、犬なんですよ。
俺はにっこり、笑って見せた。
「第一皇国姫殿下には、是非、賢明な決断をお願いしたい」
「総司令閣下、どうかご慈悲を。そして、人道を踏み外されることのないよう、重ねてお願い申し上げます。私は閣下が心優しく、人の愛と温もりを知る、とても人間的な方だと存じております」
今、ここでそれを言うか。
「......ご期待には、副えそうにございません」
「閣下もまた、複雑な運命を背負っておられるこのとなのでしょう。しかし、その運命は一人で背負うにはあまりにも苛烈です」
あろうことか、リトは俺の背後に喧嘩を吹っ掛け始めた。
「我々の勝ちですよ」
慌てたのだろう、俺は。口が滑った。
「逆転するかもしれません」
「それが難しいということがわからないようですと、余計に不可能かと」
「強いのですね」
おや、どこかで一度したことのあるような会話だ。俺が気付いて顔を上げると、リトがついに化けの皮を剥いで、猛禽類の眼光で俺を睨んでいた。
髄の震えるような、いい眼であった。
「閣下は間違っておいでです。今ならまだ、正せます」
その偽善者面の説教が気に入らねェ。俺はさらに笑みを深くする。
「同じように、俺も貴女を間違わせることができますよ。ここは、引かれませ。奥ゆかしさは女性の美徳です」
「やせ我慢は殿方の悪癖です」
リトは、知っていたのだろうか。我が軍の物資がすでに底をついていることを。
「聖皇国の運命が掛かっております。私は皇帝陛下の代理として参っておりますが、若輩者ゆえ、再度この件、陛下が信頼する重臣たちと審議いたしたく存じます」
「なりません」
俺は誰かが何かを言い出す前に、すかさず退路を塞いだ。反皇国派にとっても、親皇国派にとっても、聖皇国が出してきた餌は実に芳醇な誘惑であったことだろう。
しかし、俺は困る。俺だけが困る。そして今なら俺は嫌だと言える。
大体、ここで帰してみろ。審議中、審議中、審議中、と、だらだら引き延ばしてイスガルが消耗したところで反撃に出られたら目も当てられない。
二度目はない。次は、勝てない。
だから、殲滅なのだ。
何より、降雪期行軍を押し切った我が軍は相当に疲弊している。戦線に留まることさえ厳しい。食糧も資金も使い果たした。これ以上の出資は、イスガルにとって自分の血を飲ませることになる。
本当は殲滅戦などと脅したけれど、俺が弾薬車をネコババしたせいで火力の計算が狂った。クレー丘陵では雨のごとく弾薬を消耗したので、実のところ、すっからかんだったりもする。だから、帰られたら、困る。
リトの青色は、俺の焦燥を見抜いている。
「お許しください、閣下。私の手には余ります」
引く気はないらしい。俺も、これ以上は踏み留まれない。
「では、三日の猶予期間を設けましょう」
三日というのは、非現実的な数字であった。彼女ための猶予ではない。むしろ、半端に時間を作ったことでリトはさらに重責を負うことになる。迷っていたからこうなったのだと、後に謗られることになるだろう。猶予期間は、俺の言い訳のための時間だった。こちらとしては最後の最後まで可能な限りの譲歩をした。聖皇国にも考える間を与えたのだと、後でしれっと言い逃れするためである。
それに、グィーダー辺境領の民には決断する時間を与えたのに、聖皇国に与えないのは不平等だと、妙なことを考えたのだ。どっちも喉元に刃を突きつけて、言うこと聞かなければ殺すぞ、と脅していることには変わらないのだが、この場合、重要なのは結果じゃない。自ら選ばせることに意味がある。
自ら、認めさせることに。
「ありがとうございます。頂いた時間で、聖皇国は必ずや正しい未来を選び取ります」
何よ満身創痍じゃない、と、リトの青い瞳が笑っている。
やせ我慢の大好きな男の性に従って、俺は内心、真っ赤な舌を出していた。
「聖皇国が曇りなき判断のできることを、願っております」
血泥を被る覚悟がないなら出てくるな。
俺は敗けられない。絶対に敗けてはいけない。たとえ間違いをおこしても。
これがあのクロユリの直前に書かれて未完のまま没になった最初の狼王記です。
クロユリはこれがあるからセナとシズマで、イースサーガもこれがあるからテスとフィーネ。
最初の形も知っといてほしい。
これじゃ、世には出せないでしょうがw
しかし連綿、クロユリからイースサーガに至るまでの歴史として知ってほしい。
なぜこの時の狼王記が未完なのかおそらく私はもうわかってるんだと思います。
だから、2020年イースサーガ版の狼王記がここにあるんですよ。