これが、ああなるw イースサーガは商業原稿な。
4、 飢えたる犬は死をも恐れず
人が死ぬというのは、不思議な感じだ。
エランの時は処刑であったから、そんなことを考えている暇もなかったけれど、今、彼女が居なくなった部屋に残された小さな食卓を見つけて、俺は首を傾げる。
存在の痕跡、というにはあまりに安っぽい。
変な少女だった。
夢見がちで、手紙好きで、料理が得意で......普通の女の子だったじゃないか。
俺は顔を洗い、鏡に映った自分をしばらく見つめていた。
俺は自らをロボと名乗る時、無意識に第二王子と呼ばれる自分を否定していたのだろう。
俺も普通だ。
普通の、人間だ。
人間に、なりたかった。
鏡の中の己の表情に、さしもの俺も「これはいかん」と思った。まともな人間の顔じゃない。大量虐殺でもしかねない顔つきだった。
これで、俺は第二王子なのだ。信じられないことに。
鏡を覗き込もうとした時だ。鏡の留め具の螺子が緩んでいるのを見つけた。直そうと思って鏡を一度外したのは、まさに偶然であった。
鏡の裏から封筒が落ちてきて、俺は、息を止める。
心のような場所に隠したと、彼女は言っていた。
こんなところに......。
今頃になって、涙が溢れる。
■
あなただったのね、とカナンは鳶色の瞳を震わせた。
それから、跪き、深く頭を垂れた。
王族に対して平民がとる、へりくだった態度だ。
年下だと舐めて俺をからかっていた彼女に対して、胸の内で何度も不敬罪に問うてやったのだが、果たして俺は敬われるような人間であったろうかと、顧みる。
それにしても、今日に至るまで身辺の世話をしておきながら、本当に気付かなかったのだろうか。そうだとしたら、能天気にもほどがある。
「殿下、どうか数々の無礼をお許しください」
カナンはどこか開き直った態度であった。彼女にしては、強気な態度である。
「おそれながら、申し上げます。これきりにしますから、どうか、今だけは無礼をお許しくださいませ」
許す、と俺は言った。
顔を上げたカナンは、泣いていた。
「ロボ!」
彼女は俺の顔を見るなりぼろろ、と大粒の涙を零して、あろうことか俺の首にしがみ付いた。これで最後にするから、と彼女はおんおん声を上げて泣いていた。
「ごめん、ごめんね。気付いていたの。本当は、ロボが誰だか、もうずいぶん前からわかっていたのに、知らないふりしてごめんね」
ごめんで済むようなことではないのだが、これについては俺も同罪であるから、彼女を罰することはできない。
「なんで? どうしてこんなことになったの? いい子だったのに!」
そうだな、と俺は肯いて、泣きじゃくるカナンの頭を撫でた。いつか誰かがそうしてくれたように、彼女を包んでみる。宥めるつもりだったのに、カナンは逆に激しく咽び泣く。
「名前も、聞けなかったよぉ」
そういえば、お互いついに本名を名乗らなかったっけ。
それで愛し合ったなんて、滑稽だ。
俺の考えを読んだのか、カナンが責めるように俺の背中を叩いた。
「あの子はちゃんとロボのこと、好きだったんだよ。女だもん、わかるよ。国家とか、政治とか、そういうのに比べると、とっても小さなことだけれどもね、好きな人に美味しいごはんを食べさせたいと思ったり、帰りを待っていたいと願うのは、愛情なんだよ」
そんなものかな、と俺は天を仰ぐ。
「ロボは愛されていたんだよ」
俺は、さらにわからなくなった。
「ロボも愛していたんだよ!」
カナンは叫び、余計に強く俺を絞め上げた。怪力のカナンが、ぎりぎり俺の肋骨を折らないように、慎重に抱いているのがわかる程度には、俺は冷静だった。カナンを落ち着かせる立場だと思っていたのだが、宥められいるのは俺の方かもしれない。震える雛鳥を包むように、カナンは慎重に、丁寧に、おっかなびっくり、俺を抱いていた。
「私、今度こそちゃんとロボと一緒に背負うよ」
「いや、お前は」
「お願い、私を仲間外れにしないで」
カナンは頑として引かなかった。
「あのね、私、実はちょっとサザに嫉妬していたの。サザとロボは、あの日、同じ秘密を共有したから」
サザの頬の傷のことを言っているのだとわかって、俺は黙った。
「私も、秘密を抱えたいの。私は知っているよ。ずっと見てきたもの。ちゃんと二人は愛し合ったっていう秘密を、私は知っている」
カナンは、時々恐ろしいほど聡いことがある。これも女の勘というやつだろうか。
グィーダー家公女とイスガル第二王子が恋に落ちたことを知られてはいけない。公女は最期まで高潔でなければならないし、聖皇国も、イスガルも選ばなかったということにしなければならなかった。
だから、俺たちは愛し合ってなどいなかった。
そういう現実を、生きていく。
事実を全く知らされないまま俺の呼び出しに応じてやってきたマシラは、糸目の端を僅かに痙攣させたが、転がる死体と硝子片、床に広がる酒の染みを見て、おおよそ事態を把握したらしい。
「ロボは飲んでいますか?」
俺は首を横に振った。死体より生体を優先させるあたり、こいつもやはり医者なのだ。
「では、私の仕事は、死因調査でよいですか?」
「頼む。毒を特定できるか?」
マシラは淡々と死体に触れて、皮膚や目の色を確かめ、匂いを嗅いだりした後、俺を振り返り、彼女の死に様を聞いた。俺は見たままを答えた。
「この甘い香りは、『春忘』だと思われます」
「シュンボウ? 何だ、それは」
「かなり致死性の高い劇薬です。私の郷では、有名な毒薬です。梅の実から採れます。梅、知らない? そうですか、こちらではあまり見ませんね。春のはじめに花の咲く樹で、観賞用として愛でられています。大昔、政争に敗れて左遷された為政者が、大事にしていた庭の梅の樹との別れを惜しんで詩を残しました。私がいなくても春を忘れてはいけないよ、という意味の詩です。主人がいなくなって、梅は悲しみのあまり枯れてしまいます。春を忘れて死んでしまった梅から転じて、その実に含まれる毒を『春忘』と呼びます」
それからマシラは、苦く笑った。
「春を忘れる毒。未来なき者という暗喩でもあります」
「精神的効果は訊いていない。人体に入るとどうなるかだけ教えろ」
「服用すると、胃の中で変化して毒素を発生します。その毒素は呼吸も、心拍も、身体の全機能を停止させます。息の根を止める、というやつです。それから、まだ毒素が発生していると思われますので、近づかないように」
「お前は平気なのか?」
「私の体は仕事柄、毒に慣れています。少量なら体の中で無毒化できます」
「なら、俺も平気そうだ」
そういうわけで、カナンは遠ざけた。間もなく眩暈がすると言い出したので、彼女を不安にさせないためにも、心労だと言っておいた。
「棺桶を待っている余裕はなさそうだな」
俺は彼女の口を水で濯いで、マシラの指示に従って真綿を詰める。こういう時、心を遠くに置く術を知っていた。
どこからかカナンが白い正絹の布を持ってきた。下がっていろと言ったのに、青い顔をして「せめて」と泣いていた。白布の下に、カナンの故郷の衣装が畳まれていた。
大事にしていたのではなかったか、という俺の問いに対して、カナンは、もう二度と戻らないから、と答えた。カナンなりに、王族の宿命に巻き込まれる覚悟を見せたのだろう。
こっそり出るつもりだった。
誰に知られることもなく、真実ごと燃やしてこようと目論んでいたのに。
砦の正面に、全兵が整列していた。深夜のことである。篝灯の影の中からモルドァが歩み出て、俺の前に跪いた。
初めてのことだった。
断固として傭兵隊長の矜持を貫いてきたこの男が、兵の前で俺に屈したのは。
モルドァは俺にだけ聞こえるように言った。
「勝ちを認めます」
「何の話だ?」
「賭けたことを、お忘れか?」
「あれはお前の勝ちだろう。聖皇国の使者のほうが、到着は早かった」
「国王陛下の決定は、それより前になされたものと考えられますので」
「引き分けか?」
「いいえ、どちらも勝者ということでいかがでしょう?」
「卑怯だぞ。お前が一方的に俺の勝ちを認めて支払を済ませると、俺もお前に約束のものを支払わなければならなくなる」
「お早目にお願いいたしまする」
中佐はさらに頭を深く垂れ、今度は全員に聞こえるよう、深く腹の底に響く声で言った。
「掲げ、筒!」
一度の号令で一つの生き物のように動く練度の高い兵隊。うっかり、これがイスガル最強の精鋭兵たちだと勘違いしそうになる。数でも武装でも、王城に攻め入るには到底足らないというのに。
鼓笛隊の奏でる葬送曲は、戦死した英霊に捧げられるものであった。
「彼女は勇敢でした」
中佐は俺に言った。
「イスガルの繁栄のために命を賭した少女を、我々は立派な戦士として讃えます」
イスガルのために。
その言葉は、どんな毒より激しく俺の息の根を止めるだろう。
深夜、月と精鋭未満に見送られて、たった三人の葬列は砦を出立した。
■
サルマリア砦から東へと馬車を走らせながら、俺は寒さに耐えていた。
風の精霊が人の器から釈放された末裔を迎えにきているのだろうか、強く風が渦巻いていて、ガウカリアの谷底で遠く、低く、唸りを上げていた。
馬車は止まらない。
俺が御者を務め、お目付け役のフィオとカナンが車内にいるという、本末転倒っぷりである。多少なりとも毒を分解するのが二人より速い俺が、消去法で亡骸を預かる役となり、すでに体調不良を訴えているカナンと毒素を発する遺体を一緒にさせるわけにいかず、フィオに色々と追及されるのが面倒臭いこともあり、俺はさっさと御者席に陣取った。
名前もないような、小さな街外れの霊廟をジエンが見つけてくれた。
相場の二倍の金を握らせて口止めをし、冥福のための祈祷もそこそこに急がせたのは、夜の明けぬうちに全て済ましてしまおうという魂胆のためだった。
イスガルでは埋葬が慣例だが、軍人は火葬を望む者が多い。戦場で死んだ兵士は火葬するからだ。衛生上の理由もあるし、死に様を人目に触れさせないという、礼儀でもある。だから、国に帰って天寿を全うしたとしても、己が軍人であると誇る者は、亡骸を晒さないのが美しいとされている。翻って、聖皇国では火葬の習慣はない。というより、土に還るという言葉が示すように、彼の国では魂とか、生命とか、そういうものは大地に宿ると信仰されているから、異常な死体は埋めたがらない。聖なる命の循環に、穢れが混入するからだ。犯罪者や死刑囚の死体の処理方法なのである、焼くというのは。
きっと問題になるだろう、と俺は赤い焔の底を見つめていた。
手には彼女が大妃から贈られた髪飾りを、軽く握っていた。これを大妃に突っ返そうと企んでいた。
呪われた葬送に、弔問者はいないはずだった。
ところが。
蝶番の軋む音とともに、小さな葬堂に風が吹き込んだ。紅蓮の炎を煽り立て、火花が噛み付くようにして弾ける。
振り返ると、喪服の婦人が炎の光に照らされて立っていた。外では風が轟々と唸りを上げており、彼女一人を招き入れ、扉は風圧に押されて乱暴に閉ざされる。
顔を黒の紗で半分隠していた。
送り火番は黙々と炎の面倒を見るだけで、招かれざる客に見向きもしなかった。
フィオには誰も入れるなと命じてある。つまり、戦闘不能ということか。
「こんばんは。このたびは、御愁傷様でした」
女は優雅にお辞儀する。その手に立派な白百合の花束を持っていた。
「死神でないのなら、お帰りいただこう」
彼女の手から花束が落ちる。俺は上着に手を入れる。
次の瞬間には、拳銃が互いの眉間を照準していた。
葬儀には相応しくない真紅の唇で、喪服の女はニタリと笑って先に銃口を降ろした。
「こんな時間に、不用心でございますよ、殿下」
殿下と呼んだからには、俺の素性を知っての御来訪である。そのくせ、彼女は大胆にも俺の間合いに踏み込むと、何を思ったか左手をついと持ち上げた。
「何の真似だ」
「そちらこそ、礼儀がなっていませんよ」
傲慢にも、その女は俺に敬服の口付を求めてこう言った。
「母親に向かって、何です。その態度は」
俺は閉口し、それですっかり撃つ気も失せてしまった。ある意味、彼女の勝ちである。
「何だ、ただの気狂いか」
「狂っているのはお前の方ですよ。禁断の恋に、ね」
刹那、俺は、一度は下した拳銃を再び女に向けた。今度は警告抜きに、撃つつもりであった。が、しかし。
俺が引き金を引くより数瞬だけ早く銃声が葬堂に響いて、今度こそ素直に銃を下した。
多勢に無勢だ。すでに囲まれている。
「ご安心なさいませ。鼠は私の猫が片付けました。盗聴の心配はありません。表の忠犬二匹は吼えると貴方に気付かれてしまうので、眠ってもらっています。ああ、そういう意味ではなくて。大丈夫ですよ、私は価値のあるものを大切にします。彼らは貴方に言うことを聞かせるという、重大な価値があります」
「お前は何者だ?」
「貴方の対応次第で、協力者にも簒奪者にもなり得ます。いかがかしら? 私はお好みではありませんか? それとも、王族の矜持のために情報を諦めますか?」
紗の奥で、また紅い唇が嗤った。
いちいち、俺の癇に障るようなことを言う女だ。裏を返せば、それだけこの女は俺の情報を持っているということでもある。俺が何に怒り、どんな傷を隠し持っているか、知っているから怒らせることができるのだ。
ここで愚直に怒れるほど、俺は単純にできていない。
女の手は白く冷たくなっていた。それが緊張のためなのか、寒さのためなのか、俺には知る由もない。
「アンタ、性格悪いな」
「貴方は口が悪く育ったようですね」
もとから王族の矜持なんてものは備わっていないので、俺は容易く彼女の前に膝を折って、差し出されたその手をとり、口付をしようとして、ぎこちない角度で動きを止めた。
どこかで一度やったことのある構図が、どこかで一度見たことのある形を、記憶の底から呼び覚ます。
俺は女の左手の薬指に在る黒い石の指輪から、目が離せなくなった。
心臓が早鐘のように激しく脈打ち、冷や汗が首を伝った。
誰のかも知れない遺髪を閉じ込めた、あの指輪が、何故、彼女の指に在るのだろう?
「同じものを、貴方も持っているはずです」
女は俺の手から自分の手を引き抜くと、いつ見つけたのか、俺の首の鎖を摘まんで引っ張った。暴きだした秘密を俺に見せつけ、その横に自分の指輪を並べる。
「エランは私にとっても、唯一無二の、大切な人でした」
どくん、と心臓が激しく震えた。逃げ出したくとも逃げ場のない痛みが、鋭く、深く、胸の奥底を貫き抉る。
「信じなくとも結構です。貴方には誰から生まれたのかなんてわからないでしょうから。しかし、私は誰を生んだのか、憶えていますよ」
女は俺から離れると、床に落とした花束を拾って送り火にそっと投げ入れた。儚い花弁はあっという間に炎に巻かれて見えなくなる。
「美しいではありませんか」
女は炎の底を覗き込む。
「愛を愛のまま、夢を夢のまま、貴方に恋した少女のまま、綺麗なまま、死んでいけたのなら、それは幸せなことですよ」
何を知っている、と怒鳴りかけ、言葉を呑む。
暗に全て知っていると、暗に言っているのだと気付いたからだ。
「......お前が仕組んだのか?」
「とんでもないことです。いくら私がお金持ちでも、学者の娘を公女に仕立てるには、それなりの後ろ盾がないことにはできません」
「聖皇国に彼女を売り込んだな?」
「悲劇は私のせいでございますか? それは、とばっちりというものです。お姫様になりたい女の子はたくさんいますよ。少しばかり容姿に自信があって、男性の富と権力を横から吸い上げて遊び暮らしたいという娘なんて、星の数ほどいるのです。もっとも、彼女は少し違ったようです。故に、成功してしまった。物語のように生きたから、物語のように死んでしまったのです」
「もう言うな。全部終わったことだ」
「彼女の灰を荒野に撒いても、過去はなかったことにはなりません」
そして女は俺の手から銀の髪飾りを取り上げると、高く掲げた。
「名もなき少女を、公女にするか、詐欺師にするか。真実を知っているのは彼女の父親である学者です。彼は大妃殿下の援助を受け、イスガルの王立大学の専任教授の位と邸宅を手にしました。三度目の妻と、派手に暮らしていますよ。最初の妻との間に娘を一人授かりましたが、貧乏に耐えかねた妻は娘を置いて蒸発、二度目の妻とも二年で別れました」
どうでしょう、と女は矯めつ眇めつ、髪飾りを検分しながら続ける。
「これを私に下さるのなら、貴方の愛しい恋人を誇り高き聖なる乙女に昇華してみせます」
それともまだ悲しんでいたいですか、と女は俺を振り返った。
俺は、頭を抑える。そろそろ頭痛がしてくる頃だろうとは、予想していた。
彼女は情報を持っている。情報に価値を付加するだけの財力と影響力もある。それをわざわざ俺に見せつけるためだけに、ここに現れたのだ。そして、あの指輪が彼女の指にある限り、俺は否応なくこの女と関わらざるを得なくなった。
「そんな安物でいいのか? 代償は高くつくぞ」
「ええ、結構です。ですが、心に留め置いてください。この先長く続く取引の初回だからこそ、タダ同然で貴方の望みを叶えるのです。どうか末永くお付き合いさせてくださいね」
自称、我が母親は、そこでようやく顔を覆っていた紗を払って顔を晒した。
「遅ればせながら、私はマリエラ・バルマティスと申します。バルマティス商会の名はご存知かしら? これでもアルギーニ王室にはご贔屓にしていただいておりますの」
影の中、女は優雅にお辞儀する。それから、俺によく似た完璧な微笑みを浮かべた。
「積る話もございますれば、いかがでしょう? 珍しいお茶でもいただきながら。ええ、返事は結構。否とは言わせませんので」
■
さて、どこからお話すればよろしいでしょう。
私と国王陛下との馴れ初めからお話しましょうか。あら、そんな厭な顔をなさらないで。知っていますよ。ええ、知っているのです。貴方の背中にも、心にも、生涯消えぬ傷があることを。だからこそ私はエランに頼んだのですから。
まあ、お坐りなさいな。お茶が冷めてしまいますよ。
これはね、緑茶といって、極東の茶ですの。同じ葉を使っているのに、こんなにも違うものなのですね。綺麗な緑色でしょう?
......貴方が私について王城でどのように聞かされているのかはわかっています。死んだことになっているのでしょう? だから私は、私のための喪服を着ているのです。そしたら「黒蝶」なんて渾名を頂戴する羽目になりました。もっとも、私の半生を振り返ると、白か黒かと問われれば、ええ、確かに真っ黒です。
まぁまぁ、いちいち苛立たないの。
焦らされるのは苦手かしら? 短気は損気ですよ。
貴方が知りたいのは、私が事実、母親であるかどうかということでしょう?
それは、信じていただくしかありません。生き別れの母子の再会にしては、殺伐としていますけれどもね。
私が貴方を生んだのは、十八のときでした。私の父は騎馬隊の軍馬を診る獣医で、母は靴屋の娘でした。そうです、書面の通り、私の身分は平民でありました。
あれは、そう、ちょうどこの時分、新酒の季節でした。国王陛下は四十二歳、すでに大妃様とご結婚されておいでで、お二人で南部の葡萄園で開かれる新酒の御披露目会へご出席されるために、私の生家のある街を通過されることになっていました。
しかし、雨が続いて道が悪くなっていたためか、国王陛下夫妻の馬車を牽く馬が足を腫らしてしまい、私の父が呼ばれました。母はその時身重であったため、私が手伝いとして父に同伴したのです。
嫌ではありませんでしたよ。私は動物が好きでしたし、父の仕事を誇りに思っていましたから。すっかり獣医稼業を継ぐつもりでいましたね。
まあ、その後は、だいたい貴方と同じです。
驚きましたよ。貴方ときたら、そんなところまで陛下に似ずともよいのに。
ああ、ほらまた。そんなに怒ってばかりいると、頭の血管が切れますよ。それとも、ここに貴方の従者を連れてきて、貴方が席を立とうとする度に鞭打ちますか?
冗談です。
別室にて、きちんと賓客として接するよう邸の者に周知してあります。
どこまでお話したかしら? 貴方が落ち着かないのですぐに話が散ってしまいます。
ああ、馴れ初めのお話でしたね。
要するに、陛下の一目惚れだったのです。品のない言い方でごめんあそばせ。
半ば攫われるようにして、私は陛下の旅に同行いたしました。大妃殿下も陛下とご一緒にいらしたというのにね。今考えると酷い話です。
だけど当時の私は気付けなかった。
貴方はまた怒るかもしれませんが、陛下は、私にとって世界の全てでした。陛下には気まぐれに手懐けた野良猫にすぎなくても、私は、陛下に憧憬し、信奉していました。
獣医なんて、もう、ちっとも魅力的に感じなかった。獣は今でも好きですけれどね。
どこに惚れたのかですって?
そんな顔して訊かれると、答えたくなってしまいます。
いいでしょう。私は、そうですね、一言で言うなら、陛下の頭の良さを好いたのです。
だってその時の私は、この世界に自分より賢い人間はいないと思っていましたからね。
傲慢でしょう? その傲慢さで、私は破滅したのです。
陛下はとうとう、私を王城まで連れていきました。
ふふ。合縁奇縁とはまさにこれ、貴方と公女に似ているでしょう? もっと似ているのですよ。今回の事件は、まるで十五年前を再現したかのようでした。
さて、誰が裏で糸を引いていたのやら。
怖かったか、ですって? いいえ、むしろ胸の躍るようでした。宝石なんて興味なかった。陛下はそんな私を無欲だと皆に言いふらしました。
無論、反語的な牽制です。主に、私に対しての。
私は形のある無価値なものより、形のない価値あるものを欲したのです。
力が、欲しかった。
権力、財力、知力、魅力、腕力......何でもいい、私はあの王城で認められたいと願ってしまいました。だって、陛下は私にこう言ったのです。お前の可愛い頭を政治に使うことはない、と。私は、悔しかった。
何が悔しいかって、私は何の力もなかったから。ただ陛下の寵姫であるという、ただそれだけの、飼い犬でした。
私は猟犬でありたかった。陛下のために駆けてゆく、忠臣として......供に闘う者として側に在りたかった。私はそういう風に、彼を愛したのです。
そんなある日、陛下が旅先で倒れたのです。
私がお注ぎした杯を乾された直後に、ね。
最初は眩暈を訴えられました。折悪しく、私たちは外出を誰にも告げていませんでした。逢引ですからね、誰も知らなかったのです。知らないはず、と言い直しておきましょう。
私は陛下の主治医を呼びましたが、待てど暮らせど、なかなか到着しませんでした。これは後から知ったのですが、その時、主治医の乗った辻馬車がたまたま暴漢に襲われて、頭を殴られて街頭で昏倒していたそうですよ。王城に戻ることがあれば、陛下の主治医を掴まえて頭の後ろを見せてもらうといいでしょう。彼は禿頭ですから、縫った痕がすぐわかりますよ。
そんなわけで、私はとにかく陛下の命を取り留めようと、必死でした。陛下の症状は、毒草を誤飲したときの馬のそれに似ていましたから、とにかく吐き出させて、水を飲ませ、また吐き出させ、胃を洗浄しました。
今思うに、きっと首謀者はけして陛下を殺害するつもりはなかったのでしょう。毒も致死量には及ばなかったはずです。私に毒殺の容疑をかける腹積もりだったのでしょうね。
もちろん、その時には陛下を死なせないことだけに集中していましたとも。
目の前で惚れた男が死にかけているのなら、助けたい。そう思うことに何の躊躇いも疑問も抱かないような、初心な小娘でしたからね、その頃は。
今でもはっきりあの夜のことは思い出せます。
一時は意識が混濁して、手足が痙攣し始めました。私は陛下の耳元で、御名前を叫び続けました。動物でも死の淵にいるとき大声で吼えると目を覚ましたりしますからね。
結果、陛下の意識は戻りましたが、今度は高熱と頭痛に襲われ、きっと死をお覚悟なすったのでしょうね。陛下は私を呼び寄せて遺書を認めました。
おや、目の色を変えましたね。
誰だってそういう目になります。意味と価値を知る人ならば。
遺言の内容は、陛下にもしものことあらば、王子が成人していなければ、聖皇国とアルギーニ王室に後見を依頼し、大妃が摂政となること。そして盟約に従いグィーダー辺境領の領有権が移譲された際には、小妃に相続し、王籍から外して伯爵女史とすること。
小妃というのは、当時は私のことでしたから、随分と私に都合のいい遺書だと言えますね。ここに複写があります。これを貴方にあげましょう。上手に使いなさい。
国王陛下は、その遺言書に署名しています。
そして実はもう一通、遺書があるのです。
私の手元にあるのは複写ですが、原本は王立資料庫に保管されています。
同じ日付、同じ筆跡。署名も、陛下の直筆であると言えましょう。こちらは聖皇国のみを後見とし、「星の間」が摂政に就くこととしてあります。グィーダー辺境領については敢えて触れていないようですね。困ったことに認印が捺されているのはこちらの遺書なのです。どういう意味か、わかりますか?
朝廷には二つの派閥があるのは貴方も知っているでしょう? 古き盟約と、血の契約。東[オストヴァハル]と西[イスガル]の和睦を望む親皇国派と、聖皇国との総力戦を望む軍部を主とする反皇国派です。
そうですね、貴方の言う通り。私が持っている遺書は、陛下の意志と矛盾するのです。
陛下は聖皇国との関係を重んじている......というふうに見えますよね。陛下はこの三十年、極端に軍事に国費を注ぎこみ、調練を重ねて大陸でも抜きん出た強力な軍隊を育てました。ところが、実際の戦争となると消極的で、先の多島海域戦でも、聖皇国からの要請を受けて、連合軍に派兵する程度の出兵しかしていません。グィーダー辺境領の一件で、陛下の聖皇国への忠誠は一層、明らかになりました。
私とて、この遺書さえなければそう信じていたに違いありません。
さて。この遺書が露見して困るのは親皇国派の重臣たちです。グィーダー辺境領に手を出したのならば、聖皇国との衝突は免れません。
陛下の本望は、聖皇国からのイスガルの分離です。そう遠くない将来、宣戦布告なさることでしょう。アルギーニの姫を第一王子と結婚させたのには、決戦の際にアルギーニを同盟に引き入れるおつもりがあったからです。
賢い貴方なら、もうカラクリがわかりましたね?
陛下は親皇国を装い、兵力を温存しておいでなのです。
おそらく、あの夜、陛下は本当に、死を覚悟なさったのです。そして自分が死んだあとに、イスガルがアルギーニと聖皇国によって引きちぎられることを心配されました。そこで大妃の牽制として私を辺境領白女史に置いて、アルギーニの侵攻を妨げようとしたのです。一方、聖皇国の干渉を拒めるのは、アルギーニと結ぶ大妃殿下です。そして幼い王が戴冠して足場が固まり次第、聖皇国との決戦に挑ませるおつもりであったのでしょう。
あら、貴方は辛辣なことを言いますね。
しかし、その通りかもしれません。十五年前のイスガルでは、聖皇国と、その同盟諸国の連合軍に叩き潰されて終わりでしょう。
もっとも、陛下が存命であるのならば、遺書も意味をなさないのです。
むしろ、諸刃の剣となりかねません。だって私が一番得をするようになっていますから。
資料庫の底に沈められた遺書もまた、本物の遺書なのです。陛下が前の遺書を無効にするために作らせたのだと、私は考えております。
陛下がうっかり作成してしまったこの遺書は、私が陛下に返上し、焼却されて終わるはずでした。
ところが、この遺書の複写が反皇国派の重臣の一人の手に渡ってしまったのです。
現在の小妃殿下の実兄、と言えば、その後、私たちの間にどのような取引があったからわかりますね? 現小妃殿下は私と同じ齢でしたから、十分お若く美しく、由緒正しい姫君であられました。王妃に相応しい人物です。陛下の寵愛さえあれば、ね。
二通目の遺書がある限り、最初の遺書は反って私に不利になるのです。国王暗殺の濡れ衣を着せられる前に、私はイスガルから逃亡しました。反皇国派から少なからぬ手切れ金を受け取り、グィーダー辺境領に逃れ、そこで出会ったアルギーニの海軍将校の伝手で、アルギーニ籍の交易船に便乗し、遥か極東域まで逃げたのです。
貴方が生まれたのは、その暗殺未遂事件の直後でありました。
陛下と婚約までしていた私が王籍に入れなかったのは、そういうわけです。
陛下は私を追いませんでした。死んだことにして、事件の追及を強制的に打ち止めにし、私を忘れることで、全てなかったことになったのです。
しかし、困ったことに、未来の小妃として王城に召し上げられた私は、王城で貴方を生んでしまいました。反皇国派の重臣が押しかけてきたのが、私の子どもが男子であるとわかったあとでしたから、彼らにとって、貴方は大変危険な存在であったに違いありません。
反皇国派は母子もろとも抹殺するつもりでいたはずです。
貴方だって、死にかけたのは一度や二度ではないでしょう。
しかし、貴方は生き残ったのです。私も生き残ったのです。
半年前の誘拐未遂は、貴方にこの話をするためでした。まさか王城に「私が母親です」なんて乗り込めませんからねぇ。ベルデ河の聖皇国側で、私は待っていたのですよ。
それなのに貴方ときたら、逃げ帰ってしまうのですもの。
とはいえ、あの夜の貴方は素敵でしたよ。仕掛けた火薬を過たず撃ち抜く貴方を見て思いました。貴方は「勝つ」人間です。
困難に直面したとき、人間は本能的に主導者を見極めます。ススロたちの目は、貴方を追っていました。要所をはずさず、勝負強いところも結構。
そうですよ。エランと一緒に、あの夜、私は貴方を見ていました。
......エランのことは、今はよしましょう。
私だけじゃありません、貴方だって、エランについては責められるべきですから。
疑り深いですね。私があの夜、貴方を待っていたのは事実です。
ええ、待っていたのです。
私は待ちました。私に力がつき、期が熟すのを。
もう、十分待ちました。これ以上は待てません。
ところで、貴方は今年で十五になりますね? 結婚が許される年齢です。
ねぇ、年上は好みじゃないかしら?
あら、あっさり振られてしまいましたわ。結構です。私は急ぎませんので。でも、貴方は急がなければならないかもしれませんよ。
今回の腕白のせいで、貴方には反乱の疑いが掛けられることでしょう。すでにサルマリア砦に向けて王城から正規軍が派兵されたという情報が入っています。憲兵が砦の門を敲いた時に、貴方がいなければどうなることやら。
睨んだって駄目ですよ。早く戻りたいのなら、そこに署名なさい。
私は「黒」ですもの。ほほ。署名と貴方の従僕二人を交換といきましょう。
あら、冷たい。従僕の命など知ったことかと? 私を騙そうとしても、そうはいきません。知っていますよ。貴方にとっては思い入れの深い二人です。隻眼の彼はススロですね。貴方は彼の失われた左目に対して負い目があります。あのかわいらしい女の子は、純朴でよいですね。その純朴で野心のないところを貴方は評価しているからこそ、グィーダー家の公女の世話を任せたのですね。彼女だけが、貴方たちの純愛の証人です。
ね? 貴方に私は騙せない。私は貴方を知っているけれど、貴方は私を知らないもの。
わかったのなら、そこに署名を。
これは取引です。第二王子殿下には、私どもを高く買っていただきとうございます。
■
俺はすっかり冷めてしまった、新緑の色をした極東の茶で、乾いた唇を湿らせた。
彼女の灰を撒いた辺りから馬車で一刻ほど西へ向かった街に、バルマティス商会の支部がある。女史は俺をそこの来賓席に座らせた。
地方の支部とは思えぬ豪奢さである。美意識の高いユリディアの令嬢の部屋のような煌びやかさだ。
極東域から仕入れているだけあって、珍品名品が目を引いた。
奇石のはめ込まれた鏡台や、象牙の枝に止まる金細工の蝶、壁には本物よりもなお瑞々しい花園が描かれている。一つ一つにそれぞれの美しさがあって、それなのに見事に調和して見えるのは、それら全てが、この女主人のために存在しているからなのだろう。
極彩色の中にあって、黒衣の女史は凄まじい存在感を放っていた。
特に、その髪。夜の海原のように艶っぽい。
母親。
これが、俺の?
何の冗談だと嗤ったものの、女史の話を信じると、俺がめでたからず生誕してから今宵に至るまでの諸々が全て飲み込めるから、恐ろしい。
結婚、というのは女史の冗談だ。
女史が俺に突きつけたのは、契約書であった。バルマティス商会の私兵団を貸与するかわりに、グィーダー辺境伯爵に自分を推挙するよう要求している。
実質、俺に戦争しろと言っているのだ。
「グィーダー辺境領は未だ聖皇国領だ。俺ではなく、持ち主に直接交渉したらどうだ?」
サルマリア砦の兵数が脱走やら移籍やら中途入隊やらを繰り返し、現在のところ千四百弱。女史の言葉通りなら商会私兵団が五百余。例えば俺が血迷って独立を謳ったとして、四万五千のイスガル正規軍と敵対したところで、間違いなく我々が不利である。
「聖皇国は敷居が高すぎますからねぇ。貴方になら頼みやすいのです」
「現物を見ないことには署名はできない。女史の言う五百が精鋭であるとは限らない」
半年前にススロを殲滅しようとした連中が、商会私兵団所属の騎馬隊であり、あの水準の練度であれば、モルドァ率いるサルマリア砦兵と混ぜても問題なさそうだ。という欲を、女史はあっさり見抜いたようだ。
「それで、貴方は私の兵隊が欲しいのですか? いらないのですか?」
「即答しかねる。不良品を売りつけられたら困るからな。第一、女史はイスガルに縁深いようであるが、アルギーニとも通じておられる。まるっきり信用しろというには、些か素性が怪しすぎる」
これに女史は笑って答えた。
「血は水より濃いと言います。私は健気な母として息子に投資しようと申し出ているのですよ。それを信じられぬとは、冷たい人」
「親の躾が悪かったからな。ご容赦いただきたい」
女史がお茶のおかわりを薦めたが、俺は断った。
「では、お茶のかわりに一つ、耳よりな情報を。アルギーニと海で戦ってはいけませんよ」
「何故だ?」
「アルギーニの艦隊は世界最高峰の練度と火力を誇ります。僭越ながら、イスガルは歩兵と騎馬で勝負なすったほうが、お得です。今から艦隊を整えるのは難しいでしょう」
「根拠は?」
「だって、私のお客様だもの。良い艦は皆買われてしまいましたよ」
女史は艶やかに笑みを深くして、己の茶器に新緑の色をした熱湯を注いだ。
「グィーダー辺境領は、現在のところ、聖皇国領となっています。しかし、五年後にはどうでしょうか。ユリディアは彼の地を諦めたわけではありません。アルギーニが聖皇国の肩を持つのは、ユリディアと聖皇国が外交上、反目しているからに他なりません。そして、貴方にはもはや、帰る場所はありません」
「女史、俺は太子位を剥奪されて放逐された身だ。立場としては、第三王子の妹君よりも下位であり、国王陛下の家臣の一人にすぎぬ身の上だぞ。お忘れか?」
女史がちらりと俺を見て、何か言いたげに眉を上げた。
勝てるのか?
女史の黒焔の瞳に、訊ねてみる。
答えはなかった。
ユリディアからの侵攻を阻止するという名目がある。反乱軍として殲滅されそうな現状にある。そして、けして誰にも知られてはいけない、毒杯を賜ったという事実もある。
勝てるのか? いいや、潰される。
噛みついたところで、俺は狗であった。
「諦められよ。俺は決起しない」
「何故です? 敗けるからですか? 確かに、今の貴方は持っているものが少ないです。だからこそ、私の切り札を分け与えようとしているのですよ。上手に使ってご覧なさいな」
俺は契約書と、その下にある遺書の複写へと視線を落とした。
象徴的だな、と思う。
十五年前の事件が重なりあって、俺の今へと繋がろうとしている。
「女史、これは勝ってはいけない喧嘩だ」
「と、おっしゃいますと?」
「モルドァ中佐に叱られた。お前の遠回しな自殺に兵を巻き込むな、と。女史は自分の勝負にイスガル全土を巻き添えにするおつもりか」
すると、彼女はいともたやすく「はい」と肯いた。
「死なば諸共、です」
俺は、フィオやジエンを反乱軍にしたくはなかった。何故なら俺には反乱するだけの気概も正義もないからだ。王になりたいなど、微塵も考えていない。
運命に逆らおうなどと......
「ねぇ、貴方」
ふと、女史が俺の顔を覗き込んだ。
「ひょっとして、お父様が怖いのですか?」
「......」
咄嗟に言い返せなかった。その沈黙こそが何よりもの返事となった。黙らざるを得ないのは、それが自分自身も誤魔化しようのない真理であるからだろう。
俺は時々、女の、こういう鋭さが恐ろしい。
何のつもりか、女史が俺に手を伸べた。
怖々と、猛獣に触れるかのような仕草だった。王を謀り、国を天秤にかけ、財力に物言わせて頂点に上り詰めようと企む悪女には似合わぬ、自信のない指先で、俺に何をしようとしたのか。じっと、俺の様子を伺いながらさらに指先を伸ばしてくる。
結局、女史は俺の頬に触れる直前に指先の向かう先を変えて、襟に触れただけだった。
「糸くずがついていました」
父親が怖いのか。
その問いに、俺は答えたくない。
親子というのが必ずしも美しいとは限らない。こうして呪縛となって苦しむこともある。
「女史」
俺は笑みを消して、真剣な目で彼女を見つめる。
正面会敵する。先にたじろいだのは、彼女であった。
「俺に対して、母親であろうとしないでいただきたい。俺の生母は死んでいる。それが、現実。そして貴女はバルマティス商会の女主人。麗しくも狡猾な女狐だ」
「......ええ、そうでしたね」
さすがと言うべきか、女史はすぐに元の、傲慢なほど落ち着き払った態度を取り戻すと、扇を開いて口元を覆った。
「交渉を再開しましょう。要するに、私は爵位が欲しいのです。私が揺さぶりをかけずとも、貴方がグィーダー家の公女を横取りしてしまったことで、状況は戦争へと傾いてしまいました。どこで、いつ、どの国と会敵するかの違いです」
「反乱軍の旗は振らんぞ、俺は」
「では、王城に出頭して首を刎ねられてくるとよいでしょう。私は貴方を助けたいのです。貴方がこの難局を乗り切れば、後ろ盾につきたいという者も現れるでしょう」
サルマリア砦に融資し、間接的に俺に注ぎこんでいるキワモノが「星の間」にいることは知っていた。どうやら女史はその人物とも繋がっているらしい。
「俺が聖皇国に生贄として差し出されるというのは、どうだ?」
「そうならないように、国王陛下は貴方に毒を贈ったのではなくて? 人質があると面倒ですからね、今の貴方のように」
そして俺は、うっかり生き残ってしまったわけだから、もうその手は効かない。女史はすまし顔で茶を含むと、じっと水面に映る己の顔を見つめていた。
「そもそも、反皇国派の計画ではグィーダー辺境領を貴方に取らせることになっていたのでしょう。これは、私の憶測です。国王陛下はもう六十、戦線に立つことは難しく、未来の王に花を持たせたいという大妃殿下の親心もわかりますが、第一王子を御旗にするとアルギーニの干渉を免れません。反皇国派は貴方を担いで、全面戦争へ向けてイスガルを牽引していくところまで思い描いていたはずです。そこへ、思いがけず貴方が先に動き出してしまったのです」
「女史は、公女の件は大妃殿下の陰謀であったと断言するか。証拠は?」
「ありませんね、残念ながら。ただ、大妃殿下にとっても賭けだったはずです。小賢しい貴方が美人局にひっかかるかどうか、最後まで悩んだことでしょう。そして失敗したとしても第一王子にはけして害の及ばぬよう、慎重になっていたはずです」
仮に、だ。俺があの日、公女に出会わなければ、俺は父王の戻り次第、太子位を復活し、親皇国派と反皇国派の板挟みに遭ったに違いない。そしてやっぱり、最終的には汚名返上のために、俺は聖皇国軍と交戦することになっただろう。
どうやったら勝てるだろう。
勝てそうにない、敗けるに決まっている。敗け方の問題だ。
アルギーニと手を結んだところで、十五年前と同じ結果になるだけだ。悪くすると、アルギーニにグィーダー辺境領を横取りされかねない。
ユリディアとイスガルが結ぶ可能性どうだろうか。いや、ない。ユリディアはこちらを狗だと思って歯牙にもかけないから、同盟相手には選ばない。
敵の敵は友、とは限らないのだ。
そこまで考えて、俺はふと、俺の敵と味方について考えてみる。
バルマティス商会は、身分を与えれば確実に味方になると言っている。大妃殿下は手を回しすぎたがために反皇国派との間に軋轢を生んだ。国王陛下は、建前上は親皇国だ。
「......俺が、反皇国派として名乗りを上げたら、どうなるかな」
ふと、口をついて出た言葉に、俺自身が驚いている。
「小妃殿下と仲良くなる必要がありますね」
「俺はあの方に殺されかけるほどに嫌われている。誰かのせいでな」
「あら、私のせいだとおっしゃるのですか?」
女史はにっこり微笑んで首を傾げた。
「そうだとしたら、小妃殿下は貴方が王城で存在感を増すのを快くは思わないでしょうね」
「雌伏の時というのは、始まりはわかるのに終わりはわからないのが、辛いな。......やはり、迂闊に署名はできない」
俺は女史に契約書を突き返した。
「グィーダー辺境領が俺のものになる可能性について、熟考させていただきたい」
「よろしゅうございます」
女史が開いた扇をぱちんと閉じた。同じ音でも、小妃のあの嫌悪感を隠そうともしない様子に比べて、随分と心地よくその音は響いた。
「ただし、そこに署名を頂戴するまで、殿下を軟禁させていただきます」
「俺が反逆者になったら、この話は反故になる。女史も大罪人を匿ったとして、罪は免れないぞ。俺を捕まえておいても、女史にとっては不利益になるだけではないか?」
しかし、女史は暢気に極東の茶を干してから言った。
「そもそも死んだ女ですもの、今更ですわ。貴方に会うと決めたときから、私はすでに、貴方に全額投資しています」
この命さえも、と、女史は勝ち誇ったように唇を吊り上げた。
彼女の自信たっぷりなその微笑は、俺に、ひょっとしたら何かの間違いで勝てるのではないか、と錯覚させるほどに鮮烈な印象となって瞼に焼き付いた。
「臆病になっていますね」
女史は、誰かと同じことを俺に言った。
「勝てるかどうかなんて、誰にもわかりませんよ。勝つ気があるかどうか。それだけです。ねぇ、貴方。負け犬のままで、いいのかしら?」
女史は笑う。鮮やかに、毒のように。
勝てるのか?
何度自問したところで、答えは否と返ってくる。それなのに、俺は何度も、何度も、自分に同じ質問を繰り返していた。
勝てるのか?
......違う。そうじゃない。
俺は、勝ちたいのか?
勝ちたい。
そんなもん、勝ちたいに決まっているじゃないか。
自問するまでもない。いつだって俺は、望んでいたんだ。
「勝負を、してみたい」
ほとんど無意識に出た言葉だったけれど、口に出すとすんなりと受け入れらた。
「俺は一度でいいから、勝ってみたい」
何かが、動き出す気配がした。運命とか、世界とか、そういう、わけのわからない大きなものが、軋みながら進もうとしている。折れてもいい、俺はその巨大な歯車を動かす梃になろうと思った。
受け入れるだけが「運命」じゃないんだと、証明してみせる。
かと言って、女史の思惑通り反乱軍の旗になるわけにはいかない。大妃の手駒になって生涯忠犬であるのも御免被る。反皇国派の傀儡になって英霊扱いされるのも厭だ。
俺が勝つためには......
「気が変わった。女史、俺は、逆らおうと思う」
「世にそれを反抗期と言いますよ」
俺は苦笑し、契約書に名を書き入れて女史に手渡す。これが万一、父王の手に渡った日には、俺は処刑を免れないだろう。北方の大帝国では、三十年ほど前に父子の相剋がこじれて第一王位継承者であったはずの王子が獄中で拷問死するという事件もあったのだから、俺も他人事ではない。
それでも。
万一、いや、十分の一ほどの高確率で父王に殺されたとしても、だ。
俺は勝負すると決めた。
窓の外では雲が速い。西風が停滞していた空気を押し流して渡っていく。
夜明けの空には、始動の気配。
■
商会の門前にはすでに乗ってきた馬車が待機していた。
俺の姿を見るなり、ロボ、と言いかけて、慌てて二人同時に口を閉じる。
カナンとフィオはお互い顔を見合わせて、地面に膝を付いた。
「ご無事で何よりです、殿下」
フィオが似合わぬ敬語を使っているのを見て、俺はげんなり、溜息をついた。
「無事なもんか。変なものを売りつけられて途方に暮れている」
「申し訳、ございません?」
「何故、疑問形だ?」
「いえ、あの......おっしゃられることの意味がわからなかったので」
「お前はそれだからヒヨコ頭だと言ったのだ。暗愚は俺の配下にいらぬ。今この時を以って貴様をサルマリア歩兵隊から除籍する。そして本日付けで、第二王子直属の護衛官主任に任命する。覚悟して任務を全うせよ」
「は! りょうか......え?」
「え、じゃない。何だその腑抜けた面は。不敬罪に問うぞ」
隣でカナンがふるふると背中を震えている。多分、笑っているのだろう。俺は目を白黒させているフィオの肩を蹴って転ばせる。
「馬鹿。そんなんだから、お前はピヨなんだ。ロボで結構。もとはと言えば、俺に非がある。今まで隠していて、悪かったな。鬱陶しいから、二人とも顔を上げろ」
フィオはしきりに瞬きを繰り返した後、ようやく理解したのか、顔を真っ赤にしていた。
「本当に、よろしいので?」
「ロボと名乗っている相手の前なら許す。時と場所を心得てくれているのなら問題ない」
「あー、よかった」
カナンがあからさまにほっと胸をなで下ろして、衣服の乱れを整える。
「年下に敬語使うの、面倒だったのよねー」
冗談と本音を絶妙に織り交ぜながら、カナンは俺の頬を両手で挟んだ。
「こらカナン。俺はお前の弟じゃないぞ」
「似たようなものよー。それにしても、今まで何していたの?」
「茶を飲んで長話していただけだ。そっちは?」
「うーん、ごめんね。急に眠くなっちゃって、起きたらここにいたのよ。聞けばロボがここに来るように言ったって」
それを聞いて俺は、カナンではなくフィオをじろりと睨んだ。
「おいこら。こんなこと二度とは許さないぞ護衛官主任」
「わかっている」
「ほう。珍しく素直じゃないか」
「俺は一応、カナンと違って軍属だ」
俺は「そうか」とだけ肯いた。この半年、フィオにはフィオなりに、覚悟があって募兵に応じたのだろう。俺たちはもう、この夜明けより前には戻れないのだ。過去には戻れないが、俺は急ぎ戻らねばならぬ場所がある。
「砦に戻る」
俺の決定に、ぎょっとしたのはフィオだった。
「ロボ、本気か?」
「何だ、お前は俺を逃がしてくれるのか? 相手はイスガル正規軍四万五千だぞ」
フィオがそう言うということは、商会の者を通して俺の反逆容疑の件は伝わっているのだろう。カナンはこの様子だと、知らないらしい。いや、知っていて、わからないふりをしているだけかもしれない。いずれにせよカナンは連れて帰らないほうがよいだろう。
「カナン、お前は残れ」
「はい」
嫌だと縋りつかれるかと期待していた俺は、肩透かしを食らう。
「お前も素直だな」
「私だって、私なりに考えているのです。私が御側にいると、第二王子様には不利が生じますでしょう? どうか御武運を」
カナンは巧みに「ロボ」と「王子」を使い分けて、にっこり笑って見せた。それから、こっそり俺に耳打ちする。
「商会で雇ってくれるそうですよ。実はね、お給料、砦の二倍なんです」
「それは、俺への嫌味か?」
カナンは笑い、それからふと、深い眼差しで俺をしばし見つめた。その瞳の熱に、居心地の悪さを覚える頃になって、彼女はようやく俺から視線を外した。
「きっとまた会えますよね?」
「すぐに呼び戻すから、覚悟しておけ。忘れたか? 嫁に貰うと言っただろう?」
「貰ってくれなくても、もう大丈夫です」
まっさらな朝日の差す中、カナンは、とても綺麗に笑っていた。
「私は、いい女なので、大丈夫です」
「自分で言うか」
俺は片頬で笑うと、さっさと馬車に乗り込む。
「ああ、そうだ」
俺は乗りかかった馬車から降りると、カナンに持っていた封書を手渡す。砦の寝室の鏡の裏に隠されていた、例の封書である。持っていると色々と拙いと判断したので、彼女に預けておく。事情を知っている彼女は、神妙な顔で肯いて胸に抱いた。その中に、俺に宛てたのではない「恋文」が一通紛れ込んでいることに、カナンは気付いていない。
純情なカナンのことだから、手紙好きの少女が残した恋文を覗くような野暮はするまい。
十五年前の遺書は、見なかったことにしよう。
俺は自分の身を確かめながら、所持していては拙い物がないか念入りに探す。拳銃を持っていたことも思い出し、それもカナンに押し付けた。王家の紋章が入っているのが気がかりだが、彼女がそれを使うことのないよう願っている。
あとは指輪くらいだが、これは何かに使いそうな予感がするので、離さないでおこう。
「さて、もういいぞ。出せ。最高速度で頼む」
御者席のフィオが牽馬に鞭を入れるのを聞きながら、俺は目を閉じた。頭痛がする。
眠った覚えはなかったのだが、フィオに呼ばれて気が付いた時には、崖に身を乗り出すような危なっかしい佇まいのサルマリア砦が目前まで迫り、その門前に整列する憲兵団と、迎撃体勢のまま待機するサルマリア砦兵団の、一触即発の構図が土煙の向うに見えていた。
「......おい、ピヨ。何でもっと早く起こさなかった?」
俺が顰め面して馬車の窓から身を乗り出すと、フィオが歯ぎしりした。
「早く起こしたら、何か指示をくれたのか? お前をあそこに送り届ける身にもなってみやがれってんだ」
あそこに突っ込むのはいかにも拙いので、投降の意志は早いうちに示したほうがいい。モルドァも、もっと穏便かつ優雅にお待ちいただくことはできなかったものだろうかと考え、思えば、俺が出立するときにはすでに全軍装備済で整列していたのだった。
このあたりの無駄のなさと、身の軽さは、傭兵ならではといったところか。などと感心している場合ではない。
「ロボ、本当にいいんだな?」
「何だ、お前。俺のこと心配しているのか?」
「してねぇ、馬鹿!」
「この俺に向かって馬鹿はとはな。不敬罪で逮捕されたいか?」
「笑ってないで、頭引込めろよ。撃たれても知らねェぞ」
「俺は撃たれないから大丈夫だ。それより、ピヨ。お前のほうが危ないぞ。長銃の射程距離に入る前に馬車を止めろ。徒歩でいくから、お前は背中の長銃を置いて、手ぶらの状態で俺の三歩後ろを維持するんだ」
微妙な位置で停車した馬車に向けて、憲兵団の一端が一斉反転し、銃口を向ける。なかなか肝の冷える光景である。
俺は百二十丁の筒に狙われる中を、フィオを伴って徒歩で前進していった。砦からは俺の歩調を計算しながらモルドァ中佐がやってくる。
「お前、よく平気だな」
小声で話しかけたフィオを、視線で口を慎むよう教える。ここから先、俺はイスガル第二王子であり、反逆の疑いをかけられた大罪人である。こういうところは、カナンは手がかからなくてよかった。
ぴたりと俺の五歩手前、つまり礼状を携えた憲兵団側の司令官の目前で歩みを止めると、モルドァは俺に向かって膝を折った。
「無事のご帰還、何よりです」
「中佐、誰の許可を得て国内に銃口を向けている。向きが違うぞ。我々の任務は国境守備だ。間違っても、イスガルの国土に、王城に向けて発砲するな!」
「御意」
号令さえなく、手の一振りで、我が砦兵たちは一斉に憲兵団の銃口に背を向ける形で反転する。モルドァ自慢の砦兵の練度を散々見せつけておいて、俺は憲兵司令官に向き直って黙礼する。俺は砦の准将、向うは王城の将校。軍法において、准将より上位の司令官でなければ俺を逮捕することはできないからだ。
「早朝からご苦労。要件は?」
俺の問いに、将校は極めて事務的に定型句を述べた後、礼状を読み上げる。
「――以上の理由により、王城まで御同行を願います」
「了承した」
俺は素直に両手を差し出す。鉄の枷が噛む瞬間、フィオが僅かに身じろいだのを、目で牽制する。今、下手に動かれては余計に面倒になるだけだ。
「失礼いたします。所持品を検めさせていただきます」
「許可しよう」
手錠をかけられ、身体に触れられる姿を兵卒にまで晒して、王族の矜持もへったくれもない。罪人として連行される司令官に失望して脱硝者が出ないことを祈るばかりだ。
格子のついた黒塗りの護送馬車に押し込まる俺に、珍しくフィオが眉を歪ませて敬礼していた。それに倣うかのように、砦兵たちが敬礼するのを見て、俺は微妙な心境である。嬉しいが、俺に懐きすぎると全員殺されちまうぞ、と忠告してやりたい。
半年前には全員で無視してくれたくせに、かわいい奴らである。
死ににいくんじゃない。
ここから始めるんだ。
昼夜を問わず不眠不休で駆け抜けて二日の道程で、合計三度の食事が与えられ、やはり、俺は特にすることもないので眠っていた。途中で死んでいるのではないかと心配した憲兵に起こされたことを除けば、実に安定した、穏やかな移動であったと言えよう。
二日間とも、よく晴れていた。
王城に着くと、今度はルイーゼが待ち構えていた。彼女の護衛兵と王城の警備兵が二人係で飛び出しかけた姫を捕まえ、こっちはこっちで、連行を仰せつかった憲兵が俺の前に槍を交差させて抑止する。俺が何をしたというのかと言いたいところだが、騒ぎの向うにいる小妃に気付いて、意地悪を思いついた。
俺は末妹に向かって、それっぽく微笑んでみる。
それっぽく、というのは、兄思いの可愛い妹を不安にさせまいとする健気で優しく温厚な、しかし薄幸な少年、という外面である。
「殿下!」
ルイーゼは心を隠そうともせずに悲痛な叫びを上げ、俺は憲兵に押されて彼女を振り返る。主に、柱の影で悔しげに扇を軋ませている小妃殿下に向けてたっぷり悲劇を演じてやったので、俺も少しは溜飲が下るというものだ。
自分の愛娘の心が、憎き政敵に向いているとあっては、心中穏やかではあるまい。
俺も大概、意地悪である。
審問は正午、王城中庭で行われる旨を伝えられ、俺は地下牢へ送られる。
不思議と、心は凪いでいた。よく眠ったので頭痛も解消されている。寄りかかった独房の壁に後頭部を押し付けた時、地下牢の連絡路の扉の蝶番が軋む音が聞こえた。
続いて、やけにゆっくりと、厳かに響く靴の音。
一歩目。俺は相手が誰だかわからなかったから、暢気に出迎える心構えをする。
二歩目。音が重いので、女子供ではなさそうだ。
三歩目。記憶の糸が、震えた。
この半年、俺はずっと、この足音から逃げてきたのだった。それを、今、思い出す。
心臓が肋の奥で激しく脈打って、それなのに、手足は冷たく痺れていった。
近付くたびに、俺は一歩、また一歩と後ずさるのを止められなかった。髄の底にまで刻み込まれているのだ、俺の体には。
小さな木の椅子が置いてあるくらいの、罪人を一時的に拘留しておくためだけの狭い独房である。逃げる先などもうない。とうとう背中に壁があたる。追いつめられ、俺は、足音が行き過ぎるのを祈っていた。
幼い頃、夜になる度に同じ思いをしてきた。この足音が扉の前で止まる度に、俺は絶王する。そして何もできず、何も考えられなくなり、ぼんやりと、手を引かれ連れていかれるのだ。
地獄へと。
足音は俺を逃さなかった。きっちり扉の前で止まり、鍵の開く音が独房の石に反響し、俺は思わず目を閉じた。一二〇の銃口よりも、余程怖かった。
その暴力には、目的がないからだ。
いくつ銃口を並べても、どれだけ弾丸に晒されても、俺を殺すという明確な目的があるのなら、怖いとは思わなかった。俺が殺される理由がわかるから。
理由もなく、目的もなく、一方的に向けられるものの正体を、俺はまだわからない。
......それで、いいのか?
俺は俺自身に問いかける。
勝負をしにきたのではなかったか。
叩かないでと媚び諂い、身を竦める飼い犬の在り方を否定しにきたのではなかったか。
勝ちたいのではなかったか。
俺は怯懦し、半年前に戻りかけた精神を無理矢理に前に押し出す。
敗けたとしても、勝たねばならない。でないと、俺はどこにも進めない。
深い岩穴から、飛び出さなければならないのだ。
扉の向こうでは人払いを命じる声が聞こえた。為政者と反逆者を二人きりにさせることは許されなくても、父と子の対話は許される。そうやって、過去、この男の、俺への異常な執着は隠蔽され続けてきた。親の躾に口を出すな、これは愛情だ、と、自分自身に免責状を出していたのだ。
違うだろう。お前のやってきたことは、俺を壊すことだった。
ついに扉が開かれ、俺はその男と対峙する。
父親だと? 笑わせるな。
俺は両膝を床につき、従容と手錠に繋がれた両手を折り合わせて項垂れた。
「二の王子よ」
扉が閉められ、錠の降りる音が残酷に響いた。
「何故だ」
俺は、顔を上げた。
以前の俺ならば、押し黙り、その沈黙に苛立った父王が声を荒げ、余計に萎縮した俺はなお言葉を止めて、その怒りが鎮まるまで、ぼんやりと鞭打たれていた。
真正面から、目が合う。
そういえば、俺は、父王が、どんな目で俺を見ているのか知らなかったかもしれない。
いつも目を逸らしてきたものだから。
父王の瞳に映る惨めな子どもに見つかりたくなかったものだから。
今、墓石のような黒い眼球の中で、こちらを睨み返す者がいる。
あれが、俺だろうか。
思っていたよりも俺は凶暴な顔をしていた。震える仔犬だと思い込んでいたけれど、なるほど、これは、毛を逆立てて俺に噛みつこうとして暴れたブランカの形相だった。
父王が殴りたくなるのも肯ける。殴られたことが忘れられずに、撫でようとした手まで拒絶するようになってしまったのもまた、肯ける。
「余は、こんなにもそなたを愛しているというのに」
その言葉は、思っていた以上に、俺を打ちのめした。
罵倒されたほうが、まだ冷静でいたられのに。
愛しているという言葉の意味が、わかるようになってしまった。
俺もあの子を愛したから。
「陛下が愛されおられるのは、俺ではないのだと、考えます」
何故、とは、俺はもう問わない。
わかってしまった。この男が他の二人の王子には見せない、異常な執着を見せるわけ。
愛していたのだ。
あの傲慢で、冷酷で、欲深くも聡明な、故に追わずにはいられない女のことを、この愚かな男は、真実、愛していたのだ。
それなのに、彼女はこの男の元を去ってしまった。抱きしめていたはずなのに、その腕からするりと抜け落ちてしまったのだ。
そういうことだったのだ。
ゼファーを失くして、俺は、皮肉にも愛情というものを知った。
悲しくて。
寂しくて。
ひとり、暗がりに残された男は、上手に人を愛せなくなってしまった。
理解できたのに。やっとわかったのに、どうしてこんなに虚しいのだろう。
俺はゆっくりと、父王に背中を向け、それから、見せつけるように振り返る。怪訝そうに眉を寄せる父王に向かって、俺は、刺し違えるつもりで最大の禁句を口にした。
「この角度が一番、似ているでしょう?」
誰に、などと今更言わずとも通じる。父王の顔が、怒りに青ざめるのを、俺はどこまでも意地悪く観察していた。
「無駄なことをなさいますな。陛下の努力は宛先を間違っていらっしゃいます。だからどれだけ送っても、相手に届かないのです」
この手に留め置けなかった女の代わりに、彼女の影を束縛したとしても。
支配できなかった誰かの心の代償に、暴力で隷属しようとしたとしても。
俺は、あの女ではないのだから。
「アンタが俺を愛しても、俺はアンタを愛さない」
殴っても、叩いても、殺されたとしても、俺はもう二度と、この男の所へは戻らない。
「あの女に、会ったのか」
父王の声は、寒くなるほど平坦であった。
「会いました。毒婦というのは、ああいう女を言うのでしょうね」
「何を吹き込まれたとしても、信じるでない。お前は我が――」
「愛する息子だ、なんて、言わないでくださいよ」
諸々、全部、今吐き出す。どうせ俺には、輝ける未来など望めないのだから。
「アンタのその感情は、ただの執着だ。俺を愛していたわけじゃない。勘違いも甚だしい。どうして俺なんだ。俺でなくったって、いいじゃないか!」
偽りなき、俺の真心であった。
俺は、この男が、憎かった。
「二よ、何故わからぬ。余はこんなにもそなたを思っているのと言うのに」
「わかるもんか! もう厭だ! 俺を放せ! 俺にしがみ付くな!」
「二よ、愚かなる息子よ」
その男は何の予備動作もなく、俺の首に両手をかけた。
表情もなく、暗い、暗い、底なしの絶望が二つ、俺を見ていた。
「愛しておるのだ。こんなにも......それなのに、何故、わからぬか!」
墓石の瞳から溢れる涙を、俺は確かに見た。
泣くなよ。
アンタが泣くと、俺が泣けない。
首を絞める指が、伝わらない愛情の代わりに喉に食い込んで、息ができない。
壁に押し付けられ、爪先が浮いて、いよいよ視界が眩む。
死ぬか? そういう結果でも俺は別に構わない。
俺を殺したら、子殺しの王として未来永劫、謗られる。それが俺なりの復讐だ。
「アンタの、敗けだよ、お父様」
命がけの捨て台詞の後、喉の奥でごり、と何かが押し込まれた。
骨、折れたかもしれない。
そう思った時。
扉の向こうで、甲高く叫ぶ声が聞こえた。鍵のかかった扉を開けようとして、無駄だと知り、駆け去る気配。間もなく乱れる足音やら、怒号やら、音が渦巻いて、不意に首から指が外れた。
いかん、俺は助かってしまったらしい。
四つ這いになって咽る俺の背中を摩る手があった。
ルイーゼ、と名を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
「お止めなさい!」
俺の代わりに、誰かが金切声で叫んだ。
「何をしているのです!」
「お母さま!」
勇気ある姫君は非難の声を上げて俺を庇ったが、敢無く護衛に抱えられて、きゃんきゃん喚きながら独房から連れ出されていった。
「ふ......ははっ」
潰されかけた喉から笑い声が飛び出すのを、俺は止められなかった。ぎょっとしたように独房の守衛が振り返る。俺は構わず、ひとり、笑い転げた。
これが、笑わずにいられるか。
それからほどなくして、審問官が俺の独房を訪い、規定の通り聴取を行い、王族を裁く際の特例として審問許可書に署名を求めた。これを許諾すると、俺はたとえ拷問にかけられたとしても、俺自身がそれを許すことになり、誰かが止めてくれない限り何をされても良いということになる。その代り、審問官はいかなる場合においても俺の発言に耳を傾ける義務がある。王族の持つあらゆる特権を無視して、審問官は必要とあらばどんな質問をしても許されるし、俺も自分に都合の悪いことは言う必要はない。
無論、俺はもう逃げるつもりはないので、そこに名を書き入れた。
審問官は仰々しくそれを翡翠の箱に入れて鍵を掛けると何故か俺を置いて独房を離れた。
様子がおかしい。胸を過る不安の影に、ふと、最悪の可能性に気が付いた。
しまった、と、臍を噛んだがもう遅い。
審問官と入れ替わりに、王の近衛隊が乱入してくる。
「本日正午に予定されいた審問議会は中止されました。軍令違反及び、不敬罪において、再度、貴方を逮捕します。国王陛下の御命令により、シュレスタン監獄へ移送します。反乱容疑についての審問は、シュレスタン監獄で執り行うことが決定しました」
ただで済むとは思っていなかったが、審問台に立てないのは拙い。弁明の余地がなくなる。繋いでいたはずの命綱があっさり切れて転落していくのを感じて、さしもの俺も焦った。が、打つ手がない。
あそこに入れられたら、気が狂う。
待て、釈明をさせてくれ。
焦って叫ぼうとして、開けた口に轡をねじ込まれる。目隠しをされ、鉄の輪の手錠のかわりに、背中に革手錠で固定され、砦から連行された時よりも絶望的な状態で、俺は近衛兵に引きずられていった。監獄からのお迎えに引き渡されたら、今度こそ助からない。
後悔は、いつだって後になってからするものなのだ。
■
抵抗したのだ、これでも。
しかし、どうにもならなかった。
焦りのあまり、拘束を解こうとして、反って悪戯に体力を消耗してしまった。間抜けな結末である。頭に血が上ると前後不覚になるのは、もはや性分と言ってよい。
いや、さすがにもう笑えない。
嫌な汗が絞め痕の残る首に滲んで、そこへ轡から漏れた唾液が伝い落ちてきて、解けた髪が纏わりついて、非常に不快。
金属の鳴る音が煩い。火の弾ける音も、先ほどから止まることのない誰かの陽気な鼻歌も、煩くて、思考がまとまらない。
蒸気で衣服が湿って、肌に張り付いて、本当に、いちいち不快。
自分の鼓動さえも煩く感じる。
頭が痛い。
割れそうだ。
誰かに抱えられて、俺は温存していたなけなしの体力を振り絞って抵抗する。
「あー、こらこらこら。暴れない、暴れない。こわくないですよー」
ひゃらひゃら笑う。その声に、古い、嫌な記憶が甦った。
シュレスタン監獄の劣悪極まりないこの環境にも、適応する人間はいるのだ。蜥蜴のように笑う看守に、俺は一度会ったことがある。
床に座らされ、何かの台に、後ろ手に拘束されたまま前屈みに固定される。
轡を外され、喉の奥に残るざらざらした感触を吐き出そうと、咳き込んだ瞬間。
水に頭をどっぷり沈められる。
咳き込んだがために、肺の中の空気は全部出し切ってしまった。
溺れる。
慌てて頭を抑える手を振りほどこうとしたが、無駄に終わった。全ての抵抗は徒労に終わり、いよいよ肺に重たい痛みが圧し掛かる。
溺死は苦しいと聞いたことがあるが、事実らしい。
と、不意に頭を抑える力がなくなり、俺は空気を求めて跳ねた。反射的に吸い込んだ空気は、柘榴のような、甘く饐えた香りを纏う。何かの煙を吸わされて、俺は激しく咽込んだ。まともな空気を求めて顔を背けても、煙はしつこく追ってきた。
「ひゃは! もっとたくさん吸わないと、長く苦しむ羽目になるよー。ほら!」
再び頭を沈められる。水を飲んでしまい、慌てて首を振るが、許してくれない。
意識の飛びかける直前でまた顔を上げさせて、煙を吸わされる。
そういうことを、結構な回数、繰り返したと思う。
ある時点から、あれほど苛まされていた頭痛が沈静化していた。ほろ酔いのような、淡い昂揚感に満たされて、俺は「おや?」と内心首を傾げた。ひょっとして俺は治療されている? いやまさか。
どのみち抵抗するだけの体力も残っていないので、俺は少し、相手に身を任せることにしてみた。俺が大人しいのを、相手は誤解したらしい。
「お! やっと効いてきたみたい」
水から引き揚げた俺の顔を覗き込んでいるのだろう、すぐ耳の横で声が聞こえた。
金盥をひっくり返す、派手な音が響いた。台の上に落ちたままの俺の頭を横向きにした時、運よく、目隠しが半分落ちて視界が確保される。
小さな金の香壺が見える。煙の正体はこれだったか。
「結構頑張ったねー、酔魂香がほとんど残っていないよ」
それとは別に、背後から別の声が聞こえた。
「一気に摂取させるのは優雅ではありませんね」
「えーなんでー」
「正気と狂気の間で彷徨っているところを、快楽で突き落とすのが技術というものです」
「うっわエゲツナイ!」
ご機嫌に奇怪な哄笑を上げながら、看守と思しき相手は俺の拘束を解いていく。まだ、俺は動かない。奴が完全に油断して俺の真横に屈んだ瞬間。
俺は奴の首を抱えて、関節を極めた。ぎえ、と奇声を上げたが、奴は何故か楽しそうに笑っていた。目隠しは微妙なところで引っかかって取れない。視界のほとんどを遮られたままでは、やはり圧倒的に俺が不利であることに変わりなかった。
「おや。確かに吸引していたように見えたのですが」
俺は声のした方を振り返る。注意が反れた、その時。
「あんまりカゲキだと、哭いちゃうでしょー」
こめかみと耳に、衝撃。平手で急所を打たれて、平衡感覚を失う。腕が緩んで、俺はせっかく捕まえた敵をみすみす逃してしまった。
重心がぶれる。関節に力が入らなかった。体勢を立て直すことができずに、そのまま背後に倒れる。とにもかくにも視界を確保しようと目隠しを剥がすと、頭上から何かが降りかかってくるのが見えた。避ける時間も余力もないので、顔を庇って受け身を取る。
倒れてきたものを見て、俺は、ぎくりと息を詰めた。
人体だ。
死体だと思い、飛びずさる。女の死体だ。
新雪のように白い肌。死斑もなく、純潔である。しかし、仰向けに床に転がるそれの腹部が、冗談のようにばっくりと裂けていた。中を暴かれ、臓器が露出している。燭の光を受けて、じっとりとした光沢を放っていた。
腹の底から込み上げてきた怖気に、口元を覆って後ずさると、背中に何かあたった。
振り向くと、鹿の頭の剥製よろしく、人間の胸部から上が額から飛び出している。その顔は男か女かわからぬほどに、皮膚が溶け落ち、筋と眼球がだけがやけにくっきりと浮き上がって見えた。
見渡すと、広大な空間に硝子の棺が並んでいるのが見えた。棺は空のものもあれば、液に満たされたものもあり、中には死体が収められていた。五体満足の死体もあれば、一部が欠損したもの、あるは、一部しかないもの、様々だ。棺は妙な機械につなげられて、その奥では、人一人すっぽり収まるほどの大きな金属の樽が並んでいた。
「あ......」
俺にだって、茫然自失となる時はあるのだ。
燭に照らされた死体に視線を戻すと、光のない瞳と目が合ってしまった。恍惚と笑みを浮かべて俺を見上げる死体は、こんな有様になっても麗しく、あどけなく、まだ幼い顔をしていた。まだ成人していない。俺と、同じくらいの、少女の顔。
どうやら蝋人形であるらしい。むしろ、そうであることを願う。あまりに精巧すぎて、死体をそのまま防腐加工したようにしか見えないほどだ。
悪趣味極まる毒に中てられて、思考停止してしまった俺の両手が捕まる。
我に返ったときにはすでに鉄枷に噛まれていて、繋いだ鎖が激しく頭の上で吠えたてた。
滑車が天井で鎖を巻き上げる。あっさり吊り上げられて、俺はようやく、自分が相手にすべきは悪趣味な人形ではなくて、その主である、生きた人間であることを思い出した。
「ひゃっは。油断も隙もないねぇ! ひさしぶりぃ、憶えている?」
シュレスタン監獄の、蜥蜴笑いの看守は俺に見せつけるように自分の耳を指さした。小さな鉄の輪やピンが耳殻にそってぎっしり並ぶ中、耳朶にぶら下がる石だけ、垢抜けていた。その蒼い色の宝石に、俺は見覚えがある。
「あー、やっぱり憶えてた? うっれしいねー! ひゃはは。全く、こういうことしちゃ駄目よ? 二つに分かれたものは一つに戻ろうとして運命を引き寄せるものだからねぇ」
爪先はほとんど浮いている。全体重が手首に掛かって鬱血するのを防ぐには、自分で鎖を掴んでいるしかない。それも、いつまでもつか......。
看守は「ちょっと見ない間に逞しくなっちゃって」と、自重で伸ばされた俺の脇から肋骨にかけて、無暗やたらに撫でまわす。
「ようこそ狂気へ。それとも、おかえりなさいませ、かな?」
不快感も、そろそろ限界に近い。俺が睨むと、看守の三白眼の気のある瞳が僅かに揺れた。しかし、それは俺に怯んだわけではなくて、むしろ、その逆。
「いいねぇ。ぞくぞくするねぇ。アンタのこと前々から気に入ってたけど、惚れたわ」
「そうか。じゃあ、惚れた情けで下してくれると、嬉しいんだが?」
「だーめ。俺、好きな子は虐めたいの」
そんなことより、と、看守は突然笑うのを止めて、乱暴に俺の顎を掴むと、触れそうなほど顔を近付けて俺の目を覗き込む。
「何でお前、トンでないの?」
察するに、俺が嗅がされた煙は神経毒の類のものらしい。俺が異常体質故に片頭痛に悩まされるという、藪医者マシラの診立ては、間違ってはいなかったというわけか。
「相性が悪かったんだろ。残念だったな」
「ええ、そうですね。酔魂香が効かないとなると、辛い思いをされることになるでしょう」
別のところから返事があって、俺は視線だけ向ける。
本物でないことを願うほどに精密に再現された人間の臓器が、絵画のように豪奢な額に飾られて壁に掛けられてならんでいる。頭を割られて中を露出させた胸像や、頭蓋骨の燭台の間に紛れて、これもまた、人形かと思うほどの美形が一人、腕を組んで壁に寄りかかっていた。男......いや、女かもしれない。迷うほど曖昧な顔立ちである。
美形であるのは確かだが、この狂気の渦中にあって、その者はすっかり馴染んでいた。
緩く波打つ金髪を肩に流して、剃刀のような目で俺を見る。
「第二王子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「麗しくみえるのか、これが。名乗れ」
「私はメーデルギウスと申します。光栄にも、シュレスタン監獄における殿下の審問を取り仕切る監督官を仰せつかりました。もっとも、監督とっていも私とそこの道化師しかおりませんが」
「ひゃひゃっ、こいつこれで、公爵様なんだぜぇ? 笑えるわー」
隣で蜥蜴が腹を抱えて笑った。俺も笑えばいいのだろうか。こんなのがイスガルの重鎮だと思うと、反吐が出る。
「......『星の間』か」
大逆の疑いで監獄に送られた俺に個別に接触できる立場の人間は限られている。
「ご明察でございます。賢いお方だ」
メーデルギウスは深々と頭を垂れる。
「それにしても、異なこともあるのですね。本当に効いていないと見える」
「生憎と、逆効果だったらしいぞ。自分でも驚くほど冴えている」
「それは、ご愁傷様です」
メーデルギウスは俺の足元で腸を晒して微笑む不気味な人形の横に屈むと、わざわざ黒革の手袋を取り出してはめる。そして、気持ち悪いくらいに丁寧に抱き起こすと、乱れた髪をそっと梳きながら言った。
「ここでは早く狂ってしまう方が、楽ですよ。この少女も魂を先に壊されてしまったから、苦痛を苦痛とも感じず、死を死と認識することもなく、故に恐怖もないまま、淡い夢に浸かって、永遠にこの世に美として固定されることに成功したのです」
「詩のつもりか? 下手くそだな」
「いいえ、これは、これからこの少女と同じ運命をたどる貴方への、事前説明です」
「俺の死体で型を取るのは御遠慮願おう」
「死体を? とんでもない」
メーデルギウスは人形を、とても礼儀正しく、さもそれが生きている少女であるかのような紳士的な態度で壁に立てかけてあった真紅の天鵞絨の棺へと収納する。
「死体は死体です。生体を固体にするのですよ。だからこそ、美しい」
俺は、極力部屋の奥の機器の類を視界に入れないようにしていた。
「私の趣味でして。防腐加工には自信がありますよ。生体内の水分と油脂を抜いて、固形化する溶液と置き換えるのです。そうすると、器官どころか血管の細部まで、完璧に固定することができるのですよ。ここは練習素材には困りませんが、芸術に昇華するにはあまりに醜悪な者たちばかりですから」
このように、と、芸術家気取りの変態は蝋人形の髪の一房を取り、口付した。
「どうしても手に入れたい素材に出会ったときには、多少、非人道的な手段でこちらへお招きすることもあるのです」
「まさかそれ、攫った娘じゃないだろうな?」
「さぁ。それはお答えしかねます。しかし、この少女を探している人間が、もしかしたら、まだこの世にいるかもしれませんねぇ。いないかもしれない。あるはもう見つけたのかも」
と、メーデルギウスは頭蓋骨を割られた首の置物の頬を撫でた。
さしもの俺も閉口する悪趣味さだ。
駄目だ、黙ってはいけない。黙ったら、こいつの狂気に押し負ける。命乞いでも何でもいい、喋り続けないと、魂ごと持っていかれそうだ。
艶然と、メーデルギウスは笑みを深くして俺の顔を覗き込む。
「かならずや、貴方を最高傑作に仕上げてみせましょう」
「ご期待に副えかねる。趣味は趣味だ、他言しないから、とりあえず下ろせ。わりと、辛いんだよ、この体勢。そろそろキツイ」
「おや。存外、堪え性がないですね」
「下ろせ。そして、俺はお前と話がしたい」
「嬉しい事をおっしゃられますが、それを私が許すとお思いで?」
「ああ。お前は俺の話を聞く義務がある。俺にこんなことしておいて、一方的に嬲るだけじゃあ、万一俺が生還した時に訴えられることになるぞ」
「貴方、ここから生きて出られるとでも?」
「それはこれから決まることだろう? そのための審問じゃないか。なぁ、監督?」
「口の達者なことで」
「生意気なくらいが、可愛いだろう?」
「ええ、大変に愛らしゅうございます。半年前、格子にしがみ付いて死刑囚のために涙した少年のことを、忘れた日は一度もございませんよ」
一瞬、目を逸らしてしまった。
「美しい人でした。拷問にかけるのが忍びなかった。女性であるとわかり、私の心はひどく痛みました。こんなにしなやかな四肢を捻じ曲げ、瑞々しい肌を焼け爛れさせ、若く健康な身体を破壊してしまうのは、実に悔しい思いでしたよ」
やめろ、と言いかけ、口を閉ざす。
二の鉄どころではない。癇癪で三回連続失敗するわけにはいかない。エランのためにも。
メーデルギウスは俺の反応をじっくり観察しながら、言葉を続けた。
「ことさら、彼女の首が落とされたときは悲しゅうございました。あの誇り高い野性の獣のような、強靭で、自由で、それでいて柔らかな瞳から光が失われ、麗しいかんばせが見る間に蒼ざめるのは黙ってみていられませんでした。ご存知ですか、殿下。美しいものは、ばらならになっても、美しいのです。どうです? 彼女に会いたいのではありませんか?」
「......死体は、死体だ。エランは処刑されて死んだ。それが現実だ」
「つれないことをおっしゃらずに。頭部は拷問による破壊を免れましたから、保存状態は良いですよ。ただし、頭部しか、保存できませんでしたが」
そんなものは見たくない。
だけど、会いたい、というは否定できなくて。
......何を馬鹿なことを考えているんだ、俺は。変態の仲間入りしたいのか。
反って目が覚めた。
「俺を動揺させるつもりなら、先に首を見せておくべきだったな。暗にお前は、半年前の事件の真相を知っているとほのめかしている」
「それは殿下、私を買いかぶりすぎです。私はただ、美しい死体を集めるのが趣味の、好事家ですよ。陰謀など、興味ありません」
「俺の死体なんて、面白くないだろうに」
「大変価値があるのですよ。何と言っても王族ですからね。何より、美少年というのは、ある意味、美少女よりも僅少でありますから」
「なるほど。俺の魅力を理解できるか。審美眼はあるようだな」
「綺麗な死体といえば」
やおら、メーデルギウスが俺の顎を掴んで引き寄せた。無理に負荷のかかった筋が軋んで痛む。隠しようのない緊張が掌の汗となって滲み出て、ついに、片方の指が滑った。覚悟していた以上の衝撃に、思わず眉を顰める。
「あの、偽公女事件について、私は殿下に申し上げておきたいことがありまして」
「......聞き入れよう。だから、下せ」
「まだ駄目ですよ。もう少し、苦痛に歪むそのお顔を私に見せていただかないと。さて、偽公女でですが、毒殺したのですか?」
「俺が殺したように、聖皇国では言われていような」
「あちらではもっぱらそのように噂されています。もっとも、イスガルでは誰が言い得振らしたのか、悲劇の公女は純潔なまま自害したことになっていますね。彼女が自害したのが事実であるとしたら、何故、死体を焼却してしまたのです? 死後硬直は仕方ないとして、春忘は防腐効果がありますから、きっと腐敗を免れたでしょう」
「証拠隠滅のため、と言えば、納得するか?」
「なんとひどいことをしてくれたのです。あんなに儚く美しい生き物は、もうこの世に存在しません。彼女こそ至高。貴方の代わりに、私の最高傑作となるはずでした。聖皇国からも広大な領地と引き換えてでも、彼女を手に入れたいと縋られましたよ。その紅い棺、実は、彼女のために用意してあったものなのです。その少女の寝台は、あの天涯の奥に、すでに用意されていますからねぇ」
落ち着け。
俺は、今は、怒ってはいけない。
それはわかっているのだが、どうにも、許しがたい。
いや、駄目だ。何回同じことを繰り返せば気が済む? いい加減、学習したいところだ。
「一つだけ」
俺は夜明けの風に解けてなくなる、彼女の遺灰の色を思い出していた。
不思議と、心が鎮まる。
死んだんだ。もう一度、自分のために確認する。
「火葬にしたことを、実は俺も、後悔していたんだ。二度も殺したようで、こう見えて、俺は結構気にしていたんだ。だがな、一つだけ、燃やしてしまってよかったことがあった」
俺はメーデルギウスの涼やかな顔に唾を吐いた。これでも俺は十分、冷静なつもりだ。
「貴様のような下衆野郎に、汚されなくて済んだことだけは、よかったと思うぞ」
「......結構」
「グィーダー家公女の一件も、お前が絡んでいるな? 彼女の死因の毒は、極東域でこそ有名だが、こちらでは原料になる樹は珍しいそうだ。俺は今に至るまで、毒の種類までは口外していないはずだが?」
俄かに、剃刀色の瞳が剣呑な光を帯びた。
「これは、これは。てっきり愛する少女が自らの代わりに毒杯を受けたことで消沈されているかと思っていましたが、とんだ冷血ですね」
「それを知っているのなら、俺を人形にするためだけにここに送り込んだわけじゃないと解釈するが、いいか」
「だけ、という部分については、肯定したしましょう」
「そうか、それはよかった。じゃあ下ろせ。白状すると、かなり辛い」
「よろしゅうございます。ロゼ、下してあげなさい」
蜥蜴の看守は不服そうに唸ったが、メーデルギウスの人睨みで大人しく滑車を回した。
「お前、女だったのか」
見栄を張って立ち上がるだけの体力も残っていないので、俺は床に座り込み、ロゼと呼ばれた、性別の曖昧な白い顔を睨んだ。
「うひゃひゃ。男とか、女とか、そういうの気になる?」
「......愚問だったな」
濡れて顔に張り付いた髪を後ろへかき上げて、俺は深々と息を吐いた。
「さて、尋問を再開しようか。それとも、黒幕の自白で事を収めるか?」
俺はメーデルギウスを睨んだまま、天涯を顎で指す。このヘンタイは、意図的に俺の注意をあちらへ向けさせようと、敢えて逆鱗に触れてきたのだ。
メーデルギウスは意味深に笑みを深くすると、天涯を振り返る。
「イスガル側は、このように申しておりますが、いかがでしょう?」
「うむ」
返答があったからには、中にいるのは生きた人間ということだろう。
「ようがす、そのクソ度胸に敬意を表して、直接お話しするといたしましょう」
天涯の向こうの声は、若い男のものだった。ここが監獄だということを忘れさせるような、重厚な光沢を放つ垂幕が割れて、軍靴が覗く。
深い影の中にある顔には、確かに覚えがあった。
「御尊顔を拝し恐悦にございます、で、あっているか?」
俺は嫌味を込めてアルギーニ語で挨拶をする。
アルギーニ将校の軍服姿の青年は、一応、俺の親戚にあたる。兄の嫁の兄、つまり、リドウェ=アルギーニ大公閣下であらせられる。
「ご無沙汰しております、義兄殿。かような場所にどのような御用で?」
「そう毛を逆立てるな。今日はお忍びだ」
「よいご趣味で」
俺は薄く笑って、また一つ、溜息をついた。
何が出るかわくわくしていたが、まさかアルギーニ大公のような大物がお出ましとは。
「俺をこんな目に遭わせた黒幕が知れたら、とっ捕まえて八つ裂きにしようと密かに企んでいたのですが、相手が貴方とあれば話は別です。許します。そこで一つ、この愚弟の願いを叶えてくださいませんか?」
公女の件は俺が泥を被ろう。その代り大公様には俺に協力してもらわなければならない。
「内容によるが、聞こう」
「俺はここから出たい。何とかしていただこう」
「それが、人にものを頼む態度かね?」
苦笑する大公に、俺も苦笑で返した。
「態度がでかくて相すみませぬ。これでも、命乞いをしているのですよ」
「さて、どうしようか。義理の兄弟とはいえ、他人事であるからな」
「そこを、なんとか」
ここから出て申し開きの機会さえあれば、その後は自力で何とでもしよう。何ともならなかったらそれまでだ。監獄送りになったのは明らかに俺の癇癪のせいだが、それさえなければ勝てるはずの勝負だったのだ。
「大公閣下に、改めてお願いいたします。国王陛下にとりなしていただきたい」
「取引かね? よいだろう。ところで、君は我々に何を差し出せる?」
俺は目を伏せ、少しだけ考える。
アルギーニのリドウェといえば、その二つ名のほうが有名だ。
航海王子。
大の海好きで、十七の大型帆船を個人所有している。現在、アルギーニは海向こうの大国、ヘラドと制海権をめぐって争っている。バルマティス商会はアルギーニとへラドの両方に同じ大砲を売りつけて巨財を築いた。過去、政争に敗れた野心抱く女を極東へ逃がしたアルギーニ将校がいたという。彼女の忠告に従えば、アルギーニの海戦技術にイスガルは歯が立たない。我がイスガルが多島海域へ進出することは難しく、グィーダー辺境領は聖皇国が領有している。皇国は異国籍船に高い関税をふっかけて、遠回しにアルギーニがヘラド海域に出るのを邪魔していた。聖皇国王室とヘラドは婚姻によって同じ王家が玉座に就いていた。当世の聖皇の母君はヘラド王室の公女であるから、表だってアルギーニと聖皇国が対立することはないにしても、同盟することもないと考えてよい。
バルマティス女史は、グィーダー辺境領と私兵を交換しようと言ってきている。
ひょっとして世界は俺に味方しているんじゃないか?
「グィーダー辺境領に免税特区を設け、多島海域に面する全港を解放する、というのはいかがか? 無論、グィーダー辺境領をイスガル領有できた場合の話ですが」
リドウェの、濃い金色の眉が歪んだ。肯定か否定か、読みにくい。が、すぐに外交用の整った微笑に戻ったあたり、思わず内心の動揺が顔に出てしまったということだろう。
「アルギーニにとってグィーダー辺境領など、片田舎のさびれた港町にすぎない」
リドウェはいかにも興味なさそうに俺の提案を鼻で笑ったが、それを言葉通りに受け取るほど俺も素直ではなかった。
「では、ユリディアに同じ条件でふっかけてみることにします。もっとも、ユリディアの有力者の中に好事家がいて、ここに捕らわれた俺を発見してくれたら、の場合ですが」
「それはまた、絶望的な希望だな。諦めるかは、君次第だけれどもね」
アルギーニにとっては田舎の港でも、ユリディアに取られるとなると話は別だ。故に、わざわざイスガルの頭を押し退けてまで聖皇国にあの土地を抑えさせた。ユリディアと聖皇国の王室は、互いに自分たちを「真の聖なる血統」と公言しているので、仲が悪い。
「君が彼の地を聖皇国から奪えた暁には、その取引に応じよう」
「結果というのは、出る前だからこそ取引になり得るのです。グィーダー辺境領に進軍するのが俺の連隊であるならば、兵数一万五千で開城させてみせます」
俺の虚言に、リドウェは腹を抱えて笑った。正しい反応だ。所詮、空想だ。
「君が第一王位継承者であれば、少しは騙される気にもなったかな」
リドウェははっきり俺を後援するとはまだ言っていない。俺も父王と第一王子を引きずり下ろすには城内に敵が多すぎる。これも、正しい判断だ。
しかし。
正しいだけでは、俺はこの勝負には勝てない。
ここいらで、札を変えよう。
「ところで、審問監督どのに訊きたいことが」
俺は話題を変えて、静かに死体の手入れをしていたメーデルギウスを振り返る。蜥蜴看守――ロゼといったか――は、飽きてどこかへ消えてしまっていた。
「この『審問』が本来の目的であったのなら、俺に対する数々の無礼についてご説明願いたい。返答次第では、殺す」
気にならないわけがない。俺が偶然、特異体質だったからこうしてまともに話ができるのであって、あれを嗅がされて狂ったあとでは、交渉どころじゃない。
「実はですね、貴方の死体にはすでに買い手がついていまして」
「は?」
「落札なさったのは、そちらの航海王子でいらっしゃいますよ」
「こら、待て。俺はまだ死んでいないぞ」
「ですから、死体になっていただこうと。その際、苦しまれてはかわいそうですし、負荷をかけずに永眠していただくのが一番美しく仕上がりますから、酔魂香を使用しました」
もしかしたら、俺は、とんでもなく奇蹟的に生き残っているのではないか。そんなことを考え、ぞっと固唾を飲む。
「今更、その顔ですか?」
微笑むメーデルギウスに、俺は盛大に顔を顰めた。
「製作を依頼された私としましては、貴方を生かして返すわけにはいきません。すでに前金をいただいているので大変に困っています。どうしてくれるんです?」
「俺についた値段が保釈金、という解釈でいいか?」
冗談がきつすぎて、むしろ他人事のようだ。
「わかった。失敗したら、素直にこの身をくれてやる。お前の趣味を考慮するに、足掻くだけ足掻いて堕ちてくるほうが、面白かろう?」
「自らそれを言いますか。当方としましてはそれで結構。それ以上、体に傷をつけないでいただけるのなら、よろしゅうございますよ。依頼主どのの意向を伺ってください」
こちらも結構、と、リドウェは天涯の影で笑っていた。
「お買い上げありがとうございます、義兄上」
「嫌味を言うな。金を払ってここから出してやるんだから、もう少し媚びたらどうだ」
「靴でも舐めましょうか?」
「それは遠慮する。つむじ曲がりの君は信じないかもしれないが、私は、君がこの死線を潜り抜けることを期待していたのだよ。だからこそ、好事家たちを黙らせて財布を出したのだ。とりあえず、生存、おめでとう」
黙って見ていたくせに、と俺は思わずにはいられない。
「普通の人間なら、死んでますよ」
「普通じゃないところを、確かめたかった」
そんな無茶な、と、俺は無言で呆れて天井を見上げた。
地下なのか、暗い天井は高く淀み、果てを知らない。
リドウェはやおら椅子から立ち上がると、体力の限界でへたり込んでいる俺の前に膝を付いた。屈んだだけ、にしては、優雅すぎる。さすがは強国アルギーニの王子だけあって、間近で見たリドウェは、思わず平伏したくなるほどの存在感があった。
「君には期待している。君はすでに、私の期待に応えてくれている。世間の言う通りの人物なら、好事家どもの蒐集物になっていたことだろう」
「ちなみに、そちらでは俺はどのように言われていますか?」
「それは君、なんと言っても王城から誘拐されて気の触れた放逐の王子で、グィーダー家の公女を攫った挙句にみすみす殺した大馬鹿者だ。当然、おおぼえめでたくはない」
「はは。全部、事実ですよ」
「しかし、実物の君は、有望だ。さらに期待に応えてほしい」
リドウェは俺に向かって右手を差し出した。
「失望だけは、させませんよ」
俺はその手を取り、片頬で笑った。
この密約に、名前はない。この世に存在するのは、女史が認めた契約書だけである。
■
雨。
それも、篠突く豪雨。
構わない。完全に停車してさえいない。御者が降りてくるのも待たずに、俺は自ら馬車の扉を押し開けて外に出た。一刻でも早く、外へ、世界へ、出て行きたかった。
「風邪を召されますよ」
メーデルギウスが自分の上衣を外そうとしたので、睨んで止めさせる。
「いい。身が穢れたから、洗いたい」
この変態は、真実「星の間」に籍を置く大貴族であったらしい。「星の間」を意味する、紫紺に正座を意匠化した銀糸の刺繍の施された外套を付け、イスガルの国花を象った大勲位頸飾を懸けていると、それなりに威厳を感じるから不思議だ。
シュレスタン監獄から出る馬車に人は乗っていないのが普通だ。何故なら、生きて出ることは叶わないから。だから夜中、角燈を揺らしながら駆けていく監獄の馬車を見かけたら、それは囚人を迎えにいくためである。監獄からきた馬車の車輪の音は不吉だから、善良なる民は耳を塞いで行き過ぎるのを待っている。
どうか、その馬車が自分の前で止まりませんように、と。
そんな死神の馬車に送られて、俺はちゃっかり王城に戻ってきた。
リドウェは嫌がらせの謝礼に、いくつか明るい情報をくれた。モルドァ中佐が、俺が朱レスタン送りになった直後に、聖皇国からの親書を持って俺の無実を嘆願しに王城に乗り込んだらしい。健気な奴である。ロイを弁護人につけ、目下、無罪放免を嘆願中であるという。父王は、さぞ気に入らないであろう。
もう一つ。誰が流布したか、俺の背中に消えない傷があることも、同情という形で世論を味方につけることに成功した。隣国ローハンの王室も、北方大帝国の皇帝も、若く幼い第二王子に慈悲と寛容を求めた。これもまた、父王のお気に召さぬことに違いない。
第一王子と大妃も親皇国派を後ろに並べて擁護に回っているという。誰のせいだ、と言いたいところだが、今はその時ではない。
小妃だけが、第二王子の反逆容疑を厳しく言及するよう訴えている。一方、実の娘であるルイーゼ姫はそのことで激しく母と対立し、とうとう自室で反省するよう言い渡された。
崖っぷちで突き落とそうとして吹き荒れた向風が、いざ落ちてみたとたんに、天空高く巻き上げる追風に変わろうとしていた。
「しかし、凄まじい雨ですね」
メーデルギウスが馬車の中から灰色の空を見上げて言った。
「天候不順。嵐になりそうですね」
「俺はこの嵐を乗り切ってみせる。もう失せろ。お前の顔を見ていると、虫唾が走る」
「まあ、それだけのことは、していますからね」
メーデルギウスは喉の奥で笑うと、去るどころから、馬車からのっそり身を乗り出すと、俺の肩に手を添えた。
「脅かして申し訳ありませんでした。大丈夫ですよ。生きたまま死体にすることはできません。そんな技術は、まだこの世にあってはいけないのです」
俺は視線だけ向ける。
「倫理よりも技術は先行するものだ。アンタの芸術の生贄になった人間たちに、呪い殺されないといいな」
「ええ、ありがとうございます。ただ、気になるのは、まるで私の手から逃れたような、その言いぐさですね」
メーデルギウスは外套を外して、俺の肩にかけた。
「忘れてはいけませんよ。貴方は一度、この手に堕ちた身の上です」
「その時には、お前を呪い殺してやるから覚えておけよ」
俺は奴が甲斐甲斐しく着せた「星の間」の象徴を羽織り直し、暗い空を見上げた。
この特有の外套に施された星座の刺繍は、一人一人違うのだ。公爵で、アルギーニと深く結びつくメーデルギウスを後ろ盾に、反皇国派として名乗りを上げる。その俺を最も疎んじ、排除しようと躍起になっているのが小妃であるというのは、皮肉なものだ。
「国王陛下は射撃訓練場においでです」
「この雨のなか?」
「雨音にかき消されて、銃声が響きませんから。それでは、御武運を」
ようやく去って行った死神の馬車を見送ることなく、外套の頭巾襟を目深に被る。メーデルギウスが先に手回ししたのだろう、道中、警備兵に呼び止められることはなかった。「星の間」の皮は、雨に濡れてどんどん重さを増していく。豪雨の中、濡れた裾を引きずって歩く様は、我ながらさぞや不気味なことだろう。
奴の言葉通り、父王は廂のついた的場にいた。従事の者たちは石のように押し黙り、王を見守っている。招かれざる訪問者に気付いた一人が、不審げに俺に向かって黙礼した。
「これは、メーデルギウス様。珍しゅうございますな。御約束はなかったはずですが」
あからさまな敵意に、俺は、メーデルギウスが「星の間」の中でも国王に反する人間であることを知る。俺は黙って隠していた顔を露わにした。
瞬間、従事の顔が一気に蒼ざめる。異変を察した取り巻きたちも、一斉に俺を振り返った。中には悲鳴を上げた婦人さえいたくらいだ。
父王だけが、振り返らなかった。
雨で煙る視界の果ての、小さな的を過たず撃ち抜く。父王の影で、俺に毒杯を届けた老人が、もとから皺だらけの顔に、さらに皺を刻んだ。あれで、笑顔のつもりなのだろう。
「まだ生きておったか」
父王の声は、いつものように静かであった。
「父親にこれだけのことをされれば、私なら自殺するだろうに」
「先日は、無礼をいたしました」
俺は「星の間」の威光を羽織ったまま、父王に跪く。不思議と、もう怖くはなかった。
怯えて震えながら、父王の一挙手一投足に敏感に反応していたのが、遠い昔のことのように思える。いや、そうやって恐怖を覚えていたからこそ、病巣を突き止めた今、この世で誰よりもこの男を理解できる自信があった。きっとそこの爺さんよりも、俺のほうがこの男のことを知っている。
それは、実に、気分がいい。
「無礼については認めますが、陳謝はいたしませぬ」
「そんなことを言うために、戻ってきたのか。去れ。お前の顔など見たくない」
「いいえ、まだ去れません。陛下、私は反逆を企てたことは一度もありません」
「黙らぬか」
「黙りません! 私は砦を預かる者として、国土へ銃口を向けた覚えはありません!」
「黙れと言ったのが、聞こえぬか!」
雷鳴か、怒号か。
俺は父王から目を逸らさなかった。
逃げない。
いや、本当は、今だって逃げ出したい。
だけど、この世界のどこにも俺の逃げ込む場所はない。
だから、駆け出した。運命など振り切るほど、速く、速く、もっと速く。
「私は無実です。反逆の意志はありません。王位を簒奪するつもりもありません」
「しかし、そなたは余に楯突いた。そのことについて、何と釈明する?」
まだ、俺の首には誰かの指のあとがくっきり残っている。
「そのことについては釈明いたしません。陛下の御心に背いたことは、認めます」
雨の中、銃声が一つ、高らかに響いた。
運悪く居合わせてしまった者たちは、皆、頑なに沈黙を守っていた。
「何故だ」
今の一発で弾丸を使い切ったのか、父王は将校に支給しているお仕着せの長銃を台に置いた。そして背後に立てかけてあった、使い慣れた愛銃を引き寄せる。
「何故、そなたは余に背いたのだ」
「それは、陛下が間違えたからです」
「王が間違うことはない。間違いがあったのだとしたら、そなたの方だ。立て」
命じられれば、俺は従う。
「その忌々しい化けの皮を剥がして、的の前に立て」
この「星の間」の外套のことだろうか。それとも、俺の外面のことだろうか。命令には従って、外套を外して雨の中、ほぼ全弾、狂いなく中心を撃ち抜かれた的の前へ進んだ。
不穏な気配を察して幾人かが身じろいだが、結局誰も何も言えずにいる。
父王は愛銃を構え、ぴたりと俺へと......的へと、照準を定める。
こんな時に、俺は思った。
父王が、俺を見ている。俺だけを。
愛したのに腕をすり抜けた女の面影でもなく、第二王位継承者という予備でもなく。
俺という個人を、見つめている。
「そなたは密かに反逆を企て、聖皇国と結託して砦兵を煽り、武装蜂起を扇動したのだ」
「違います」
水煙に霞む視界の果てで、火花が散った。破裂音と、真後ろの的に穴が空く音が、鼓膜に重く鋭く響いた。
「そなたは国王を愚弄し、王位を簒奪しようと『星の間』と取引を交わした」
「違います」
今また、弾丸が俺の顔の真横を掠った。今度は一発目よりも精度が高い。疑惑も、半分だけは当たっていた。風圧で耳の縁が切れで、じんと熱い痛みが押し寄せる。
硝煙の匂い。雨の音。静かだった。
「大逆である」
「違います」
「覚悟せい。次は、心臓だ」
「それが陛下の決断ならば、私は従います」
「......モルドァに唆されたか」
「違います」
「聖皇国から賄賂を贈られたか」
「違います」
「目を覚ませ。そなたに毒を吹き込んだ者の名を言え。余は父として、王として、そなたを巨悪から守ってみせる。そなたが正しさを取り戻すというのなら、余は罪を許そう」
「陛下こそ、目を覚ましていただきだい」
罪人で構わない。俺は、この暗い穴倉から出て行きたい。
戦いたい。俺はまだ一度も、戦えていないんだ。
「陰謀である可能性は、残念ながら否めません。私と陛下の仲を裂こうという魂胆であるのならば、私は見事に術中に嵌りました。しかし、違うのです」
「何が違うか、申してみよ」
「これは、私の意志にございます」
「そのように思い込まされ、操られておるのだ。憐れなことよ」
操られているのはアンタのほうだ、と俺は思った。あの狡猾な女のことだ、陛下が俺に執着を抱いていることを知って、俺を餌に陛下を釣ったのだ。俺が陛下に噛み付くことをわかっていて、陛下も俺には構わずにはいらないとわかっていて、俺たちを手玉に取って、イスガルを聖皇国との全面戦争に導こうとしている。
その稀代の悪女の血の半分が、俺の中には流れているのだ。
「私は私のために、生きるために、父王に抗いました。それを間違いだとおっしゃるのなら、どうかその引き金を引いてください。父王の弾丸で死ぬのなら、異論はありません」
「命を以って無罪を主張すると? 大した覚悟だ」
「我が血がイスガルの栄華の糧となるのなら、本望にございます」
「直れ。他に言い残すことはあれば、聞いてやる」
「私はイスガルのために戦えます! どうか機会をお与えください!」
俺は、割と本気で死ぬ気で敬礼した。ここで父王の手にかかって死ぬのが、最も劇的で綺麗な終わり方だと考えていたのだ。
雨のせいで視界が悪かったから、父王が引き金を本当に引いたかどうか、俺にはわからない。ただ、いつまで経っても銃声は響かなかった。
「弾が詰まった。つくづく、悪運の強いことだ」
父王は短く言い、銃を下した。
「そなたの忠誠の真贋のほど、見定めさせてもらおう。着替えて謁見の間へ出頭せよ。第一王子と『星の間』を交えて緊急軍議を開く」
「は! 陛下の慈悲と恩赦に、必ずやお応えいたします!」
雨はまだ、あがりそうにない。
髪から滴り落ちる滴が冷たいと感じられるほどには、俺は、冷静であった。
■
ユリディア籍の軍艦がグィーダー辺境領に寄港しようとしている、という情報がアルギーニ側から齎されたのが昨夜のことであったというから、俺が監獄の地下でいびられている頃にはすでに事が進んでいたのだろう。
そして俺が当初の予定通り、あそこでぽっくり逝っていたら、何の命綱もないままイスガルは海戦に引きずり出されていた可能性が高かった。あるいは粘って陸戦に持ち込んだとしても、我が軍は重大な損失を被ったに違いない。
聖皇国側はまだ気付いていないのか、何の音沙汰もない。
全てのカラクリを知っているのは、俺だけであった。
緊急軍議に召集された顔ぶれの中に、新参者が二人。
俺とモルドァ中佐である。
軍議はわかりやすくていい。誰が呼ばれたかで、結論はだいたい見えている。賢い者は地獄から甦った俺の顔を見ただけで、概ね誰が出撃するのかわかったようだ。鈍い者は、ただ驚愕するばかりであった。
ちなみに第一王子は鈍い方の人間であった。その鈍さは、あるいは良心とも言う。その顔には微塵も厭なところはなくて、自分の母親が裏で何をしてきたのか知らないからこそ、俺に寛容でいられるのだろう。
反吐がでる。
ユリディアはグィーダー辺境領に侵攻するつもりがあるのか、という問いが挙がり、それについて父王は事実だけを答えた。軍艦が寄港要請を出している、と。それに対してアルギーニが警戒網を張っているのもまた、事実であった。
通商条約により、聖皇国は貿易船の停泊を許可しているが、軍艦は御遠慮いただいている。それを無視して乗り込もうというのなら、それは侵攻と受け取られても仕方ない。
出撃は聖皇国から要請を受けてからだ、とする意見が大半を占めた。これは正しい。
反皇国派の中には出撃自体に難色を示す者もいた。
俺だけが、父王の真意を知っている。俺だけが、その悲願を叶えられる。
俺だけが、この勝負に勝てるのだ。
正しいだけでは勝てない、この勝負に。
「発言の許可を」
昨日の夜まで監獄に入れられていた人間の堂々の介入に、モルドァでさえ眉間を歪めた。しかし、父王の返答は「許す」であったのだから、誰もが唖然と押し黙った。
「これは、十五年前に不当にも領有を認められなかったグィーダー辺境領を得る千載一遇の機会かと存じます」
何を馬鹿な、という呆れ顔が大半。お前頭大丈夫か、という心配げな顔もいくつか。そのうちの一つは第一王子で、思わず彼は立ち上がった俺をいなしたほどだ。しかし、俺は大胆不敵の発言を敢行した。ここで指揮権をぶんどらないことには、やっと繋いだ生命線がぶちぶち切れいく。メーデルギウスの剃刀色の瞳と目が合いそうになり、少し焦った。
「元来、グィーダー辺境領は、多島海域の戦役において聖皇国に多大なる貢献を果たした、イスガルが領有するはずでした。その盟約が聖皇国側から一方的に破棄されたのです」
俺は言葉を選んでいた。できる限り、反皇国側に聞こえのいいように。
「聖皇国はもっとも永く仕えた我らイスガルの忠誠を軽んじたのではありませんか? そのことについて、我々は声を大にして世界に訴えるべきなのです」
親皇国派は血相を変えた。反皇国派もまた、顔色を変えた。肯定的な色もあれば、否定的な色もある。ただ、反皇国派の代表格である小妃の実兄のご機嫌は芳しくない。そうであろう、このままでは俺が反皇国派の先導者となってしまう。苦労して作り上げた勢力を横から掻っ攫われて、心中穏やかではないはずだ。
放逐王子の配下か、それとも第三王位継承の叔父か。さあ、どちらを選ぶ?
「諸侯はいかが思し召しか。イスガルは聖皇国の第一の僕であれば、それで満足か。このまま永遠に狗の国と侮られ、そういう未来で満足なのか!」
茫然。それが諸侯の反応であった。
俺は集められた人間の中で最も若齢であった。砦に飛ばされている間に十五歳になり、誰にも望まれぬまま軍議参加権を得たばかりの、小僧である。ましてや短絡的で、女難の相の濃い、ろくでなしの......子どもだ。
子どもだからこそ、未来を望む。
歩いてきた自らの足跡ではなくて、これから始まる別世界を夢見られる。
「二の王子」
俺をそう呼ぶのは、父王だけである。
「そなたは、聖皇国に反旗を翻すと言うのか」
「これは正統なる主張であります」
「オストヴァハルの皇帝に向かって、同じことが言えるか?」
はい、と俺はしっかり肯いた。
「異国籍の軍艦の脅威から聖皇国領を守護する目的で兵力と軍資金を提供するが、その代償にイスガルは本来の所有者としてグィーダー辺境領を貰い受けると宣言するのです」
これには当然、反対の声が上がった。罵詈雑言も飛びかったが、俺は無視を決めていた。
喧々囂々、言うだけ言わせて、そろそろ出尽くしたところで俺は再び口を開いた。
「もとより全ての要求が受け入れるとは考えられません。ゆえに、占領の既成事実を図るのです。成功すれば西南部の脅威を排除するだけでなく、アルギーニとの同盟関係が深まり、海路交易による収益が見込めるでしょう」
不可能だ、と誰かが言った。
「私なら可能です。私に指揮権をお与えください。この度の一件について、汚名を返上いたしたく存じます。必ずや、グィーダー辺境領をイスガルに帰属させてみせましょう」
俺の戯言に俄かに議場が騒然となりかけた瞬間。
「諸侯」
父王の声は静かであったが、場を黙らすには十分であった。
「この中には、余とともに戦線に立ち、供に闘ってきた同胞も多い。そうでない者も多い。が、此度は過去の功績は問わぬこととする。過去の罪も。故に、忌憚ない意見を聞きたい」
父王はそこで一度、たっぷり一呼吸置いて全体を見渡した。
「余はすでに老いさらばえ、戦線には立てぬ。この件、我が息子たちに任せようと思う」
初耳だったのか、ぎょっとしたように第一王子が父王を振り返った。父王が第一線を退くのが今だというのは、さすがに俺も予想せなんだが、何となく、そろそろ言い出すのではないかとは察していた。一方、第一王子は露にも思わなあったらしい。つまり、俺の抜け駆けということか。第一王子は暢気にも「父上はまだまだ」とか何とか言っているが、重要なのはそこではない。
すでにこの軍議、俺が掌握している。
「一よ、そなたには何か見えている?」
父王の問いに、第一王子はきょとんと目を瞬いただけであった。
「二よ」
もはや、父王は、俺を見ていた。
「そなたには、何が見える?」
「勝利が見えます」
「それは、蜃気楼であるまいな?」
「勝利に至る道が、今は、見えています」
「そうか。では、努々その道、見誤るでないぞ」
「私のイスガルへの忠誠を証明してみせます」
その時、第一王子の表情が俄かに変じた。欲望、羨望、絶望、あるいは失望。
アンタも父王と一緒だったか、と俺は彼を見下す。父に疎まれ、皆に振り向かれず、暗がりに蹲る憐れな負け犬だったから、アンタは俺に優しかった。自分を引き立てる愚弟[いぬ]として、俺を可愛がっていただけか。
俺はもう敗けない。二度と逃げない。
「私は必ず勝ちます。それ以外に、申し上げることはありません」
「よろしい。では、決定を下す」