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狼王記原本@2013  作者: 清水さゆる
4/6

しいて言うならプロアマの境目がわかる作品

3、 尾を振る犬は叩かれない


 ひとりでいい、と俺はモルドァ中佐の見送りを断った。

「だいたい、そんなことしたら俺とお前の仲がばれちゃうだろう?」

 中佐はこめかみに青筋浮かべることなく、淡々と黙礼しただけだった。ジエンは妻子のところに飛んで帰ったし、カナンのことはサザに押し付けたので、「ロボ」が王家の紋章の入った迎えの馬車に乗り込むところを目撃する可能性のある者はいないはずであった。それでも念入りに、派手な巻き毛の鬘を着用して出た。

 しかし、それが災いした。道中、馬車に揺られるうちにこめかみが軋むように痛みだした。マシラは薬を出し渋って、丸薬を五粒しか持っていない。冷酷非道な話である。その胡椒より貴重な特効薬を服用するのが惜しまれて、俺は道半ばで鬘を外し、その後はひたすら眠ることで頭痛を誤魔化した。

 敵地に赴く時には、慣れぬことをするものではない。

 疼くこめかみに顔を顰めながら、俺は車輪の音を聞きながら微睡んでいた。

 俺にとっては転げまわった半年であった。

 俺が泥まみれになって「庶民ごっこ」をしていた間にも、時勢は刻々と変化していた。

 我々のような立場の人間は持っている情報の量が命に直結する。その辺り、ロイは落ちぶれても貴族であった。ついでに奴はいかにも女好みのする甘い顔立ちだから、社交場に出すとかなりよい戦績を収めてくる。ロイが得意の話術と、辺境の没落貴族とは思えぬ洗練された美意識を発揮して、噂好きの貴婦人方から仕入れた玉石混合の情報をモルドァ中佐が精選し、俺の耳に入れる。ときには、彼が先んじて兵の間に流した(夢見る乙女のカナンの耳には入れたくないような破廉恥な)噂の中に、時折、笑い飛ばすことのできない重大な情報も混ざっている。

 そのうち、此度の俺の急なお呼び出しに関係ありそうなものがいくつか。

 たとえば、東の聖皇国、オストヴァハルの皇姫の婿探しが始まっているという話だ。

 現オストヴァハル皇帝には直系の嫡男がいない。皇帝夫妻は仲睦まじく、愛妾はなく、しかし嫡子は女ばかりが七人。呪われているとしか思えないが、その長女、リアセトラに各国から求婚者が殺到しているらしかった。

 皇帝夫妻はこの長女に太陽のごとき無限の愛を注いで、大事に育てているという。

 ロイの話では、リアセトラ姫は品行方正、学術優秀、眉目秀麗、才気あふれる乙女であり、目下政争を回避してのびやかに御遊学中だとか。どの国の王子も結婚を狙っている。当然、我が国も名乗りを上げたに違いないが、御年二十二になられる兄上はすでに同盟国であるアルギーニの姫君を娶っており、第三王子は十三歳、生母である小妃殿下は結婚には慎重であられるご様子だ。

 俺には高嶺の花であるが、昨今の複雑怪奇な諸国の同盟関係を考えると、可能性としてなきにしもあらず、といったところである。

 同盟といえば、現在我がイスガルは大陸南部において、かなり微妙な立場にある。もとは聖皇国領の一部であったために、今でもイスガルは聖皇国のための出兵を余儀なくされている。それは我が父王が、皇家の家臣であるという固定概念に拘っているからに他ならない。聖皇国の狗として派兵し、征服し、天照煌翼[イセラ・アクィーナ]の名のもとに殲滅戦を展開して得た、血塗られた国土。イスガルの大地の下には無数の骨が埋まっている。その事実に、父王は過敏になっていた。

 父王にとって聖皇国の忠実な臣下であることは、正義であり、同時に贖罪でもあるのだろう。我が祖父は聖皇国のために殺戮と略奪を行ったのだから、父王は聖皇国に忠誠を誓うことでそれを正当化しようとしているのかもしれない。

 卑屈だと、俺は思う。

 その一方、イスガルは東の皇家と対立する西の大国、アルギーニとの同盟を狙っていた。我が兄嫁であるローハンの姫君の母親はアルギーニ国公女であり、聖皇国に対抗するアルギーニを盟主とする、ローハン、その他周辺各国の同盟に、イスガルが参加するべきか、父王は判断しかねている様子である。

 義理を果たすことはない、というのが俺の見解だ。

 皇国は、十五年前の多島海域[リキニア]戦で大陸最大にして最古の強国であるユリディアと領海権をめぐって武力衝突した際、我がイスガルの軍隊を嗾けている。海戦には滅法弱いイスガルには不利な戦争であったが、ユリディアに反目するアルギーニと結んでその戦役には勝った。その褒賞として、海域に面した皇国属領の一部を管轄していたグィーダー家が断絶した時には、イスガル王家にその領有権を認めるという盟約を交わした。しかし、結果的に戦争は聖皇国の敗北、海峡と多額の賠償金を持っていかれた皇国は、土壇場で盟約を反故にして、イスガルに退かせた経緯がある。

 ちなみに、その時に両国の仲裁を買って出たのがアルギーニで、かの国はイスガルに泣き寝入りさせることで器用に外交の綱を渡りきり、実利はなくとも仇敵ユリディアに対抗しうる聖皇国との同盟の足がかりとして、イスガルと同盟を結ぶことに成功した。その証として、聖皇国の認めるイスガルの第一王位継承者に公女を嫁がせ、結果、わが国は大陸東南部の列強連合と対立することを回避した。

 狗の国、と見下げられて幾星霜。イスガルは未だ皇国の尖兵団と侮られている。

 さて。

 もう一つ、イスガルの第二王子に関わりありそうな噂といえば、現在、王城にはグィーダー家の末裔を名乗る娘が滞在しているという。グィーダー家は十年以上も前、先の多島海域戦の開戦から間もなく絶えてしまったが、三十六歳の若さで早世した最後の当主の忘れ形見が、今頃になって姿を現したというのだ。真贋のほどは定かでないが、イスガルにとっても、聖皇国にとっても、グィーダーの名には敏感にならざるを得ない。

 グィーダー家は古くはオストヴァハル皇家の傍流を先祖とする古く尊い血統で、件の南域海峡に面している。その領地は敗戦の賠償として危うくユリディア領になるところであったが、アルギーニの巧みな外交戦略で北部皇国領として聖皇国の飛び地として残された経緯がある

 一体全体、どうやって発見されたのか詳細はわからないが、先に手を出したのは、やはり聖皇国のほうであった。その娘を皇帝の弟の息子に嫁がせるつもりらしい。無論、正式にグィーダー家の正統なる後継者として。

 そこで聖皇国はイスガルに花嫁を送り届けるよう言ってきたのである。

 地理的には、海峡、グィーダー北部皇国領、ローハン、イスガル、聖皇国という具合に、イスガルを通らない限り聖皇国に入ることはできない。かといって、イスガルがその姫を黙って通せば、聖皇国との婚姻を認めたことになる。曖昧なまま無視された盟約を、イスガルは忘れたわけではない。

 アルギーニの干渉によって皇国領となっていた辺境領の領有が、その娘如何で確定する。

 聖皇国としては娘が真にグィーダー家の末裔であることが望ましい。

 アルギーニにとっては偽物であるほうが望ましい。

 イスガルにとっては......どちらでも結果は同じだ。

 おそらく、父王は俺を婿に出す形で、辺境領の領有を再度主張するつもりなのだ。まずそのためには、俺の太子位を復活させなければならない。

 そこで、俺を戻す手がかりとして、今宵の食事に呼んだ次第だ。

 父王の意向というよりは、「星の間」でそのように意見が傾いたのだろう。こういう背景があったからこそ、半年前、俺は「流罪」で済まされた。

 砦に幽閉された第二王子を、今度は北の僻地に送り飛ばすつもりらしい。もっとも、俺には逆らうことは許されない。首と胴が繋がっているだけも儲け物だ。

 俺はいい。しかし、モルドァはそんな暢気を言っていられないらしい。俺が無茶をしたばかりに、サルマリア砦は王城を敵に回してしまった。俺が失せたら、隊は解散させられるだろうし、モルドァ自身も反逆の容疑をかけられかねないだろう。

 時期尚早。

 せめてあと二年待てば、第三王子にも結婚の話が持ち上がる。兄上にも御子ができ、サルマリア砦隊の練度も上がって、モルドァも退屈な砦守備の御役目と爵位を返上して、自由と放埓の日々に戻れるかもしれない。そうしたら、俺は真に要らぬ人間になれるのだ。

 何故、今なのか。

 そんなことを考え、ますます暗澹たる気持ちになり、頭痛も日を追って悪化して、王城までの馬車で四日の旅路が終る頃には、薬はとうに底を尽きてしまっていた。

 馬車の車輪が石畳の段差を越えるたびに、がつん、がつん、と後頭部を鈍器で殴られているような痛みに襲われる。

――血行を良くするだけでも、症状緩和します。体を温める、これ特効。私の郷では湯船に浸かると『極楽、極楽』と言います。いいですよ、お風呂。大好きです

 マシらのへらへら笑う顔と、桶に張った湯を弾く音が脳裏を過った。

 そういうわけで、王城に入った俺は真っ先に風呂を用意させ、熱めの湯を張った赤銅の桶に身を沈めた。軟禁の交換条件として風呂を所望したマシラは「極楽」と称して気持ちよさそうに浸かるが、俺は鍋で煮られているような気分である。確かに頭痛は緩和したが、王城の従事たちには「単調な幽閉生活が第二王子の精神的健康を害した」と噂された。湯気の立つような熱湯に浸かる変態だと思われたらしい。実際、マシラは変態かもしれないが、俺まで同類に括られるのは不本意である。俺の場合はやむにやまれぬ事情あってのことであり、けして趣味ではない。

 趣味ではないが、確かに、体温が上がったためか、関節が解れて、ついでとばかりに頭も解れた。俺はだらりんと手足を伸ばして、風呂桶の縁に顎を引っかけて、しばらく目を瞑っていた。あんまり俺が大人しくて心配になったのだろう、付人の気遣わしげな声に、はっと我に返り、その拍子に俺の顎は縁から外れて、風呂桶の中で、ど派手な水音を上げて盛大にひっくり返り、大恥をかく羽目となった。

 またしても、「第二王子は半年にも及ぶ蟄居で気が触れかけている」という噂が城内を駆け抜けた。半分くらいは俺が意図的にそう振る舞ったためだ。おかしくなるほど罪悪感に苛まされていたと受け取られれば、恩赦も出やすいことだろう。皮肉にも、モルドァが捏造した反省王子の偶像はそのような人物であった。そして残り半分は、実際、気が触れかけているのだろう。俺は俺の知らない間に、違う人間になりかけている。

 うっかり化けの皮の剥がれぬように、俺はこっそり、エランの形見の指輪を身に着けていた。もはや指に嵌めることはできないので、鎖を通して首に下げていた。

 この指輪は、最も認めたくない過去の俺の象徴だ。

 愛犬の死を悼むことさえできず、たった一人の理解者をみすみす死刑に追いやり、何もできず、何もしようとせず、何も感じなくなっていた、半年前の俺の姿。

 何が変わったというわけでもない。

 俺はあの日からずっと、逃げて、逃げて、逃げ続けている。それでも俺は、俺のために言いたい。今、俺は逃げ続ければ逃げ切ることができるのではないかと、期待することができる。希望と呼ぶにはあまりにも後ろ向きな思いを胸に、俺は単身、晩餐に臨んだ。

 王家の食卓は上座に父王、その右に第一王子、第三王子、左に大妃、小妃、姉妹たちとなる。太子位を剥奪されて准将に降格した俺は、本来ならばご相伴に預かれるような身分ではない。故に姫の下に位置づけられている。

 小妃の娘、つまり第三王子の年子の妹君で、十三歳になるルイーゼ姫が、俺と目が合うなり慌てて目を逸らした。

 放逐王子が歓待されるはずもなく、誰もがこの胡乱な客を忌避している。廊下ですれ違う貴族はさることながら、下男下女、城壁の石の一つにまで俺は拒絶されている。よしんば第二王子に戻れたとしても、この城に俺の居場所はもはやなかった。

 半年というのは、人を社会的に抹殺するには十分な時間であった。

 ところで、イスガル王家の食卓は質素である。

 俺を含めて九人、賓客はなく、主菜は緑豆と羊。他、野菜二品、羹が付く。野菜も大体は玉菜か大根である。砦の献立に毛が生えた程度であると断言しよう。そんな我が王家の食事は、美食で名高いユリディアには「清貧」と皮肉られる。アルギーニ王室の赤字財政を立ててなおした守銭奴宰相ベナードは、その粗末な食事を馬鹿にされたが、それでも主菜の前に四品、肉料理一皿、羹、その他に魚か野菜が四品であったというから、我が王家の食事事情の粗悪さは格別と言ってよかろう。宮廷賄費は全体でたったの四十マーラ。侍女や制服従僕たちは食費を自弁しなければならず、宮廷予算の低さでは我がイスガルは群を抜いている。そして今後も下がる一方と考えてよい。

 父王は華美と洒落と浪費を嫌った。食費を切り詰め、宮廷の賄費を抑えに抑え、予算は軍費に吸い上げられた。「星の間」は予算を兵隊に喰いつくされることを危惧しており、宮廷予算の規模と給料水準を回復するよう求めているが、父王はこれを一蹴した。人口二百畢竟、我がイスガルは軍事一辺倒である。五十万のうち正規常駐軍が四万五千。列強ユリディアの人口が二千万弱のうち兵力が十六万、聖皇国でさえ十万であるから、我々王家の食事事情もじり貧にならざるを得ない。

 こうまでして軍備拡張をしておきながら、父王は実際の戦争には消極的であった。その守りの姿勢を侮られてか、結局、我が国はグィーダー辺境領の「御預け」をくらい、多島海域に進出するきっかけをみすみす逃したのである。

 もっとも、俺なんぞがいくら国家を憂慮したところで、どうにもなりはしないのだ。

 俺は淡々と義務として羊肉を口に運んでいた。

 味などわからなかった。砦の豆の塩煮が、今では懐かしい。

 食事中はしんとして、誰一人として口をきかなかった。

 食後の酒杯を干した後、父王は静かに席を立った。

「少し、庭園を散歩したい。二の王子よ」

「はい」

「供をせい」

「喜んで」

 覚悟はできているつもりだった。しかし、現実には硝子の杯を置く手が震えて、危うく倒しかけた。第一王子が何か言いたげに俺を見たが、黙礼してやり過ごす。

 二人きりになるとき、父王は臣下の前ではけして見せない激情を俺に向ける。あんまり傷がひどいと、明日からの訓練に差し障るな、と思いかけて、俺はこの期に及んで、今でもサルマリア砦の見習兵の生活に戻れることを望んでいるのだと自覚した。現実逃避もここまでくると、いっそ健気である。

 晩秋、寥々と、ガウカリアから吹く風は冷たく乾いていた。

 月がいやに冴える夜であった。

 父王は一言も発しない。俺は二歩下がって追従しながら、疼く頭で考えていた。少なくとも、この場で父王が俺を殴るようなことはないだろう。誰の目に触れるかしれない開けた場所にいるうちは、俺は安全であった。

 ふと、父王は白樺の樹の前で歩みを止めた。

「二の王子よ、近う」

 俺は言われるままに一歩詰める。それ以上は、体が拒んだ。

「遠慮はいらぬ。側へ」

 思考よりも先に、体が激しく拒絶した。関節を鉛で固められたように動けなくなり、俺は、無礼にも王命を無視してその場に立ち尽くしてしまった。俺がどれだけ別人になりすましても、父王はすぐに看破してしまう。俺の本質は、父親に虐げられる憐れな子どもであった。弱者であり、生贄であり、負け犬であった。

 骨の髄まで痛みとともに刻まれた教訓だ、忘れようとして忘れ得るものではない。俺は、どこまでも、いつまでも、父王に支配される。

「息子よ、わかっておろうが、余は、そなたを愛している」

 父王が腕を上げた。頭ではわかっていても、体が勝手に反応した。殴られるわけがないのに、暴力を怖れて肩が跳ねた。なまじ日々兵士としての訓練を受けてきたせいで、あやうく防御姿勢をとりそうになるのを、一抹の理性が喰いとめる。

 俺は何もしてはいけないのだ。守っても、反撃しても、父王の怒りは増幅する。

 父王は俺の腕を掴まえ、真横に引き寄せた。あれほど頑なだった膝の関節から瞬時に力が抜けて、俺は、父王に抱きすくめられる。

 そのまま絞殺されるかと思った。

「震えておるぞ。寒いか」

「はい」

 父王は俺の背中を摩った。それだけで、古傷が開いて血が滲むような錯覚に襲われた。

 傍目には、情け深い父親が、不出来な息子を労わるように見えるのかもしれない。

「砦の生活は、辛かったか」

「はい」

 俺のやんちゃは、父王の耳にも届いているはずだった。黙認されたからには、後で代償を支払わされる時がくるだろうとは、思っていたのだ。

「そなたも、反省したことであろう。この半年、そなたのことを思わなかった日はない。これからは余の側を離れるでないぞ」

「はい」

「そなたが従順であれば、余は、息子を愛している。王太子の位も、戻してやりたいと願っている。余はそなたを王城に呼び戻す準備を廷臣に言い渡してある。そなたは、余の元に戻りたいと願うか?」

「はい」

「息子よ。余が憎いか?」

 機械的に肯いていたので、うっかり「はい」と答えかけたのを、寸でのところで飲み込んだ。「いいえ」と間髪入れずに答えられたのは、なけなしの生存本能が働いたからに違いない。俺の思考はいよいよ激しくなった頭痛によって、ほとんど停止していた。

「しばらく王城に滞在することを許可する」

「感謝いたします」

「追って、正式に恩赦を言い渡す故、それまではゆっくり羽を伸ばすとよい。そなたの私室はそのままに残してある」

 そして、父王はようやく俺を放したかと思うと、俺の顎を掬って無理矢理に視線を絡めさせて言った。

「わかったであろう? 余は、こんなにもそなたを愛している」

「はい」

 肯くだけも、命がけだ。

 有り難い事に、その晩だけは俺は父王の寝室に呼ばれることはなかった。かといって、安心してもいられない。父王は恩赦言い渡しがあるまでは王城に滞在せよと言う。太子位に返り咲いたとしても、俺がサルマリアに戻れる可能性は絶望的と考えてよい。この先太陽が昇る度に、俺は父王の不機嫌がいつ爆発するか戦々恐々と怯えて暮らし、激しく打ち据えられた後には、また死に損なったと、上る陽を恨みながら朝を迎えることになるのかと思うと、いっそ凶行に走りたくなる。

 そんな馬鹿をしたら殺す、とモルドァに脅されなければ、今夜あたり実行してしまっていたかもしれない。今、俺の手に刃物がなかったのは不幸中の幸いだ。

 俺は中佐に二千の兵力を約束し、中佐は精鋭と忠誠で放逐王子から兵隊を買った。できなかったときには俺の命で購えと、銃口を突きつけてきたのだから、とんでもない。氾濫を起こされて、イスガルがそうしたように、どこかの王室に買い取られて反旗を翻されたら、国境守備線はあっという間に解けてしまうことだろう。数で攻め込まれたら、今のイスガルには列強に対抗しうる体力はない。

 俺の癇癪で戦死者四万。笑えない話だ。

 下がってよいというお許しが出たので、俺はさっさと逃げ出した。

 あてがわれた私室へ向かう途中、頭の上に視線を感じて顔を上げると、末妹ルイーゼ姫が出窓から身を乗り出して俺を見ていた。けして俺の手が届かない安全な位置にいるからか、目があっても今度は逸らさなかった。母親によく似た明るい緑色の瞳で、じっと俺を観察している。客人の様子を伺う家猫みたいだと思って、俺は片頬で笑った。

 身分上は王家の姫君と、一士官。俺は冗談紛れに彼女に騎士の礼をとった。

 すると、ルイーゼの花のかんばせに見る間に朱が上り、彼女は窓を閉めるのも忘れて駆け去ってしまった。どうやら、嫌われたらしい。

 俺はすごすごと、その場を立ち去った。

 半年留守にした部屋は、俺をことすっかり忘れている様子だった。何一つ配置は代わっていないはずなのに、調度品の全てが他人のもののように思えて落ち着かない。ふと思い立って、寝台を覗き込む。かつてそこに犬の生首があったことが夢であるかのように、染み一つ残されていなかった。

 何だか、他人の寝台で眠ることが憚られ、俺はそっと長椅子まで退却した。いよいよ視界が霞むほどに頭痛は悪化していたので、そろそろ寝かせてほしかった。全員下がらせて、俺はいつもの習慣で上着を自分で外してたたみ、ふと、それをどこに置くか迷った。見習兵の寝るのは床であり、急な呼び出しにもいつでも対応できるよう、上着を枕にして眠る習慣に適応してしまった体には、高級羽毛の枕は柔らかすぎて反って眠れない。まさか床に横臥するわけにもいかず、しかたないので、俺は長椅子に横たわった。

 交戦中はいつ奇襲の砲弾を喰らうか知れたものじゃないから、という理由で深夜にジエンの怒号で叩き起こされて整列させられることはないが、かといって、安眠もできなかった。横になると、脳髄の奥から脈拍に合せて、鈍く重たい痛みが響いてきた。

 せめてマシラを連れてくるべきだったか。

 長引きそうな王城の生活に、俺はたった一晩で音を上げたのだった。

   ■

 犬だ。

 王城滞在二日目、人目を避けて庭園の北側にある大根畑の片隅にある東屋に逃げ込んで手紙を書いていた俺は、視界の端っこに映った茶色い毛玉に目を奪われた。

 猟犬ではない赤茶と白のふさふさした毛の長い犬で、顔は狐に似ている。耳の先だけが黒っぽい、愛玩用の小さな犬である。原種は、多島海域のシエル島原産の牧羊犬で、体は小さいが頭脳明晰、大人しい性格の犬種である。羊を追う犬ではなくて、羊が牧草と間違えて庭の草花を食い散らかさないように番をする守り犬だ。

 俺は、モルドァに宛てた「そつなく、つつがなく、王族らしい生活を楽しんでいるゆえ、そちらは俺の不在を補填するように」という内容の手紙の封をするのを中断して、犬に向き合う。犬の方は、さすが飼い犬だけあって、俺に対してたいへん愛想よく尻尾を振ってくれた。かわいい奴である。呼んでみたところ、素直に駆け寄ってきた。

 蜥には嫌われた俺だが、犬には大変よくモテるらしい。好意を全身で表現して身を預けてくれるのは嬉しいが、無遠慮に俺の膝に乗りかかってくるあたり、よほど飼い主が甘やかしているらしかった。

 遠慮がちに俺の様子を伺いながら手を舐めるところなど、実に愛嬌のある犬である。俺は犬の背中を撫でながら、一度、頭の中を空にして景色を眺めた。

 秋の空に、鳥が鳴いていた。日差しは地面を温めて、俺の冷えて白くなった指先さえ温めて、抱いた犬の体温を感じる。

 ここで老犬のように日がな一日微睡んでいるのも、悪くないかもしれない。

 しかし、そういうわけにもいかなった。衣擦れの音に振り返ると、東屋の入り口ところで、ルイーゼ姫が何とも言えない表情で立っていた。俺と目が合うと、恐れるように柱の影に身を隠したが、末広がりの衣装が隠れ切れていなかった。ユリディア風の、腰を極限まで絞って、薄い生地を幾重にも重ねて針金を入れて膨らませる形式の衣装は、小妃殿下の御趣向であろう。あのお方は娘時分にユリディアの王宮にいたこともあり、その美意識は十分、洗練されている。年端もゆかぬ娘を不必要に飾り立ててけばくしてしまうような愚行を犯すことなく、それでいて、イスガルで最も高いところに咲く花として、幼いながらに存在感のある仕上がりとなっている。淡紅の生地の色も相俟って、可憐な薔薇のようだと思った。母親によく似た華やかな顔は、今後、社交界で強力な武器になるに違いない。

 その可愛らしい顔を、柱から半分だけ覗かせて、ルイーゼ姫はじっと俺の様子を伺っている。ふと、大胆にも俺の膝の上を占拠していた毛長犬が顔を上げて姫を振り返った。

 その眼差しに、俺はこの犬の飼い主が姫であることを知る。

「貴女の犬でしたか」

「はい。シェイラといいます」

 存外、しっかりした口調で姫は答えた。

「よい名です。姫君の犬に相応しい」

 相応しいのかどうか知らんが、俺も一応は、社交辞令というものを心得ている。ルイーゼ姫は俺の言葉を真に受けたのか、ぽっと頬を赤くして、そろそろと柱から全身を現した。

 姫は「シェイラ」と呼んだが、犬は顔だけ振り向いて、俺の膝の上から動こうとしなかった。それで、姫は馬鹿にされていますよ、と言うほど俺も阿呆ではない。

「俺の膝がお気に召したか?」

 犬の頭を撫でた時だった。

「あの!」

 何故かしら、ルイーゼ姫は声を荒げた。それから、緑色の目をやたらきらきらさせて、俺に向かってこう言った。

「私も、よろしいですか?」

「......と、申されますと?」

「私も、殿下のお隣に座ってもよいでしょうか?」

 よくよく顔の赤くなる姫である。衣裳の色に劣らぬほど耳まで真っ赤にして、姫はぎゅっと胸の前で折り合わせた手を握り込んでいた。

 俺としては、大混乱である。しかし、犬はよくても姫はだめだと、七つの少女に言ってもきかないだろうし、俺は大人しく、いつものようににっこり微笑んで「どうぞ」と肯いた。何の冗談か。それとも小妃の罠か。ちょこんと石の椅子に腰かけた姫は、犬の様子を覗き込んだ。自然、俺に寄りかかる形になってしまう。犬がいるが見えないと、俺が姫を抱えているように見えてしまう。これは、困った。

「殿下は、犬がお好きなのですね」

 少女は無邪気に俺の前に身を乗り出して犬の顔に両手を伸べる。

「ええ、昔、飼っておりましたので」

「知っていますわ。白い猟犬でしょう?」

 俺は黙って、笑みを深くした。

 ルイーゼは、少女の形をしていても、王室の女であった。

「ブランカでしょう? 綺麗な犬でした。私、殿下のブランカに憧れて、犬が欲しいとお母さまに強請ったのです。そしたら、このシェイラを下さいました」

「飼い主に似て聡明で淑やかな、優しい犬です」

「しかし、私は猟犬がようございました」

 膝の上の犬の上に、姫は覆いかぶさる。俺は誤っても彼女の体に手が触れぬよう、さりげなく手摺の向うに右腕を回して、左手をそっと放した。無意識ならばいい迷惑だし、意図的にやっているなら末恐ろしい姫である。

「シェイラはこの頃、私の言うことをきかないのです。今も、突然駆け出して見えなくなってしまって、探しているところだったのです」

「お言葉ですが、ルイーゼ姫。貴女がそのように不満に思っている気持ちは、シェイラにはばれていますよ。この犬は猟犬には向きませんが、多くの美点があるではありませんか。ないものを求めず、彼女にあるものを認めて伸ばしてやってはいかがでしょう」

「殿下はそうおっしゃいますが、私にはシェイラのよいところが見つけられません。今だって、急に逃げ出してしまうんですもの」

 甘え声で不満を口にする姫は、確かに、この上なく可愛らしかった。

「綱を付けていなかったのですか?」

「もちろん、つけておりましたのよ。でも、首輪ごと抜けてしまったのです。ほら、シェイラは頭が細い犬でしょう? だから、首輪を抜けられるのです。だからとって、首輪をしめるわけにもいかないし、毛も多いので......殿下?」

 正直、俺は吹き出すのを必死に堪えていた。首輪から頭を引っこ抜いて駆け出すなんて、想像しただけで笑える。

「......いえ、失礼。シェイラは、器用な犬ですね」

「でも臆病です。兄上様の猟犬たちを見るや、怯えて逃げ出したのですよ」

「それはきっと、自分のことを犬だと思っていないからでしょう。シェイラが臆病な犬なら、俺に近付いてきたりしませんし、逆に、自分の臆病を誤魔化そうと猟犬たちに吠えたてるかもしれません。相手の力を見極め、自分のことをよく知る賢い犬です。逃げ出したのは正解ですよ。シェイラは犬が嫌いなご様子だが、人間のことは好きなようです。姫の友として、大切にしてあげてください」

「殿下は、逆ですね」

 じっと、緑色の瞳が俺を見上げていた。ひやりとするような目の色だった。

「殿下は人間が嫌いで、犬が好きなご様子です」

「否定いたしませんよ」

「私が犬だったら、好きになってくれますか?」

「ご冗談を」

 そろそろ小妃殿下に見つからないか、俺は気が気でなかった。誰か、できれば小妃殿下の侍女ではない、中庸の立場の者に発見されたい。祈りが天に届いたか、東屋に向かってくる大柄の人影が見えた。

 援軍としてはこれ以上ない。第一王子ご本人様であった。

 俺は「失礼」と断りを入れてから、姫と犬を膝の上からどかしてお辞儀する。

「ご機嫌麗しゅう、兄上」

「こんなところにいたのか。そしてルイーゼ姫も」

 姫は薔薇の花のような裾を持ち上げて軽く膝を折る。なかなか、様になっていた。

 第一王子が石机の上の手紙を見やったので、俺はにっこり笑って「モルドァ中佐宛てです」と答えた。

「ただの私信です。他意はありませんよ。何なら、検めていただいても構いません」

 俺の言葉に、第一王子は「嫌味を言うな」と苦く笑った。俺と兄上の仲が悪いという流言がなきにしもあらずだが、そんな事実はない。むしろ年齢の近い第三王子とのほうが険悪かもしれない。いや、第三王子と、というより、その生母小妃殿下が俺を目の敵にしているし、そうなるのも十分理解できる。

 イスガルは慣例で二人の妃を娶るが、本来、父王は別の女性を小妃として迎えるつもりでいた。産褥のために俺の命と引き換えに他界した、我が母にあたる女性である。

 俺の生母である女性は、貴族でさえなかった。平民でありながら父王に見初められて、領地と爵位を与えられ、王城にまでところで、結婚目前に亡くなった。正式な婚姻を結ぶ前の懐妊に、朝廷は揉めに揉めたが、父王が頑として母子ともに王城に置こうとしたという経緯がある。これはイスガル国民には美談として受け入れられたようだが、内実は殺伐としている。

 現小妃にしてみれば、俺がいるばかりに息子の王位継承権は三番目、彼が玉座につく可能性はかなり低い。おまけに、死んだ女は国王陛下の寵愛を一身に受け、様々な障壁を乗り越えた二人の絆は深い、とお考えである。真実は父王が語るまでは誰にも知り得ないことだが、あてさきのない嫉妬の矛先は俺に向かった。

 俺は極力、小妃殿下の視界に入らぬよう努めるしかない。しかし、俺は言いたい。貴女がそんなに憎悪せずとも、俺は父王に忌避されているので、どうか安心してください、と。

 父王はおそらく、俺のことを愛する女を奪った怪物のように思っているのだろう。

「ところで兄上、どのような御用向きで、こんな奥まったところにお運びか?」

「お前を探していた、というのはさすがに嘘くさいか。小妃殿下のお茶の席に呼ばれていてな。政務が思っていたより早く片付いたので少し時間が余った。散歩がてら遠回りしたところ、お前を見つけた次第だ。一緒にどうだ?」

 第三王子も父王もいないところで、小妃の縄張りにのこのこ入り込むほど俺も馬鹿ではない。第一王子に何かあってみろ、俺に容疑がかけられる。とは、言えようはずもなく、俺は「小妃殿下は俺の顔を見たら不機嫌になれましょう」と、強ち嘘でもない言い訳を口にした。その辺りは、第一王子も承知してくれている様子であった。

「しかし、奇遇ですね。第三王子も近くに来ているようですよ」

 すると、第一王子は怪訝そうに眉を寄せた。

「第三王子は今日から国王陛下とローハンの友好諸侯を訪ねておられる。明後日まではもどらぬはずだが?」

 なぬ、と、俺は思わずルイーゼ姫を振り返った。とんだ女狐である。姫は明らかに動揺して、慌てて俺から視線を逸らせた。

「私が御同行する予定であったが、小妃殿下のたっての願いでな。第三王子も十二歳におなりだ。そろそろ、花嫁を探してやらんと」

 そういうカラクリか。これで得心がいった。

「花嫁といえば、件のグィーダー家の末裔の姫君が今、王城に滞在中とか」

「いけません!」

 予想外のところから、想定以上に鋭い制止の声が上がって、俺も第一王子も驚いて振り返った。ルイーゼ姫は可愛い顔に精一杯の嫌悪の表情を浮かべて訴える。

「どうか、けして、お会いなってはいけません。グィーダー家は風の精霊と契を交わした一族だと聞いております」

 第一王子は幼い姫の言葉を呵々と笑い飛ばして俺に言った。

「姫はお前が魔性に誑かされることを心配しておいでだ」

「ほう。そういうふうに言われると、何としても御尊顔を拝したいと思うのが男の性というものですからな」

 姫には冗談が通じないらしく、足を踏み鳴らして「なりませぬ!」と叫んだ。

「お願いです。大兄上様、どうか、どうか、殿下をあの女に近付けないでくださいまし」

 グィーダー家の末裔を「あの女」呼ばわりまでして、ルイーゼは今にも泣きそうな顔をしている。ご成長の暁には、表情豊かで利発なこの美姫に狂う男が後を絶たないに違いない。涙混じりの顔も、怒って尖った唇も、たいへんに愛くるしい姫だが、侮っていると俺も一杯食わされそうだ。いや、すでに犬を使って嵌められたか。

「姫はこのように言っているが、どうかな?」

 そういえば、この姫は泰一王子のことは大兄上と呼ぶのに、俺のことは殿下と呼ぶ。妃位に合わせてそう呼ぶよう躾けられたのなら、確かに俺の呼称は悩ましいところだ。

「かわいいルイーゼ姫の御忠告とあらば、従わざるを得ませんな」

 安堵した様子を隠そうともせず、姫は無邪気に肩の力を抜いて微笑んでいた。年端もゆかぬ姫に忠告されるまでもない。第三王子をローハンに遠ざけたのは、グィーダー家との縁組を俺に擦り付けるためだ。大かた、小妃はけして王にはなれない息子の結婚相手として、聖皇国のリアセトラ姫に目星を付けているのだろう。辺境の姫の婿に我が子をくれてやらずとも、ちょうどいいのがここにいる。

 彼女の演奏に合わせて踊ってやるか、それとも逆らうか。どのみち俺に決定権はないのだから、あれこれ手を考えるのは太子位を正式に復活してもらってからでも遅くない。

「ときに、グィーダー家は代々美形が多いと聞きますが」

 俺としては話の繋ぎ程度の発言であったのだが、第一王子は次期家長の仮面を外して、男の顔をしてそっと俺に耳打ちした。

「この世のものとは思えぬほどに」

「美しいのですか?」

「私からも忠告しておこう。会わない方が身のためだ」

「妻帯者の貴重なご意見、ありがたく頂戴いたします」

「冗談ではすまないぞ。すでに姫を攫おうとして三人撃たれている。うち一人は、恥ずかしながら我がイスガルの憲兵であったぞ」

「それは、恐ろしいですな」

 興味がないわけではなかったが、生憎、俺は己の悲劇体質を知っている。触らぬ神になんとやら、グィーダー家の魔性の姫君とは、御近づきになりたくなかった。

 ふと、第一王子が俺を見た。

「ああ、そうだ。よいことを思いついた。今夜の予定はいかがかな?」

「流れ星でも待とうかと」

「そうか。ならば一献、付き合わぬか。せっかく戻ってきたのだ、王子としてではなく、兄弟として、そなたと飲みたい」

「お気持ちはありがたいのですが、未だ謹慎の身にございますれば」

「つれない事を言うな。何、内々のことだから誰も咎めはしまい。蝋燭が尽きるまで飲み明かそうではないか。我々は同じ家族だ。母上には私からお話しておく。ああ、そうだ。父上にはくれぐれも内密に頼むぞ」

 第一王子はルイーゼ姫に片目を瞑ってみせ、姫は姫で、小さな顎をつんと突き出して「賄賂として砂糖のお菓子を請求いたしますわ」と切り返してきた。

「む。これは一本、取られたな」

 第一王子は陽気に笑っていたが、俺の気持ちはひどく重かった。

 嫌だー、行きたくないー、と縋りつける相手もいないので、俺はしおしおと自室に戻り、従事に風呂を用意させた。頭が痛くなってきたのだ。王城にいると日に二度ほど軽度ではあるが頭痛に見舞われる。水が合わないのだろうか。

 ともあれ、熱い湯に浸かりたがる変態であり、毎日入浴する潔癖症であるとの噂は、たった一日で城内に知れ渡ってしまった。薬の切れた今、風呂と睡眠しか頭痛を解決できる手段がないのだから、仕方ない。

 食事の際、第一王位はことのほか陽気であった。厳格な父王は、一家の団欒を楽しむということを我々に許さなかったが、第一王子は母君である大妃殿下の影響か、明朗な会話の巧い方であった。食卓についた全員に配慮し、全員の言葉に耳を貸し、全員に言葉をかけた。俺にまで親しげに話しかけ、意見を求めるものだから、俺としては同席していた小妃がいつ食器を鳴らして不快そうに眉を顰めるか、冷や汗ものだ。

 しかし、俺の心配は杞憂に終わり、父王にはけしてありえぬ、穏やかで温かな食事は無事終了した。

 皆が穏やかに楽しく食卓を囲む風景。悪くはないが、俺には「良い」とは思えない。

 終始「家族」という題の芝居を観ている気分であった。俺は「戻ってきた問題児の弟」という役を割り振られた、俺と同じ顔をした役者を観ているようで、気味悪くさえある。

 寛容で、闊達。血統も由緒も正しく、性格も誠実で、社交的。最初の子は虚弱体質で生まれて一年も生きなかったが、その後、大妃殿下は王女一人を産んだあと、第一王子を出産した。大妃殿下は次の王となるべき男子を大事に、正しく育て上げたらしい。

 第一王子は食事が終わると俺を伴って大妃殿下の部屋を訪った。部屋に大妃の姿はなかったが、第一王子の姉君と、太子妃が極上の泡酒を冷やして待っていた。

 第一王子は酒豪で名高い。彼は俺を傍らへ呼び寄せ、琥珀色の極上の泡酒を次々乾した。付き合った俺も、もはや何杯乾したか数えていなかった。年上の、妙齢の貴婦人二人に挟まれて、俺はすっかり玩具にされていた。

「砦の生活はお辛かったでしょう?」

 太子妃、つまり俺にとっては兄嫁にあたるアルギーニの公女様は、俺の後ろ髪を三つ編みにしながら耳元で囁く。

「石鹸のよい香りがしますわ。肌も綺麗。女の子みたいです」

 第一王女殿下に至っては俺の頬を犬のように撫でまわしている。

 それと同時並行に、第一王子は俺に次々杯を乾させた。

「敬愛する兄上様や、姉上様がたにお会いできず、寂しゅうございました」

 俺の口も大概である。姫たちは、あらあら、まあまあ、と、嘯く俺を突いて遊んだ。

「それにしても、そなたには驚かされてばかりだ」

 第一王子は滔々と零れるほどに俺の杯に酒を注いだ。酒の色が琥珀色から、いつの間にか蜜色に変わっていて、味も深く、喉の焼けるような強度の酒であった。

「驚くと言えば、昼間、ルイーゼ姫と一緒にいたな。姫と一緒にいるそなたを見て、私は少し、安心したぞ。そなたもあのように優しげな顔をすることもあるのだな」

「そうでしたか? それはきっと、ルイーゼ姫の無垢さに洗われたのでしょう」

 実際はまんまと犬につられただけなのだが、ころっと口からそんな言葉が飛び出した。おかしい。俺はこんな気障な台詞をどこで覚えた?

 いけない、自覚している以上に酔っているらしい。

「凍えた石のようなところのあるそなただが、魂の清らかさには敬虔にならざるを得ないものだ。私は、兄として、長男として、そなたのよき理解者でありたいと願っている。困ったことがあれば、私に相談するといい。力になる」

「ありがとうございます」

「そなたは、産まれてすぐに母親と死別している。その寂しさが、そなたを、常軌を逸した行動に走らせるのだろうが、父上はそなたを気にかけておいでだ」

 酌をする手が、酔いのせいかぴりりと震えた。

 背中のこの傷を見ても同じことが言えるのか、と、無性に叫びたくなった。

「廷臣たちも、そなたに注目している。貴婦人方もな」

「滅相もございません。俺は、暗愚です」

「謙遜するな。私もまた、そなたの能力を高く評価している一人だ。今こうして楽しく杯を酌み交わすように、私の傍らで支えてほしい」

 本音が透けたか、それとも意図してか。言外に「臣下でいろ」と言っている。

「もったいないお言葉、痛み入ります。兄上なくして、俺は在り得ません」

 俺の返答に気をよくしたのか、第一王子はさらに白葡萄酒を開けて俺に進めた。甘く濃厚な花の香りがする、珍しい酒であった。味のほうは、よくわからなかった。華やかな異邦の酒は貴婦人方にたいへん好評で、二人は自分たちだけでなく俺にも愉しむように杯を無理強いしてきた。

 俺たちは、相当な量を飲んだと思う。やがて太子妃が、事故か故意にか、硝子の杯を割った。それを面白がって、第一王子は自分の杯も割って、そうなると俺も倣わざるを得ない気分になり、第一王女殿下もそれに続いた。我々は幼い子どものように破壊行為を愉しんだ。皆割れた。磁気も、皿も、鏡も、燭台も、砕けて散った。美しいものは壊れるときにも儚く澄んだ音を上げていた。

 なんだ、これは。

 俺は第一王子たちといっしょになって笑い転げていた。割れた鏡の破片に、いくつもの俺が映っていた。そのうちの一つが、「阿呆め」と、暗く冷たい目をして俺を睨んでいる。

 一家団欒とか。兄弟の悪ふざけとか。

 夢だとしたら、どこからだろう。

「少し、失礼いたします」

 急に不安になって、俺は席を立った。蕩けた眼差しを向けて「どちらへ?」と俺にしなだれかかる太子妃に、「野暮用ですよ」と耳打ちして放してもらう。

 居た堪れなくなってしまったのだ。

 俺は、俺自身をどこに置いていいのか、わからない。

 弟か? 息子か? 王子か? 兵士見習か? 俺は、何者だ?

 酩酊していた。壁までの距離が測れず、手をつく。

 大妃殿下の部屋からは、王の寝室に向かうための渡り廊下が伸びている。外の空気に触れようと身を伸しだして、俺は見事に手摺から転げ落ちた。ここが一階でよかった。そうでなければ、俺は今の「事故」で死んでいた。

 立った途端に酔いが急速に回った。

 過ぎた酒から逃れようとして、俺はあてどなく徘徊していた。

 潜在記憶というのは、恐ろしい。

 この城の中で最も俺が愛し、最も安全だと思っていた場所へと、自然と足が赴いた。気付けば俺は、ブランカを放していた中庭へと辿りついていたのだった。

 よほど、酔っているらしい。

 幻覚を見た。

 半年前には無残に引き裂かれたブランカの死体が四散していた場所に、銀に光る花が咲いていた。白い花弁に夜露を湛えて、それらが月光を弾いてきらきらと......。

 星色の花は、かの犬の色によく似ていた。

 その白銀の聖域に、白い人影が佇んでいた。

 淡く光を帯びるその姿に、俺は、年甲斐もなくこう思った。

 ブランカだ。とうとう、化けて出た。

 酔いなど瞬時に醒めてしまった。

 雪解けの水のように潤う、清廉な銀の髪が夜風に翻る。

 振り向いた。

 目が、合ってしまった。

 瞬間、雷撃を浴びたような、強烈な感覚に身を貫かれた。

 美しい乙女であった。この世のものとは思えぬほどに、あともう少しで形をなくして精霊のような完璧な存在になってしまいそうな、総毛立つほどの美貌。

 刹那の衝撃から立ち直る間もなく、俺は彼女こそグィーダー家の末裔の娘と直感する。

 彼女は俺に向かって黙礼すると、言葉を交わすことなく、背を向けた。

 この時、俺ははじめて知る衝動に駆られていた。彼女を振り向かせて、何としても俺という存在をその両眼に焼き付けてやりたいと思った。なので、白い花を踏みにじって聖域に侵入し、彼女の腕を捕えて強引に振り向かせる自分を、止めることができなかった。

 何をしているか、と、他でもない、俺自身が自分の行動を諌めた。

 これはただの娘じゃない。グィーダー辺境領の領有権の象徴である。ひいては、ユリディアやアルギー二のような列強や聖皇国との力の天秤を揺さぶりかねない。

 何をしているか、と再び俺の中の賢者が怒り狂って叫びを上げた。

 俺の賢者様は口うるさいが、肝心なときには口しか出さないので役立たずである。

 サルマリア砦送りになったときと同じ感覚が胸の奥から膨れ上がる。

 半年前には吼える犬の生首のように思われたその感情は、今ではもっと単純な言葉で説明できる。

 欲しい、と思った。

 俺の物にしてしまおう。

 うっかり、そう思った。

 普段の俺ならば、けしてこんな馬鹿を思いつきはしなかったはずだ。 

 何をしている?

 俺は、何を考えている?

 わからない。

 俺は、俺が全くわからなくなってしまった。

 自分という枠が、瓦解する。

 突き上げる衝動のまま、その少女の手を取り、庭を進んだ。彼女は悲鳴も上げず、抵抗もせず、俺に引きずられるままついてくる。その従順さに、思わず舌打ちした。

 嫌なら嫌といってほしい。

 助けを求めて叫んでくれ。

 しかし、聞こえるのは荒い足音と、彼女の髪飾りがしゃらしゃらと揺れて打ち合う音ばかりだった。

 誰かに見つからないと、俺は半年前の二の舞だ。

 わかっているつもりなのに、もう、どうにも止まらなかった。

 俺は彼女を引きずったまま東の門まで来てしまった。門の前には、緊急時のために、夜でも鞍を付けたままの伝令用の馬が置いてあることを知っていた。

 そういうことは、冷静に判断できているのだから、とっくに酔いは醒めているはずなのだ。ならば、もう、こんな愚行を犯すだなんて、気が触れたからに違いない。

 今度こそ、破滅した。

 俺は少女の可憐な体を鞍に押し上げながら、そう考えた。

 半年前にはエランが一人で罪を被った。今度ばかりは、俺を庇ってくれる人はいない。そう思うと、不思議なことに、胸が軽くなった。

 少女を片鞍乗りにさせると、俺はその後ろに乗り込んで馬を出した。

 城門が開いているのは妙だ。この少女は、我が国にとって外交上の重要な切り札となる。それが、一人で野放しにされているなんておかしいじゃないか。そもそも、ここに至るまで何故誰にも発見されないのか。

 順調すぎる誘拐に、何度も、何度も、あの日のことが脳裏を過った。

 そう。繰り返しじゃないか。

 あの日から俺は何一つ変われなかったのだ。

 逃げ出した負け犬を、どこかで誰かが笑っているはず。

 嘶きを上げて駆け出す馬を、俺はいつでも止めて引き返すこができたのに。

 今ならまだ間に合う。

 ずっと、そう思いながら、俺は道中一度も手綱を引かなかった。

 逃げ出した。またしても、俺は逃げてしまった。

 背後に追跡者の気配を感じていた。

 彼らは、けして必要以上に近付かない。俺を殺すのは彼らの仕事ではないからだ。俺がこの少女をどこへ連れて行くのか、それを確かめるためだけの追跡だ。

 熟練した追手であった。地平線の影を縫いながら、確実に馬の足跡を追跡している様子だった。王城の馬の蹄鉄には全てそうとわかるよう印が入っているので、追手はどこまでもついてきた。途中で馬を変えることも考えたが、彼女の体の耐久度を考慮して、速度を優先した。一刻経たぬうちに少女は見る間に衰弱して、俺は、幼い日に、積んだ花が枯れていくのを焦って握り締めて、余計に早く枯らせたときのことを思い出していた。

 あれは、誰のための花だったのか。

 相手を忘れても、その時に覚えた焦燥と喪失感は、今でもはっきり記憶している。

 とうとう馬が泡を吹いて座り込んでしまったので、俺は半ばで馬を買った。金銭は持ち合わせていなかったので、少女の身を飾り立てていた宝石を渡した。

 とても王族は名乗れぬ劣悪な所業である。その上、おそらくは大妃殿下の私財で賄われたであろう宝石だから、とても市場に流せる代物じゃない、すぐに足がつくだろう。

 こうして点々と存在の証明を残しながら、俺は馬車で一日の道程を一夜で強行突破した。

 逃げ込んだ先は、当然、サルマリア砦であった。

 明け方に出立して、砦に駆け込んだのは翌々日の夕暮だった。

 出る時には安い変装をして出たが、こんな戻り方をするとは夢に思わなかったので、顔を隠す暇がなかった。だから、間の悪い事に馬の当番だったサザと思い切り目が合ってしまい、しかし、見られた以上はもはやどうにもならない。

 じたばたしたって、もうどうにもならないのだ。

 サザは目を円くして何か言いかけたが、賢い友人はそっと背を向けて見なかったことにしてくれた。

 夜通しの荒業に消耗しきって、もはや自分の身を支えることもできない少女の体を鞍から降ろす。上等の絹の解けるように腕に落ちてきた少女を横抱きにして、俺は砦の自室に駆け込んだ。

 城内のかつての自室も他人の部屋のようであったが、ここの寝台とて、ほとんど使っていない。それでも、カナンが手入れをしてくれていたお蔭で、鼠に荒されることなく清潔に整えられていた。

 俺はそこへ少女の体を落として、何を思ったか、そのまま上に乗り上げたところで、ようやく、我に返った。

 何をしているか、俺は。

 何で、こんなことをしてしまったか。

 珍しい紫色の瞳が、じっと俺を見上げていた。

 疲労のせいでひどい顔色だが、それでも少女は俺の目を引きつけて離さない。

「どうして」

 擦れた声で囁いて、少女はただ俺を見る。

「......わかりません」

 誠実で賢明な答えとは言い難いが、嘘偽りない俺の心であった。

 少女が乾いて割れた唇を開いて、再び何か言いかけた時だった。

 扉が無遠慮に叩かれた。

「准将、失礼する! 一体、何事か!」

 阿呆の俺は、鍵をかけることを失念していた。

 異常を察知してやってきたモルドァは、俺と少女を見るなり、こめかみに青筋を浮き上がらせて、怒鳴ろうとして、ふと、口を閉ざした。

「まさか、それはグィーダー家の末裔の娘ではありますまいな?」

「そのまさかだ」

 怒りに青ざめたモルドァが、俺の胸倉を掴み上げるまで瞬き二つ。距離にして五歩。「この愚かものが!」と、形振り構わず怒鳴り、俺を投げ飛ばすまで瞬き三つ。

 俺の矮躯は軽々と飛ばされて、石の柱に強か背を打ち付けて咽た。

「何ということをしてくれのだ! 自分が何をしたかわかっているのか!」

 俺も、そろそろ限界だった。

「知るか!」

 俺は怒鳴り返して、手近にあった墨壺を投げつけた。真っ黒な弧を描く硝子の壺は、合えなく中佐に避けられて砕けて割れた。俺たちはよくよく、墨壺に縁があるらしい。

「俺だって、わからない!」

 うっかり叫んでから、俺は自分の失態に気付いて慌てて目を逸らした。モルドァの目に、怒りよりも性質の悪い、剣呑な光が浮かんだからだ。

 気取られた。中佐は、俺が決して誰にも見つからないように奥底に隠した願望を見つけてしまったらしい。

「貴様が何を思おうが、干渉しないつもりであったが」

 もはや敬称さえなく、モルドァは俺を睥睨する。

「これだけは言わせてもらう。貴様の婉曲な自殺に、砦の兵たちを巻き込むな。彼らは兵士だ。こんなつまらぬことで、犬死させるわけにはいかない。責任はとってもらう」

 モルドァは懐中に手を入れると、拳銃を取り出して俺の眉間を照準した。

「それで済むのなら」

 俺はモルドァを見上げた。

 特に、何も思わなかった。即死させるつもりで頭を狙ってくれているのなら、それは彼なりの情だとさえ思った。この先のことを思うと、弾丸一発で済ませてもらったほうが楽でいい。モルドァの親指が撃鉄を一息に外したのを見て、俺は目を閉じた。

「覚悟の上、ということか。他に、言い残すことは?」

「今この場で射殺するのは勘弁願いたい。彼女に、見られたくない」

「貴様は、大馬鹿者だ」

「異論ない。やれ。許す」

 その時だった。

「いいえ、私は、その意見に賛同いたしかねます」

 思いのほか凛とした声に、俺は思わず振り返った。

 銀髪を乱して、情けなく床に座り込んだままの俺の背後に立っていた。

「どうか怒りをおさめてください」

 少女の手には拳銃があった。見慣れた形だと思ったら、書き机の引き出しがいつの間にか開いている。さっきぶつかったときに開いてしまったのか、俺の拳銃が彼女の手にあるのを見て、俺は茫洋と「なんてこった」と呟いた。

「持ちなれぬものを持つと、怪我をするぞ」

 モルドァの声は静かであったが、十分に威圧的であった。ところが、少女は勇敢なのか、それとも恐れを知らないだけなのか、俺によく似た笑みを浮かべてこう言った。

「六発入っているのでしょう? それなら、二、三発くらいは外してもよろしいですね?」

「貴女には、撃てぬ」

「そうでしょうか。私の祖先は風の精霊と契ったといいますから、御加護があるかもしれませんよ。古来、風の精霊の矢は百発百中と謳われますから、弾丸だって当たりましょう」

「貴女には関係のないことです」

「いいえ、私こそ問題の中心にいます。こちらの殿方は私を連れ出したがために、今、貴方に撃たれようとしています。違いますか?」

「そやつは英雄で、私は悪漢ですか? お下がりください。私は、そこの阿呆に話があるのです」

「奇遇ですね。私もこの方とお話したいのです。死人は語りません。先に私にお話しさせていただけませんか? その後、お二人で心行くまで語りあそばせ」

 俺はモルドァを見、少女の手の拳銃を見上げて、額を抑えた。

 彼女は拳銃にも修羅場にも怖じない度胸の持ち主であるが、銃の知識は皆無らしい。撃鉄が寝たままであった。モルドァの言う通り、これでは絶対撃てない。

「......場所を変えよう。ここで言い争うのは拙い」

 俺の提案にも、モルドァは険しい顔のままだった。

「女に、それも小娘に命乞いされたことを、少しは恥じたらどうだ?」

 その言葉に、俺は片頬で笑った。

「すごいお姫様じゃないか。俺は敗けを認めよう」

「貴様が勝ったことなど、一度もないでないか」

 その通りだな、と、俺は肩を竦めた。

 モルドァはようやく拳銃を降ろして、再び俺の胸倉を掴まえて引き立たせる。足が軽く浮いて、喉が絞まった。

「取りあえず、一発殴らせていただこう。話はそれからだ」

 待て、と言う間もあらばこそ、モルドァの容赦ない拳が鳩尾に食い込んだ。半分宙に浮いていた俺にはその重たい一撃を回避することはできず、そのまま昏倒する。

「貴女はここで待たれよ。世話をする者を遣るので、今宵は休まれるがいい」

「承知いたしました。お気遣いありがとうございます。しかしながら、一つだけ。私はまだそのお方の名前も知りません。どうか、お話する時間をお与えくださいませ」

 返事の代わりに、乱暴に扉を閉める音が廊下に響いた。

 モルドァは俺を執務室まで連行すると、半ば捨てるようにして椅子に座らせて言った。

「もう隠し通せないぞ。何と説明するつもりだ」

 とてもじゃないが喋る状態ではない。俺は丘に上げられた魚のように口を開閉させたが、言葉は出てこなかった。が、殴った張本人のくせにモルドァは俺に容赦ない。

「聞こえない」

 いつか不敬罪に問うてやる、といういつもの負け惜しみも、今宵は虚しいだけだった。いかんせん、俺自身が不敬罪で首を落とされかねない現状である。

 ここは、年長者の知恵を借りるといたそう。

「......ジエンとロイを呼んでくれ」

   ■

「急に呼び出して申し訳ない。大事な話がある」

 俺は前置きなしに切り出した。モルドァは賢明にも無表情を保っている。

 俺の運命が、ひいては、サルマリア砦の連隊の運命がかかっているというのに、ジエンときたら欠伸をしている。ロイは、零落してもさすがは貴族、この短時間に髪に櫛を入れて、昼間と変わらぬ端正な顔をして俺とモルドァを交互に見比べていた。

 殴られた鳩尾がじりじりと痛んだが、前かがみになっていてはサマにならないので、俺はやせ我慢して椅子の背もたれに尊大に片腕を回して、言った。

「白状しよう。俺は、国王陛下の二男、つまり、このイスガルの第二王子だ」

 一拍の空白の後、ロイとジエンは同じ角度に首を傾げた。ので、俺も倣って首を傾げて付け足した。

「というのは、冗談だ」

 モルドァの様子を伺うまでもない。項に縊り殺されそうな視線を感じる。

「しかし、強ち真っ赤な嘘というわけでもなくて......影武者、だ」

 これはヒドイ、と、我ながら猛省する。

 だらだらと、嫌な汗が滲んだ。ロイは長い睫を瞬いてさらに首を傾げる。ジエンは怪訝そうに眉を寄せて「んなこったろうとは思っていたよ」と吐き捨てた。

 モルドァが何も言わないのをいいことに、俺は調子付いた。

「国王陛下からの恩赦を受けるために、第二王子は王城へ戻られた。俺も御伴を仰せつかり、そのために見習兵に臨時休暇が与えられたわけだが......」

 俺はモルドァの様子を伺おうとして、途中で慌てて目を逸らした。目が合ったら殺されるかもしれない。今の俺は獰猛な猫の前を通過する鼠の心境である。

「第二王子は、急遽、グィーダー家のご息女を伴い、砦に戻られた」

 ロイが、存外素早く喰いついた。

「グィーダーというのは、あのグィーダーですか?」

「何故、俺に敬語を使う?」

 俺は話題を逸らそうとしたが、ロイは誤魔化されなかった。

「影武者とはいえ、第二王子の身代わりですから。その身代わりは、何故、主人の愚行を御諫めしなかったのでしょうか?」

「それは......」

 俺はモルドァに援けを求めたが、冷たく無視された。俺の視線と意図を読み、ロイはモルドァに向き直ると、整った眉を僅かに歪めて言った。

「打開策をご提示するにも情報が少なすぎます。詳細をお聞きかせねがえませんか、中佐」

「私は現場にいなかった。事実はそこの影武者殿が粒さに見ていたはずだが?」

 うう、と俺は口ごもり、仕方なく顛末を白状した。

「城門が開いていた時点で気付くべきだろう」

 ため息交じりに言ったのはジエンであった。

 ジエンの言う通り、俺は踏みとどまるべきだった。これだけ逃亡が上手くいくには、誰かが有難迷惑なことに協力してくれたからであり、あの瞬間に、限定的に俺が通過するであろう城門を開けさせておくには、国王陛下不在時における万一の事態の全責任を負えるほどの実力者でなければならなかったはずだ。

「冷静な判断に欠いていた......のだと思われる」

「何故だ?」

「酩酊していたのだ、第二王子は」

「なら、なおさらお前が羽交締めにしてでも止めるべきだったじゃないか」

「......そうれは、そうだが......」

 歯切れの悪くなる俺に、ロイが追い打ちをかける。

「そもそも、なぜ引き返さなかったのです? せめて翌日に城にお戻りになったのならば、若気の至りということで取り返しもついたものを」

「すまない」

「すまないではすまされませんよ。かの姫君がこの砦にいることはすでに知られてしまっているはずです。ロボ、普段の貴方なら気付いたはずではありませんか? これはおそらく、大妃殿下が仕掛けた罠です」

 けしてグィーダー家の娘に会ってはならぬと、泣きそうな顔で必死に忠言してくれた末妹の顔が脳裏に過った。七つの娘と侮っていたことを、内心で平身低頭、詫び入れる。彼女は立派な王家の女であった。権力者の思惑を鋭敏に察知して、中庸を保ちながら、俺に罠の抜け道を教えてくれていたのだ。

 どうすればよかったか。出会わなければよかったのだ。

 たったそれだけのこと。

 大妃殿下は、俺が彼女に落ちることをほとんど確信していたに違いない。

「しかし、証明はできない」

「そうですね。ほぼ、自滅したようなものです」

 言われずともがな、俺は今までで一番、御粗末な罠に引っかかってしまった。

 第一王子に他意はなかったのかもしれない。あったかもしれない。知りようもない。第三王子は不在につき無関係。大妃殿下は年端もゆかぬ少女が幽閉生活を余儀なくされるのを憐れに思って人目のつかぬ夜に、こっそり庭に放ってやっただけ。半月ぶりに王城に戻った第二王子は、浮かれて泥酔した挙句、聖皇国に嫁ぎ行くことが決まっている姫君を、王城から攫って遁走した。

 俺は頭を掻き毟った。

「何故だ!」

 俺のばかばか、と二日前の自分の頭をぶん殴りに行きたい。というか、今すぐこめかみを撃ち抜きたい。己の愚かさを呪って悶絶する俺に、ジエンは言った。

「ロボよ、それが恋というものだ」

「はぁ?」

 そして訳知り顔で、うんうん、一人で肯く。

「恋する男はな、皆一人残らず馬鹿になるものだ」

 だから第二王子を責めるな、とジエンは俺を宥めた。涙が出そうだ。優しさにではない、事の重大さを理解しない、その能天気に絶望して、だ。

「とにかく」

 俺は鈍く疼きだした額を抑えた。

「もう取り返しがつかないから、上手く誤魔化すしかない。知恵を貸してほしい。俺はどうすれば......いや、どうのように第二王子に進言すればよい?」

「そうですねぇ」

 ロイは模範解答を探して天井に視線を彷徨わせる。そこに答えがあるのなら俺も知りたいのだが、生憎と見えなかった。

「とにかくすぐに国王陛下に報告と謝罪の手紙を送るべきでしょう。その先は、進展を待つしかないのでは?」

「何と言い訳すればよい?」

「ロボが代筆するのでしょうか?」

 ロイは意地悪く優雅に微笑んだ。

「あ、いや......まあ、させられるかもしれないから、教えてほしい」

「素直に『酒の勢いでした』と」

「火に油だ!」

 すると、ジエンがいやらしく目尻を下げて笑った。

「子どもってのはどうしてこう、親のいないときに悪さをするかねぇ」

「なっ......くそ、返す言葉もないな」

 そう。これは父王が不在だったからこそ、有効な罠だった。従順に擦り寄る犬を殴る者はいない。俺と父王が円満であると困る輩がいて、彼らにとって、俺は逆らい噛み付く狂犬である必要があった。

「ともかく、そういう事情で、グィーダー家の姫君がこの砦にいる。間違っても手を出してはならないと、第二王子からの厳命だ」

「そんなことができる命知らずは、ロボ、君くらいだ」

「しない」

「いやいや、油断するなよ。お前は揉め事に好かれる体質だ。お前みたいのを『女難の相』っていうんだろうなぁ」

 閉口した俺をさんざんからかって、ジエンとロイはモルドァの命で退室していった。無論、箝口令を受けた上で、だ。

「准将」

 二人の足跡が完全に消えてから、堪りかねたようにモルドァが唸った。

「待て。俺を絞め殺すのは少しだけ待ってくれ」

「では、そこの窓から投げてもよろしいか?」

「それも待て。俺にはまだ利用価値があるだろう? 一応、俺はこれでも王族だ。武装蜂起した際にこれ以上ない人質になる。おまけに、グィーダー辺境領の領有権も御滞在中だ」

 モルドァのこめかみ浮かぶ青筋が、憤怒以外の形に歪むのを見つけて、俺はここぞとばかりに畳みかけた。

「時期尚早。違うか? ここは下手に動かず、言われたままに伏せて待つ時だと思う。尻尾を振る相手と時期を間違うと、従順な犬だって叩かれることがある」

「己の浅はかさを忘れて、よく口の回ることで」

「国王陛下に無断で俺を殺してしまうより、差し出せと言われるまで懐に入れておくほうが得策ではないか? 欲を言えば、俺を庇ってくれるとありがたい。何故なら、この砦の兵は、書面上では第二王子に与えられた連隊だからな。『星の間』が絡んでいるのは確かだが、実際に誰が俺の後ろ盾になっているのか、俺でさえわからない。俺を切り捨てたことで良縁が途絶えるかもしれないし、悪縁が纏わりつくことになるかもしれない」

「准将、貴方は大変口先の達者なお方でありますが、大事なことは何一つとして語らない」

「何が訊きたい? 今なら正直に答えるぞ。立場が立場だからな」

「何故ですか?」

「わからない」

「誤魔化さずに、答えてください。半年前に蜥蜴に乗ってこの砦に転がり込んできた日から、私は貴方が世に言われるような『犬の王子』ではないことを知っています」

「泣かせることを言うな。今日の俺は、本当に泣くかもしれん」

「おっしゃるわりには、随分と落ち着いていらっしゃる」

「これが落ち着いているように見えるのか?」

 はい、とモルドァは肯き、神妙な顔をして言った。

「笑っていらっしゃいます」

「追いつめられるほどよく笑う、と言われたことがある。随分昔のことのように感じるな」

「確かに、見目麗しい娘でした。狂おしいほど、美しい」

「中佐、もう勘弁してくれないか」

「貴方の本音を聞き出すまでは、解放できません。あの娘を切り札に、聖皇国と何を工廠するつもりですか? あるいは、国王陛下にどんな要求を通させるつもりですか?」

「だから、そういうことは何も考えていない」

「目的をはぐらかせると、守れるものも守れませんぞ」

 俺は溜め息をつき、モルドァを見上げた。

「中佐、信じろとは言わない。俺だって信じられないんだ。だが、俺には何の算段もない。目的なんてなかった。お手上げだ。理由なんて自分でもわからないんだ」

 まだ懐疑的な目をしているモルドァから、俺は静かに、逃れるように視線を外した。

「わからない。何かを考えていたわけではないんだ。ただ、逃げ出したいと願った。彼女を連れて、遠く、もう誰も俺を知らないところへ行きたかった。笑ってくれてかまわない。俺は、彼女を見て、死んだ犬のことを思い出した。化けてでたのだと思った。俺のせいで......俺の犬だったから、殺された。だから、あそこに置いておいてはいけないと......くそ、我ながら愚かだと反省しているんだ、これでも!」

 俺はもう、自棄になって両手を投げ出して机に突っ伏した。いや、自棄になっているのは最初からだったか。

 ともかく、俺は破滅した。

「准将、ジエンは、さすがは人の親です」

「何?」

「おそれながら、准将が抱いている不明瞭な衝動は、ジエンの言葉を借りるなら恋慕です」

「......モルドァ、お前まで言うか」

「古来、男を滅ぼすものは酒と賭と女であります」

 女難の相、というジエンの言葉を反芻し、俺は頭を抱えた。

 認めがたいことであるが、事実、この半年、俺の運命が不安定かつ不条理に転がり出すとき、確かに女性が関与していた。エラン然り、イェナ然り。ブランカも、雌犬であったか。何と言うことだ。尖兵団に始祖を持つ我が一族の暴虐の報いか? 

「最悪だ」

 思わず呟く俺に、モルドァもとうとう温情を見せた。

「准将が事実、御乱心であるというのは、よくわかりました。今宵はどうぞ、どこへなりとも好きなところでお休みください。もし生きていれば、明日からは地獄の日々ですぞ」

 後悔先に立たず、とは、こういう時に使うものなのだろう。

 好きなところと言ったって、堂々と宿舎に戻るわけにもいかず、とりあえず鎮火にかかるためにもロイの助言に従おうかと、珍しく謙虚な気持ちで自室に戻り、書き机に向かう。引出の中に拳銃がないことに気付いて、俺は「ああ、そういえばそうだった」と、寝台を振り返った。俺がモルドァに絞られている間に、怪力のカナンが倒れた机やら椅子やら全部直してくれていたので、ちょっと前にここで銃口突きつけあう激しい乱闘があったことをすっかり忘れるところだった。

 閉じた天涯の向うに、あの少女がいる。そう思った途端、俺は見えない糸に吊られるようにしてそこへ向かった。布を割り裂き、様子を伺う。カナンが手入れを怠らないので、寝台は清潔に保たれていた。枕と羽布団の隙間に、星の流れるような髪が広がっている。

 甘く濃い、花のような香りにぐらりと思考が蕩けた。

 女の匂いだ、と思い、慌てて目を背ける。

 が、どうにも立ち去るには惜しい気持ちになり、俺は彼女が目を覚まさないことを祈りながら、寝台の端に遠慮がちに腰かけた。

 その時だ。

「おかえりなさいませ」

 枕が口をきいたので、俺は飛び上がるほど驚いた。

 振り返ると、夏の早朝の空に似た明るい紫色の瞳が俺を見上げていた。

「起こしてしまいましたか」

 冷静を装い、彼女を気遣うふりをして逃げようとした俺の裾が、軽く引かれた。

「お待ちください。私は、貴方とお話したいのです」

 小さな力であった。それなのに、俺はどうしようもなく動けなくなった。どんな鎖よりも頑丈な束縛に、俺は内心で完全敗北宣言をする。

 きっと、俺はこの子から逃れられない。

「非礼をお詫びする。乱暴をしてすまなかった。さぞやお疲れでしょう。むさくるしいところで申し訳ないが、体を休ませられよ」

 俺は背を向けたまま少女に言った。彼女が起き上がる気配と衣擦れの音がする。

「そうですね。先ほどまでは自分で立てないほど疲れてしまっていたのですが、どういうわけか、今は眠れそうにありません。何だかどきどきしてしまって」

 彼女はあっけらかんと言う。

「あの、色々とありがとうございます」

「食事は召されたか?」

「はい。頂きました。豆の羹と、無花果の糖蜜浸けが、たいへん美味しゅうございました。燗酒のおかげで、体も温まりました。寝具も貸していただいて、ありがとうございます」

 なるほど、カナンはよく気を利かせてくれたらしい。野心はなく、従順で、温和で、人の世話を好んでする。さっさとロイあたりと結婚してくれないと、俺も安心して死ねない。明日にでも職権乱用でくっつけてしまうか、などと、現実逃避気味に考えていた。

「礼を言わなければならないのは、俺の方です」

 俺も相当参っているらしい。思考と言葉と本音と建て前、全部、ばらばらに動いている。

「俺は貴女に命を救われた。ありがとう」

「本当にそう思っておいですか?」

 やんわり、しかし鋭く少女は俺を刺す。

「貴女は勇敢でした。しかし、拳銃はお返しいただきたい」

「嫌です。もうしばらく、貸してください」

「何故です?」

「貴方様が私に手を出さぬように。それと、貴方様を四人目にしないために」

「それは、どういう意味でしょう?」

「同じような理由で、すでに三人破滅なさいました。そろそろ私も嫌になってしまいます」

「今ここで自害するほどの度胸は、俺にはありませんよ」

「では、今すぐには必要ありませんね?」

 俺はくすりと笑って、肩を竦めた。

「銃の扱いも知らない貴女には、些か危ない玩具です」

「持っているだけでも脅しになりましょう?」

「そう何度もはったりはききませんよ。先ほどは肝が冷えましたぞ。あのようなお転婆は、今後お控えいただけると、俺の気も休まります」

「あら。私、これでもか弱い乙女ですのよ。先ほどは、あの方が撃たないとわかっていたので、演技できたにすぎません」

「中佐は、撃つときには撃ちますよ」

「ええ。きっとそうでしょう。私、とても怖かったです。撃ち合いになったら困りますもの。でも、そうはならないと思いましたし、実際、収めていただけました。あんなことができたのは、私が勇敢だからではありません。二度とできませんわ。現に、直後、腰を抜かして、侍女の方にここまで抱き上げてもらったのですから」

 彼女が言うには、モルドァが本当に俺を殺害するつもりなら銃は使わないという。ここには人が大勢いて、銃は音が出る。だから、屋内で殺害するつもりであったのらば、丸腰の俺を縊り殺すのが一番無難だった。殺すつもりはないとわかったから、安心していられたのだという。大した娘である。

「ですが、貴方が戻ってこないかもしれない、とは思いました」

「俺もあのまま窓から投げ捨てられるかと思いましたよ」

「うふふ。面白い方ですね」

 冗談で済んでよかった、というのが本音である。

 そこで俺は唐突に言葉を見失い、黙り込んでしまった。

 何でもない時間。何もない空間。静かであっても、怖くなかった。

「戻られて、本当にようございました」

 不意に、彼女が言った。

「不思議なことに、私は貴方様を待つことが嫌ではありませんでした」

 言外に、これまでは訪なわれることに辟易していた、と言っている。グィーダー家の末裔だと騒がれた上に、この美貌。これまで彼女に狂った男は俺だけではあるまい。そしてその多くは戻らなくて、そうではない男は、彼女を物品のように扱うばかり。

「あの、幽霊ではありません、よね?」

 少女の声は震えていた。

「今のところ、生存しておりますよ」

「確かめてもよろしゅうございますか?」

「どうやって」

「お顔をお見せください」

 言われるままに、俺は振り返る。手燭の灯りの中で、彼女の頬を伝い落ちる一粒の光。

「泣いておられたのですか?」

「はい。何だかもう、どうにも止まらなくなりまして」

「怖かったのですね」

「今でも怖いです」

「情けないことに、俺には貴女を救うことはできません」

「正直で、冷静で、大変結構です。私を救うと豪語なすった殿方は皆、それきり戻ってきませんでしたから」

「故郷へ、帰りたいですか?」

 少女は首を横に振った。

「私は、死神ですので。ほら、ご覧の通りの髪ですから」

「美しい銀髪です。珍しい色ではありますが、俺は不吉だとは思いません」

「それでも、やはり、死神なのです。私は故郷の地を二度と踏むことはできません。あの海風の渡る丘を、戦場にするわけにはいかないのです。だから、怖いのです」

 俺は、黙ってしまった。

 少女の双肩にかかる重荷を、俺が代わってやれたらいいのに。

「世界が怖くて、昇る陽が恨めしくて、明日という時間がこなければいいと願う。そんな気持ちは、わからないでもありません」

 彼女の頬を、あとから、あとから、光の粒が転がり落ちていく。王冠に輝く金剛石より、俺には尊いもののように思えた。

「何もできない俺ですが、一つだけ、貴女のためにできることがあります」

「何でしょう?」

「貴女を故郷に帰して、彼の地を守ることができます」

「私の夫になることで?」

「さようです」

「政略結婚が目的ですか?」

「そうです。失望されましたか?」

「嘘つきなのですね」

 またしても、俺は黙ってしまう。少女は、紫色の瞳を瞬いた。その拍子に、またしても涙が数滴、零れ落ちた。

「嘘ではありませんよ」

「しかし、真実でもありません」

「事実ですよ」

「それでは、私からも。国王陛下の命で大妃殿下が私を王城に軟禁していたのは存じております。そして、父子の相克のために、第二王子が遠い砦に幽閉されていたことも、大妃殿下から聞いておりました。大妃殿下は私に、第二王子の不幸な身の上をお話になり、王子がいかに魅力的であるか語られました。言外に、私に第二王子を恋に落せと、仰ったのです。なので、私は直感しました。貴方様こそ件の第二王子様なのだ、と」

「俺は美人局にまんまと引っかかったわけですか」

「それが現実です。そして、貴方様が私を王城から攫ったのもまた、現実です。国王陛下の思惑通り、私と貴方様が結婚という名の盟約で結ばれることを望んでおいでならば、貴方様は私を攫うべきではありませんでした」

「出来心です。お許しを。それから、貴女が今お話ししてくれたのは、城内に渦巻く無数の噂の一つにすぎません。すでに聖皇国からの求婚を受けている貴女を俺が横から寝取ったとしたら、これは重大な問題です。イスガルは聖皇国の第一の忠誠国であります」

「主人の花嫁に恋慕した騎士は、数多くいるものです」

「そして例外なく破滅した」

 俺は静かに首を横に振った。

「俺たちは結ばれない。願わくは、俺と貴女が今宵、何もなかったという事実を、周囲が信用してくれることです」

 俺は今度こそ耐えかねて、微かに裾にひっかかっていただけの彼女の指先を振りほどいて立ち上がる。そのまま、部屋を出てしまえばよかったのに。

「名を、いただけませんか」

 彼女の声に、俺は立ち止まってしまった。

「貴方様は、ここでは第二王子ではありません。先ほどの軍人の方の態度を見て、そう思いました。なので、私もグィーダー家の公女ではなく、ただの娘に戻りたいのです」

 一人の、人間として。

 俺は彼女を振り返ってしまった。それが、きっと最後の運命分岐点だったのだろう。

「ロボと。ここでは、そう名乗っています」

「狼[ロボ]ですか。それでは、私のことは西風[ゼファー]とお呼びください」

 涙をぽろぽろ零しながら、完璧な角度で、完璧に微笑む。形骸になろうとして、なりきれなくて、殺しきれない心を涙に変えて溢れさせる。

 微笑みながら泣き塗れる少女の姿は、俺によく似ていた。

 夜明けはまだ遠い。

 俺はきっと、永遠にこの夜から抜け出せない。

   ■


黒い瞳の狼さんへ 


 まず、勝手に色々なものをお借りしたことをお詫びいたします。ごめんなさい。

 それから、もうお察しのこととは思いますが、私、教養はありません。賢ぶって生意気を言って、ごめんなさい。

 学はないのですが、読み書きはできるので、お手紙を書きます。お手紙を書くにあたって、勝手に文箱を使って、ごめんなさい。あと、拳銃のことも、ごめんなさい。

 それから、寝台をとってしまってごめんなさい。今、長椅子で眠っている貴方の旋毛を見ながら、この手紙を書いています。今夜はとても眠れそうにありませんので。

 貴方も、ずいぶん遅くまで起きて何か書き物をなさっておいででした。手燭の蝋が尽きても、月明かりでまだ続けていらっしゃいましたね。

 書き綴る貴方の背中を見ていて、私は、手紙を書くことを思いつきました。

 お手紙なら、私は、私の心を素直に打ち明けることができそうです。

 さて。

 貴方は私をお城から連れ去ったことを、大変後悔されているようですが、私は、よかったと思っています。

 最初は馬に揺られてとても怖かったし、あと、お尻が跳ねて痛かったのですけれど、だんだん風が心地よくなってきて、揺すられるのが楽しくなって、私はすっかり乗馬が面白くなってしましました。また今度、乗せてくださいね。

 私は貴方を一目見て、すぐに貴方がイスガルの第二王子だとわかりました。

 貴方は高貴で、立ち居振る舞いも洗練されていて、何より、他の誰にもない強烈な印象を受けました。貴方のその眼差しに、私は雷に打たれたような気持ちになりました。

 強く、深く、いっそ鋭いほどの眼差しでした。

 私はどうやら、貴方に一目惚れしてしまったようです。

 私は貴方に、私のことを知ってほしいと願っています。そして、私は貴方のことをもっとよく知りたいのです。しかし、私たちが本当の自分をお互いにさらけだすことはないのでしょう。私はグィーダー家の末裔の公女であり、貴方はイスガル国の第二王位継承者、私たちは回る巨大な運命の歯車の一つに、永久に拘束されるのです。

 それでも、仮初だとしても、許されるのなら私は貴方にとって心許せる友人でありたいのです。できることなら、伴侶でありたいと

 私が公女でなく、貴方が王子でなければ、どれほどよかったことでしょう。

 馬の上で貴方に抱きすくめられていたことを思うと、今頃になって心臓が早鐘ように激しく脈打って、落ち着かなくなります。その一方で、こうして貴方の寝顔を見ていると、胸の奥に、陽だまりに似た温かい気持ちが満ちてくるのです。

 寝ている時でさえ眉間に皺寄せていることを、貴方は御存じでしょうか?

 きっと知らないでしょう。

 誰も知らない、そして、貴方自身さえ知らない、貴方を、私はもっと知りたいです。

 貴方と供に時を刻みたいと、愚かにも願ってしまいました。

 不思議ですね。

 貴方の眠るのを見ていると、何だか心が穏やかになって私も眠たくなってしまいました。

 人は貴方を日陰の王子を呼びます。確かに黒がお似合いになりますが、同じ影でも、貴方は木漏れ日に似ています。

 貴方の陰りに、皆は癒され、魅かれるのでしょう。

 誰しも人は心に、暗いものを持っているものです。綺麗なままではいられません。白日のもとには曝け出せない思いを抱えて、生きているものです。

 貴方は灼熱から皆を守ることのできる方です。私も、貴方の側でなら安心して眠れます。

 どうか貴方によい風が吹きますように。

 

追記 もしかしたら、お役に立つかもしれません。もう一通、お手紙を書いておきますね。私は、貴方の勝利を祈っています。我が身が貴方の勝利に貢献できますように。

 生まれも知れぬ、そよ風より

   ■

 とりあえず父王に向けた平身低頭の謝罪の手紙に封をして、火急便として伝令官に渡して自室に戻ったのは、明け方であった。扉の鍵のかかる音を聞いた瞬間、急激に睡魔に襲われて、その辺りから記憶がぷっつり途絶えている。

 扉を叩く音に、俺は飛び起きて、見習兵卒の習慣で整列しかけて、途中で思いとどまる。

「殿下、おはようございます」

 カナンの声だった。返事も待たずに無遠慮に扉を開けようとする音に、俺は縮み上がり、カナンは「あれ?」と間抜けた声を上げた。

「鍵が......あ、しまった! も、もも、申し訳ありません殿下! つい......」

 半年にわたって主人不在の部屋を掃除し続けたカナンである。俺がいることのほうが異常なことだから、仕方あるまい。ちなみに、彼女には「王子は砦兵に会うのを嫌って早朝に出かけて深夜に帰る」と伝えてある。それを鵜呑みにして日夜、顔も知らない主人の妄想に耽って仕事を楽しめる人間だからこそ、俺は彼女を侍女に指名したのだ。

「よい、さがっておれ」

 取り繕い、王族的発音で「ちょっと待て今は開けるな」という意味の言葉を口にする。

「申し訳ありませんでした、あの、後ほど、お掃除に参りますので」

 扉の向こうのカナンの声は、鎮痛であった。悪かった、俺が悪かった、と内心彼女に謝りながら、俺はひとまず胸をなで下ろす。

 仮眠のつもりだったが、思っていた以上に寝てしまったらしい。

 部屋を見渡すと、文机に見慣れない白い物体がへばりついていた。何だろうな、これは。訝しく思って覗き込み、安い木の机には似合わぬ、最上級の正絹のような銀髪に目が眩む。朝日と相まって、寝不足の目には痛いくらいだ。

 記憶が繋がり、とても王侯貴族とは思えない場所と姿勢で、涎を垂らして眠る娘を、俺はそっと抱き上げて寝台へ持っていった。

 ふと気になって振り返ると、文箱が出しっぱなしであった。

 いかなる理由で、寝台で寝ていたはずの少女が机に移動したのか知らないが、俺は彼女を横たえると、文机の引き出しの拳銃を確認する。六発弾を入れたまま、ちゃんと返してくれたようで何よりだ。

 洗面台で顔を洗っていた時だ。

「おはようございます」

 ゼファーがまだ眠たそうに身を起こした。

「どうぞゆっくり休まれよ」

「......ん、ありがと」

 ぎょっとして、俺は彼女を振り返った。今、彼女はカナンやサザが使うような庶民階級の言葉遣いだったような気がするのだが、聞き間違いか?

「手紙を、文箱に......」

 後半はほとんど言葉になっておらず、むにゃむにゃ呟いて、ゼファーは布団へと潜りこんでしまった。意外な一面、というか......彼女は朝に弱いらしい。

 可能性として、考えていた。

 グィーダー家の公女が偽物であるということを。

 血を引いているかはともかく、公女として生まれ育った生粋のお姫様、というわけではなさそうだ。俺が庶民面するように、彼女は王族面をしているだけかもしれない。

 それならなおさら、俺はこの娘を故郷に帰したいと思った。

 文箱を片付けようとした時、その下から封のしてない手紙が出てきた。昨日出したつもりでいたのは、記憶違いだったかと、慌てて中を確認すると、俺の筆跡ではない、というより、貴文体でさえない文面が出てきた。

 宛名は聖皇国皇帝の弟の息子の名が記されていた。

 他愛ない挨拶文から始まって、今、国境付近のサルマリア砦に滞在していること、長旅の疲れがたまって風邪を引いたので砦で少し休ませてもらうことなどが書かれている。

 何のつもりで、と考え、いや待て、と思い直す。

 この手紙一枚で、俺の首は繋がるかもしれない。

 他でもない、ゼファー自身がしたためたことに重大な意味がある。まず、こんな手紙を不用意に寄越すくらいだから、グィーダー家の公女は少なくとも健やかである、ということを聖皇国に言い訳できる。さらには王城よりもここのほうが国境に近い。俺が連れ出さなくても、そう遠くないうちにイスガル王城には皇国の使者が慇懃に花嫁を寄越せと言ってくるに違いない。下手したら今日あたり、入れ違いで入城しているかもしないくらいだ。

 それから、この手紙の稚拙さ。私信にしたって、公女として教育を受けた姫君なれば、もう少し賢そうな文面であるべきだ。何より、文体が違う。

 ゼファーが本当にグィーダー家の公女であるか。

 聖皇国は血統を調査したと言っているが、これを見れば多くの人間は首を傾げるに違いない。ゼファーには悪いが、印象と思い込みというのは存外、人心を揺さぶるものなのだ。

 とはいえ、彼女は馬鹿でない。むしろ、この手紙で、俺は彼女の賢さを確信した。ゼファーは、婉曲に、自分が公女でない可能性をチラつかせることで、聖皇国の足場を崩しにかかれると言っているのだ。

 真実を知るのは、この少女をグィーダー家の末裔に仕立て上げた皇国と、ゼファーだけ。イスガルが目を瞑れば、さしものアルギーニもこれ以上干渉することはできまい。

 俺は取るものもとりあえず、皇帝の弟の息子の名がしっかり書かれた手紙を握り締めてモルドァの元へ走った。それから説明の間を惜しんで、複写技師に本文を渡す。

「そういうわけだ。彼女には俺から後で言っておく。ここから先は、出たとこ勝負だ。情報と時間が勝敗を決するぞ。給料が出ると思ってお前も協力しろ」

 勇み足の俺に、モルドァは渋い顔をしていたが、結局は肯かせることができた。

「ところで、中佐。ジエンとロイは、どうだった?」

「どうということもありません。ロイは内政に、ジエンは新兵訓練に励んでおります」

「もっと動揺するかと思った」

「おそれながら、准将。ロイを少佐に昇進させてサルマリア周辺の管理運営を押し付けたのは、貴方様であります」

「押し付けたとは人聞きの悪い。適材適所だ」

「御料地の管理運営を、没落貴族の青年に任せることの異常さがおわかりか」

「仕方なかろう。俺は仲間が少ない」

「故に、ロイには早々に気付かれていたようです。ジエンは、あまりそういうことを考えない男ですから、きっと右から左に聞き流したことでしょう」

「あまり知られていない顔だから、隠し通せると思ったんだがな」

 俺の不用意な言葉に、モルドァの眉間がぴりりと震えた。

「准将、王族の気負いがないのは結構ですが、しかし、御自分が王位継承権を持つ人間であることをお忘れではありますまいな」

「忘れていた」

「貴方様にその気がなくても、大多数の人間にとってはイスガルの王になる可能性のある人物であることを、思い出していただきたい」

 俺は中佐を見やり、すぐに目を逸らした。

「冗談だと思って、聞いてくれ」

 俺は窓辺に寄って、射撃訓練を行う新兵を見下ろした。つい先日まで、俺はあそこにいたのだと思うと、不思議な心地だ。随分と高い所にひとりだけ来てしまったものだ。

「現状の練度で、イスガル正規軍の精鋭とやりあえるものか?」

「隊の質という点では、勝るとも劣らぬと自負しております。しかし、数の差は覆しがたい。これも、あくまで妄想でありますが、今武装蜂起したところで、砦を囲まれてお終いです。ましてや、今、この砦には可憐な容姿をした外交爆弾が搬入されています」

「外交爆弾とは、なかなか言い得ているな。どうせロイの受け売りだろう?」

「さよう。ともあれ、准将の御約束された二千の兵力に達するまでは温存させていただきたいところですな」

 俺は窓枠に腰掛けて思案する。

 我がイスガルは聖皇国を守護し、「邪なる者ども」を掃討する尖兵団が母体となって成立した国である。歴史は浅く、ユリディアやアルギーニに比べて軍事に傾倒しているのは予算編成で一目瞭然であるのだが、もう一点、他国にない特徴がある。大抵どの国の軍隊も、モルドァ傭兵隊に代表されるように、各連隊長は契約を結んで、君主から資金を得て独自の装備と訓練で隊を強化している。言うなれば、兵力が商品であり、それぞれに個性というものがあるのだ。我が父王は、それを同一の弾丸、同一の様式に統一した。他国の軍は「行進」ができないのだ。同一の歩幅と速度で移動するように訓練されているのは、我がイスガル軍くらいである。

 一糸乱れぬ団体行動は圧巻であるが、翻って、均質であるというのは、モルドァ傭兵隊のように抜きん出た実力を持つ連帯にとっては、足を引っ張られる思いであることだろう。

 この「統一」を、極東域からきたマシラは「始皇帝」と呼ばれる過去の為政者になぞらえた。「規格」という概念には合理化という利点と、同質化という欠点があると、マシラは言っていた。

 マシラは、「統一」の根底にある心理は支配欲だ、とも言っていた。何でもかんでも、人の頭の中までも自分に従わせないと不安になる。

「ふうん。下にいる時には目の前の的を撃つことしか頭になかったが、上から見るとなかなか面白いな」

 俺は窓の下を観察しながらひとりごちる。

「一分間に三回の一斉射撃が可能です」

「仮に、お前に財政を預けたら、真っ先に何を購入する?」

「重火器ですな。火力で一気に陣を削れるので」

「俺なら馬を買う。機動力で戦況は翻る可能性が高い」

「馬は維持費がかかります」

「馬、俺は好きだぞ。もっとも、速力特化なら、蜥だろうなぁ」

「准将」

「何だ?」

「今日はよく喋りますね」

「ばれたか」

「さしもの貴方様も、恐れをなしておいでか?」

「現実逃避もほどほどになさいませ。果報は寝て待て、と古の賢人は言葉を残しておりますぞ。何もすることがなくて手持無沙汰なら、寝ていなされ。煩くないぶん、その方が私に都合がよい。鏡をご覧なさいませ。死人のような顔ですぞ」

 言われて、俺は窓硝子に映る己の顔をみやる。確かに、目元が暗く落ち込んで蒼ざめた顔は、見るに堪えない有様であった。

「寝首をかくつもりか。嫌な奴だな」

「寝首をかかれる程度の主人だということです」

 うぐ、と俺は思わず言葉を詰まらせた。いつぞや、誰かに言ったか、言われたかした言葉だった。それが呼び水となって、サザのことを思い出した。

「そうだ、中佐に頼みがあったのだ。サザリー・モルテイルという見習兵についてだが、俺の見立てでは、兵士としての見込みはない。真っ先に弾避けになって死んでしまう。ジエンのような指導者としても才覚も望めない」

 だが、と、俺はあの青炎の瞳を思い出す。しっかり記憶されている。あの瞬間の、あの強烈な色彩を。半年経った今でも、あれを思い出すと胸がざわめくのだ。

「彼には武器がある」

 俺は己の頭を指さしながら、また渋い顔をするモルドァににっこり笑ってみせた。

「そして俺には裏金がある。徴兵したときのお祭り騒ぎに乗じて、商人から摘まんだのを覚えているだろう? あれを出すから、サザリー・モルテイルを王都の士官学校に編入させて、兵法と政経を学ばせろ。将来、外交史として開花するはずだ」

「またわがままを仰せか」

「親の育て方が悪かったものでな、許せ」

「それが遺言で、よろしいか?」

「また思い出したら言いにくる。それでは、中佐のなけなしの温情に縋って、休ませていただこうかな」

 どの道、状況が動かない限り、俺には引きこもるほかに手がないのだ。出て行こうとした俺を、中佐が珍しく呼び止めた。

「せっかくですから、賭けましょうか?」

「せっかくの意味がわからない」

「せっかく准将の運命が掛かっているのですから、王城からの使者と、聖皇国からの使者、どちらが先に到着するか、賭けましょう」

「俺で遊ぶな」

「己の命を玩具にしている人間が、何を言いますか。私は、聖皇国の使者に賭けます」

 モルドァ流の激励のつもりだろうか。だとしたら、性質が悪い。

「なら、俺は王城の使者が逮捕状を持ってくることに賭けようかな。俺が勝ったら何をくれる? 俺のために闘ってくれるのか?」

「忠誠を」

「正気か?」

 俺はモルドァの告白を鼻で笑った。そんなことしたら、サザもフィオも、犬死だ。

「俺が敗けたら、何をくれてやればいい?」

「火砲が欲しいですな。それから、騎馬隊もあればすぐにでも王城に攻め込みましょう」

「はは。よせよせ。破滅の王子だなんて呼ばれるのは御免だぞ」

 脅しなのか励ましなのか、曖昧な戯れを一方的に押し付けられたまま、俺は自室に戻った。王城よりかは風通しのよい廊下を行きながら、俺は何度か眩暈を起こした。

 俺は、何と巨大なものを背負ってしまったのだろう。

 俺一人死ねばすむことだと、どこかで甘ったれたことを思っていた。

 初めて、考えた。

 守らねばならない、と。

 自室に戻ると、ゼファーがまだ眠っていた。

 静かだった。

 まさか死んでいないだろうな、と、不意に恐怖を覚えた。俺は思わず彼女の頬に触れて、その息遣いと体温を確認して、長い、長い、溜息をついた。

 息とともに、体の力の抜けていく感覚があった。

 あ、だめだ。そう思った時には、眠る彼女の傍らに倒れ込んでいた。

 未婚女性と同衾することの危険性を思えば、普段の俺ならば、近づきさえしなかっただろう。異母妹のルイーゼにさえ、俺は手を触れないように慎重になっていたのだから。

 だけど、不思議なことに、俺はゼファーの側にいたかった。どうしても、ここに留まりたかった。彼女の側だけは、結界の張られたように穏やかだった。

 指一つ、動かしたくない。

 細い髪の毛に、幾つも幾つも、鉛の弾が結ばれているような日々だった。激しい訓練は俺の体を多少は頑丈にしたかもしれないが、精神は未だに犬の首を抱いて逃げ出した日から成長していないのだ。ぎりぎりいっぱい引き伸ばされて、伸びきって、とうとう、切れてしまったのだろう。それでもなお、第二王子という血の軛に束縛される。

 忘れられるわけがないじゃないか。

 俺は布団の端に顔を埋めた。

 無防備に投げ出されたゼファーの手の先に、恐る恐る、指先を触れさせる。体のほんの一部だけも、俺は十分、安心できた。

 少しだけ。

 今だけは。

 幸福などという言葉を思い浮かべてしまいそうなほど、緩い午睡。

   ■


寝顔のかわいい狼さんへ

 

 おかえりなさい。ごめんなさい、お迎えできなくて。

 おかげさまで、大変よく眠れました。でも、ちょっとびっくりしました。起きたら貴方が私の横で眠っていたんだもの。

 私は嬉しくなってしまいました。

 だって貴方は決して人に心許すことはない人だと思っていましたから。

 貴方の黒い瞳は人の心を拒絶しているように見えたのです。繋いだ手の温もりや、日差しの明るさ、そういう、人の幸福を拒絶しているかのように、貴方の瞳は頑なでした。

 王城で、貴方のその目を「墓石のようだ」という人たちがいました。

 凍えた石のようになってしまった貴方の心が、人にそのように思わせているのでしょう。

 ですが、本当はその逆なのですね。

 貴方は誰よりも人の温もりや絆、家族の団欒、そういうものを大切に思われているのだとわかりました。

 貴方は臆病になっています。人と心を通わすことに、とても臆病です。

 悲しいことがあったからなのだろうとしか、私にはわかりません。何が貴方をそこまで凍えさせてしまったのか、いつか貴方が話してくれるのならば、私は全て受け止めます。

 渡る風は時に荒々しく、雷雲を伴い、空を覆い尽くすこともあります。

 しかし、それだけではないのです。

 風は種を運び、鳥を連れて、季節を呼びます。一時として同じところには留まらず、それでいて、何千、何万という時間を渡っていくもの。人の心もまた、同じです。

 留めるとこはできなくても、今この一瞬を共有することができるのです。

 私は、貴方が愛おしい。

 無断で触れたことをお許しください。しかし、触れずにはいられなかったのです。

 貴方の頬に微かに残る涙の筋を、見つけてしまったものですから。

 私の隣はいつでもあけておきますから、どうぞ、安心して帰ってきてください。

 私は、貴方を待つことが嫌でないのです。

 いつでもここで待っていますから、憂うことなく、行ってらっしゃいませ。

 貴方は野にあってこそ勇敢です。

 狼[ロボ]の名をかたる貴方は、草原の覇者となるでしょう。

 だから、怖がらないで。私でよければ、貴方の心を預けてください。大切に、親鳥が卵を抱くように、全身全霊、貴方の心を守ります。

 いつか、この手紙が貴方の目に触れることがあったのなら、どうか、一つだけ、お願いがあるのです。

 貴方を愛する人間がいることを、忘れないでください。

 御自身を大切にしてください。私は、貴方が死んでもいいだなんて思えません。

 貴方に生きてほしい。

 幸せになってほしいのです。

 供に闘うことはできずとも、私の魂は追い風となって貴方を守ります。


留まることはできない、そよ風より

   ■

 快眠した時の目覚めほど、唐突なものだ。

 俺は真っ先に隣で寝ていたはずのゼファーを探し、姿がないことにぞっとする。

 窓にはすでに鎧戸が下されていて、燭が灯っていた。

 部屋を見渡して、机に自然と目が留まる。片付けたはずの文箱が出ており、首を傾げた時だった。断りもなく部屋の扉が開けられて、俺は咄嗟に机の引き出しの拳銃に手を触れた。が、半開きの扉の向こうに見えた銀色に、俺はそっと手を放した。

「あら、御目覚めでしたか」

 穏やかに微笑む。そのあまりに自然な様子に、俺は直感する。

 この娘は、平民の子だ。

 礼儀や作法というものを仕込まれるかわりに、生活の知恵を身に着けた、イェナやカナンのような娘たちの同類だ。たとえばロイやモルドァならば、中に俺がいる可能性がある状態で、寝室の戸を無断で開けることの危険性を承知している。

 現に俺は今、彼女に銃口を向けるところであった。

「今は何時だ?」

「少し前に、六刻の鐘が鳴っていました」

 ゼファーは北方に見かける鮮やかな刺繍の衣装を着ていた。カナンか、と、俺は見覚えのある花模様に思った。

「あのぉ、お嬢様、これはどこに?」

 カナンの声に、俺はぎくりと扉に背を向けた。

「ありがとうございます。とりあず、中にお願いします」

 グィーダー家公女に扉を開けさせて、小ぶりの食卓を持ち込むカナンの姿が鏡に映っていた。怪力のカナンは机に椅子二つを積んで、それを軽々抱えて入ってくる。

 振り向くなよ、絶対に。俺は祈る気持ちでいたのだが......

「あら、ロボじゃない!」

 カナンは部屋の隅で気配を殺していた俺を目ざとく見つけて駆け寄ってきた。そして、冷や汗を滝のように流している俺の顔を覗き込んで、眦を吊り上げた。

「こんなところで何しているの! ここをどこだと思っているの!」

 どこも何も、俺の部屋である。

「えっと......第二王子殿下の寝室、かな?」

 不意打ちの急展開に、俺はもう、たじたじである。一方、カナンはきぃきぃ怒った。

「まったくもう! 怖いもの知らずにもほどかあるでしょ! ほら早く出ていきなさい、見つかったら大変よ! 黙っていてあげるから。貴方、このお方が誰だかわかっているの?」

 そういうお前は誰に向かってそんな無礼を働いているのかわかっているのか、と言いたくもなるのだが、つまり、カナンは俺が誰だか全く察していないらしい。妄想の力か、カナンの中で見たこともない第二王子の幻影があまりにも出来上がりすぎて、目の前の現実を見落としているようだ。

 いや、助かった。

 ある意味、主人に忠実すぎるカナンに追い払われそうになって困る俺に、ゼファーが先零れるように笑っていた。それを見て俺はぼんやり、ああ、かわいいな、と思った。

 大妃殿下の作戦か、王城で見かけたゼファーは、風の精霊と契ったと言われる一族の末裔だという話も信じたくなるほど、神秘的で高貴な印象を受けた。珍しい銀の髪色と透けるような白い肌、憂いを帯びる紫色。彼女を飾る意匠を凝らした白銀の髪飾りからは、水晶の珠が朝露のように連なる。肩を晒し、胸の下を銀の帯飾りで留めただけの古風な衣装は、危うく、脆く、彼女の儚さを一層引き立て、触れたら呪われそうな、あるいは解けて消えてしまいそうな、妖しく深遠な雰囲気を纏っていた。が、カナンの服を借りて薄紅色の頬をして笑う少女は、しっかりと輪郭と人格を持った、人間であった。

「大丈夫です。その方は、殿下が私の護衛につけて下さった、殿下の腹心でありますから」

「ふくしん!」

 カナンは持っていた食卓一式を取り落としそうになって、俺を見た。

「あらま、ロボったら、いつの間にそんなに出世しちゃったの?」

「言っただろう。俺は、偉いんだ」

「まあ、偉そうだとは思っていたのだけれど。ちょっと、ロボ。こんな美人の護衛だなんて役得じゃない? サザは知っているの? お休みの後、貴方が姿を現さないから脱走したって噂されているわよ?」

 何故か上機嫌になったカナンは鼻歌混じりで食卓を整えに掛かる。俺は嫌な予感がして、彼女の後ろに緩く束ねた髪を引っ張って振り向かせた。

「誰にも言うんじゃないぞ」

「ええー、何でぇ?」

「国家機密だ」

「そんなぁ、大げさなぁ」

 カナンはほろろと笑って、全く意に介さない。

「そうか、そうだったのね。通りで喧嘩が強いし、頭の回転も速いし、度胸もあるわけね。今までのこと、全部納得できたわ。そりゃあ、王子様の側付ですものね、うんうん」

 第二王子の側付は半年前に処刑された、と言えるはずもなく、俺は黙った。

「ところで、王子様は?」

「モルドァ中佐のとこじゃないか?」

 半ば投げやりになって俺はカナンの髪を放した。

「うーん、今日こそお会いできるかもって、期待していたのになぁ」

「何故そう思った?」

「何となく?」

 事実、その「何となく」が的中しているのだから、女の勘は侮れない。

「それにしもてロボがこんなところにいたとはねぇ。どうしようかなぁ。サザに教えちゃおうかなぁ」

「......カナン、いい加減にしないと本当に投獄される羽目になるぞ」

「あらやだー、怖いー。捕まる前に逃げちゃおうっと。じゃあ、王子様によろしくね」

 カナンはどこまでも能天気に笑って部屋を出て行った。

 彼女の足音が完全に遠のいてから、俺はどっと詰めていた息を吐いた。

「信じられん、あいつ、いつか不敬罪に問うから覚えておけよ」

 思わず口にすると、ゼファーが堪えかねたように吹き出して笑い出した。

 まんざら、悪い気はしない。

「ごめんなさい。でも、うふふ、もう可笑しくって」

 君が笑ってくれるなら俺はいくらでも道化をやろう、と、相手がゼファーでなければつるりと言えたのだろう。ゼファーだからこそ、俺の口は重くなる。心が軽くなるほどに、言葉は少なくなるものなのだろうか。

「でも、よかった。ロボもあんなふうに人と接することができるのですね」

「俺はそんなに人見知りが激しいように見えますか?」

「はい。決して心を見せない方だと」

「今だって、本当の俺を晒しているわけではないのですよ」

「そうだったのですか。では、ロボはどちらの『自分』でいたいですか? カナンさんに軽くあしらわれて顔を真っ赤にしているのと、青白い顔をして薄氷を踏むような危うさで国王陛下に跪いているのと」

 ぎくりと、俺は身を強張らせる。ゼファーは持っていた大振りの籠をカナンが整えていった小さな食卓に置いて、静かに俺を振り返った。

「私はグィーダー家の公女でいるよりも、女の子でいたいです。カナンさんとお互いの故郷のことを話したり、ここの料理を教えてもらったりして、貴方が帰ってくるのを待っていたいです」

 どこまでもたおやかに微笑むゼファーに、俺は内心、完全敗北宣言をする。

 ゼファーは籠の中から二人分の食器と、まだ熱そうな小鍋を取り出した。

「たくさん寝て、元気になったら、食欲が湧いてきまして。私は昨日、温かいものお頂きましたが、ロボは、あれから何も召し上がっていないでしょう?」

 そういえばそうだったかな、と俺は自分の生活を振り返る。指摘されると、確かに飢餓感を覚えなくはないのだが、食欲があるかと言われると、そうでもない。

 見習兵生活で獲得しつつあった、規則的な食事と睡眠の習慣は、たった一夜で消え失せてしまったらしい。

「無理を言って御台所を貸してもらいました。お口に合うかどうか」

 鍋の中は、例の豆と鶏の煮物であったが、俺は黙って促されるまま席についた。

「あ、そうだ。『イタダキマス』と言うのでしたっけ」

「ん?」

「極東域からきたお医者様がいらっしゃるでしょう? 極東では食事の前に短い祈りを捧げるそうですよ。命を戴く、という意味だそうです」

「マシラか。あれはヤブだから『様』はつけなくていいぞ」

「あら、では、医者であるというのは本当でしたか。私、実は疑っていたんです。だってお若い方でしょう? それに、女性ですし」

「変な医術を操る。分類するなら、内科医か?」

「まあ、何はともあれ、食べましょうよ。ね? ええっと、イタダキマス」

 両の掌を合わせて祈るような仕草して誰にともなく黙礼するゼファーにつられて、俺も「いだだきます」と口にして軽く頭を下げる。

 豆を数粒口に含み、俺は衝撃を受けた。これがあの辟易していた塩豆と同じものだとは断じて認めんぞ、俺は。

「美味しい」

「本当? ああ、よかった!」

 その時のゼファーの笑顔だけで、俺はきっと豆を一樽食えるだろう。自慢じゃないが、俺は食が細いほうである。何故かというと、美味しいと思う食事に滅多に当たらないからだ。それは我がイスガルが大陸きっての貧乏国家で、慢性的に栄養不足であるからだと思い込んでいたのだが、これは一体何の魔法であろうか。使っている材料は全て同じはずなのに、手がけた人間の違いでこれほどまで差が出るものなのか。

 言われてみればそうかもしれない。砦兵は自炊が基本だ。なので、フィオやサザをはじめ、俺は普段、むっさい野郎の手でぼこぼこ鍋に突っ込まれた物を食していたわけである。それを思えば、ゼファーの手のなんと繊細で優しいことだろう。

 俺は黙々と、おそらく俺の生きた十四年の中で最も美味しい食事を堪能した。

 食後の香草茶を淹れていたゼファーが、ふと、顔を上げた。

「ここは、ロボの部屋なのですよね?」

「そうだが、使ったのは昨日と今日くらいだな」

「そうだと思いました。とても片付いていたので」

 ほとんど寝台と文机くらいしかないため、広々として見える部屋を見渡して、俺は苦笑する。決まった部屋を持たないのは、いつでも消え失せられるようにしておくためだった。見習兵の宿舎にも、俺は私物を一切持ち込んでいない。

「お料理を作ったのはいいのですが、どこで食べるのかわかず、困ってしまいました」

「そうか。まあ、食卓くらいなら置いてもいいかな」

「まあ、ありがとうございます」

「何故、礼を言う?」

「食卓が必要ということは、ここでお食事をお召し上がりになるということでしょう? 私もご一緒してよろしゅうございますか?」

「当然だ。ゼファーがいないのなら――」

 ここにいる理由がない、と言いかけて、俺は口を噤んだ。

 ほとんど無意識の言葉だった。

 ゼファーがいないと......。

 そんなふうに、俺は思っていたのか。

「いや、何でもない。ところで、その衣装はカナンのだな?」

「ええ。あんなにひらひらした格好では心元ないですもの。カナンさんの故郷の衣装だそうです。刺繍はカナンさんがしたそうですよ。可愛いですよね」

 ああ、と俺は肯く。可愛いのが衣装なのか、衣装を着たゼファーなのか、曖昧にしておく。そういうことは考えるくせに、俺は大事なことを考えようとしていない。

「なぁ、ゼファー」

「はい?」

「君は、平民だ。違うか?」

「はい、実は学者の娘です」

 ゼファーは全く動揺することなく、静かに茶を嗜んでいる。彼女は可憐でいかにもお姫様然としているが、茶器の扱い一つとっても、王侯貴族のそれとは明らかに違う。

「礼儀作法を教わりましたが、どうにも頭に入ってこないのです。ばれるのは時間の問題だとは申し上げたのですが......」

 ゼファーは苦笑して言葉を濁した。

 突然、同盟国とはいえ異邦の王城に連れてこられて、着飾らせられ、王族流の作法を叩き込まれて、公女に仕立て上げられた少女は、弱冠眉間に皺を寄せていた。

「困りましたわ。目の前に次々と宝石や金糸銀糸の高価な生地の衣装、花やお菓子を積み上げられて、窒息するかと思いましたの」

「はは。その割には、言葉遣いはそれらしいところもあるようだが?」

「私の父は学者でしたので、書物には親しみがあったのです。幼い頃から物語をよく読んでいましたから、『お姫様』の台詞の語彙なら、少しくらいは対応できます」

「......戻りたいか?」

「真実は、必ず見抜かれるものです」

 俺はこれでも王族の端くれだ。過去、異国に嫁いだ姫たちの憐れな末路を知るだけに、ゼファーが聖皇国で幸福になれる可能性が低いことをわかっている。

 領有権だけが皇国にわたり、ゼファーはお払い箱だ。実は公女でなかったという情報は、彼女を追い落すのに十分な毒となる。放逐では済まないかもしれない。

「ゼファー、逃げようか」

「ロボ」

 ゼファーの声は静かでとても短かったが、完全な否定語であった。

「わかっている。俺は四人目にはならない。約束しよう」

「ロボ、お願いです。私を見てください」

 無意識に逸らした視線を、俺は彼女の顔に戻す。

 夜明けの空の色をした紫色の瞳に、決然とした光が浮かんでいた。

「貴方は私が守ります」

「俺はすでに一度、君に救われている」

「何度でも、守ります。貴方は生きる。私が守る」

「ゼファー」

 俺は、どうしてしまったというのだろう。

 自ずと立ち上がり、彼女もまた、俺に倣って立った。

 この少女と、供に生きたいと願ってしまった。

「俺は、君を」

 何を言おうとしていのか、俺自身さえ、わからない。ただ、その先をけして言わせないかのように、扉を叩く音がした。

「何だ」

「准将、モルドァです。至急、お話がございます」

「了解した」

 要件は、聞くまでもない。俺は上着を羽織って出ようとした。

 その時。

「ロボ!」

 やけに逼迫した呼ぶ声に、俺は反射的に振り向いてしまった。ゼファーの髪が翻るのが見えた。彼女の腕が首に巻きついて、顔が、吐息のかかるほど近づいて......

「ごめんなさい」

 震えながら囁かれた言葉に、俺は「いいんだ」と答えようとした。しかし、その言葉は塞がれる。彼女の、唇で。

 一瞬。しかし、俺にとっては、永遠。

「私、貴方のことが好き」

 俺にしか聞こえぬ音量で囁かれた言葉に反応して、俺の腕は彼女を抱きしめようとしていた。止めたのは、俺の理性ではなく、モルドァの冷然とした俺を呼ぶ声であった。

「必ず戻る」

 今この瞬間ほど、生き延びようとしたことがあっただろうか。

「いや、いかないで」

 少女の、宝石のようだった瞳が見る間に揺らいで、人間の、ごくごく普通の人間の娘の顔になる。彼女の朝の色をした瞳に映る俺は、俺自身さえ知らない顔をしていた。

「こわい......どうしよう、今、私、すごく、こわくなって......」

 青ざめて震えているただの少女を、こんなに大切に思うこともある。

 俺は、この娘が愛おしい。

「ゼファー、君は賢い。だから、待てるね?」

 待つことしかできないことを、ゼファーは知っている。俺もまた、自らの運命がどちらに転がっていくのか、待つしかないことを知っている。

「私、待てるわ。いつまでも、待てるから」

「君が待っているなら、俺はここへ戻ってきたい」

「ロボ」

 賢いゼファーは自ら俺を放すと、散歩下がって、にっこり笑って手を振った。

「いってらっしゃいませ」

「ああ、いってくる」

 扉の外ではモルドァが無表情で立っていた。

「どっちだ?」

「砲を五十門、頂戴しましょう」

「戦争するつもりか。十五に減らせ」

 聖皇国の使者が先に来たようだ。真っ暗闇の俺の前途に、一縷の望みが差したわけだ。

「どうなさるおつもりで?」

「追い払うに決まっているだろう」

 俺の決定に、モルドァは肯定も否定もしなかった。

 王城ではないので謁見の間など砦にはない。聖皇国の使者を執務室に通した。定型の挨拶を交わすこともせず、俺は、開口一番、使者に告げた。

「遠路はるばるご苦労である。が、公女様はお疲れの御様子。また日を改められよ」

 親書を取り出そうとしていた使者が、動きを止める。

「しかし、殿下」

「日を改めよ」

「怖れながら、公は姫君の身を大変案じておられます。かような場所におられましては花嫁の健康は損なわれるばかり。我々が然るべき」

「ほう?」

 俺はわざと姿勢を崩して、片肘ついて使者を睥睨する。

「聞いたか、中佐。この者は仮にもイスガルの第二王位継承者であるこの俺の元に、姫を置いておくのは不安だと仰せだ」

「しかと」

 肯くモルドァに、使者は俄かに不快感を顔に滲ませた。それを見て俺は、聖皇国は本当に鈍くなっているのだと実感する。

 この野良犬どもが生意気な、と、使者の顔には書いてあった。

 皇国にとってイスガルは未だ狗の国なのだ。そして、それを隠すことのできない人間を寄越す、その判断力のなさに、俺はしめたと思った。

「この無礼者が!」

 俺は机の上の物をはたき落し、椅子を蹴倒し、いつぞやのように机の上に飛び上がって剣を抜くと、使者の気取った鬘の巻き毛の一房を切り落としてやった。

 百戦錬磨の傭兵隊長モルドァに言わせれば、俺の剣技は精度と見た目の良さに偏った、殺傷能力の低い「芸術」らしい。それでも、自ら剣をとったことのない文官には十二分に威力を発揮した。使者は仰け反り、喉を引き攣らせ、受け身もままならず尻もちをついた。

 倒れる間際、俺はすかさず彼の手から親書を引っ手繰り、しっかり上着の内側に仕舞い込んだ。阿呆め、こういう物は首が落ちても取られてはならない類のものだ。

 顔色を失って無様を晒す聖皇国の使者を、鼻で笑った。

「お手紙は拝見いたす。姫は体調が回復し次第、皇国までお送りする所存だと、皇帝陛下に伝えられよ」

 おそらくは、生まれて初めて暴力に晒されたのだろう。茫然とする使者は、もはやその役目を果たせそうになかった。

「首の繋がっているうちに帰られよ。俺の気の変わらないうちに」

 もはや体裁も誇りも失って駆け去る使者に、俺は愛想よく手を振りながら、親書の封を切った。おそらく複写はあちらの手元にあるだろうから、これを燃してなかったことにしても意味はない。

「しかし、馬鹿だな。この親書を俺に渡さなければ、受け取り拒否と見做して、聖皇国はイスガルに強く出られたものを」

「肝が冷えましたぞ」

「俺もここで使者を斬るほど馬鹿じゃない。絨毯が汚れるしな」

 以前にモルドァとやりあったときに、墨壺をぶちまけて一枚駄目にしている俺である。かつて俺に剣先を向けたモルドァは、今は落ちた鬘の切れ端を摘まんで眉を顰めている。

「准将は悪玉に浸りすぎです」

「名演だっただろう?」

「問題になるのでは?」

「何、平気だ。先に侮辱したのは皇国だ、という建前は得られている。阿呆を寄越してくれてよかった。少なくとも、次の使者を立てるまでの時間が稼げた」

「して、親書には何と?」

 俺は美辞麗句と俺への煽てに粉飾された文面を流し読みしながら、喉の奥で笑った。

「俺は善玉だから、きっと姫を父王の手から救い出して聖皇国へ送り届けるだろうと」

「この一件を利用して、陛下との仲を裂くつもりですな」

「俺がグィーダー家の公女を使者に引き渡せば、父王は聖皇国との間で俺が密約を交わしたと疑うだろう。かといって、このまま彼女をここへ置いておくには限界がある。聖皇国にとって一番困るのは、俺と彼女が、つまり、イスガル王家とグィーダー家が結ばれること。そうなれば、聖皇国とは戦争になるだろう」

「もう一つ、可能性が」

 モルドァは、親書を検める俺の目の前に、拾った鬘の切れ端をぶら下げた。

「サルマリア砦が聖皇国の援護を受けて反乱を起こす。御旗は放逐の第二王子の義憤であから、大義名分としてはよろしかろう」

「少女一人のために反乱か。まさに傾国の美姫だな」

「彼女が台に立って涙を流せば、志気も上がりましょう。何せ、墓石の目をした男を恋の虜にした、魔性の女ですからな」

「言ってくれるな。反省するが、後悔はしていない」

 俺は親書を折り目通りに畳んで封筒に戻す。

「王城からは、何の音沙汰もないか?」

「反って、恐ろしゅうございますな」

 父王の罵倒が耳の奥に甦る。背中の傷が引き攣れる感覚に襲われて、俺は思わず、自分で自分の体を抱いた。

「准将?」

「何でもない、少し寒気がしただけだ」

「......准将は怖いもの知らずで、臆病であられる」

「矛盾しているが、正しいな」

 俺はモルドァのほとんど表情のない横顔を見る。

「中佐まで俺に甘くなると、反って辛いぞ」

「今度はどんなわがままを通すおつもりか?」

「もう通してもらっているから、婉曲に礼を言っているんだ。お前は今に至るまで、俺に決定的な一言を言っていない」

 モルドァは肩越しに振り返り、しばし、俺を見つめていた。

「准将も、そんな顔をなさるのか」

 俺は今、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。

「彼女のところへ、戻られよ」

「いや、しかし」

「今の貴方様は、牙が折れていらっしゃる」

 返す言葉もなく、俺は押し黙る。

「ここが戦場ならば、流れ弾に当たって死んでいましょう。死に急いでいるのならそれで結構。生き延びようとするのもまた結構。しかし、その間で揺れ動く者は、どこにも進めず足踏みしてしまう。その一瞬は、命取りですぞ」

「......耳に痛いな」

「ご了承いただけたのなら、引っ込んでいてください」

 俺には何もできない。

 そんな思いが降り積もり、思考が錆びていくのを感じた。

 モルドァに戦力外告知をされた俺は、すごすごとゼファーのところに戻った。

 彼女は俺の足音を聞きつけて、戸の前ですでに待っていた。

 待つ人がいるという事実に、俺は、幸福を錯覚する。

 泣き腫らしても、彼女の目は澄み渡る朝の空の色をしていた。

「すまない、こういうとき、どうすればいいのかわからない」

「家に帰ったら、『ただいま』と言うものですよ」

「......ただいま」

 すると、ゼファーは俺の首に両腕を回した。

「おかえりなさい」

 彼女の体温が、骨の髄まで染みるようで......。

 もう、どうにでもなりやがれ。

 俺は短く息を吸って、そのまま止めた。永遠に止まってしまえばいいと思った。鍵を確実に閉めて、俺は、今度こそゼファーの体を抱きしめる。

 このまま、融け合えないものだろうか。

 できぬことを願う。

 嫌なら今すぐ俺を突き放してくれないと、俺はまた間違う。

「ゼファー......っ......」

 言葉が、続かなくなってしまった。

 苦しい。

 人を想うのは、重くて、苦しい。窒息しそうだ。

「ロボ」

 彼女の声は風に似ている。心を、渡りゆく。

「好きなの。私は、君が、好き」

 ゼファーの腕が、俺の背に回った。

 あの夜、酩酊する景色の中で見つけた少女を、俺は欲しいと願った。

 今宵、最果ての景色の中で抱きしめた彼女を、失いたくないと願った。

 希望は、残酷。

「嫌だ」

 ブランカの首が、エランの首が、脳裏を過った。

「君のいない世界を生きるのは、嫌だ」

 俺の口は、こんなことも言うのか。

 俺の体は、こんなふうに求めるのか。

 俺は、とうの昔に壊れている。

 自制を失い、俺は彼女を押し倒した。

 ゼファーは何も言わない。拒絶しない。仰け反る首の白さに、折れて砕けてしまいそうな手首の細さに、ひどく凶暴な気分になる。

 今ならまだ間に合う。慌てて逃げ出そうとしたときだった。

「ロボ、ねぇ、お願い。私を見て」

 怖かった。

 彼女の紫色の瞳が、俺を拒絶するのが。

「大丈夫だから。ね。お願い、顔を上げて」

 恐る恐る、絡まる視線。

「怖くないよ」

 俺に力で支配されかけている少女は、健気に微笑んで肯いた。

「俺は、怖い」

「怖くない。悪い事じゃない」

 しかし、この先は、罪になる。

「ロボは、とても怖がりね」

「勇敢には、なれない」

「怖いことじゃないよ、人を好きになることは」

「君を失う時が怖い」

「ロボは、賢いようで、お馬鹿なところもあるのね」

 公女はなく、王子でもなく、俺たちはもはや粉飾しない。

 ゼファーはそっと目を瞑る。

「雲は捕まらない。風は留めておけない。移ろう季節は戻せない。人の心だって一緒だよ。永遠なんてない。一瞬、一瞬を繋げて編んで、織って、それを繰り返して絵になっていくの。私は貴方の綾なす絵の糸の一つになりたい。貴方の未来に、私を織り込んで欲しい」

 彼女の銀色の髪は、星の流れるのに似ていた。

 刹那くて、儚くて、追わずにはいられないのに、けして俺のものにはならない。

「私はずっとロボと一緒がいい。お願い、最後まで織り上げてね。途中で縦糸が切れてしまうと、機は完成しないの。だから」

 生きて、と、彼女は言った。

   ■


思いがけず怖がりな狼さんへ

 

 もし、貴方がこの手紙を読むことがあったのなら、きっと貴方はひどく不安で、臆病になっていることかと思います。

 そこに私がいればよいのですが、きっとその頃にはもう私は

 大丈夫

 私の他にも、貴方の回りには仲間がいるではありませんか。

 彼らは私の知らない時間を貴方と共有しています。貴方という一枚の絵織物には、沢山の糸が織り込まれているのです。人はそれを、絆と呼びます。

 私だけが、貴方をこの世界に繋ぎとめる糸ではありません。

 どんなに細く、頼りなく、途切れそうになっても、その糸は貴方をこの世界に縫い止めるのです。

 だから、生きて。

 私は貴方を愛します。だから、怖がらないで。

 貴方は、人から愛される人間なのです。そして、人を愛することのできる人間です。

 生まれて、生きて、生きようとする力のある、人間なのです。


貴方に融けたい、そよ風より

   ■

「何を書いているの?」

 燭の光を受けて、彼女の銀色の髪が朝焼けの色に輝くのを、俺はただじっと見つめていた。いつまでも、こうして見つめていたかった。

「あらやだ。起きていたの?」

 ゼファーは振り返り、茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せた。

「お手紙を書いていたの」

「誰に?」

「未来の自分に」

「不思議なことをするね」

「日記は過去という名の現実でしょう? 私は物語が好きなの。『私』という主人公の、少し先を夢想して、彼女に宛てて手紙を書いているとね、大抵のことは思った通りになっていくの。現実は、けして私の妄想に追いつけないんだわ」

「まるで予知夢だね」

「夢よりも、ほんのちょっとだけ、現実的かも。例えばね、学者として一向に風采の上がらなかった父が、ある日グィーダー家の家系図を家に持って帰ってきたの。そういうのって、普通、資料庫に大切に保管されているものでしょう? 普通じゃないことが起きたから、私は、貧乏学者が家系図で詐欺を諮る物語を思いついて、その主人公の少女に宛てて手紙を書いたの」

「そうしたら、本当になった?」

「夢が現実になったり、未来を先に見るのは、きっと魔法ね。違うの。もっと安っぽいの。過去に読んだ沢山の物語の断章を組み替えて、今現実に起こっていることに織り込むの。そうすると、頁を捲るように、次の展開が見えてくるの。変でしょ?」

「夢見がちなのか、現実的すぎるのか、ちょっとわからないよ」

「多分、両方。題名『自分』、主人公『私』、未完の物語。私はそれを楽しんでいる読者なの。物語と現実の区別がつかない、かわいそうな娘だって、母は嘆いたっけ」

 ゼファーは俺のところにやってくると、寝台に深く腰かける。

「物語は、人の希望だと思うの」

「ただの娯楽だ」

「娯楽であることって、重要だわ。こうありたい、こうなってほしい。そういう願いが込められている。貧乏学者の娘が一発逆転の奇策で大国の貴公子と結ばれたり、ね」

「現実はそんなに煌びやかでもなかっただろう?」

「私の物語は幾つもの断章でできているの。平民の少女の成功譚だったり、悲劇のお姫様の浪漫譚だったり、愛する男のために闘う女騎士の英雄譚だったり。中でも、勇敢な騎士に攫われるのは、憧れだったわ。女の子なら誰でも一度は夢見ると思うの」

「騎士でもなければ勇敢でもないぞ、俺は」

「でも、私を攫ったわ。細かいことはいいのよ。雰囲気よ」

「そうか、雰囲気か」

「そう。例えば、今は、そういう雰囲気」

 ゼファーの髪が俺の胸に落ちてきて、俺たちは、もう幾度繰り返したかわからないというのいうのに、また懲りずに唇を重ねた。

「文箱の謎が解けたよ。仕舞っても、仕舞っても、机に出ているから不思議だった」

「ふふ。それはきっと、悪戯な妖精の仕業よ」

「散らかし癖のある風の精霊が犯人だった」

 生き物なんだな、と俺は思った。

 生き物というからには、生きているのであって、でも、やっぱりモノなのだろう。

 俺もまた、二本足のケモノだということを思い知る。

 汗ばんだ首に彼女の髪が纏わり、絡まり、解れて縺れて、ふたり、媾う。

「書いた手紙はどうしたの?」

 俺の何気ない問いに、ゼファーは「秘密」と答えた。

「教えて」

「だめ。簡単には見つからないところに隠したから、見つけて」

「わからないよ。ねぇ、教えて」

「なら、ちょっとだけ助けてあげる。見えるけど、見えないところ。必ず見つめているはずなのに、見えていないところ。見ようとして、見落とすところ」

「まるで心みたいだ」

「ロボ、気付いていないようだけれど、半分以上、それ正解よ」

「焦らされるのは好きじゃない」

「だめ。ちゃんと見つけて」

 意地悪をされると、意地悪をし返したくなるもので。

「ふうん。これでも?」

「そんなことしても、教えない」

「強情」

「だめ。だめよ。そんなんじゃ、だめ。焦らされるの、私は嫌いじゃないの」

「なら、どこまでもつか、やってみる?」

「いいよ。どこまででも」

「後悔するよ」

「もう、しているじゃない。私も、君も」

 そうだね、と、俺はゼファーの達者な口を塞いでしまう。

 このまま夜が明けなければいい。

 このまま溺れて、彼女の底に、沈んでしまいたい。

   ■

 世間様に御憶えめでたくない第二王子の狂乱っぷりは、一夜にして疾風のごとくガウカリアを跳び越えて、遠く高きまにまします聖皇国の皇室の耳に届いたらしい。

 サルマリア砦に籠城を決め込んだ俺を引っ張り出そうと、聖皇国から観劇の誘いが着た。それでのこのこ飛び出すほど俺も阿呆ではない。素気無く断ったところ、その日の内に二度目の親書が届けられた。筆まめなことだ、見習いたい。

「姫を渡さねば交戦も辞さぬと?」

 黙っている俺に痺れを切らしてモルドァの方から訊いてきた。今すぐにでも武装して砦を飛び出しかねない勢いに、俺は苦笑する。定住地を得て、家庭を持ったジエンとは異なり、モルドァの魂は未だに血風吹きすさぶ戦場を彷徨っているらしい。

「戦闘中毒の傭兵隊長には悪いが、俺は反乱軍の大将になるような器じゃない。聖皇国はその辺り、俺をよくわかっている。土地はくれてやるから娘を寄越せと言ってきた」

 親書には、公女との結婚は政略に非ず、故に、公女と皇室が結ばれたときにはグィーダー辺境領を第二王子に進呈する所存である、としたためられていた。健気なことだ。

「さすがに上手いな。俺はすっかり悪漢じゃないか」

 聖皇国にしてみれば、俺は善良な青年の純愛を破壊し、己の横恋慕を力づくで成就させようとする悪者だった。イスガルからしてみても、絶妙な均衡を保っている力の天秤を揺さぶり、敢えて国際問題に発展するような破滅の恋路に突っ走った狂乱の王子である。

「恋する男は皆馬鹿だ、と言ったのはジエンだったか」

「聖皇国がグィーダー辺境領の領有権を放棄すると言っているのなら、それは望ましいことではありませんか?」

「阿呆。手に入るわけないだろう。きっとアルギーニと皇国で、すでに口裏を合わせているはず。ここでうっかり俺がこの親書に返事をしてしまったら、イスガルは国境の内側で戦うことになる。聖皇国はそれを狙っている」

 俺はまたしても親書を綺麗に折り目通り畳んで封筒に戻す。

「王都から兵が出れば、アルギーニが海側からグィーダー辺境領へ侵攻する。俺が王都へ兵を向ければ、聖皇国がガウカリア側から侵攻する。いや、兵を動かすまでもないかな」

「聖皇国が矛ではなく、盾となるという可能性は、考えられませぬか?」

「物騒なことを言うな。血塗られた玉座と、後世に謗られるのは御免だ」

 第一王位継承権は変更されない。王位継承者は、聖皇国を議長とする各国の王の会議で認証され、いかなることがあっても順位の入れ替えは起こり得ない。何かの間違いで第一王子が斃れたのなら俺が次の王として繰り上がるが、小妃がそれを許すはずがなく、土台、無理な話だ。

「現状維持。返答は保留。異論は?」

「准将、耳を塞いで目を瞑っていられるのにも限界がありますぞ」

「俺が動くのは王城からの指示があってからだ」

「使者が持ってくるのが逮捕状だったとしても、ですか?」

「その時にはお前が俺を捕えることになるだろうから、これを渡しておこう」

 俺は聖皇国からの熱烈な恋文二通を、モルドァの分厚い胸板に押し付ける。

「これで俺を高く売れ。時と相手を間違わなければ、最大限、効果を発揮するだろう」

「私は、こういうことは苦手です」

「ロイは得意だ、相談しろ。ただし、この親書の存在を知っているのは俺とお前だけだという事実も、忘れるな」

 モルドァはただ一言「了解」とだけ肯いた。

 俺が裏切り者としてつるし上げられて済むのなら、それが一番簡単だ。しかし、それだけではグィーダー家の公女に祭り上げられた少女を、野に放つことはできない。

 この世界のどこにも、俺たちが逃げ込む場所などなかった。

 その日の暮れのことだった。

 大妃殿下の名で砦に小包が届けられたのは。

 宛先はグィーダー公女になっていたが、無論、中を検めさせてもらった。俺が勢いに任せて売り払った髪飾りが、仰々しい天鵞絨の小箱に収められているだけだった。

 星色の花の群の中で、月明かりを浴びて振り向いた、あの一瞬が忘れられなくて、俺は出来心でそれをゼファーに着けるよう強請った。

 銀に水晶と真珠を散りばめた華奢なそれを手に取り、ゼファーはしばし、沈黙する。

「買い戻したのですね」

 ゼファーは抑揚のない声で言う。彼女にとっては嫌な思い出だったかな、と俺は反省する。が、否と言わせるつもりもなかった。

「もう一度だけ、見たいんだ」

「そんなに私は綺麗でしたか?」

「一目惚れだった」

「実を言いますと、この髪飾り、とても気に入っていたのです」

 ゼファーはそこでようやく微笑んだ。

「こんなに綺麗なものを私に下さるなんて、大妃殿下はなんてお優しい方なのかしらと、感激したものです。また手にすることができて、嬉しいです」

 俺は肯きながら、ふと、小さな違和感を覚えた。それは思考の底に小さな釣り針となって引っかかって、俺をちくちくと引っ張り続ける。

 窓の外の空は見事に赤い。部屋の中にはまだ、昼間の日差しの温もりが残っていた。

 俺は、ひどく疲れてしまっている。

 今すぐこの窓を開け放ってしまいたい衝動に駆られて、それを目ざとく見つけたゼファーは、俺の強引に振り向かせて、唇を重ねた。

「君は罪深い」

 まあ、と、ゼファーは笑った。

「何の罪でしょう?」

「不敬罪」

「判決は?」

「生涯禁固刑に処する。未来永劫、俺と供に在れ」

「謹んで、お受けいたします」

 こうやって戯れる俺たちを、きっとどこかで誰かが見ている。どこにいるかもわからない、しかし、確実に存在する悪意に向かって見せつけるように、俺は彼女を愛した。

 正義だけでは救えない。善良だけでは助からない。

 正しさも、世界も、何もかもを覆すかわりに、俺たちは何度もひっくり返って転げまわる。それを馬鹿だと嗤うなら、俺は、道化で構わない。

「ロボ」

 ひとしきり戯れて気が済んだ俺の耳の端を甘噛みして、彼女は少し怒った声を出した。

「着てくれと言ったのは、貴方です」

「確かに、言ったが」

「言っていることをやっていることが、逆です」

「そんなもの、脱がせるために着せたいに決まっているじゃないか」

「なら、ちゃんと着ますから、今度は待てますか?」

「ん。わかった」

 俺は彼女を放してやる。自分から放せと言ったくせに、ゼファーは俺の手を握って離さない。言葉はけして、真実を語るとは限らない。

「支度しますから、カナンさんを呼んでください。あと、私も少しは風に当たりたいので、どこか人目につかず、屋外に出られるところはありますか?」

 東側に、張り出しのついた大きな窓のある部屋がある。これ以上ないくらいくらい狙撃に向いているので使っていないが、そこからの景観だけはこの砦のどこよりも美しい。おそらく砦の設計者も、あまりにも窓に映る風景が美しすぎて、ついつい、張り出しを創ってしまったに違いない。

 俺はそこを彼女に教えて、先に向かった。

 手摺に腰かけて、ガウカリアから吹きつける風に身を晒しながら、俺はぼんやり、ススロに混じって暮らしていたことを思い出す。たった半年の間に、随分遠い記憶になってしまった。

 俺がゼファーを待っていたのは、彼女が俺を待つのに比べれば随分と短い間だったはず。それなのに、俺はほんの少し一人にされただけで、もう不安になっていた。

 もし彼女がこのまま現れなかったら。そう思うと、このまま体を後ろに倒したくなる。しかし、それをしないのは、あと少し待っていれば彼女がくるかもしれないと思うからだ。希望は残酷。昔言われた言葉の切片は、呪いとなって俺の記憶の深層に根を張っている。

 銀の髪飾りに彩られた、風の精霊のような少女を待っていた。

 待っても来ないかもしれない、と怖れていた。

 違うものがやってくるかもしれない、とも怖れていた。

 俺は待つのが苦手だ。

 ゼファーを待ちながら、同時に、父王からの最後通告も、待っていた。

 今もって、王城からの沙汰は、大妃が送りつけた髪飾りのみだった。

 それだけ。

 たったそれだけのことなのに、俺はひどく臆病になっている。

 さっき覚えた違和感がしきりに何かを訴えいているのだが、疲れた耳には賢者の囁きが上手く聞き取れなかった。

 どうでもいいんだ、と、俺は額を抑える。

 何でもいい、どうなってもいいから、今すぐゼファーを抱きしめたい。

 そう長い時間ではなかったはずだが、寒くなってきた。うっかり凶弾を弾いてしまわないように上着を置いてきた身には、日没の風は冷たい。

 戸を叩く音に、応答する。

 やってきたのは、絶望の方だった。

「殿下、王城からの使者の方がお見えですが......」

 カナンの声だった。カナンは別に宮廷侍女としての教育を受けてきたわけではないので、この辺りはお粗末である。俺は「通せ」とだけ告げた。

 紗が降りていたから、姿は見えていないはず。カナンの夢を壊さなくてよかったのか、悪かったのか、俺は一人、苦笑する。

 しかし、妙だ。カナンはゼファーのところに遣っていたはず。ゼファーがここにいると教えたか。いや、ならばモルドァ中佐のところへ知らせている。彼女のはその辺りの機微を心得ている。賢いゼファーなら、王城の使者が俺を訪う理由くらい察しがつくことだろう。カナンだけがここに来た。つまり、俺は、振られたのだろう。

 悔しいとか、悲しいとか、そんなことはなくて、俺はむしろ、ほっとしていた。

 あの銀の髪飾りにどんな暗号が隠されていたのか読み解けなかった俺が馬鹿なのだ。いや、読み解く努力さえしなかった。いつから、どこから、大妃の術中に嵌っていたのか。

 大妃は優しい、とゼファーは言った。

 人並みに、彼女を愛することを俺に許したという点では、確かにあの女は優しいのかもしれないとさえ思っていた。

 このまま終わろう。

 ここ最近では珍しいほど、明瞭な答えが出た。

 この物語に、続きはいらない。

「第二王子殿下におかれましては、ご健勝そうで何よりでございます。国王陛下より、殿下へ、今年の新酒が下賜されましたので、お届けに上がりました」

 言葉の端々に慇懃さを滲ませながら恭しくお辞儀する使者を見やり、その傍らにすでに用意されている硝子の杯を見つけ、俺は「その時」が「今」であることを察した。

「遠路はるばるご苦労であった。確かに受け取った」

「おそれながら、殿下。国王陛下は今年の新酒は大変良い出来栄えであり、第一王子様、第三王子様、そして妃殿下をお呼びになり、御自ら杯を賜われましれございます。遠きにある殿下の心を思われ、こうして杯をお贈りになりました」

「そうか。陛下から直接賜る杯だと、そういうことだな?」

「さようでございます」

「カナン」

「はい!」

「何か軽いものを用意してくれ」

「え? あ、はい! かしこましました!」

 無関係なカナンを追い払って、俺は、深々と頭を垂れたままの使者を、まじまじ眺める。六十絡みの老人で、多島海域戦では父王の副官として働いた男であった。

「その年で、悪路は身に堪えたであろう。ここまでご苦労であった」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。寄る年波には勝てず、病患い、かように老いさらばえましては、もはや陛下のお役に立つこと叶いませぬ。この任を以って最後と、暇乞いをいたしました」

「家族は?」

「ありませぬ。家財は片づけてまいりました」

 そうか、と俺はいつものように笑って見せた。

「注いでくれ」

「かしこまりました」

 硝子の杯の縁が、月の光を受けて銀に光っていた。

 緋色が、透明な器の中を浸していくのを、俺はぼんやり眺めていた。

「綺麗な色だ」

「さようでございますな」

「出来が良いというのは、事実らしい」

「......落ち着いていらっしゃるのですね」

「そう見えるか? なら、よかった」

 毒杯だった、と騒がれるのは明日になってからだろう。

 それにしても、こういう形でいきなり最後通達がくるとは。想定していたが、思った以上に、精神にくるものがあった。

 第一王子が演じてみせた、一家団欒の光景が、こんな時に限って思い出された。

 俺は駄目だった。どんなに頑張っても、あそこに馴染める気がしない。

 それと同時に、ゼファーと二人きりの食卓が、苦しくなるほど思い出された。ススロの熾も思い出していた。

 小さな食卓を毎日囲む。好いた女の手料理を取り分けて......あと二人くらいいてもいいかもしれない。家族、とか。

 どうして、そういう人生じゃなかったのだろう。

 俺は美しい赤色を呈するそれを受け取り、ふと、呟く。

「欲を言えば、直接父王から注がれたかった」

 誰よりも国王陛下と呼ばれる男に忠実で、何よりもその男を理解する老人が、初めて笑顔をかき消して俺を見た。

 年輪を重ねた瞳には、様々な感情が複雑に絡み合って、俺のような小僧には彼が何を思っているのかわからなかった。

「一息に干されませ。けして、途中で躊躇われぬよう」

「了承した。我がイスガルに栄光あれ、とでも言っておくかな」

 生まれてくるんじゃなかった。

 俺は今宵、もしかしたら初めて本気で母を恨んだ。俺だけを産み落として、さっさと自分だけ死んでしまった薄情者。俺を産もうとしなければ、死なずに済んだかもしれない。

 飲み込んだら、後ろに倒れよう。手摺の向こうは断崖だ。万一にも、助からないように。

 そんなことを考えている暇があるのなら、さっさと干してしまえばよかったのに。

 突然、扉が開け放たれる。

 出会った時と同じ姿のゼファーが、奇妙な表情をして立っていた。着飾った彼女は美しかったが、王城で見かけた時とは全然様子が違っていた。精霊なんかじゃなく、人間の顔をして、彼女は迷わず俺を見つめいる。

 俺は、迷って、視線を逸らしてしまった。

 そう。一瞬だった。

 一瞬だけでも、俺は自分が死にゆくことに疑問を覚えた。

 生きようと、したのだ。

 この期に及んで。

 ゼファーはその一瞬を最大限に利用した。俺の胸に転がり込んで、あっとい言う間に俺の手から杯を取り上げてしまう。

 俺は、生きようとした。

 彼女は、生かそうとした。

「ありがとう、貴方は私の、夢でした」

 ゼファーが、俺を突き放す。

「いい夢を、見れました」

「駄目だ!」

 俺は彼女の手から毒杯を叩き落としたはずだった。ところが、俺の手は何者かによって抑えられ、それでもまだ間に合いそうだったので、俺は振りほどこうとして暴れた。

 放してほしかった。

 好きにさせてほしかった。

 どうせ俺はここで死ぬのだから、押さえつけるくらいならこの首斬り落とせ。

 祈る。

 

 いかないで。

 俺を、おいていかないで。

 

 俺は、もがいて、もがいて、何ともならないことを、何とかしようとして。

 駄目だ、と祈る。

 彼女は俺を無視して、杯を煽る。

 勇敢な彼女は、一気に飲み干してしまった。

 そしてそのまま、光を失って、器物のように、たおれる。ころがる。

 頭の中で、血が弾けたような感覚があった。

 

 ――――。

 ......、......っ、......!


 誰かが、叫んでいる。

 だけど遠い。山一つ隔てた向こうから叫んでいるようで、よく聞こえない。

「准将!」

 はっと、膜が破れたように、刹那に五感が戻ってくる。同時に、馴染み深い鈍痛が頭の中を浸して行った。モルドァが、珍しく激しい表情を俺に向けていた。

 俺は自分でも何がしたいのかわからないまま、中佐の腰に下がっていた儀礼刀を引き抜いて、国王の使者に斬りかかるつもりでいた。

「なりません!」

 飛び出しかけた俺を抱きすくめるような恰好で背後から中佐が抑え、どこから湧いて出てきたのか、ジエンが前から俺の腕を掴んで締め上げる。

「国王陛下の使わした者を斬ってはなりません!」

「わかっている!」

 俺は叫び、モルドァの拘束を逃れようと中に足を浮かせて蹴り上げた。

 わかっている。俺の矮躯じゃ中佐に敵わない。

 わかっている。ジエンが俺を使者の間に入って右手で俺を抑えて、左手で使者を抑えている。仮にも王族の俺だから、父王の側近であったこの老人が着けていた指輪の意味も知っていた。独特の意匠。イスガルの国章を象る飾台の一部が外れるようになっていて、そこに自決用の毒を仕込むのだ。

「わかっている!」

 俺が今更何をしたって、事実は変わらないんだ。

「わかっている、だから、放せ!」

 わかっている、わかっている、わかっている。

 だけど、やっぱり、わからない。

「死んじまえ!」

 慟哭する。それが言葉であったのか、俺自身は定かでない。

「貴方が死んだら、彼女は聖皇国とイスガルを謀った悪女として名を残すことになります」

 モルドァの声はいやに静かで、氷水を被ったような心地がした。

 日記はつけない、と彼女が言っていたのを思い出す。過去は変えようのない現実だから、形にしてもつまらないと言う。

 俺は体の力を抜いたが、中佐はけして油断しなかった。

 公女ではなかったという事実。俺たちは愛し合ったのか、不確定の真実。

 俺が生き残ったという、現実。

「取り乱して、すまない。もう平気だ」

「准将、本当にわかっておいででしょうな?」

「わかっている」

 こうなるんだろうな、と、わかっていたから。

「中佐、放せ。わかっている。大丈夫だ。俺には仕事が残っている」

 俺を放すと、やけに慎重な足取りで中佐は一歩下がった。明らかに使者を庇う形でジエンが立ちはだかり、断崖と俺との間には中佐がさりげなく行く手を阻んでいた。

「案ずるな。俺は、物分りがいいほうだ」

 俺はまず、俺の代わりに毒杯を呷った少女の死亡を確認する。国王からの杯を断れないことを知り、急いで駆け付けてきたのだろう。きっとこの娘は、大妃から贈り物が届いたときには、感づいていたのかもしれない。大妃は今宵、俺に杯が届けられることを知って、彼女に選ばせたのだ。

 公女として生きよ。さもなければ、死ね。

 何者として死ぬかを選ばせることを、優しさと呼べるだろうか。

 グィーダー家の末裔の娘に相応しい、浮世離れした装飾過多な髪飾りを、気に入っていたのだと、彼女は言っていた。

「わかっていたんだ」

 星を映す朝の瞳は、死んでもなお綺麗だった。まだ温度の残るうちに俺はその瞼を閉じてしまう。永遠にこの色を見ることはできないのだと思うと、惜しいとさえ思った。

 俺は騒動のために床に倒れて割れた瓶の欠片を数えていた。

「それでも、わからないんだ」

 俺はどうすればよかったのか。

 わからないまま、現実は俺を置いて先に進んでいく。

 俺は、こんな時でさえ得意の笑顔を使者に向けた。

「国王陛下にお伝え願えるだろうか。賜った御酒は運送の途中、事故で割れてしまった。気高きグィーダー家公女は、俺の手に落ちることを厭がり、毒の指輪を噛んで自害した」

 使者は老獪な瞳で俺を見つめていたが、やがて「それでよろしゅうございますか」と訊ねた。俺は使者には答えず、モルドァを見る。

「一日だけ、くれないか」

「フィオとカナンを同伴なさるなら、結構です」

「ひとりで大丈夫だ」

「そう豪語して王城に戻られて、これがその結果ですぞ」

 そう言われては、反論の余地もない。

「了承した。遺体を処理してくるから、使者殿を王城まで無事にお送りしろ」

 ジエンに半ば引きずられるようにして出て行く使者に、俺は、深く頭を下げる。

「では、くれぐれも、お願いいたします。死人は語りませんので、どうか、生きて、国王陛下に報告してください。俺は無事です。近いうちに、お伺いいたします」

「かしこまりました」

 廊下で、何も知らずに俺の言いつけに従って戻ってきたカナンが驚いて悲鳴を上げて、彼女に、中に入らないように忠告するジエンの声が聞こえた。

 ジエンは優しい。とてもモルドァと一緒になって残酷無慈悲の傭兵団を引き攣れて暴れていた男とは思えない。

 そんなことを思う今の俺は、多少、意地悪になっているらしい。

 少女の死体が冷えて硬直してしまう前に、仰向けにして胸の前で手を組ませる。月明かりの中で、その青ざめた顔に触れる。

 綺麗。だけど、このまま置いておくわけにはいかない。

 火葬しよう、と決断するまでそう長くかからなかったのは、いつからか、常に頭の半分でこの娘の亡骸の処理の仕方について考えていたからだ。

 埋葬して墓碑を立てるのは、掘り起こされる危険性があった。

 本当にそれだけか? ふと、思った。

 愛した人を、死してなお道具にしたくないとか、そういう情は俺にはないのか。

「どこでもいい、近隣で火葬を受け付ける霊廟を探せ。それから、マシラをここへ。即死だった。毒の種類と致死量が知りたい。ヤブでも医者なら、情報を得られるだろう」

「准将、笑っておられますぞ」

「わかっている。だがな、知らないよりかは知っておいたほうがいいだろう? 俺を殺すはずだった毒が何であったのか、俺は気になる。俺の代わりに――」

 この娘が死んだのだから。

 わかっているつもりだったが、口に出そうとした途端、思いもよらない衝動が体の内側で渦巻いた。それが悲しみなのか、怒りなのか、悼みか、痛みか。

 死んじまえ。

 叫びかけて、俺は慌てて己の口を塞いだ。

「......前言撤回する。平気では、ないらしい」

 立っていると何をしだすかわからないので、俺は座り込む。

 名もなき少女の横で、膝を抱える。

「君のために、泣いてあげられない。ごめん」

 ふと、口から零れ出た言葉を、賢い中佐は聞かないふりをしてくれた。

 俺みたいなろくでなしこそ、死んじまえばよかったんだ。

 この子が自害すると、全て都合よく収まると考えていたんだから。

 だから、俺は、愛したなんて、言ってはいけないんだ。

   ■

 

 むかし、むかし、あるところに、西風が生まれました。

 西風はとてもふわふわしていたので、どこまでも、どこまでも、流されていきました。

 そしてとうとう、西風は深くて暗い岩穴の奥まで流されて、にっちもさっちもゆかなくなりました。

 岩穴の奥は暗くて、冷たくて、もう二度と太陽のもとへ出ることは叶わないのだと知った西風は、暗がりでくるくる回りながら、歌いました。

 いつか自分か消えてしまう前に。

 音に溢れ、色に満ちた、あの世界の温かさを忘れてしまう前に。

 すると、岩の影から小さな子どもの狼が飛び出してきました。

 君は綺麗だね、と狼は言いました。ひとりなの、と西風は訊ねました。

 狼は手足を丸めてうずくまり、くう、と小さく鳴きました。

 さびしいの、と西風は狼を撫でました。わからない、と狼は西風に抱かれて眠りました。

 西風は狼のことが好きになりました。狼も西風のことが好きになりました。

 狼は約束しました。君のことを逃がしてあげる。太陽のもとに帰してあげる。

 狼は西風を岩穴の外に連れて行ってくれました。

 一緒にいきましょう、と西風は言いました。だけど狼は耳を伏せてしましました。

 この暗い穴の底から自分は出られない。外の世界は怖い。

 怖がりで、優しい狼の背中を、西風はそっと押しました。

 勇気を出して岩穴から飛び出した狼の隣を、西風が吹き渡ります。

 走り出した狼は、もう小さな、怖がりの子どもではありませんでした。

 西風と狼は一緒に草原を駆けてゆきます。狼は草原の王となりました。

 いつまでも、ふたり幸せでした。

 

 西風のある限り、狼は何も恐れていなかった。

 その風がいつか消えることも知らずに、狼は駆けていった。

 一緒にいきたいと願っていたのに。

 いつしか風は空に解けて、狼はひとり、草原に吼えていた。



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