表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狼王記原本@2013  作者: 清水さゆる
3/6

イースサーガと比べると、まあ、無理っしょw

2、 飼い犬の甘噛み


 玉座が見える。一直線に絨毯が敷かれ、その左右に重臣たちが整列し、さらにその後ろを近衛隊が固めている。何の妨害もないように見える玉座までの道のりだが、実際に登り詰めることは難しい。

 なので、俺は最初から諦めていた。

 俺は待っていた。いつだって、俺は待つ人間だった。

 王の左右、一段下がったところに、王子の席が設けられている。王から見て右に長兄、左に末弟。王子は三人もいらないだろう、と俺は常々思っていた。何故なら、見た目に悪いからだ。三人も王を取り囲む必要はない。左右に一人ずつのほうが絵的に美しい。美しいと感じるということは、それが最適だからだ。

 要するに、俺がいないほうが万事滞りなく上手くゆくように設計されている。これは何も俺に限ったことではない。最初からここはそういう形だった。

 最後に父王が厳かにやってきて腰を下ろすと、背後の廉布が揺れた。あの向こうにおわしますのは大妃、小妃、成人した王女たち王籍の女たちである。彼女たちに発言権はないが、聴議権があるので、参列する義務がある。そして、さらにその後ろ。決してここからではうかがい知れない、重々しい黒樫の扉がある。「星の間」の扉である。

 真実はけして、表には出てこないという意志表示か。

「二の王子よ」

 父王の、この声が、俺は恐ろしくてたまらない。父王は決して俺の名を呼ばない。そしてかならず「二」と頭につけるのだ。お前が抜きん出ることはけして許さぬ、と、俺を呼ぶたびに念押ししてくる。

「よくぞ無事に戻った。恐ろしい思いをしたであろう」

 恐ろしかったのは、むしろ昨晩だ。俺はにっこり笑って頭を下げた。腰を曲げると、背の傷が広がってじりじりと痛んだ。念入りに包帯を巻いてきたものの、血が滲んでいないか心配だ。正装を汚すと親族が煩い。この衣装は俺が「王家」から借りているものだから。

「陛下の御威光と温情により、無事、御許へ戻ることができました。感謝いたします。このご恩に、生涯の忠誠をもって応えます」

「何より」

 忠誠という言葉と、隷属という言葉の違いが、俺にはよくわからない。

 王城に戻った俺は、真っ先に父王の寝室へと呼ばれた。深夜であり、皆就寝している頃だったので、誰も訝しがらない。むしろ、余人の目には元気な我が子の顔を一刻も速く確かめたいという親心に映ったかもしれない。

 とんでもない。

 これは罰だ、と父王は言う。そして、愛しているのだ、とも言う。

 父王には、俺の本音など見え透いていたのだろう。俺は、逃げ出したのだ。

 逃げてはならぬ、と父王は低く唸るように俺に言って聞かせた。

 運命から逃れようとするな。受け入れよ。

 それらの言葉は髄まで響く鞭の音と供に叩きつけられ、背の肉を裂き、骨に染み、さらにその奥、魂とか、そういう根本的なところにまで刻み込まれる。

 俺は待つだけだ。父王が俺を赦すのを、ただ待つ。黙って待つ。その間、特にできることもないので、少しでも痛覚を緩和しようと、五感と思考を濁して待つ。

 俺の「ぼんやり」の原点である。

 ただ、昨晩は少し違った。

 ガウカリアの風の感触がまだ肌に残っていた。ススロの熾の赤が、イェナの夕景色の髪の色が、まだ鮮やかに瞼に残っていた。

 エランの涙が、笑顔が、声が、忘れられない。

 様々な感情が廻り巡って、ぼんやりしている暇がなかった。だから余計に苦しんだ。いつもなら感覚も思考もすぐに麻痺して「ぼんやり」が始まるのに、昨晩はいつまでも鋭敏な痛覚に苛まされた。久々に、父王のこの行為を「苦痛」と感じたほどだ。

 きつめに巻いたはずの包帯が緩んできている。

 やはり、俺はエランのようには上手くできない。

 エラン、お前がいなくなったら誰がこの傷を隠すんだ? 俺はそんなに器用じゃない。

「余は、そなたが無事に戻ったことを喜ばしく思う。王としてではなく、汝が父として」

 俺はここで目を潤ませて「父上」と可愛らしく鳴けばいいのか?

 ちょっと前の俺ならできたはずなのに。

 以前には父王が俺に何を求めているのかすぐにわかったのに、今の俺にはわからない。いや、以前のように「ぼんやり」していればいいのだけれど、一体どうしたことか、「ぼんやり」ができなくなってしまった。

 あの怪しげな極東人の治療を受けたからか? あの針に変な薬品が塗ってあったに違いない。でなければ、父王を前にこんなに明瞭な思考を保てるはずがないのだから。

「しかしながら、二の王子よ。そなたの帰還に疑念を抱く者もおる。余は父としてその者たちを許しがたく、一方で、王としてそなたの心を見定めねばならない。ここに並ぶ者の中には、そなたが逆賊と結託し、余に仇なす者どもの手に堕ちたと疑っている者も、少なからず存在するのも事実。余は彼らの声にも耳を傾けるが......」

 衣擦れの音が聞こえて、俺は下げていた頭を僅かに上げた。父王が立ち上がり、俺を見据えていたので、慌てて視線を赤い絨毯の毛の一本に固定する。

「何より、そなたの声を聞きたい。ここへきて、その真心を示すがよい」

「御意に」

 俺は階を上がり、父王の前に跪く。差し出された手の甲に唇を触れさせれば済むことなのだが、どうしたことか、俺の首は半端な角度でぎこちなく動きを止めてしまった。

 父王の手に、見慣れない傷痕を見つけたからだ。

 戦で負った古傷とは違う、まだ新しい傷である。釘で刺したような、と思い、不意に脳裏にブランカの影が過った。

 ああ、そういうことだったのか。

「陛下、ふと、思ったのですが」

 俺は父王にしか聞こえぬよう、ぎりぎりまで声を潜めた。

 言う必要のないことだ、と俺の中の賢人は忠告をくれた。一方、もう我慢ならん、やっちまえ、と吼える獣がいる。まだ塞がらない傷が痙攣したので、俺は賢人の声に耳を傾けることにした。

 何でもありません、と言いかけた時だった。

 虚ろな瞳で俺を見上げる白い犬の生首が、ごとごと揺れ始めたような気がした。頭だけになってもブランカは唸りを上げて、吠えたてる。

 まだ白い毛玉だった頃に、俺に力いっぱい、全身全霊で歯向かってきた頃と変わらず、ブランカは獣らしく、しかし誇らしく、牙を剥いたのだろう。

 お前のような立派な牙が、俺にはないんだよ。

 言ってもきかない。ブランカは、そういう犬だった。

 俺の、自慢の、最愛の、犬だった。

「犬は死んでも、噛み痕は残るものですね」

 俺は口づけするふりをして、そっと父王の手の噛み痕に己の歯を押し当てた。

 ブランカやエランに比べれば、なんてかわいい、無邪気な、飼い犬の甘噛みであった。

「未来永劫、忠誠と恭順を誓います。どうか、我が真心を信じてください」

「......よろしい」

 震えが止まらなかった。

 笑っているのが、やっとだった。

 父王が、甘噛みされた手を俺の頭に乗せた時、俺は、そのまま頭蓋骨をかち割られるかもしれないと、本気で恐れていた。そうだとしたら、外面だけは大層にこやかなまま死ぬことになる。なんとも間抜けな話だ。

 しかし、実際にはそんな暴力沙汰には至らず、存外、穏便な判決が下された。

「これで、汝が罪を問う輩も納得したことだろう。我が息子に後ろ暗いところはない。されど、『星の間』は此度の事件はそなたの王子としての無自覚さが招いたとし、その資質について追及している。よって、太子位を一時返上し、准将に降格を命ずる」

 意味は「何故自害しなかった、見えないところでさっさと死ね」。

「七生報国の精神をもって東部国境線の守備に努めよ」

 まあ、わざわざ手を下さずとも勝手に自害してくれるかもしれない。「星の間」としては第二王子を謀殺してしまうよりかは、身のある方をとったのかもしれない。あるいは「星の間」で俺の命乞いをした危篤な奴がいたのかもしれない。そして王城を離れて王子の身分を剥奪されたことは、むしろ俺にとって好機かもしれない。

 少なくとも今ここで頭を割られなかったのだから、諸々の「かもしれない」が事実かどうかを調べる時間ができたわけだ。

「寛大なる処置、感謝いたします。必ずや国王陛下の温情に報います」

「ときに、そなたを我が懐中から奪わんとした不届き者についてだが」

 ぎり、と胸の奥が軋んだ。

「そなたの側付であったとか」

「はい」

「余はそなたが憐れでならぬ。もっとも信頼し、今後、そなたの片腕として栄光を供にするはずであった若者が、そなたに危害を及ぼしたという事実が、俄かには信じられぬ」

「事実を知り、衝撃でありました」

「そなたは、知らなんだか」

「モルドァ中佐の報告があるまで、下手人が誰だかわかりませんでした。目隠しをされていたため、顔を見ていません」

 今更、悪あがきをしたところで意味はない。それでも、俺は何とかエランを生かそうとしていた。どうにもならぬことだとわかっていても、死んだ犬の首と胴体を一つに埋めてやろうとしたときのように、俺は、何とかして、何ともならないことを、変えようとした。

「真に、エラン少尉が?」

「誘拐については、自白した。しかし、仲間や目的については黙秘を貫いておる。そこでそなたにも協力してもらいたい。サルマリア砦からの報告では、そなたはオストヴァハル兵を目撃したそうだな。確かか?」

「兵であるかは定かではありません。しかし、軍隊のような統率された騎馬の集団であったのは確かです。詳細は不明です」

「そのような不確かな情報で砦の兵を動かしたのか」

「動転しておりました。己の身に何が起きたのかもわからず、冷静さに欠いていたことは深く反省しております」

「よい、そなたは無事に戻った。しかし、状況から察するに、そなたの側付がオストヴァハルの密命を帯びていた可能性は、否定できない。すでに死刑が宣告されているが、執行前に、真実を聞きだしてきてはくれまいか。幼少のころから付き添ったそなたになら、信実を打ち明けてくれるかもしれぬ」

「......」

 喜んで、とすぐに言えなかった。要するに、エランの死に様を見てこいということだ。あるいは、俺が尻尾を出すかもしれないという「星の間」の罠か。いずれにせよ、いい趣味をしている。

「恐ろしいか?」

「いえ、お任せください」

「二の王子よ。面をあげよ」

 鷹と目があった鼠というのは、こんな気分なのだろうか。もうだめだ、とわかっていても、目を離せない。何もできない。

「達者で」

 俺はやはり、にっこり笑って肯いたのだった。

「はい。陛下も末永くご健勝であられますよう、彼の地から安寧を祈願いたします」

 ふと、王の左右へと視線を這わせる。

 放逐される王子に対して、第三王子は憐憫の目を向け、第一王子は目を合せようとしなかった。廉の向うの王妃たちはなおさら陰険で、扇子で口元を覆って表情を見せようとしない。もっとも、一番の性悪はけしてこの場に姿を現さない「星の間」の審議員たちだが。

 かく言う俺も、臆病者だ。おまけに嘘つきだ。

 エランに会うのが、俺は怖かった。

 逃げ出してしまいたいところだが、もう、誰も俺を攫ってはくれないだろう。

 シュレスタン監獄へ向かう馬車の中で、俺はひたすら寝扱けていた。寝ていれば余計なことを考える必要がないからだ。何より、体力を温存せねばなるまい。そして眠ることにさえ辟易しかけた頃、馬車の揺れが止まって、俺はモルドァ中佐に起こされた。

 かわいそうに、中佐は俺の護送の任を仰せつかったらしい。貧乏くじを引いたな、と言ってやったら、目を円くしていた。

「なんだ、俺が泣きぬれていると期待していたか」

「はい。存外、お元気そうでなによりです」

 モルドァは、率直な男であった。

「父王には言うなよ」

 俺は馬車を降りた。シュレスタン監獄は断崖に身を乗り出すようにして築かれた古い岩城をもとにしている。直通の橋はなく、ここから先は谷を降りて舟で入るしかない。一度収監されたら、生きて太陽の光を見ることは敵わない。俺が到着したのは深夜で、濃霧も相俟って、小さな角燈[あかり]だけをたよりに舟を進める頭巾を被った船頭が、死神に見えて仕方なかった。

 確かに、行く先は地獄だ。谷には拷問を受けて泣き叫ぶ囚人たちの悲鳴が響き渡り、吹き抜ける風がごうごうと怨嗟の唸りを上げていた。

「死んでもここに入れられるのは御免だな」

 俺の軽口に答えるのは、絶壁を転げ落ちていく石の音だけだった。

「おそれながら」

 長々続く石段を上る途中、モルドァがようやく口をきいてくれた。

「なんだ」

「殿下は、その......もっと内向的な方だと思っておりました」

「俺もそう思っていた」

 モルドァが怪訝そうに眉を寄せるのを、俺は面白おかしく観察していた。

「自他ともに認めるぼんくらだと思っていたんだがな。劣等生には変わりないが」

 俺は得意の愛想笑いを浮かべる。俺に限らず、王族ならば、いつどこで誰が見ているか知れたものじゃないから、どの角度でも見栄えのする表情というのを習得しているものだ。ことさら、俺は他の表情を晒したくないときにこの顔をするのだが。

「俺は裏表が激しいみたいだ」

「というより、まるで別人であられます」

「そうか? まあ、そうかもな」

 あの頭痛は、俺の人格が壊れている合図だったのかもしれない。

 中佐の態度に俺は、引っかかるものを覚えた。蜥に似ている。馬鹿にして前を通れば噛みつこうとするくせに、一定の距離を保って遠巻きに様子を伺う。素直でないあいつらの顔を連想し、ひょっとしたらこの男は俺に懐くかもしれない、と考えていた。

 監房には、何が原因かわからない悪臭が染みついていて、吐きそうだ。絶えず奇声や絶叫がどこからか反響し、ただ進んでいるだけでも精神をじわりじわりと蝕まれる。

 監獄の怪談は複雑怪奇であった。時には「階段」でさえなく、梯子や吊り橋さえあった。城内を急流が流れており、蒸気が上がっている。火山の熱で温められた地下水が流れているのだそうだ。ちなみに硫酸を帯びた熱湯で、監房で死んだ者はこの酸の川に浸けておくと、骨まで溶けて跡形もなくなるのだと、案内人が楽しげに聞かせてくれた。

 案内人は、色あせた魔術師の仮面を付けていた。

 誰かが意図的にそのように設計したのか、それとも増築に増築を重ねた結果なのか、もはや誰にもわからない。訊くところによると、この岩城は我らがご先祖様である尖兵団たちがこの地に踏み入れるより前から存在していたらしい。

 どこまでもいつまでも続くかと思われた階段昇りも、とうとう終点にたどり着いたらしい。案内人が、とある独房の前で一礼した。

 お前がいると気が散る、という意味を込めてモルドァを見上げると、渋々といった様子で岩壁の影へと下がっていった。

「どこのお坊ちゃんだか存じませんがね、脱獄なんて考えてはいけませんよ」

 案内人は、何が可笑しいのか、ひゃらひゃら笑いながら掌を差し出した。黒い革の手袋には洗っても落ちなさそうな血のあとがべったりと付いている。まさか握手を求められているわけではあるまい。餞別の小遣いも持たされなかったので、俺はこの手に握らせる賄賂を持ち合わせていなかった。仕方ないので耳飾りの片方を外して投げる。

 おひゃ、と奇声を上げて跳ねたかと思うと、奴はそれを食べてしまった。羽虫を食べる爬虫類じみた様子に、さしもの俺も怖気たつ。

「かわいい子犬には役立つ故人の知恵を。『希望は残酷』。ひゃは。それでは、充実したお別れを。この廊下を真っ直ぐいくと外への階段があります。あっしはそこで待ってますんで。ええ、きっと待っていますよ。待ちぼうけは勘弁してくださいよ」

 案内人は俺が投げた耳飾りを歯に引っかけたまま、にたりと笑うと、苦悶渦巻く廊下の奥へと消えてしまった。

 希望は残酷。言い得て妙だ。

 やっと雑音が消えて、俺は格子に向き合う。

「エラン」

 淀んだ闇の向うで、鎖の鳴る音がした。

「殿下?」

 枯れた声が、返ってきた。

「俺だ。お前に聞きたいことがあって、参った」

 俺が格子に近付こうと、一歩踏み出した時だ。

「なりません。それ以上、近づいてはいけません。......とても、お見せできるような有様ではありませんので」

 とうに麻痺した鼻にさえ、誤魔化しようのない血の匂い。

「エラン、何故だ?」

 何故、俺に世界を見せた?

「何故、あのまま夜襲の集団とともに去らなかった?」

 何故、俺に「人間」を教えた?

「答えろ。俺がお前に逃げろと言ったときに逃げていれば、お前はこんなことにはっ!」

 息が、詰まった。

 何故、俺はお前を助けられなかったのか。

「殿下、なりません」

「構うもんか! 俺はお前に生きていてほしかった!」

 驚くほどに、普段は凪いでいる胸の奥が激しく波立った。感情の潮はあっという間に理性の箍を押し流し、暴れ奔り、もう、止めようもなかった。

「何故、お前が死ななければならないんだ!」

 涙が溢れた。

 悲しかった。なので、俺は泣いた。

 こんな単純な感情さえ、俺は今まで理解できていなかった。

「俺は悲しい」

「さようでございますか」

「お前が死ぬのが、悲しい。ブランカが死んでしまったことが、今、悲しい」

「申し訳ありません」

「何故お前が謝る! 俺はお前が悪いだなんて言っていない!」

「......いいえ、私は、あなたに謝らなければならないのです」

「謝るな!」

 とうとう言葉が出なくなり、俺は、後ろにモルドァが控えていることも忘れて、しばらく泣いた。他の囚人の気配はなくて、今頃になって、ここかもっとも地上に近く、もっとも処刑場に近い監房であると知る。鼠さえいない空虚な個室が並んでいて、俺の嗚咽が、やけに反響していた。

 もっといい手があったはずだ。まだ何か打つ手があるかもしれない。

 考えなければならないのに、俺の思考は雑感で掻き乱されて、何一つ、エランを生かす算段が思いつかない。

「殿下。私、実を言いますと、あの晩、崖の上から殿下のご勇姿を見ておりました」

「馬鹿か」

「馬鹿にございます。しかし、何としてもこの目で見届けたいと思ったのです。お見事でした。殿下の指揮で、彼らは一瞬で勇敢な戦士に変わりました」

「あと一歩で、イェナが死んでいた」

「しかし、生きております。ちなみに、邑は無事です。『追い払い』に出た者たちは戻りませんが、あなたが守ろうとした者たちは、河向こうの邑と合流して元気にやっています。あの後すぐさまイスガルの巡回騎馬隊がやってきたおかげで、追撃はありませんでした」

「......そうか」

 お前を切り捨てた甲斐があった、とは言えなかった。

「エラン、俺をけして、許すなよ」

「いいえ、許します」

「許すな!」

「殿下にとって、これは必要な通過儀礼と心得てください」

「嫌だ!」

「珍しく、今日は幼くいらっしゃいますね」

「俺は、これでも一応、人間なんだ」

「そうですとも。あなたは仔犬をかわいがり、人の輪に混じって笑い、景色を美しいと思える人間なのです。血の通う、心ある、温かな人間です。しかし、あなたはただの人間ではないのです。あなたは歴史の標となる人間です。大勢の人間たちの闇路を照らす灯となりませ。あなたにはそれができます」

「俺にできることなんてない」

「ご謙遜を。それとも、臆病になっていらっしゃいますか? あなたには他の人にはできないことができます。あなたはいずれ、世界へ挑むだけの才覚をお持ちですよ」

「できない」

 俺には何もない。俺が大事に持っていたものは、どうしてだかすぐに毀れてしまう。零さないように、奪われないように、大切に抱きしめていたはずなのに、するりと俺の腕から抜けて儚く散ってしまう。

 そんな世界に、俺はひどく臆病になっていた。

 悲しいことが多すぎる。こんなに悲しい世界を生き抜く自信はない。

「怖いんだ」

 できることなら、この格子を突き破ってエランに抱きつきたい。不安で、不安で、堪らない。いつから俺はこんなに臆病になってしまったのだろう。いや、最初から俺は弱虫であった。怖がる感情さえ閉じて塞いで、「ぼんやり」することでやりすごしてきただけだ。

「エラン、お前のいない世界が、怖い」

「大丈夫です」

 エランの、笑う気配がした。

「大丈夫。私がいなくたって、大丈夫ですよ。あなたにはちゃんと仲間ができたではありませんか。一緒に働いて、一緒に笑って、喧嘩もできる友達を作れたじゃありませんか。世界には、かなしいことばかりじゃないんです。彼らのような人間がたくさん、たくさん、いるのです。仲間を作りなさいませ。できるだけ、たくさん」

 時間だけは、平等だ。否応なしに、世界は明日へ向かって動いていく。

 死刑執行時間は明け方と聞いている。

 エランのために何ができるだろう。時を止めることが、できたらいいのに。

「さあ、いつまでも泣いていても仕方ありませんよ。ご自分のなすべきことを、なさいませ。もう私がお手伝いできることはありません」

「わかった」

 それでも俺は、お前に生きてほしくて。

 お前が俺に与えてくれたものの返礼がしたくて。

「エラン。お前がそうしろというのなら、俺は『仲間』を作る」

「ええ、是非ともそうなさいませ」

「だけど一つだけ、断っておくぞ」

 空色のススロの衣装を着せられて、顔を真っ赤にしていたエランの姿が脳裏を過った。

「俺の最初の『仲間』はお前だ、エラン。部下でも側付でもない、『仲間』だ」

「はい、了解いたしました」

「俺に、言い残すことはあるか?」

「一つだけ」

 怨嗟の言葉でも吐きかけてくれればよかったのに。

「ありがとうございました。私はあなたの側にいられて、幸せでした」

 

――幸せでした。シアワセ デシタ


 何故だろう、と俺は考えていた。

 ブランカにしろ、エランにしろ、何で俺に関わる女は首だけになっても俺を見つめるんだろう。

 死刑執行そのものはあっけなくて、俺は事務的に差し出された証明書に確認の署名を入れて、これで、この世界からエランという人間がいなくなってしまったことを認めざるを得なくなった。

 止まることを知らないかに思われた涙も、今はあとさえ残っていない。

 エランがいない今、俺が恥も外聞もかなぐり捨ててピーピー泣いた事実を知る者は、モルドァ中佐だけである。

「俺としては、口封じしたいところなのだが、どうだろう?」

 俺はサルマリア砦に向かう馬車に揺られながら、斜向かいで頑なに沈黙を守っている大男に話しかける。

「殿下が敵国と内通していたという疑いが濃くなるだけですな」

「そっちじゃない。そんなこと、今更薄めたって、疑われた時点でもうお終いだ」

「すると、死にゆくかつての部下のために涙を流されたことですか?」

「そうだ」

「......」

「何故黙る?」

「恥ずかしいのですか?」

「そういうわけじゃない。ただ、俺が泣いたと言ったら、今のお前みたいにぎょっとする輩が多いだろうから」

 したり、俺は口の端を吊り上げる。

「王子なら恥じたほうがよいかもいれないな。だけど俺はもう王子じゃない。守るべき名誉も誇りもないから、気が楽だ」

 モルドァ中佐は深々と溜息をついて、腕を組んだ。

「変わった方だとは存じておりましたが、殿下の場合、箍が外れておいでのようですな」

「ちょっとばかり頭を強く打ってな。その時におかしくなったらしい」

「率直に申し上げますと、こうして直接お話しするまで、殿下は洗練された品のよい方だと思っておりました」

「女々しいとはっきり言ったらどうだ?」

 じろりと向けられたモルドァの灰色の瞳が、鋼の色に光っていた。

「自棄を起こされておいでか」

「自棄にもなるさ」

 俺はわざと横柄に足を組み、片肘に体重を乗せる。

「お前は今までサルマリアを統率していたんだろう? これからもよろしく頼むぞ。せっかく父王の目の届かない田舎なんだ、存分に勝手をさせてもらう」

 呆れた、という感情を隠すことなく、モルドァの視線が外れるのを窓の硝子越しに確かめる。なるほど、呆れたからには、何か期待をしていたということか。俺を本当にぼんくらだと思っている奴ならば、元王子をがっちり囲って旨味を吸い上げるだけ吸い上げて、あとは放っておけば王城から抹殺の令が下るだけだ。

 何かある。

 その直感は正しかったらしい。

 あとは何を考えているのか見定めたいところだが、それには時期尚早、まずは「俺」という存在に慣れていただかないといけない。

 俺は遠く紫に染まる空を眺める。始まりの気配に満ちた夜明けの空の色。

 エランを欠いた世界は、寒々と、広々と、どこまでも果てしなかった。

   ■

 蜥というのは人を計る。

 なので、新人を見つけると「いじめ」をはじめるのだと、イェナが言っていた。

 まずはその人間の「程度」を知ろうと、噛みついたり、無視したり、激しい反応を見せる。人間としては「あーはいはい」と健気に彼らの下僕を演じるしかない。やがて蜥たちは寄り集まって遠巻きに新人の様子を伺う。角に宿る風覚とやらで交信するのだろうか、とりあえず、彼らの評価は「絶対」だ。そこで「あいつはなかなか」と認められればかなり優秀、「まあ仲間にいれてやるか」とお情けがあれば普通、「あいつ嫌い」と尻尾を向けられれば残念、といった具合だ。

 ちなみに俺は残念な人間であった。

 蜥は群れる生き物だから、そうやって集団で意志疎通する。その点において、人間だって同じなんだろう。つくづく、俺はそう思っていた。

「殿下、これが現実です」

 俺に現実を突き付けて、モルドァ中佐は冷たい目で俺を見下げた。俺は深く、深く、息を吸った。火薬と馬と男の匂いの濃い空気であった。不本意ながら清浄とは言えない空気を胸一杯に溜め込んで、それから、力を抜くために、体仲の空気を鼻から全部吐いて出す。

「俺は『いじめ』られているのか?」

 ひくりとモルドァ中佐の頬が痙攣した。笑っているのか、怒っているのか。どちらだかわかりにくい表情である。俺はモルドァをじっとりと見上げ、モルドァはぎこちなく視線を逸らす。相手が俺でなければ監督不行き届きで降格させるところだ。

「こういうとき、『普通』は怒るものか?」

「まあ、激怒されましょうな」

「じゃあ、怒らないでおくか」

 俺は、べ、と誰もいない広場に向かって舌を出した。

 サルマリア砦に新しく着任する准将を、兵士一同、向かえると聞いていた。それが、この有様だ。これから一生ここで仲良く暮らしていくことになるかもしれん連中だからこそ、こちらは礼をつくして正装して出来てきたというのに。

 王城では常に道化だったからなぁ、と胸の内で呟く。こっちのほうが短絡的で、わかりやすい分、好感度が高かった。

「ちくしょう、おぼえていやがれ」

 不意に口をついて出てきた悪態は、いかにも三下っぽくて、我ながらちょっと情けない。

 モルドァ中佐の視線が軽蔑から驚愕に変わるのを感じて、俺は襟元を緩めた。

「そうか、そうか。そっちがそのつもりなら俺にも考えがあるぞ」

 俺は演説台の床を踏み鳴らした。多分、この下にはこのくそ面白いお出迎えの首謀者がいるに違いない。この手のいやがらせを仕掛ける人間は、かならず相手の反応を見たがるものだ。

 俺は踵を返すと、さっさと台を降りて自室に向かった。

「よいのですか、殿下」

「殿下はもうよせ。准将で結構。ま、今の俺には准将ももったいないかな」

「処罰せねば、規律が乱れます」

「それはいけないな。厳罰に処するゆえ、命令を待て」

 鋭い失望の溜息が返ってきた。いい調子だ。

「七日後だ。七日後に処分を言い渡す。それまでに、俺に謝りにきたやつは許すと言っておけ。まあ、誰も来ないだろうけれどな」

 正直、俺はサルマリア砦で自分が何をするべきか、さっぱりわからなかった。なので、こうも明確な態度をとられて、逆に安心していた。要は「喧嘩」すればいいのだ。

「あ、そうだ。ここへ戻ることがあったら、お前に訊こうと思っていたことがあった」

 俺は、俺の頭痛を治療した、あの極東人のことがずっと気になっていたのだ。

「あの妙な自称医者はどうした? 帰したか?」

 ああ、と、モルドァも思い出したようだった。

「いえ、おそらくまだこの砦に拘留してあるかと。何せあの晩に身分証もなくやってきたものですから。釈放しますか?」

「俺が決めていいのか?」

「まがりなりにも、准将はこの砦の全権を持っておいでです」

「まがりなりにも、は余計だ。そいつはまだここにいるんだな? よし、でかした。慰安すぐ会うので、案内しろ」

 嫌そうな顔をするモルドァに、俺も少なからずカチンときたのだ。

「お前くらいは言うことを聞け。できないことを命令したわけじゃなかろう?」

 俺はモルドァの逞しい脹脛を蹴っ飛ばす。無論、びくともしないのだが、追い立てられる牛のように重々しく中佐は方向転換した。

 その極東人は自らをマシラと名乗った。

 耳慣れぬ名で、猿という意味らしい。よくよく聞くと本名ではなく、屋号だそうだ。

「頭痛は治ったです? なら、よかった。君が目覚めなかったら私の首を刎ねると、そこの怖い人が言うから、食事もろくに喉を通らなかったです」

 俺はまずモルドァを見上げる。憮然と腕を組んで微動だにしないところを見るに、事実、そのように脅したのだろう。続いて俺は見張り兼世話役の番兵を見る。彼は何か言いたそうに唇を引き結んでいるので、きっと食事はまともに摂っていたに違いない。

 何より、異邦の砦に軟禁されて、この余裕。

「......ちょっといいか?」

「なんでしょ?」

「ここはイスガルの東の果ての砦だ。無賃宿じゃないぞ」

「あら、ばれてる」

 やはり、こいつ旅慣れている。

「証書がないというのも、嘘か?」

「それは本当。でも、盗られたのは嘘。もとからない」

「正気か?」

「なくても、ここまで旅してこれました」

 にっと笑って身を乗り出す。

「私には有閑な女神様がついているのです。もうそろそろ、やってくると思います」

「ふうん? では、女神様にはお帰りいただかなくてはな」

「准将」

 堪りかねて、と言った様子でモルドァが口を挟んだ。

「相手になさいますな」

「おいおい、中佐。まがりなりにも、この人は俺の恩人なんだぞ?」

「そーです。鍼打つのが一晩遅かったら、そのままぽっくり逝ってました」

「だそうだ」

 俺は肩を竦める。

 言葉が不自由なせいか、少し馬鹿っぽく聞こえるが、このマシラとやら、頭はいいらしい。保釈金を積めば解放されることを知っている。背後に豪商でも付いているのだろうか。金のあてさえあれば、安宿に比べれば砦のほうがよほど安全である。

「ところで君、大事な言葉、忘れているです?」

「おお、そうだった。礼を言おう。治療代はここの宿泊費として相殺していただこうか」

「なんとガメツイ!」

 俺は右手を差し出した。

「おや、握手ですね。西域の人たちの挨拶です。ヨロシク」

 無邪気に笑って俺の右手を握る。俺はにっこり笑ったまま、その手をぐいと引き寄せた。机を挟んで話していたので、マシラは俺に引かれて机に伏す形となった。

 その背中を肘で押さえつけ、俺は言った。

「ありがとう、ここを訪れてくれて。死んでもここからお前を出さないから、そのつもりで、よろしく頼む」

「......こういの、私たち、『恩を仇で返す』と言う」

「こちらには、似た言葉に『飼い犬に手を噛まれる』というがある。俺はロボという」

「ろぼ? 変な名です?」

「お前と一緒で屋号みたいなものだ。本名なんて、お互い知る必要なかろう?」

「君、偉そうです」

「事実、偉い。本日付でこの砦に准将として配属された。悪いようにはしない、しばらくここに留まれ。返事は是以外、聞かないぞ」

「いいですよ。でも、ちょっとその肘、どかしてほしいです」

 俺は彼女を放し、硬い椅子の背もたれに身を預ける。

「お腹一杯、食べさせてくれます?」

「約束しよう」

「お風呂は?」

「湯か? その程度なら叶えよう」

「あと、布団」

「寝床くらい用意しよう」

「寝台じゃなくて、布団」

「わかった、わかった。用意する」

 途端、マシラが突然俺にとびかかった。モルドァが剣の柄に手をかけたが、何てことない、彼女は俺に抱きついただけだった。いや、それでも十分、不敬罪か?

「君、とても素敵!」

 引っぺがそうと手を伸ばしたモルドァを追っ払い、俺は自力でこの無礼千万な女を引き離す。マシラはきらきら光るのが見えそうな勢いで気色を浮かべて、こう言った。

「今まで私を閉じ込める馬鹿は多かったです! でも、雇われたのははじめてです」

「......そうか。雇用先を探していたのなら、正式に契約して給料を支払おう」

「お金はいらない、環境がほしい」

「ほう?」

「私、自分の医術が西域でも通用するか試したいのです」

「そういうのは、嫌いじゃないな」

 俺はふと、緋色の髪の少女のことを思い出した。彼女もまた、自分の腕を試したいと望んでいた。この世界には、男に選ばれ背中に守られることよりも、自分を試そうとして前へ出てくることを望む女が少なからずいるらしい。

 認められたいという願望は、俺にもわかるのだ。

「必要なものがあれば言え。俺はお前を医者として認める」

「准将、砦には正式に派遣された医者おります」

 さっそく苦言を呈するお目付け役を、俺は鼻で笑った。

「その医者にあの時の俺が治せたか? こいつは治したぞ」

「それならば、医務官として登録を」

「そっちのほうが、高くつく。時間もかかるし、他に取られたらたまらない」

 俺は、この風変りな医者を気に入っていた。治してもらったこともあるが、その、常識はずれなところが最大気に入った。

「ちなみに、お前を軟禁しようとした阿呆たちから、どうやって逃げてきたんだ?」

 興味本位で訊いてみた。マシラは平然と答えた。

「医者の殺人はばれません。私、そこらの医者より高い技術を持っています」

 ......訊くんじゃなかった。

「でも大丈夫。私、自分の患者は殺さないです。君は患者です。治したいです。......どんな生き物だって死ぬときには死ぬのです。君は十分、生きられる」

 生きられる、という言葉に、俺は胸の奥をひやりと撫でられたような気分がした。

「待て。俺は、病なのか?」

 マシラはちらりとモルドァを見やる。

「この人は、保護者です?」

 保護者、とモルドァが僅かに揺らいだ。

「似たようなものだ。構わない、続けろ」

「臓器の具合が悪い、違います。君の頭はちょっと特殊です。頭痛は持病です。頭の骨の内側に悪いものが溜まりやすいです。頭の血管は細くて切れやすいです。過度の負荷がかかるとぷっつん、しやすいです。この前はぷっつんしていました。骨の内側の膜に溜まった悪いものを分散させて、血が固まるのを防ぎました。血が固まってしまうと、あのまま手足が動かなくなり、死にいたります」

「それは、再発するか?」

「発作だと思ってよいです。なくなるもではなく、上手に付き合っていくのです」

「治せ」

「完全無欠はあり得ません。人間の体には脆い部分があります。病巣を取り除くには、切開するしかないです。頭の骨を切り開きますが、まあ、そのまま死んでしまう可能性、高いです。経過観察、まだまだ若いので、当面、膜の間に悪いものが溜まったら、鍼で刺激して出すという療法が、一番負担がかからないです」

 マシラは最後に、実に満足そうに、もともと細い目をさらに細めて言った。

「観客あっての役者、患者あっての医者です。君はとても珍しい病を患っています。大変、重要な病人です。私、やりがいを感じます」

 まったく。言葉が足らないのを考慮しても、ひどい。相手が俺でなかったら、切り捨てられていても文句は言えない無礼者である。

「機嫌がよろしいようで」

「そういうお前は気分が悪そうだな、中佐。俺のお守はいいから仕事にもどったらどうだ?」

「わたしの仕事は准将のお守です」

 モルドァが凄まじく険しい顔をしたので、俺は「何か問題が?」としらばくれてやった。

「ここで、何をするおつもりですか」

「そう怖い顔をするな。ちゃんと大人しくしているつもりだ。あ、そうだ。俺が連れてきた蜥は元気か?」

「厩舎に入れましたが、嫌がるので牽獣と一緒に納屋に繋いであります」

「......牽獣は嫌がらないのか」

「畜生と言えど、相性というものがありましょう」

 それは面白い。俺の足は自然、蜥の方へと向かった。俺の顔をさっぱり忘れてくれたのか、それとも本来の主の情念が乗り移ったか、さっそく手痛い歓迎を受ける。寄るな、来るな、お前なんか嫌いだとばかりに、前歯をがちがち鳴らすので、俺は後ろ側から回り込む。が、荒ぶる尻尾にしこたま打たれて、触れることさえままならなかった。

 思えば、よくあの晩、俺の意を汲んで駆けてくれたものだ。

 俺は納屋の柵に腰かけて、蜥の鱗をまじまじ眺める。

 この珍妙な生き物を軍馬にすると言い出した少女のことが忘れられない。

「できるのか?」

 誰にともなく、俺は呟いた。

 終始、ぶしつけな視線を感じていた。俺程度に察知されるようでは、特殊な訓練を受けた暗殺者ということもなかろう。おおかた、本日一度も姿を見かけぬ砦の兵だろう。

 蜥には舐められる俺だけれども、兵に舐められるのは困る。

 そして兵が俺を軽んじるのは、彼らに最も影響力のあるモルドァ中佐が、無言でそれを許しているからに他ならない。

 俺はまず、この砦を乗っ取らなければならなかった。

 そして、約束通り、俺は七日後に俺とモルドァ中佐を除く全員を「処分」した。

 一人残らず、解雇したのである。同時に、新たに兵を募った。

 条件はただ一つ。俺に従えるか、否か。

 無論、モルドァ中佐は怒り狂って俺の執務室に乗り込んできた。

「失礼する!」

 モルドァ中佐を止めて、俺を守ってくる人間はここにはいない。それでは困るのだ。

「准将、これはどういうことか、ご説明願おうか!」

「説明などいるものか。通知文の通りだ」

「こんな無茶が通るとお思いか!」

 机をたたき割る勢いで掌を打ち付ければ、墨壺が飛び上がって倒れた。染みになるといけないので、手近にあった紙を拾って吸わせる。皮肉なことに、俺が出した一斉解雇通知の文章の下書きであった。

「無理を通して道理には引っ込んでいただこう、中佐」

「いいえ、引きませぬ」

 ほほう、と俺は真っ黒に染まる机の上に肘をつく。

「規律を守らねばならないと抜かしたではないか」

「故に、このような横暴は通らぬと申しております」

「俺が規律だ」

「准将」

「十四のガキだろうが、放逐された王子だろうが、サルマリアの主は、この俺だ」

 ぐ、とモルドァが唸るのを見届けて、俺は続けた。

「俺に従えないのなら、どこへなりとも好きなところへ去れ。俺は来る者を拒まず、去る者も追わない。もう一度言う。ここの、主は、この俺だ」

「......それで、兵がついてくるとでもお思いか?」

「いいや?」

 悪びれもしない俺に、モルドァのこめかみに青筋が浮かぶ。

「俺が兵なら早速、荷物をまとめて背を向けるところだ。ついでに後足で砂をかける」

「准将、冗談のおつもりか?」

「俺は本気だし、いたって真剣だ」

「国境線は誰が守備するのですか? 准将ひとりで、何がでましょう?」

「何もできないな。それに、俺はな、たとえば今日、オストヴァハル兵が乗り込んできても、すぐさま白旗上げて降伏する所存だ」

「とても、イスガルの王子とは思えぬお言葉ですな」

「だから放逐された。安心しろ、お前は解雇していない。俺のお気に入りでよかったな」

 しゃん、と涼やかな金属の音が執務室に響いた。

 ひたり、銀の切っ先は俺の眉間の直前で静止する。

「戦場での大将の死因で多いのは、背後からの不意の一撃だそうですよ、准将」

 俺はにっこり笑って、切っ先を指で弾く。

「背後でもなければ不意でもない。ついでにここはまだ戦場じゃない」

「准将の悪戯で、今にでも戦場になりかねます」

 俺は窓の外に目をやった。武装した兵士たちが俺の首を獲らんと整列している。こうしてお行儀よく「待て」ができるあたり、大変によく訓練された兵たちである。

「見ろ、モルドァ。ここにはこんなに兵士がいたのだな。はじめて見る」

 圧巻であるが、この二倍は欲しいと思った。

「常駐の兵はこれで全部か? ざっと八百くらいか?」

「五三八、中規模の兵団です」

「多く見える。旅団を名乗ってもよさそうな威容だ」

 俺は突きつけられた切っ先を避けて立ち上がり、黒く染まる机の上に這い上った。立っただけではモルドァを見下ろすことはできないからだ。片膝付いて、奴の額に触れるほどまで顔を近付ける。

「六百にも満たない似非旅団で、満足か?」

 返事はなかった。

「せめて師団程度には大きくしてみたいじゃないか。なぁ?」

 ぎろりと、鋼の瞳が俺を剥いた。斬るつもりもない剣の切っ先なんかより、余程恐ろしい色に光る。

「俺は片目を瞑ることにしている。だから、お前も少しは俺に甘くしてもらいたい。最後の目的がどうあれ、サルマリア砦の兵力を増強したいという点で、俺とお前は利害が一致しているんだから」

「言っていることと、やっておられることが真逆ですぞ」

「放逐されてわかったことがある。規則は守らせるものだが、序列は破壊するものだ」

 俺は服が汚れるのも忘れて、机の上に胡坐をかくと兵士名簿を黒い汚染から避難させる。

「この名簿に偽りなければ、外で俺を待ち構えている奴らの半数は、中流貴族の子弟だ。王都の警備をしていないところを見るに、あまり学校の成績が優秀でなかったとみえる。ああ、待て待て。遡って彼らの成績を暴き立てるほど悪趣味じゃない。俺が言いたいのは、給料に見合った戦力になり得るかどうかってことだ」

 金を出す側だからこそ、貴族出身の兵の給料が、一般公募の士官学校卒業生たちとは桁が違うことを知っている。貴族一人で兵卒三。安がりだ。

「どうだろう? 一人あたりの賃金が半額になるということは、人数を倍にできるということでもある。食いはぐれたくないなら俺に尻尾を振るしかなくて、矜持が高くて実家が金持ちならこれを期に隊を外れる。後援金なら心配するな。俺が生きている限り、無限の財布だと思ってくれ。お前も、そういうつもりがあって俺を引き受けたんじゃないのか?」

 今手元に金貨を持っていれば、いつぞやの仕返しに広場に集結した兵たちの頭の上にばらまいていたところだ。

 モルドァは静かに剣を収めて、ようやく、一歩下がった。

「一体、いつからそのような無茶を思いついたのですか?」

「誰も俺を出迎えなかった時からだ」 

 ふん、と俺はあの時の怒りを思い出して鼻息も荒く腕組みした。

「何度だって言うぞ。ここの主は俺だ。文句のある奴は前で出ろ。だたし異論は認めん」

 俺は机から降りて、モルドァの前に立つ。

「共闘ということでいかがだろう? 我々がいがみあう理由はない」

 差し出した右手を、モルドァは相当困った顔をしてから握り返した。剣を握る者の、無骨な大きな手は、存外、温かかった。

「二年」

「と、いうのは?」

「俺とお前の、契約期限だ。二年で俺はお前に兵数二千を約束する。お前は俺に、二千で一個師団に匹敵する精鋭の兵団を約束しろ」

 俺はにっこり、奴の手を握り返した。

「俺は放逐された王子で、お前は出世街道をはずれた軍人だ。仲良くしようじゃないか」

 こうして、我々は真っ黒に汚れた契約を交わしたのだった。

「時に、准将」

「何だ?」

「着替えられてはいかがか?」

 はたと俺は自らの有様を振り返る。

「......そのようだな。俺が着替えるまでの間に、外のおっかないのを解散させておけ」

「現在の兵力を一時解体して、増強、補填するのは結構ですが、どのように選抜されるおつもりか。准将の出した、このいい加減な通知文では、昨日まで鍬を持っていた農夫さえ、志願すれば入隊できることになりますぞ」

「人選はお前に任せる」

「それでは不平等です」

「じゃあ、御前試合でもするか。割り当てはお前がやれよ? 本命に敗退されたら困るから、精々、作為的な試合を組むことだな」

「准将の戯言を全て実現するとなると、村娘でも参戦できそうですな」

「色仕掛けも立派な戦術だ」

 准将、と言いかけたのをぐっと堪えるように、モルドァが喉を鳴らした。

「どうせなら派手にやるか。傷心の王子の慰みに武芸大会をするとでも言えば、いくらか出して貰えるかもしれん」

 モルドァの渋い顔を見て、俺は堪らず笑い転げた。

 ここでは「ぼんやり」する必要はない。

 寥々と広がる景色を、どこまでも、いつまでも、俺はひとりで駆けていけるような気がしていた。

   ■

 天気晴朗。俺は実にご機嫌である。

 大会準備に協力すると、多少選考に有利らしい。そんなあくどい噂を流したのは俺であり、あの日以降、俺は一度も兵の前に出ていない。最初に「いじめ」を仕掛けたのは彼らので、俺は地位も権力も全力投入して報復をする所存である。

 ちなみに、俺はちゃっかり馬番の恰好をして紛れ込み、蜥との和解に勤しんでいた。

 大会開催まで一か月。収穫を終えて農民は冬支度に入り、士官候補生たちは修錬期間を終えて配属先が決定(ちなみに、指名制である)、それぞれ来年に向けての準備に入る時期である。賭けるにはいい時期だった。どこからもお呼びのかからなかった余り物が、必死になって食い扶持を探す時期であり、逆に、伝手のある貴族にとっては割り込みしやすい。

 結局、俺が強行した一斉解雇に応じたのは百名程度。去る者に興味はない。

 俺にどれだけ忠誠を誓うものがいるか、などという首相な発想はなくて、エランの遺言に従って、俺は「仲間」を作ることにしたまでだ。なので、どんなに優秀でも、俺のものでなければならない。

 それに、俺はけして忘れたわけじゃない。

 あの夜に罪なきススロの邑を、あわや全滅さえようとした襲撃者たちのことを。

 誰彼かまわず門戸を開けるのは、俺自身を餌に、姿の見えぬ敵が釣れるかもしれないと考えたからだ。奴らは俺に用があるはず。死体ではなく、首の繋がった俺に。

 俺は知りたいのだ。エランが死ななければならなかった本当の理由を。

 奴らは知っていたはずだ。誘拐事件の実行犯は、成功しようが失敗しようが、捕縛されて処刑されるであろうことを。そしてその役をエランに負わせた経緯と真相を知るまで、俺は絶対に諦めない。

 何ゆえ演武大会か。趣味だ。以上。

 駄目もとで小遣いをせびったところ、王城からは存外、色よい返事を頂けた。叱責か無視か、どちらかだと予想していた俺にとっては、何か裏があるのではないかと不安になる。まあ、それはお互い様であるのだが。

 気になるのは極星の印璽が捺されていたことだ。拠点防衛費として仕送られた資金は、放蕩王子の道楽にしては些か多すぎる額であった。

 そして迎えた大会当日。浪費家王子の御乱心だのなんだの、散々言われた割には、志願者は千人を超えた。上々である。理由は単純、出自不問であるからだ。

 サルマリア砦で起きた前代未聞の全員解雇はたちまちイスガル全土、いや、オストヴァハルや周辺諸国にまで飛び火し、モルドァ中佐はじめ東の国境線を守備する各砦は、いつ奇襲があるかと、戦々恐々、渡り鳥の羽音にまでびくついていたというから面白い。

 笑いごとではない、とモルドァは俺を叱った。

 どのみち六百にも満たない兵力では、本気で砦を落とそうと進軍されたらひとたまりもないのである。平和ボケしていたところに冷や水をくらって、余所の砦も少しは目が覚めたに違いない。

 ついでに。俺がこんな阿呆をしでかしても、結局、どの国も動かなかった。あまりに阿呆すぎて噂を信じなかったのだろうが、せめてオストヴァハルくらいは大国の意地を見せて喰らいついてくるんじゃないかと、期待していたのだ。ところが、何の音沙汰もない。

 あの国は鈍くなっている。

 ともあれ、噂になれば人が集まる。人が集まるところには商売が成立する。俺は行政官に書簡を送って、行商人に対して臨時税を徴収させた。売上からせしめるほど俺も辛辣じゃない。許可証を発行し、それを購入させる。

 どうせ帳簿を誤魔化すだろうが、預金としてこれには目を瞑る所存である。

 祭りだと思って農夫も貴族も楽しめばいいじゃないかと言ったら、さすがにモルドァには怒鳴られた。まあ、甘受しよう。実務的責任は全て中佐が負うのだから。

 問題はいかにして篩にかけるか、だ。

 これについてモルドァは、あの堅そうな外見によらず、実に面白い手を考えた。

 志願者は最小五人、最大十人までの班を各自編成し、うち貴族階級を一人、平民階級を二人、必ず入れる。大会参加者は配給される頭帯を着用し、班長が赤、その他を白とし、これを奪い合い、頭帯を失ったものはその場で退場とし、赤一本で白五本分と換算する。遊撃演習を簡略したものだが、この程度なら誰にでも理解できる。

 子どもの遊びみたいだと言ったら、ものすごい目で睨まれた。

 モルドァ曰く、俺[こども]の遊びだそうだ。

 褒賞は軍籍。当然、現役の兵士たちのほうが有利である。俺からのせめてもの温情だ。俺が見たいのは、そういう不利な状況を覆して勝ち上がってくる人間がいるかどうか、だ。家柄や技術はいらない。俺がほしいのは「可能性」だ。

 既得権というのはなかなか奪いにくい。新芽はいくら葉を広げても大樹の影で伸び悩む。

 有利不利はあれども、機会だけは平等にしたつもりである。

 と、いうわけで。

 俺は得意の愛想笑いを浮かべて、志願者の中に紛れ込んでいた。

 そして今現在、名簿に名と出身を書けと言われ、弱冠、冷や汗を浮かべて固まっている。

 まさか本名を書くわけにもいくまい。

 と、その時。突然、俺の隣にいた人間が「なぜだ」と声を上げた。

 驚くべきことに、少女であった。北の山岳地の衣装を纏っている。

 冗談で、村娘が参戦するかもな、とは言った。まさか本当にそうなるとは......。

「あの、すみません。なぜ、だめなんでしょうか?」

 少女は呟くようにぼそぼそと言う。それは君が女子だからだ、と俺が言いたいことを、受付の左側のやつが言ってくれた。

「女はいけないとは、かいていなかったと......思うのですが......だめですか?」

 そうはいっても君には無理だ、と受付の右側が言う。

「無理じゃない、かもしれません」

 少女はとことこ、受付の後ろへ回ると、彼の座る木の椅子に手を掛けた。そして、持ち上げようとしたので、「無理だ」と、俺はうっかり口を滑らした。彼女はじろりと俺を見て、

「無理じゃないんです。君よりずっと、力持ち」と言った。

 それから、息を深く吸い込んで......

 嘘だァ、と叫ばなかっただけ俺の理性は正常だ。

 信じられないことに、少女はその細腕で、大の大人の座る椅子ごと高く肩に担ぎあげてしまった。彼女はそっと椅子を元の位置に置くと、自分の名前を書き入れて、去ろうとしたので、俺は慌てて彼女の腕を掴まえる。

 びっくりしたように、鳶色の瞳が揺れていた。

「よかったら」気付いた時には頭より口が先に回っていた。

「俺と組まないか?」

 少女は首を傾げ、それからふい、と顔を背けた。

「ひとりでなんとかしますので」

「いや、一人では参加できない。最低五人必要だ。君、名前は?」

「カナンです」

「カナン。いいから、ちょっと、とりあえずこっちこい。な?」

 もっと洗練された誘い文句が言えないのか、というか、傍目には幼気な乙女を物陰に引き込んでいるようにしか見えない、というか、そのものだった。

 いかん、俺は珍しく動転している。

 何だ? 何なんだこの娘は!

 俺はどこか抜けている感じのする、しかし、とんでもない怪力を持つ少女に向き直る。

「俺のことはロボと呼んでくれ」

「あなたも志願するの? 子どもなのに?」

 なぬ、と俺は閉口する。この娘に言われたくはないが、よくよく考えるに、俺は十四歳のクソガキで、ぎりぎり士官学校に入れる年齢であるわけだから、十分子どもだった。

「そういうお前も、女子なのにまたどうして」

「見てたでしょう? 私、力自慢なの。だけど、この怪力だと嫁の貰い手もないでしょう?」

 カナンは見ているこっちが惨めになるほど、暗澹と俯いて虚ろな笑みを浮かべた。

「兵隊さんなら、強い人がいっぱいいるから、もしかしたらって思って」

「......正気か?」

 唖然、俺は目の前の少女を見つめる。久しぶりに言葉が出てこないほどに驚愕というものを味わった。信じられない。女というのは結婚相手をこんなところにまで探しくるものなのか? それが「普通」なのか?

 女というのが男とは全く別の生き物であるとは聞いていたが、これほどとは。

「なぁ、カナン。悪い事は言わない。郷に帰れ。見たところ北の山岳地帯の出身みたいだけれど、どうやってここまで?」

「売られてきたの」

「ん?」

「だから、帰れないの」

 薄幸そうだとは、感じていた。

「売られた娘がどうしてここに?」

「逃げ出しちゃった。だって怖かったんだもの」

「どうやって?」

「投げたの」

「何を?」

「寝台とか、窓の格子とか。あと、人?」

「ひと......あ、ええっと、それは、難儀だったな」

「そうなの。だから、軍隊に入って、兵隊さんと結婚したいの」

 おかしい。矛盾しているようで筋が通っているような、いないような? ダメだ、考えてわかるようなことではない。

 俺がカナンに対して抱いたのは、売られたことへの同情でも、怪力に対する忌避感でもない。こいつを余所に取られたくないという、独占欲だった。

「よし、わかった。カナン。俺が無事に入隊して、武功を上げて、連隊長くらいまで出世したら、俺が嫁に貰ってやる」

 ......何言っているか、俺は。

 ところが、回りだした口は止まることを知らなかった。

「だから、まずは今日、入隊が認められるように俺に協力してほしい。俺は、ご覧の通り、仲間はまだいない。君が必要だ」

 カナンがどこまで俺の言葉を本気にしたのかしらないが、彼女はほっこり笑って「喜んで」と言ってくれた。

 まったくもって、ひどい話である。守る気のない約束であった。

 俺はあと三人を見つけるべく、参加者の群の中をうろうろ歩き回った。目ぼしいのは大抵、すでに班を組んでいる。そうだろうとも。そうなるように主催者が仕組んでいる。

「そういえば、カナンは一見、その、普通だな」

 どちらかといえば可憐な体躯の少女である。

「特殊体質みたいで。空気の薄い山の上のほうで育ったからかしら?」

 カナンが曖昧に首を傾げたときだった。

 怒鳴り声が背中から降ってきて、俺たちはぎくりと足を止めた。振り返ると、ちょうど俺と同じくらいの年齢、体格の子どもが蹴飛ばされていた。子どもは馬糞に塗れても特別顔色を変えず、ひたすら謝っている。

 どうにも、癇に障る光景だった。

 蹴った方は、王城の御前試合で着用するような大仰な銀の鎧を纏っていた。俺は「試合」など一言も言っていない。「大会」と称したはずだ。

 場違いな恰好に、すれ違う者は嘲笑を隠そうともしない。自分より明らかに階級の低い兵卒や、士官学校出立ての若造どもに鼻で笑われて、鎧様は顔を真っ赤にして自分の従者と思しき少年に八つ当たりをしていた。

 何を勘違いしたのか知らないが、滑稽なことこの上ない。そういう馬鹿は結構な割合で見受けられた。どうやら彼らは、元王子の俺に、研鑽を重ねた技を披露し、家柄を誇り、装備で財力を見せつけ、自分を高く売りつけるつもりだったらしい。

 残念だが、給料は一律だ。平民と同格に扱われることに我慢ならなくて砦を去った者は少なくないのである。そして俺には太子位はない。ただの一将校のお呼びに対しても、お前はそんな派手な羽のついた兜を被ってやってくるのかと問い詰めたい。王族の血統に靡く奴は好かない。俺に寄りかかるんじゃない。

 目論見の外れた貴族の御子息たちは、当然、機嫌が悪かった。

 怒鳴る、というよりは金切声を上げて、鎧様はさらに少年の横っ面を張り倒すと、真っ赤な羽飾りをふりふりしながら、がしゃんごしゃんと煩い音を上げて去って行った。安い音からして、代々受け継がれてきた一族の誇り、というわけでもなさそうだ。

 気に入らない。

 似非貴族が、ではない。あれだけ公衆の面前で恥をかかされてもまだ従順であろうとする子どもの方が、どうにも腹に据えかねる。

 逆らえばいい。抗えばいい。負け犬よりも噛み犬のほうが、俄然良いではないか。

 馬鹿みたいに、起き上がって似非貴族の後を追いかけようしたそいつが、俺の前を行き過ぎようとした瞬間。

 得も言われぬ不快感に突き動かされるまま、俺はその馬鹿に足をひっかけ転ばせた。

「気に入らねぇ」

 自分が何をされているのかわからない様子のその馬鹿の、実る穂波の色に輝く脳天を、俺は土足で踏みつけた。

「だめだよ、そんなことしちゃ」

 カナンが狼狽して俺の腕を引っ張ったが、それを振り払う。

「お前、そうやってあの羽飾り野郎の捌け口で一生終えるつもりかよ?」

 言った言葉は、そのまま俺に跳ね返ってきた。

 お前、一生「ぼんやり」していていいのか?

 そういう生き様で、満足か?

 否、と言ってほしかった。俺と同じ考えをもつ「仲間」が、この寒々とした空の下にはいるんじゃないかと、期待していた。

「放蕩王子の遊興だか知らないけれど、勝ち残れば正規のサルマリア砦兵になれるんだろう? 一発逆転の機会だっていうのに、なんでお前は人の足元で平気なんだよ? おいこら、何とか言え。こんなことされて、悔しくないのか?」

 俺はごりごりそいつの頭に靴底を擦り付ける。怒るか、それとも泣くか? しばらく様子を見ていたが、そいつはとうとう、何の反応も示さなかった。

「こういうことは、慣れっこってか?」

 得も言われぬ苛立ちを覚えながら、俺は足を浮かした。

 その時、奴が動いた。完全に俺の体重が片足しか乗っていない瞬間に、奴は俺の足を引っ張って、不意の一撃に、俺は無様にひっくり返る。

 相手が馬糞塗れなら、つまり、俺が倒れた先もそうである。何と屈辱的な、と俺は憤慨して奴を睨んだ。こうなったらただじゃおかない。

「僕が黙って殴られているのは、それが仕事だからだ!」

 無論、俺は反撃に出た。すぐさま飛び起き、未だのろのろと立ち上がれずにいる相手の髪を掴むと、腹に膝蹴り入れようとした。が、寸でのところで思いとどまる。

「......仕事だから、耐えていると?」

「あたりまえだ。そうでなければ、誰があんな嫌なやつをご主人様だなんて呼ぶもんか!」

 俺を睨む目は、思いのほか強烈であった。泉の底に燃える焔があるとすれば、こんな色をしているのだろうか。青く、深く、鋭く光る。

 道中、色々な思いをしたのだろう。耐えかねたように目尻に涙が浮かんでいた。

「どいてくれ。どんなに惨めでも、これが僕の仕事なんだ」

「おい、待て。誰が行っていいと?」

「なんなんだよ、君は!」

 もはや嗚咽混じりの甲高い声で叫んだそいつの、頭に付いた泥を払ってやる。

「悪かった。お前の気もしらないで」

 きょとん、と空色の瞳を瞬く。

「ところで、お前の仕事は、誰かから押し付けられたものなのか?」

「違う、けど......」

「どやされて、どつかれて、そんな仕事なのに自分でやると言い出したのか? お前、馬鹿だな。俺は絶対に嫌だね」

 俺の言葉に、奴はあからさまに眉根を寄せた。

「仕事を選んでいられなかったんだ」

「何故だ?」

「お金が必用だったからだよ。僕は士官学校に入りたい。そのための資金が欲しいんだ」

「ふうん。で、その『仕事』でいくら稼げるんだ?」

「賃金なんて出ないよ。王都まで同行させてもらうかわりに、身の回りの世話をする。食費や旅費は、雇い主が持ってくれるから、この仕事は辛いけど、割がいいんだ」

「やっぱり馬鹿だ!」

 思わず俺は叫んでしまった。これのどこが、割がいいものか。

「ただ働きさせられているだけじゃないか!」

「そうでもないよ。無事に旅ができるだけでも十分だもの」

「で? そうやって献身的にお仕えして王都に無事に着いたとして、その後どうする? 入学金のあてはあるのか? 授業料は? 生活費は?」

「それは......また働いて、お金を貯めて......」

「言っておくが、老人は採用されないぞ?」

「知っているよ。十五歳が上限でしょう? だから、僕には時間がないんだ。君に絡まれているこの間にも、お金を稼ぎたいと願っている」

 俺は、この時、率直に言えば衝撃を受けたのだ。

 金のために働く。なるほど「普通」はそうなのか。

 寄越せと言えば資金が出てくる状況が「異常」であり、その金の出所は商会や貴族で、俺はそこまでしか知らない。俺たち王族に有り金巻き上げられる立場の彼らがどこから失くした分を補填しているのか、俺はこの時、ようやく理解した。

 とすると、一度ついた差というのは二度と埋まらないように世の中はできている。労働階級は一生土を引掻いて、朽ち果てるまで働いて死んでいくだけらしい。

「しかし、やはり効率が悪い。お前、もし目の前に入学金程度の金の入った袋が落ちていたらどうする? 拾ってご主人様のところに持っていくか?」

 青色の瞳がぐらりと揺れたのを、俺は確かに見た。

「砦の正規兵として軍籍を貰えば、少なからぬ給料が入る。一兵卒でも二年あれば、入学金どころか、修了までの授業料分くらいにはなるぞ」

「ごめん、意味が......」

「いいや、お前なら俺の言っている意味がわかるはず。どうだ? 俺の『仲間』にならないか? 俺はな、従者は必要としていない。俺につけば、勝たせてやる」

「どうやって?」

 釣れた、と、俺は全く顔には出さずに確信する。できるわけがない、とは言わなかった。具体的な方法を問い返してきたということは、こいつにも何等かの策があるのだろう。

「それは秘密だな。だが、絶対、勝てる。ただし、俺はお前を試したい」

「何を試すの? 僕は剣も握れない」

「お前に何ができるのか、それが知りたい。日没と同時に砦の門が開くから、それまでにお前のできることを見せてみろ。左の篝台のところで待っているぞ」

「僕にせっかくもらった仕事を放棄白しろって言うのかい?」

「お前が得た仕事が、千載一遇のこの機会を見送ってまで続ける仕事かどうか、よくよく考えてみろよ」

「......君、偉そうだね」

「事実、偉い。待っているぞ。そうだ、名前を訊いていなかった」

「サザ。サザリー・モルテイル」

「女みたいな名前だな」

「よく言われるよ。君は?」

「ロボという」

 こいつは絶対、俺につくだろう。青く燃えだした瞳に、俺は確信していた。

 こうして俺はまず、糞塗れの同盟を結んだのであった。

   ■

 突然ですが、私の話をしてもいいでしょうか。

 私の名前はカナンといいます。二十四歳、独身です。趣味は刺繍、特技は家事全般。

 ぼやっとしているせいか、幼く見られがちです。十代前半に間違われて困っています。

 実を言うと私、未婚ではないのです。

 売られてきたというのは嘘で、お恥ずかしい話、私は夫に逃げられたのです。

 この齢だともう誰もお嫁に貰ってくれないと思うと、夜も眠れません。だけど、兵隊さんなら強いですし、何より女子は圧倒的に少ないはずですから、競争率も下がります。私にももしかしたら、機会があるかもしれません。

 私の最初の結婚について、お話します。

 私は北の山間の、羊飼いの村に産まれました。家族は二男一女に両親、私が長女です。

 去年の秋口に、毛皮を買い付けにきた行商人に見初められて、そのまま結婚しました。生涯をともにすると誓い、私は故郷を去りました。来年の今頃には可愛い赤ちゃんの顔を見せにくるからね、なんて言って両親に見送られて半年、ある朝起きたら、夫が蒸発しておりました。夫はいつも言っていました。私の怪力が恐ろしい、と。夫婦ですから、睦まじく同衾もしたいのですが、ついことのはずみで夫を投げてしまわないかと、私はいつも不安でならず、夫はいつからか、そんな私に飽いてしまったようです。

 愛が冷めると、今度は私の異常さが際立って見えたのかもしれません。

 次第に夫は私と過ごす時間が短くなり、夜は二人の仮住まいでもある幌馬車を私に任せて街から戻らぬことが多くなり、そして、とうとう私を御使いに出している間に、幌馬車ごと消え失せてしまいました。

 私は、一晩だけ泣きました。

 小さい頃は、素直に力持ちであることが自慢でした。皆が持ち上げられない丸太を軽々担ぎ上げると、すごい、強い、と褒められて、得意になったものです。しかし、年ごろになると、今度は自分の強力に激しく嫌悪感を抱くようになりました。女の子らしく、家事も完璧にできるようになりましたし、男の子の目を気遣って髪に花飾りをさしたりしたものです。しかし、故郷での私は「百力のカナン」。怪力を誤魔化すことはできず、事情を知らない余所からきた男の人に嫁に貰われていくことを、父も母も泣いて喜びました。

 そういう次第ですので、私は故郷にも帰れません。

 それどころか、明日からの食い扶持にも困ってしまいます。

 元夫は言っていました。お前くらいの腕っぷしなら一人で軍隊を相手にできる、と。

 そんな時、たまたまサルマリア砦のことを聞きました。

 半ば自棄になって、軍籍を希望した次第です。そして、変な少年に出会ったのでした。

 少年の名はロボといいます。

 ロボ、というのは珍しい名前だな、と思いました。女の子みたいに綺麗な顔の子でした。

 黒い髪に、白い肌。白皙の、とは、こういう容貌を表わすのに使うのでしょう。華奢な感じのする子でしたが、どこか鋭い刃物を思わせる、緊張感のある少年です。

 何より、その瞳。

 子どもの外見には不釣り合いなほど、暗い色をしていました。墓石のような黒の瞳に見つめられると、私は何だか怖くなってしまいます。十も年下の子だというのに、私には余裕はありませんでした。

 それに、ロボはとても利発です。

 私は何だかよくわからないまま人の列の最後尾に並び、名前と出身を書けと言われたので、欄に書き入れ、女はだめだと言われたので特技を披露して、何だかぼうっとしているうちにこうしてロボの後をついて歩いているわけですが、ロボはどうやら色々と事情に明るいようなので、お任せすることにしました。

 それに、彼は立派な殿方ですから、あまり私がしゃしゃり出ては彼の面目をつぶしてしまいかねません。態度が大きいのは虚栄心からでしょうし、そんなところは実家の弟たちに似て、かわいいな、と思いました。弟たちよりも、ロボのほうが断然頼りがいがあるのは、言うまでもありません。

 ロボはちょっとばかり情緒不安定な子どもです。

 もとより、ぴりぴりした雰囲気のある子でしたが、突然余所の子を蹴っ飛ばした時には私もびっくりしてしまいました。おまけにロボはひどい言葉を投げつけました。しかし、相手の子も負けていない様子だったので、私は成り行きを見守ることにしました。実家の弟たちもよくああやって喧嘩していましたので、私は彼らが怪我するほどにはやりあわないことをわかっています。

 男の子というのは不思議なもので、お互いに蹴っ飛ばし合ったあと、何故か意気投合して、また会う約束までしていました。

 お友達ができたためか、ロボはその後、何だかご機嫌な様子でした。

 ロボはかなり行動が極端な子で、砦内の井戸へ向かうと、桶一杯に水を汲みあげて、私が「あ」と思った時にはそれを頭から被っていました。綺麗好きなのか、そのあと五杯も水を使って服ごと洗うのを、私は横で茫然と見ているしかありませんでした。

 よく余所の水をそんなに堂々と使えるものだな、と私は思い、そういえばロボはよく井戸がここにあると知っていたな、とも思いました。

 妙だな、とは感じたのですが、ロボは濡れたままさっさと歩き始めるし、ついに私はそのことを彼に訊く機会を失ってしましました。

 それからしばらくして、ロボが「おい」と私を呼びました。

 篝台の下で何かを話し合っている二人の男性を指さして、私に「どう思う?」と訊いたので、私は「素敵な男性だと思います」と答えました。

 ロボの片方の眉がぴくん、と吊り上がり、「他には?」と怖い声を出すものだから、私は自分が何かまずいことでも言ったのかな、と不安になりました。

 私が答えに困っていると、ロボは「いや、今のは俺の訊き方が悪い」と言って、私にそっと耳打ちしました。

「正直に答えて。さっきの甲冑莫迦と比べてどうだ?」

「はぁ。どう、と言われても......」

「いい男か?」

「はい?」

「お前の直感では、どうなんだ?」

「私、男運ないんです」

「逆だ、逆。男がらみで不幸な目に遭っていそうなお前だからこそ、その目を信じる」

 失礼なことを言われているようでもあるし、翻って、私を励ましてくれているようでもあります。取りあえず、私は思ったままを、ロボに言いました。

「絵になりますね。片や貴族然とした美青年、片や無骨で逞しい偉丈夫といった様子で」

 そうなのです。惚れ惚れするような二人組でした。

 きっと由緒正しい家柄の貴族の御曹司様と、サルマリア砦の百戦錬磨の兵隊さんでしょう。ロボが言うには、この大会とやらには現役の兵士さんたちと競うらしく(何を競うのかよくわからないのですが)、有力貴族や実力のある兵士たちはすでに先んじて徒党を組んでおり、私たち飛び込み組には不利なようになっているらしいですから、あんな素敵な二人なら、引く手数多に違いありません。

「カナンは結婚相手を探していると言っていたな?」

「ふえ?」

 不意打ちの質問に、変な声が出てしまい、私は耳まで真っ赤になってロボの口を塞ぎました。

「ロボのばか、大声でいわないでぇ!」

 ロボは私のおさげをひっぱるという地味な嫌がらせをして、にたり、笑いました。

「もし結婚するならどっちがいい?」

「そんなこと、あるわけないじゃない」

「いいや、わからん。男女の仲は何があっても不思議じゃない。行って声かけてこいよ」

 この子はなんてことを言い出すのでしょう。私はぶんぶん首を振りました。

「無茶言わないで!」

「無茶じゃないぞ。多分、あの二人、あぶれたんだ。俺たちもそう。余り物には福があるっていうからな」

「アマリモノだなんて言わないで! 心に刺さるから!」

 しょうがないな、とロボは口をへの字に曲げて、諦めてくれた......わけではなかったようです。私の頭をぐいを押し退け、彼はとんでもないことを大声で叫びました。

「おーい! そこのお兄さん、伴侶探しならここにイイのがいるよー!」

 やめてやめてー、と私は彼にしがみ付いて泣きました。ロボは私を、きっと同い年か、下手したら年下に思っているのかもしれませんが、私は二十歳をさらに四年も上回ったアマリモノなのです。あんな素敵すぎる殿方に紹介されても恥をかくだけなのです。

 どうか相手になさらず。子どもの戯言です。

 言おうとして顔を上げると、がっつり目と目が合ってしまいました。

 そんなわけで、私たちはちゃっかり「仲間」になりました。

 貴族の御曹司のような風貌の方はロイさん。

「貴族って言っても、名前ばかりの貧乏貴族だけれどもね。邸の雨もりがひどくてさ。修繕費を稼ごうと思って志願したんだ」

 端正な容姿に、冗談も御上手だなんて完璧すぎて眩しいです。まるで王子様です。

 ロイさんが王子様だとすると、相方のジエンさんは、さしずめ騎士様でしょうか。

「うちは女房子供を養わなきゃならんからな。俺は平民出だ。サルマリア砦に配属されて三年目だったんだが、ほら、例の御乱心のとばっちりよ」

 ジエンさんは全然気に病む様子もなく、からから笑っていましたが、ご家庭をお持ちならお仕事がなくなると大変でしょうに。私が同情すると、横からロボが口を挟みました。

「その御乱心で、得する奴だっているだろう? たとえば、出世の確率の低い平民階級の兵卒とかな」

「おや小僧。お前、お利口さんだな」

 ジエンさんが無精ひげを摩りながら、ロボを見ました。値踏みするような視線でした。私なんか、そんな風に見られたら誰かの影に隠れてしまいたくなるところですが、ロボは「どうだ」と言わんばかりに、ジエンさんを見返しました。

 ジエンさんは深い色の瞳をロボに向けたまま、続けます。

「俺からしてみれば昇給するからなぁ。それに、上の連中にはちぃとばかり、思うところがある。俺はあんな女の腐ったようなやつらは好まないんでね。そういう奴は少なからずいるんだ。ものは考えようだ。俺たち元砦兵からすると篩にかけられて嫌な気分だが、志はあっても金と機会のなかったやつが滑り込む隙間ができたとも言えるじゃないか。そういう奴らと一緒に闘いたいよ、俺は。だから、俺と同じ考え方をする奴は、敢えて砦兵とは組んでいなかったりする」

 女の腐った、とはどのようなことでしょう。私は興味本位で訊いてみました。するとジエンさんは頬の筋肉をふるふるさせながら、王城から放逐されてサルマリア砦に贈られた第二王子の話をしてくれました。初日に全員で無視したというのには、さすがに私もひどいと思いました。ところが、ロボは腹を抱えて笑い出すし、ロイさんは苦笑しながら「貴族は矜持が高いからこそ、一度転落したものに厳しくあたる習性があるからね」と、肯定とも否定ともつかない言葉を口にしました。きっとロイさんが本当に貴族で、本当に没落しているからこそ、半端なことは言えないのでしょう。

 その点、ジエンさんは「お父さん」でした。

「事実上の幽閉だよな。歳を考えると、かわいそうでよ。いや、俺のところの娘がちょうど同じくらいでよ。そう思うと、な」

「おっさん、優しいな」

「まあ、その結果がこれだけどな。ったく、さすが王族の考えることは桁が違うね。とんでもないしっぺ返しを食らって、一番慌てたのは甘ったれたお坊ちゃんたちだ。親の七光りってやつよ。あの手の輩は大した実力もないのに昇進早くて嫌になるね。訓練もろくにしねェし、モルドァ中佐も手を焼いていたんだ。はん、清々するね」

 それを聞いて、ロボはまた一人で笑い転げていました。私はこの子が何を面白がっているのかよくわかりませんでしたが、笑うことはよいことなので、気にしないことにします。

 ジエンさんは士官学校を出て、ちゃんと訓練を受けた兵隊さんです。ロイさんも雨もり貴族と自嘲しますが、育ちのよさが所作に滲み出ています。なんだがキラキラしています。一方、私たちは武器の持ち方も知らないド素人です。ジエンさんにとって不利どころか足手まといにしかならないのに、どうして私たちと組んでくれたのでしょう。

「そりゃあ、お前さんたちが子どもだからだよ」

 ジエンさんは屈託なく笑ってそう言いました。

「最初はね、女の子の二人組だと思ったんだ」

 ロイさんが言いました。確かに、ロボは少し曖昧な容貌の少年でした。

「冷やかしにきた街の娘だろうと思ったけれど、まさか参加者だったとはね」

「こう見えて、カナンは戦力的価値がある」

 ロボが真顔で妙なことを言い出したので、私は慌てて彼の口を塞ぎにかかりました。

「言わないでぇ!」

 何故だ、とロボが怖い目をして私の手を解くと、あっさり、私の秘密をばらしてしまいました。

「大の男を担ぎ上げるのを見た。俺よりよほど戦力になる」

 へぇ、とロイさんが私を見たので、私は恥ずかしくて、切なくて、俯いてしまいました。ロイさんは私ではく、ロボに言いました。

「それなら君にはどんな価値が?」

「戦略的価値、とだけ言っておこう」

 ロボは自信ありげに胸を反らしますが、私は、言葉も出てきません。ロイさんはきっと私をもう女としては見えくれないでしょう。そう思うと、涙が溢れてきました。

「え? おい、何故泣く?」

 ロボが私の顔を覗き込もうとしたので、私は顔を背けました。その時、ロイさんがすかさずハンカチを差し出したので、私は余計にいたたまれなくなり、とうとう、逃げ出してしましました。

「お前が悪いぞ」

「何故だ!」

 ジエンさんとロボの声を背中に聞きながら、気付くと私は、駆け出していたのです。

 待てど探せど、どこにも夫の姿がみつからなかったあの晩が思い出されて、胸の奥がひりひり痛みました。私は誰からも選ばれず、誰にも愛されないのだと思うと、もう、辛くて、この怪力が恨めしくて、涙が止まりません。

 人気のないところで壁に茸を生やす勢いでじめじめしていると、「おい」と声を掛けられました。振り返ると、ロボが微妙に嫌そうな顔をして立っていました。

「おっさんどもに言われて来た」

「......もう、ほっといてくださいぃ」

 泣きすぎて喉が引き攣れ、変な声になってしましました。

「ロイが渡してこいと。全く、俺を使役するとはいい度胸だ。絶対、名前を覚えたからな」

 ロボは不機嫌極まりない声で、独り言だか何だかわからぬ言葉を言いつつ、ハンカチを差し出しました。ロイさんのハンカチだと思うと、天使の羽のようで、私はそれをそのまま懐に仕舞うと、自分の前掛けで涙をふきました。

「何故、泣いた? 答えろ」

「なぜったって......」

「女はわからん。俺の言葉のどこに、泣く理由が?」

「かなしいから、泣いたんです」

 嗚咽を噛み殺そうとしても、喉が痙攣して余計にひどくなるばかりした。ロボが獣のように唸りを上げて、頭を掻き毟るのが見えました。

「お前のせいで思い出したくもないことを思い出した。ちくしょう、頭が痛くなってきた」

 こめかみを抑えながらロボは無理矢理私を向き直らせて言いました。

「俺は、お前に価値があると言ったんだ。何か間違っているか?」

 私は首を横に振りました。

「ならどうしてお前は泣いた?」

「ごめ、なさい」

「謝るな馬鹿!」

「う......ごめ......違う。あの、私......もうお嫁にいけない......」

「はぁ? どこをどうしてそうなるんだ?」

「怪力だって、ばれたら、もう......」

 思い出すとまた涙が溢れてしましました。ふええ、と情けない声が漏れて、滲む視界で、ロボが呆気にとられたように目と口を開くのが見えました。

「なるほど、わかった。だけどな、お前、矛盾するぞ。その怪力を自慢したくて志願してきたんじゃないのか?」

「そんなこと!」

 ない、とは言えない私です。ただ、自慢したいんじゃなくて、どうしようもない、私の結婚を、どこまでも、どこまでも、どこまでも邪魔する、この忌まわしき呪われた力を何とかして収入に結びつけようとした結果です。

「整理してみようじゃないか。お前は自分の強力を嫌がっている。一方で、人前で披露している。見せびらかすつもりでなくとも、お前はなんだかんだ、自分のその力を都合よく使っているじゃないか」

「もうしません......」

「いや、そういうことじゃないだろう。俺は、どんどん使えばいいと思う。それはお前の特技なんだから」

「とくぎ、ですか?」

「そうだ。断っておくが、お前がただの娘なら俺の視界にも入らなかったぞ。形はどうあれ、俺はお前を見初めたんだ」

「みそめ......それはちょっと、どうでしょう」

「嫁に貰うと言ったのを忘れたか?」

「忘れてました」

「......忘れてくれてかまわない。だがな、俺の目に留まったという事実を忘れるな。もっと自分を誇れ。お前の怪力の価値のわからぬ器の小さい男など構うんじゃない。そんな阿呆は『特別』を理解できないだけだ。狭量であると断言していい」

 どうしてでしょう。ロボの言葉は呪文のようです。魔法のように、私の涙は引いていって、悲しい気持ちのかわりに、胸の奥から熱い気持ちがこみ上げてきました。これが勇気というものでしょうか。私は今、心の底から、この少年に出会えてよかったと感じました。

「だから泣き止んで顔を上げていろ。カナンは、十分見られるほうだ」

「微妙に、失礼です」

「おい、俺の審美眼は国宝級だぞ」

 ロボという少年は、とても尊大で、でも、とても優しい少年です。この小さな君主様は、将来、大成することでしょう。ご成長のあかつきには相当にイイ男になるに違いのですが、その頃には私は四十路の坂が見えているはずです。結婚相手には些か若すぎます。

 はい、と私は残りの涙もふき取って、肯きました。

「だいたい、そんなに餓えた雌犬みたいに血眼にならんでもよかろうに。まだまだ、若いんだからよ」

 ぴしり、と、せっかく温まった胸の奥に重大なヒビが入る音を聞いた気がします。

「ところでカナンは今何歳なんだ?」

 ヒビから込み上げてきたのは先ほどのような悲しい気持ちではなくて、ムカムカした気持ちでした。私は自分でも顔が真っ赤になるのがわかるほど憤慨して、叩きつけるように叫んでしまいました。

「うるさい! 二十四歳よ! 花も立ち枯れよ!」

 瞬間、ロボが青くなりました。尊大な少年に一泡吹かせてやったので、私の気も晴れたのです。それに、泣いたせいでしょうか。とても気持ちが軽くなりました。

 涙は女の武器なのです。優位に立てるし、気持ちの整理に最適な手段です。

   ■

「本当に来るんだろうな?」

「来るさ」

 ジエンさんとロボが話すのを、私は篝台の柱の後ろで、毛布に包まって何となく聞いていました。毛布はジエンさんのもので、私に休むように言ったのもジエンさんでした。ですが、うまく眠れなくて、私は時間を悪戯に消耗しているような気がして、何だが自分がお荷物になっているようで(それは事実なのですが)、ちょっと情けない気持ちになりました。女の子だからと、気遣っていただけているのだとしても、何だか複雑な心境です。

 ちなみにジエンさんはロボにも休むように言いましたが、ロボは言うことを聞きませんでした。ロボは男の子だし、それに、びっくりするほど賢い子です。教養豊かなロイさんと、現役兵士のジエンさんと、互角にお話ができるので、二人もロボを守るべき子どもとしてではなく、同格の「仲間」として認めざるを得なかった様子です。

 男子三人の話はちょっと難しかったのですが、要するに、こういうことみたいです。

 サルマリア砦の一斉解雇は、モルドァ中佐という、偉大な将校の意図であったというのです。モルドァ中佐は百戦錬磨の常勝の将で、色々な戦場を戦い抜いてきました。その時々で契約をする、所謂、傭兵隊長さんだったようです。彼の戦闘実績を高く評価したイスガル国王陛下が、貴族の位を与え、イスガルの正規の軍人として迎え入れました。

「ところが、これは罠だった。イスガル王はモルドァ隊長に中佐の位を与え、砦に赴任させた。中佐程度ならば連隊指揮権を持つが、砦守備の任務は各砦が連帯責任を負っている。そうなると実際の指揮系統は中佐にはなくて、王都から出されることになる。つまり、飼い殺しだよ。姻戚という名の首輪を付けたのさ」

 ジエンさんは傭兵時代からモルドァ中佐という方の部下だったそうで、付き合いも長いそうなのですが、ジエンさんは平民であるため、サルマリア砦の中ではなかなか出生できないのです。これは、私にもわかります。砦の外でも中でも、貴族は特別なのです。

「今までモルドァ隊長の人望だけで繋ぎとめていた傭兵時代の優秀な兵士たちは決断をしなければならなくなったということだね。定住地と固定給に価値を求めるか、それとも自信の実力を最も高く評価する相手と契約を結び直すか」

 ロイさんの言葉に、ロボは「仕方ないさ」と、冷たく突き放しました。

「好きな気持ちは十年先まで続くとは限らんが、生活は死なない限り続くわけだからな」

「お前、擦れてんなぁ。まあ、俺なんかはいい嫁さん貰って、念願の家も持てたし、これから子どもが育ちざかりだからな。安月給でも砦に留まりたい。それにな、俺は誰の下でも働けるような器用さはない。隊長がいる場所が、俺の仕事場だ」

「麗しいことで」

「ロボも、この先そういうふうに思える上司と出会うだろうさ。願わくは、俺たちの隊長がそうであってほしいところだな」

 私はジエンさんの言葉を聞いて、何て大きな人なのだろうと思いました。妻帯者の余裕というやつでしょうか。つんけんしていて厚顔不遜なロボでさえ、ジエンさんが相手だと仔犬みたいになってしまいます。

「とはいえ、難しいところだね。優秀な人ほど悩ましいんじゃないかな。モルドァ元傭兵隊長が国王に抜擢されて貴族位を貰ったように、自分を売り込みたい人たちもたくさんいるはずだから」

「ほう。それならアンタはなんでサルマリア砦に志願したんだ?」

 ロイさんの言葉に、ロボが意地悪な声で訊き返しました。

「僕は、サルマリア砦云々ではなくて、ここにいるはずの第二王子に自分を売り込みたい。ジエンのようなたたき上げの兵士からすると、僕のようなのが一番癪に障るのかも」

「はは。その通りだな。だけど、いや、だからこそ、俺はお前と組んだ。お前は本気でそれを狙っている。普通は今日に至るまでにウマい相手を見つけているもんだが、お前は誰ともつるんでいなかったからな。思惑のある奴は『作戦』を持っている。俺は考えるが苦手なもんで、頭と性格のいい奴が必要だった」

「そんな大それたものじゃないよ。単に誰からも相手にされなくて、売れ残っていただけ。性格がいいかどうかは、さて、どうだろうね」

 私はそれを聞いて、ロイさんのような素敵な方でもアマリモノになるのか、と驚きました。そして、大変意地悪なことに、私はちょっとだけ、ほっとしたのです。

「ただ、僕はふと思ったんだ。これは、とんでもなく重大な機会なんじゃないかって。王子様の御乱心だとか世間じゃ大層評判が悪いけれど、かつてのモルドァ傭兵隊のような流れ組たちも今日ここへ来ているし、士官学校を出たばかりの新兵も志願してきている。それだけじゃない、ロボやカナンみたいな子まで。気を悪くしないでくれよ。でもね、本来会うはずのない人間たちが、同列に扱われる。貴族、平民、農夫、兵士、男、女、子どもも大人も、みんないっしょくたに混ざっている」

「ごった煮だな」

 ジエンさんが横やりを入れ、ロボが笑いころげました。

「いい出汁がとれそうだと思わない?」

 ロイさんまで合わせることはないのに、と私は思いましたが、そういう器用なところも魅力的です。

「きっと、サルマリア砦の兵は、特別な兵団に成長する。僕はそう踏んでいるから、何がなんでも入籍したいんだ。一斉解雇で戦力が落ちるけれど、二年後にはきっとイスガル全土を見渡しても二つとない特別な軍隊に仕上がるんじゃないかと」

「放逐王子という強烈な香辛料も投入されているからな」

 ロボはどこまでも不遜で、とうとう王子様のことまで揶揄して笑っていました。訊かれたら不敬罪でその場で斬られてしまいます。そういう我を顧みない不安定さが、ロボには見受けられます。何だか危なっかしくて、つい、見守りたくなってしまいます。

 私には色々難しい話でしたが、煮込み料理に譬えてくれたので、ちょっとだけわかるような気もします。つまりは、新種の料理の開発に挑戦せいているということですね。貴族のような高級食材を投入したところで、仕上がりは誰にもわからない。私たちは鍋の中でぐるぐる掻き混ぜられているしかありません。

「まあ、何はともあれ、五人そろわないと始まらないぞ」

 心配するジエンさんに、ロボはこれまた自信満々に「じきにもう一人来るから待っていろ」と言い放ちました。私はサザ(サザリーというのはどうしても女の子みたいなので、サザと呼ぶことにしました)が来るか、ちょっと不安です。私からみても、いじめられっこの風体である彼が、果たして何ができるのか。半信半疑、といったとこです。

 しかし、ロボは頑としてサザを数に入れてさせました。そして年上のロイさんに班編成完了の報告をさせに向かわせ、何としても自分が長だと言って聞きません。

「戦略的に、悪くないんじゃないかな」

 ロイさんは大らかに肯きました。

「戦術的にも問題ない。大将は、最前線には出てくるなよ」

 ジエンさんが言うには、私たちは誰にも見つからないように隠れていなさい、ということでした。ロイさんとジエンさんが戦うので、私たちは特に何もしなくていいそうです。

「ときに、ロボ。お前のお友達はどんな奴だ?」

「それは人物評価を訊いているのか? それとも戦力としての価値か?」

「両方だ」

「正直に言えば、わからない。どんな人間かと言えば、どん底だ。金もコネも学もない。だけど、目的がある。目的を達成するための具体的な目標の立て方はなっていない」

「駄目なんじゃないか、それ」

「ダメダメだ。だけど、何かを持っている。これは俺の直感だ。持っているものが才覚かどうか知りたいから、宿題を出してきた」

「......お前、本当に偉そうな奴だな。本当に十四歳か? 中身おっさんじゃないのか?」

「俺は事実、偉い。ちなみに、奴は俺と歳はそんなに変わらないと思う」

「戦力外だな」

「戦力外だ。非力な分、カナンよりも格下だぞ」

 ひどい言われようですが、確かにサザには何もありません。

「そもそも、本当にここへ来るのか? すっぽかしは勘弁してくれよ?」

 ジエンさんの心配もわかります。私も心配です。しかし、ロボは言いました。

「来なかったとしたら、俺が責任を負う」

「どうやって?」

「断っておくが、お前たちは相当に運がいいんだぞ」

「......なぁ。ロボよ。お前、もしかして――」

 不意に、二人の会話が途切れました。私はロボのように賢くもなければ、年齢のわりにぼんやりして幼いという自覚はあります。しかし、空気には、敏感であります。 

 突然に、鳥肌が立ち、ひやりと周囲の温度が下がったような気がしました。こういうのを、戦慄と呼ぶのでしょうか。

「ほら! 来たぞ!」

 ロボの声だけが、明るく響きました。

 夕暮れ。塒に戻った鳥たちが騒々しくて、私は何だか、嫌な予感がしました。

 今まで黙って寝たふりをしていたのですが、私はとうとう柱の影から顔を出しました。ロボがサザを紹介しましたが、ロイさんとジエンさんは、何だか妙な雰囲気でした。私も変だと思いました。ロイさんが代表で私たちの頭帯を貰ってきてくれたので、私たちはすでに五本持っています。それとは別に、サザの手には赤一本、白四本が握られていました。

「ロボ。これでいい?」

 問いかけるサザの目が、毒沼のように淀んで見えたのは、斜陽で彼の顔にさす影が深くなっているせいでしょうか。私は直感的に、「いけない」と思いました。彼に事情を聞かなければならないと思って口を開きかけたとき、ロイさんが私の前に立ちました。私を止めるようでもありましたし、サザから私を庇うようでもありました。

「サザリー・モルテイル君。僕はロイ・ゼナード・フォン・シュヴェリエン。君を僕らの同胞として握手をする前に、一つ、答えて欲しい」

 すると、サザは叱られた子どものようにびくりと肩を震わせました。

「......僕はっ......でも、これしか......」

 言葉を詰まらせて俯いてしまったサザを背に庇い、ロボがロイさんに向かいます。私はサザの手にある五本の頭帯が、どうしても正しい手段で手に入れた物には思えません。

「サザ、白状する必要はないぞ」

「ロボ!」

 ロイさんが、今日初めて声を荒げました。怒ったロイさんはとても怖かったですが、冷たくはありませんでした。ロボやサザが間違っているからこそ、本当に怒っているのだと、私にはわかります。その時のロイさんの声は、実家の父の怒るときに似ていたからです。

「彼の行為は卑怯だ。そういう勝ち方をしてはいけない」

「殺傷や暴行は禁止されているが、門が解放されるまで奪い合ってはいけないという禁則事項はないはずだ」

「定められていなければ何をしてもいいというものではないよ。だめだ、僕は認められない。僕が一緒に行くから、ちゃんと謝罪して、それを持ち主のところへ帰しに行こう。僕の言っていることはわかるよね、モルテイル君」

「......はい」

 サザは小さく肯きましたが、しかし、頭帯を握り締めた拳を緩めようとはしませんでした。それどころか、一層強く、手が白くなるほど握り込み、歯を食いしばって震えていました。良心と夢の間で葛藤する姿はとても痛ましくて、私は見ていられませんでした。

「サザ。それは、あなたの御主人様の」

 私が言いかけた時でした。雷撃に打たれたように、サザが顔を上げました。

「違う!」

 鋭く叫んだ声は、緊張でひっくり返っていました。サザがあまりに必死で、私は賭けるべき言葉を失ってしまいました。

「モルテイル君。君がどうしてもそれを返さないというのなら、僕は君を軽蔑せざるを得ない。どんな志も、善良さを失っては、ただの我欲だ」

「おい、貴族様よ。我欲の何が、悪いってんだ?」

 ロボは口の端を何かに引っかけるようにして、ロイさんの言葉を嗤いました。薄く引かれた唇から飛び出す言葉は、とても十四の少年とは思えません。

「持たざる者にできることは限られているんだ。俺はこいつに何ができるかと問うた。そしてこれが答えだ。机上の空論じゃなく、己の手を穢しても成し遂げてきた、その実行力と度胸を俺は認めるぞ」

 ロボは、完全に萎縮しているサザの背中を、掌でばんばん叩いて励ましましたが、私にはやはり、手放しでサザを褒めることはできませんでした。

 何ができるか。

 それに対するサザの答えは「裏切ることができる」。

 私は、それが正しいかどうか、わかりません。

 重々しい沈黙が落ちてきて、私はいたたまれませんでした。そこえh、それまで黙っていたジエンさんが、唸りながら割込みました。

「難しいものを持ち込みやがって、このバカたれ」

「すみません......」

「謝るなら、その持ち主に謝ったほうがいいと思うぞ」

「......僕は、謝りません」

 ふう、とジエンさんは溜息をついて、ロボは自分の仕事は終わったとばかりに知らんふりしています。

「覚悟の上ってわけか。なら、俺は目を瞑ろう」

「ジエン、君まで!」

「まぁまぁ。ロボの言い方は生意気だがな、戦場ではこれが正しい時もある。どんなに汚い手を使っても負けちゃいけない勝負というのはあるもんだ。騙し討ちも立派な戦術だと、俺は評価する。大したガキじゃないか。末恐ろしいぜ」

 ジエンさんはサザの頭をぐりぐり撫で回し、それで緊張の糸が切れたのか、サザはその場にへたり込んで、今頃になって涙を零しました。

「わかったわかった。くそガキどもは大人に全部任せなさい。オッサンはこう見えて結構腕が立つ。そこのお兄さんだってきっと味方してくれるさ。なあ?」

 それに、と、ジエンさんはロボを振り返り、低く囁くように言いました。

「裏切られるような主人だったんだろう。それなら、なおさらコイツをひとりで帰すわけにはいかねぇ。殺されるぞ」

 ロボは肩越しに振り返り、そして、にたりと笑いました。

「俺もサザも、アンタとは違って帰る家なんてないんだよ」

 ぞっと、私は腹の底の冷える思いがしました。

 その横顔はまるで、荒野に吼える狼のようでありました。

 前途多難です。しかし、時間だけは誰にも平等で、日の入りと同時に砦の門が閉まり、参加者は夜のガウカリアに放出されます。私たちは砦周辺で互いの頭帯を奪い合い、一夜を闘い抜いて、そして夜明けの開門と同時に砦に戻ります。

 そして、奪った頭帯の点数の平均を、戦績として評価します。なので、たとえば大将首の赤を一本取って班員全員見捨てて戻ってきたとしても、その班長の得点は一点しか入らず、母数が多いほど一人当たりの点数は低くなりますから、奪わなければならない頭帯の数も増えるという計算になります。

 なので、私たちのように素人が過半数を占める班は一見不利に見えますが、一本でも赤を取れれば一人あたりの平均は上がります。逆に、一人でも取られると補填するのが難しく、とくに大将首を獲られでもしたら、絶望的です。

「俺とロイで夜陰に乗じた不意打ちを仕掛ける。正面会敵は避けて、背後からの不意の一撃で仕留める。数は稼げないが、こちらに欠損がなければ二度三度の成功で充分事足りる。懸案事項は......」

 ジエンさんはサザを一瞬だけ見て、すぐにロボに視線を移しました。

「まあ、諦めて帰ってくれていればいいんだがな。ただ、最悪の事態には備えておきたい」

「同感だ。丸腰なのは拙い」

 ロボは言って、掌を差し出しました。

「背中の長銃を貸せとは言わない。腰の短剣を寄越せ」

「はいはい。仰せのままにっと。ちゃんと扱えるのか?」

「さあ、どうかな」

 言葉とは裏腹に、ロボは巻き上げた短剣とその吊鞘を間誤付くことなく装着すると、容易く刃を抜いてジエンさんの顎に切っ先を触れさせ、勝ち誇った笑みを浮かべました。

「このままアンタの髭を剃る程度なら」

「......御見それしました」

「銃はアンタが持っていたほうがいい。使う必要がないことを願うが、背負っているだけでも脅しになる。ところで、アンタは昼間より夜のほうが強そうに見えるな」

「お前って本当に十四歳?」

 ロボはつんと顎を突き出していました。

 というわけで、ロボと私たち子ども組は、砦からさほど遠くない崖っぷちの岩間に隠されました。何故かというと、崖を背に向けている限り、前だけ警戒していれがいいからです。鳥でもない限り、崖から敵がやってくることはありませんので。

 その代り、私たちは見つかったら最後、追いつめられてしまいます。それを言ったら、ロボは「その時はそれまでだ」と鼻で笑いました。ロボが言うには、大人の足で追われたら絶対に逃げ切れないし、戦闘能力に雲泥の差があります。なので、発見されたらその時点で私たちはお終いなのだそうです。

「だから、余計な心配せずに、寝ていたらどうだ?」

 ロボの発想は、いちいち大胆です。

「下手に物音立てて気付かれるよりかはいい。いびきはかくなよ」

 ロボの発言は、いちいち失礼です。

 私は彼の脛を蹴っ飛ばして、サザと一緒に毛布に包まっていました。ロボは見張ると言って、一人、少し離れたところに隠れました。もしかして毛布が一枚しかないから譲ってくれたのか、と訊いたら、顔を真っ赤にして「自惚れるな」と怒られました。こういう、かわいらしいところもあるのです。

「俺はこういう状況に慣れている。お前らは全くの素人だが、俺は訓練を受けたことのある人間だ。あ、これはジエンとロイには絶対言うなよ。いいからお前ら、寝てろって」

 こんな状況で眠れるものか、と思っていましたが、お恥ずかしい話、私は真っ先に寝てしまいました。面目ございません。

 すっかり熟睡してしまったので、時間の感覚がなくなってしまいました。辺りはまだ暗く、遠く、鬨の声が上がっているのが聞こえてきました。月は南中を少し過ぎていましたから、夜明けまではあと四、五刻ほどでしょうか。隣ではサザが体を丸めて寝ていました。夢見が悪いのか、時々歯ぎしりが聞こえます。

 ロボは大丈夫でしょうか。私は気になって、彼がいる方の岩を見やりました。

 ロボの姿は見当たりませんでした。

 私はこれでも山育ちなので目はいいのです。それに、夜目も利く方です。よくよく目を凝らすと、力なく垂れた白い手が岩の影に見つかりました。

 何があったのでしょう。

 私は不安になって、隣のサザを揺すり起こしました。やはり悪夢に魘されていたのか、サザは鋭く息を詰まらせて跳ね起きると、しばらく私を警戒した目で見つめ、やがて全て思い出したのか、詰めていた息を吐き出しました。安堵したというよりは、落胆した様子の溜息でした。おそらくサザは、しばらくこうして悪夢に苛まされることでしょう。良心とは、そういうものです。

「ねぇ、ロボの様子が変よ」

 私はそっと彼に耳打ちしました。

「暗くてよく見えないよ」

 サザは首を横にふり、汗で額に張り付いた前髪を掻き分けます。

「何だか倒れているようなのだけど......」

「寝ているだけじゃないかな」

 私はちょっと様子を見てこようと言いました。サザは、絶対に出てはいけないと厳しい眼差しをしました。私は耳を澄ましましたが、近くに人のいる様子はありません。

「絶対、だめだ。人の顔は暗闇では白く光って見えるほど目立つんだ」

 しかし、私はロボが心配でした。そこで、とりあえず小石を投げて、彼の反応を見ることにしました。全部で三つ、投げてみましたが、どれにもロボは返事をしませんでした。

 そこで、私はサザの制止を振り切って、ロボのところに駆けつけました。

 来て正解でした。

 あれだけ豪語していた彼でしたが、岩の隙間に身を丸めて、声を押し殺して頭を抱えていました。

「ロボ、大丈夫?」

 ロボはぎらぎら光る目で私を見上げましたが、それだけでした。一体いつからこの状態なのでしょう。脈を取ろうと首筋に手を当てると、じっとりと汗で湿っていました。

 彼の体は、とても冷えていました。

 蒼ざめた顔を歪めて、ロボは「頭痛がひどい」と、辛うじて声を絞り出しました。

「くそ......こんな時に......」

 ロボは低く唸り、痛みに耐えるように固く目を瞑りました。

 その時。

「危ない!」

 サザが悲鳴のように叫びました。私は飛び上がるほど驚いて、事実、お尻が地面から浮き上がりました。ロボも驚いたのか、丘に上げられた魚のように飛び跳ねました。私はその勢いで突き飛ばされて地面に強か背中を打ち付けました。

 一瞬遅れて、私はロボが跳ねたのではないことに気付きました。なぜならロボは私を背に庇っていたからです。飛び上がったように見えたのは、勇敢にも私の代わりに己の身を白刃のもとに晒したからでした。

「カナン、下がれぇ!」

 ロボの、腹の底に響くほどの激しい怒号が耳朶を打ち、私は完全に萎縮してしましました。目に映るのは、真冬の月と同じく冷たい色をした刃物の光と、伸び上がるロボの背中。

 振り下ろされた剣の切っ先を紙一重で潜り、ロボはジエンさんから貰った短剣で、大剣の柄を受け止めていました。

 剣の切っ先は、座り込んだ私の前掛けを貫いて地面に突き刺さっていて、ようやく、私は自分が危険に晒されていることに気付きました。

 たとえばサザが声を上げなければ、あるいはロボの反応があと一瞬遅ければ、貫かれていたのは前掛け一枚では済まなかったことでしょう。そう思った途端に、体がぶるぶ震えだして、刃から目が離せなくなってしましました。

 その剣には、夜の闇よりなお深い色をした液体が纏わりつき、鉄錆に似た匂いが鼻腔を掠めます。血糊だとわかり、私は気が遠のきかけました。

 その時、気絶してしまえばよかったものを、骨に響くような金属の音に邪魔されて、私はしっかり目の前で起きていることを粒さに見る羽目になりました。

 ロボの背ほどもあろうかという大振りの剣に対して、ロボの武器は子どもの手にも収まる程度の玩具みたいな短剣です。到底、ロボは押し負けて一気に地面に崩されます。

 私はあの切っ先がロボの喉を突くのではないかと、心臓の凍る思いがしました。しかし、ロボは自分の体の大きさをよく承知しているのか、ころんと横に転がると、決死圏から逃れ間合いを引き離しました。

「あぁ? 何だ、黒髪じゃないか。子どもだからてっきりあのクソガキかと思ったじゃないか。迷惑な。ぶった切るぞ」

 襲撃者はぶつぶつと独り言を呟いて、ロボを睨みました。その目は焦点がおぼろげで、私はぞっとしました。魂を喰われたような、そんな虚ろさでした。四十絡みの細身で神経質そうな男で、やたらと目が炯々と光って見えました。

「おい、お前。この辺で金髪のガキ見なかったか? お前くらいの年齢でよぉ。そう、お前と同じくらいで、同じで、同じだから、お前をかわりに斬ってもいいんだぞ」

 要領を得ない言葉を繰り返して、ゆらりと剣の先をロボに向けました。

 ロボは黙って相手の出方を伺っているようでしたが、それが癇に障ったのか、男は突然「ふざけるな!」と怒鳴りました。

「舐めやがって、ただじゃおかねぇぞ!」

 男は剣を振り上げ、ロボを脅しました。もう、私は気が気でありません。が、ロボはこんな時さえふてぶてしく片頬で笑って、あろうことが挑発まで口にしました。

「アンタ、あの立派な鎧兜一式、どうしたんだよ?」

 ひくりと、男の体が痙攣して動きを止めました。

「お前には持ち腐れだって仲間に取り上げられたか? それとも金で集めたゴロツキだから参加資格を失って支払う宛てがないとわかって金目の物で勘弁されたか? ああ、悪い。両方か。そいつは、災難だったな」

 途端、月明かりの中でもそうだとはっきりわかるほど、男の顔が蒼ざめました。人は本当に怒り狂うと、表情を失くすのだと、私はこの時、初めて知りました。

「ころぉおす!」

 理性の箍が完全に飛んでしまって抑止力をなくした男の喉から、奇声混じりの慟哭が上がり、いよいよもってロボへと殺意が向かっていきました。

 ロボも何たってそんな火に油を注ぐようなことを言うのでしょう。短剣でも体格でも圧倒的にロボが不利です。しかし、ロボは危ういところで刃を躱し続けます。しかし、それもいつまでもつかどうか......。

 ふと、ロボと目が合いました。眉間に深い皺を三本刻んで、何か言ったようです。「行け」と唇が動いたように見えて、私はようやく、背後のサザの存在を思い出しました。

 振り返ると、サザがこの世の果てでも見たような顔で立ち尽くしています。

 恐れおののくサザと、明らかに臍を噛んでいるロボの顔に、私はようやくあの男が昼間サザを蹴飛ばしていた羽飾りの甲冑だとわかりました。装備が派手すぎて顔なんて全然印象に残っていません。というより、顔は見えなかったです。サザは従者だったから素顔を知る機会もあったでしょうが、どうしてロボはわかったのか謎です。

 なんて考えている場合ではありません。

 私はサザのところへ行って、一刻もはやくジエンさんとロイさんに知らせないと。

 そう、わかっているのですが。

 どうしたことでしょう。怪力自慢の私が、この時ばかりは自分の体を立ち上がらせることさえできなかったのです。私は生まれて初めて、腰を抜かしました。

 せめて。せめて叫んで、誰か助けを呼ばないと。

 それもわかっているのです。

 なのに、喉が引き攣れて「ひ」とか「ふ」とか、鼠の悲鳴ほどにも響きません。涙が浮かびそうになりました。が、泣いたところで何が解決するでしょう。

 私たちがもたもたしているうちに、ロボはあっという間に断崖の縁に追い込まれてしまいました。そしてとうとう、大きく横に薙ぎ払われた切っ先を、上体を反らして避けようとした時。

「う、わ」

 短い悲鳴の直後、ロボの体が大きく後ろへと泳ぎました。

 ぞわりと、全身に悪寒が駆け抜けました。

 落ちる。そう思った時、座り込んだまま私の真横を、一筋の風が横切りました。

 サザです。

 サザは倒れたロボの手を、辛うじて掴まえました。それが私ならば、きっと容易くロボを引っ張り上げられたのでしょう。しかし、サザは普通の男の子です。落ちる人間の体を引っ張り上げるどころか、踏み留まることさえできずに、見る見る引きずられて、とうとう自分の体も崖の縁から滑り落ちてしまいました。

 しかし、サザは最後の一足掻きを見せました。男の足首に手を伸ばして、見事にとらえたのです。きっと予想外だったのでしょう、男はまんまとひっくり返って下半身を崖の縁から落としたところで、握った剣を地面に突き刺して転落を防ぎました。

「この! 離せぇえっ! 落ちろ、畜生!」

 きいきい叫びながら、男は下を見ています。

「絶対離さない! お前も道連れだ!」

 ほとんど悲鳴のようなサザの声が聞こえて、続いて、ロボが「カナン!」と逼迫した声で私を呼びました。

 ――お前の特技だ。

 ロボの言葉が脳裏に甦り、途端、私の背骨の髄を何かが駆け抜けました。

 私にも、できることがあるのです。

 私には、助けることができるのです。

 ロボも、サザも、そして、惨めなあの男さえも。

 生きて、この夜の先にある世界を見ることができるのです。

 私は「えいや」と掛け声を上げて腰を持ち上げ、転がるようにして崖っぷちに行くと、男の襟首を掴まえて引っ張りました。

 びくともしません。それどころか服がびりりと嫌な悲鳴を上げました。

 仕方ありません、私は名前も知らない他人の男の肩を抱えて引き上げました。

「ふんぬ!」

 鼻から息を吹いて気合いを入れて、足をがっつり開いて、胸に不本意ながら男の頭を押し付けて、雄牛の吼えるような奇声を上げて男三人を引きずり上げながら、私の心はおいおい泣き叫んでいました。

 もうお嫁にいけない。もう、絶対、お嫁に行けない。

 最後にロボが短剣を手掛かりに自力で這い上がってきたのを見届けて、どっと安堵したのも束の間。

「痛い!」

 サザの甲高い悲鳴に、私たちは振り返しました。

 彼の怨みはよほど深いのでしょう。サザを押し倒すと、その上に馬乗りになってサザの金色の髪を掴んで起こし、剣の刃を彼の頬にあてて、血走る目を剥いて笑いました。

 人は、こんな顔もするのです。私は魂の凍える思いでした。

「お前のせいだ。お前なんぞのせいで、わたしは破滅したんだ。お前さえいなければ、お前を雇いさえしなければ、お前がいたから......」

 何やらぶつぶつ呟きながら、男は刃をさらに押し当てて、そして......

「ッ!」

 私は見ていられずに、目を背けてしまいました。

 サザの絶叫が、夜の空を震え上がらせました。

 サザの泣くのが聞こえました。嗚咽に混じって、上ずった笑い声も聞こえてきました。

 ロボが何かを叫びました。でも、全然、何を言っているのかわかりませんでした。何だか、遠くて、全て、山一つ隔てた向こうで起きていることのようで。

 サザの襟を、肩を、髪を、赤い色が侵食していくのがよく見えました。

 いいえ。

 私は確かに見ていました。

 どんなに現実逃避しても、私は間違いなく、何もかも見ていたのです。

 捕まったサザが、顔を顎から左頬にかけて切り裂かれるのを見ていました。

 ロボが咄嗟に持っていた短剣を投げつけるのも見ていましたし、それを弾き落とすために一瞬だけ、剣の切っ先がサザの顔が反れたのも見ていました。おかげでサザは目を抉らずに済み、そして僅かに生じた機を、けして逃すことなく、落ちた短剣をサザが取り上げるのも見ていました。

 そして、サザがなりふり構わず突き出した短剣が、男の喉に深く、深く刺さるのを、私はちゃんと見えていたのです。

 頭から他人の血を被って、サザは嗚咽を漏らしていました。

 喀血しながら男は、ひくひくと笑っていました。

「ひとごろしぃ」

 殺された人間が、潰れた喉で最後に絞り出した言葉を、私は確かに聞いていました。

 サザはけして、目を逸らしませんでした。

 瞬きさえせずに、歪んだ笑みを浮かべて死んでいく人間の顔を見ていました。

 やがて男の体が大きくぶるぶる震えだして、そして、ついに動かなくなりました。

 大地に寝転がったまま、短剣を突き出した形まま凝固しているサザの姿は、まるで天に殺意を向けるようであり、とても、かなしい姿でした。

「呆けている暇はないぞ」

 真っ先に衝撃から立ち直ったのはロボでした。

 ロボは頭を押さえてよろよろと立ち上がると、まず伏した男の背中に回り、慎重に近づいていきました。何だか慣れた様子でした。手や顔に触れ、目を覗き込み、ようやく肩の力を抜くと、仰向けのまま固まっているサザを引っ張り起こして座らせます。ロボはサザの手にある短剣を取り上げようとしました。しかし、サザはそれを頑として放しません。

「おい」

 ロボが焦れた声を上げると、サザは青い丸い目玉をぎょろりとロボに向け、涸れて震えた声で言いました。

「どうしよう。手が、固まっちゃって......」

 ロボは深く息を吸い込んで、サザの背中をばんばん叩きました。

「俺と一緒に数を数えるんだ。続け。いち」

「......い、っ......」

「ほら、いち」

 ロボの声は、とても静かでした。

「い、いち」

 そうやって何度もつっかえながら、七まで数えた時です。ようやくサザの手から短剣が落ちて、ロボは素早くそれを取り上げて、自分の腰の鞘に収めました。

「サザ、立てるか? いや、立て。俺一人じゃ運べない」

「はこ、ぶ?」

 ロボは鬱陶しそうに死体を顎で指しました。

「僕、出頭しなきゃ」

「必要ない」

「僕、殺人犯だ」

「ばれたらな」

 ロボがあっけらかんと言い放つので、端で聞いていた私も「そうよ、元気だして」なんてうっかり口にして、自分がとんでもない事を言ったことに気付いて慌てて口を塞ぎました。私たちがおたおたしている間にも、ロボは顰め面してまだ温度の残っていそうな男の体の下に、どうにかこうにか自分の体を割り込ませて担ぎ上げようとしています。

「あの、私、てつだ」

「触るな!」

 ロボ思いのほか鋭い口調で制したので、私は伸ばしかけた手を引込めました。

 墓石のような目をして、ロボは言いました。

「カナンは近寄るな。できることなら、今見たことは誰にも言わないでほしい。俺は......サザを助けたい。サザを『仲間』にしたいから、監獄行にするわけにはいかない」

 うん、と私は肯きました。

 安請け合いしすぎでしょうか。私はとんでもないことをしているのでしょうか。

 もう、何だかわからなくなってきています。

「おい、サザ!」

「はい!」

「誰の尻拭いだと思っていやがる。お前が一番、働け」

「あう、はい!」

 サザもきっと何が何だかわからないのでしょう。ロボに言われるまま死体を持ち上げて、そして、二人でうんうん唸りながら、崖から転がり落としました。

 ロボは手や服についた血をしきりに気にしながら、平然と言いました。

「これで、ぐちゃみそだ。運がよければ野犬や狼が散らかしてくれるだろうさ。そうすれば、死因なんて誰にもわかりゃしない。だから、ラを切り通せ」

「うん」

 どこか上の空のサザを睨んで、ロボは彼を向き直らせ、未だ流血の激しい頬をわざと叩きました。サザは飛び上がって痛がりましたが、ロボは眉一つ動かしませんでした。

「傷、残るぞ」

「そう、だよね」

「箔がついたな」

「......うん。そうだね」

「忘れるな。俺も一緒に、背負うから」

 その時、私は直感しました。ロボとサザの間には、これで切っても切れない繋がりができたのです。共犯[なれあい]という名の絆です。そしてそれは一生に渡って二人を束縛し合うものであり、そして、私は実に巧みに、その鋼鉄網からはじき出されたのです。

 ロボは優しい子です。そして、とても残酷です。

 私も「仲間」に入れてほしい。そう言おうとした時、ロボが急に膝を地につき、そのまま蹲ってしまいました。思い出したように頭を抱えて呻くので、私は彼を介抱しました。

「いい、そのうち治まる」

 最初の頃こそ強がりを言う余裕があったようですが、間もなく反応が薄くなり、やがて私の呼びかけにも答えなくなり、そしてとうとう、手足が小刻みに震えて冷えだしたので、私は彼を毛布で包んで抱きました。

 サザがどこか切なげな顔をして私たちから半歩離れたところにいるので、私は彼のことも引っ掴んで抱っこしてあげました。

 私はこれでも、二十四歳です。悪戯に年輪を重ねているわけではないのです。

 サザは私に抱えられて、その夜、ずっと震えながら泣いていました。

 大人というのは、どうしてこう、手遅れになってからやってくるのでしょう。

 夜明け前、東の空が微かに白く光り出す頃になって、ジエンさんとロイさんが戻ってきました。当然、厳しい追及は免れませんでしたが、私は女子の特権とばかりに嘘泣きし、サザは黙秘を貫き、ロボにいたっては意識があるかもちょっと怪しいです。

 おいおい泣きながら私は二人が喧嘩したと言っておきました。

 サザとロボにはあとでたんまり叱られてもらいましょう。

 ロイさんは、ちょっと申し訳ないくらいロボとサザを心配していましたが、ジエンさんは、さすがというべきか、事件の匂いを嗅ぎつけて無精ひげの顎をひと撫でしながら、ロボから短剣を没収していました。

「通過儀礼が済んだみてぇだな」

 玉汗を滲ませて真っ青になっているロボのおでこを軽く弾いていたのを見るに、ジエンさんは最初からこうなることを予想していたのではないかと、疑念が過りました。

 思えばロボも、どことなくなるべくしてなったような感じを醸していました。

 兵士は人を殺すお仕事です。

 そんなことさえ今更理解するほどぼんやりの私ですから、このお仕事は向いていないかもしれません。

   ■

 これは後から聞いた話だ。

 ジエン・グランツェといえば、傭兵集団の間では相当有名な猛者で、モルドァ中佐とは兵隊立ち上げのときからの戦友であるという。ゴロツキ紙一重の荒くれ者どもを束ね上げるのがモルドァならば、彼らを叩き上げたのはジエンである。傭兵上がりの砦兵たちには「ジエンの兄貴」と呼ばれているのを聞いた。

 なるほど、と妙に納得したのだ。ジエンは俺たちのようなヒヨコを、最前線を戦い抜ける屈強な兵士に育ててきた。

 これもずいぶん後になって、ジエンが言っていたことだが、「最初の一人」が運命分岐点だそうだ。だからサザは「残る」だろうと思った、と、無精ひげの頬で笑っていた。

 夜明けの開門で戻ってきた志願者は、出て行った数より明らかに減っていた。全滅して諦めて帰ったのか、理由は知らない。八七六名が残り、これから年齢と能力に応じて再編成し、それぞれ訓練に入る。

 ところで、俺は現在、砦内の自室に強制収容されている。砦の門を潜る前後の記憶が曖昧だが、頭痛で身動き取れなくなった俺の目と鼻の先をたまたま自称医者が通りすがり、施術するからといって攫ってきたらしい。

 胡散臭いことこの上ない。もっとましな嘘がつけないものか。

「それで、君は仮病を使って夜遊びしてきたわけですか」

 畏れ多くもこの俺の頭を押さえて俯せにさせているのは、極東域からきたヤブ医者、マシラである。

「夜遊びとは人聞きの悪い。砦兵の最高責任者は准将であるこの俺だ。自分の目で見て人を選んで、何が悪い」

 マシラはいつぞやのように俺の項に鍼とやらをさしているのか、手が触れる感触がある。不思議なもので、痛覚は全くない。

「そろそろ頭痛が再発する頃かと思って中佐殿に君の様子を聞きました。中佐殿は君が頭痛のため自室で寝込んでいると言っていました」

「事の前後は違えど、現実、こうして寝込んでいるじゃないか。こういうのをこっちでは『嘘から出た真』というんだ」

「私の故郷には『身から出た錆』という言葉もあります。耳だけ貸してください。頭はそのまま動かしてはいけません」

 持病についてお話します、とマシラは言った。

「君の病は、広い意味での自家中毒です」

「何だそれは」

「乱暴に言ってしまえば、自分で自分の体の中に毒素を作ってしまう病です。普通は十歳未満の男の子に多いです。症状は吐き気や微熱など、軽いのですが、君の場合はとても珍しい症例です」

 マシラが言うには、俺は自分で自分の神経を麻痺させているらしい。過度の精神的、身体的負荷がかかると、それを緩和しようと体が勝手に麻痺毒素を作って、その副作用として頭痛として認識されるそうだ。

 つまり、究極的に「ぼんやり」しているということか。

「二つとない症例なので、私の考えが正しいかどうか確かめる術はありません。痛覚が鋭いのは、命の危険を知らせる信号だからです。それ自体が誤作動を起こしているので、君は自分がどれくらい死に近付いているか正しく認識できません。これはとても危険です。頭が痛くなるのは、疲れすぎて死にそうになっている状態だと心得てください」

「別に、直前までなんともなかったんだがな」

「それが最も危ないと言っています。君、ちゃんと寝ていますか?」

「寝ている」

 本当はここ四日ほど寝ていなかったりもする。正直に言ったら怒られそうなので嘘をついたのだが、マシラには一瞬で看破されてしまった。

「徹夜は厳禁です。体の内側の循環を狂わせる最大の原因です」

 人間の体は外側の変化に対して、内側を整えるような機構になっているらしい。ヤブ医者の見立てでは、俺の場合、その内側の調整がおかしなことになっているそうだ。それは意志でどうこうなるものでなくて、今まで生きてきた過程で、体が勝手に防衛機構として身につけてしまっていることなので、今日明日に投薬やら手術やらで治るようなものではないのだそうだ。

「少しずつ、戻していきましょう。鍼が効くと思います。鍼は体のほんの一部をわざと壊して、それを直そうとすることで、本来備わっている治癒力を誘導します。悪いものが溜まってとても疲れていたとしても、君の体はそれに気付かないので、定期的に診察を受けるように。でないと、またこの前みたいに全身麻痺します」

「俺を脅すか」

「脅すのならば、君の持病は最悪、自分で自分の心臓を止めかねないと言います。実際、この前倒れたときにはその一歩手前でした。君、頭から下が死にかけていました」

 これにはさしもの俺も口を閉ざした。

「ともあれ、十分な睡眠をとって安静にしているのが一番よいです」

「できるか」

「心がけ程度でよいですよ。それから、これは完全に憶測ですが」

 不意に、マシラの指先が背中に触れた。実に医者らしい、無遠慮な接触である。

「君がそういうふうになったのは、コレのせいですか?」

「それ以上知ると、俺はお前を本気で軟禁しなければならなくなる」

「患者のことを知らないと治療はできません。なので、その手の脅しは私には効きません。君の本当の病巣は体の中にはありません、違う?」

「それを調べるのが、お前の仕事だろうが」

「私の師匠はよく言っていました。『病は気から』です」

 自分を大切に思うこと。マシラはそう言った。苦痛に対して鈍感なのは、自分で自分を少しずつ殺していくのと同じだという。マシラの言葉を借りるなら、俺の体はあまりに過度の負荷を掛けられたために、負荷を「苦痛」として認識しないことで身を守ってきたのだそうだ。まずはその凝り固まったシコリのようなその防衛機構を解除しないことには、俺の体はいつまでたっても「痛くもかゆくもない」状態のまま死線をうろうろすることになる。うっかり死んでしまったとしても結構なのだが、昨晩のように、突発的に行動不能に陥るのは困る。何とかしろと言ったら、マシラは渋い顔をして丸薬を調合した。

「言っておきますが、一時凌ぎです。数刻すれば効果は消えます。そして効能がきれたときには、より激しい頭痛に見舞われますので、服用には慎重になってください。それから、繰り返しますが、一番の治療法は規則正しい生活です。早寝早起、適正運動、一汁三菜。健全な精神は健全な肉体に宿るものです」

「規則、ねぇ」

 俺はふと考えた。

 そういえば俺は十四歳であったのだった。ジエンやカナンに子ども扱いされて、実際大人と並んでみて、俺は自分の矮躯を思い知ったのである。いや、カナンもジエンも規格外だったか。ともかく、俺は少し、己の体を改造したほうがよさそうだ。

「鍛えるかな」

 誰にともなく呟いて、俺は窓の硝子に映る自身の生白い顔に、我ながら眉を顰めた。

 快晴。

 外ではすでに、傭兵隊あがりの精鋭を中核とする新サルマリア砦兵団が整列し、砦の主である俺の登場を待っていた。

 と、いうわけで。

 俺は点呼に応じて敬礼する。

 硬い表情で整列する十五歳未満の新兵に混じっている俺を見つけたモルドァのこめかみに、びき、と青筋が浮かんだ。辛うじて無表情を保っているが、かわいそうに、事情をしらない奴らは、それだけで怯えてしまっている。

 解雇したのが俺なら、採用したのも俺である。なので、俺には彼らに砦主として言葉をかけるべきである。しかし、演説台に上っていたら集合点呼には参加できず、失格となる。俺は二つに割れることはできないので、こちらに来た次第だ。

 モルドァ中佐は、率直に言って、強面である。中身も結構、おっかない。立っているだけでも脅しになる威容である。それが怒気を発したのだから、まあ、かなり怖い。

 俺は得意の王族的微笑で受けて立ち、内心では彼に謝罪しておく。俺の放埓のつけは全て中佐に回るのだ。悪いとは思っているが悔い改めることはしない。

 無言の応酬は、時間にして瞬き一つ分くらいだったと思う。結論としては「好きにしろ」。

 これはあとで説教を喰らう羽目になりそうだ。

 新サルマリア砦兵は、年齢も経歴も多種多様な集団である。訓練は実質、傭兵隊上がりの実戦経験者が、昨日まで鍬を持っていたようなど素人を指導していく形となり、ひいては彼らが兵団における権力を増すことになる。おそらく、父王はそれを懼れた。モルドァ傭兵隊を抱き込んだまではいいものの、飼い馴らせないとわかってこの砦に繋いでしまったのだ。モルドァ傭兵隊は、王家にとっては庭に入り込んだ野犬のような集団なのだ。

 そこへ、死体同然の俺を放り込んだ意味について、俺はずっと考えていた。

 喰わせるためだと、最初は考えていた。ところが、俺は犬も食わないほど不味いのか、こうしてうっかり兵団に紛れ込んでいる始末。

 あるいは、あれは毒だから喰うなと、誰かが教えたか。

 サルマリア砦の軍費に色をつけているのは「星の間」。俺を王城から弾き出したのもそうだ。玉座の奥の、王室の、さらにその奥にある扉の向こう。ここから覗き見るには些か遠すぎるところで、俺の運命は勝手に決定されているらしい。

 まこと、腹に据えかねることである。

 さて。

 煩い貴族を追い出して、事実上、二倍に膨れ上がった兵団は、大別して即戦力組と育成組に分かれて訓練する。中でも十五歳未満の隊は、骨格がまだできあがっていないので、訓練の内容もまずは基礎体力作りから始めねばならない。

 初日の長距離走行訓練で、俺はさっそく己の浅慮を呪った。

 知っていたはずなのだが、ガウカリア一帯の中でもサルマリア砦一帯は渓谷が多く、けしてなだらかな丘陵ではない。しかし俺は言いたい。走るというのは、二本足で駆けることを言う。四点ついて崖を駆け上がることを「走る」とは言わない。これは「登る」という。そして水の中を行くことを「泳ぐ」という。

 運命か、それともモルドァ中佐の嫌がらせか、我らの指導者はよりにもよってジエンであった。

「ロボ! 遅れているぞ!」

 訓練集団の、どちらかといえば最後列に限りなく近い辺りで半泣きになっている俺のケツを馬のように叱咤激励して、ジエンは軽々と岩棚を登っていく。ちなみに俺は最後尾ではない。断じて。俺より後ろにサザがいる。

 と、慢心していたのが拙かった。崖を登りきる間際、突然サザが加速して、あっという間に俺を追い越して、気付いた時には取り返しのつかないほどに引き離されていた。

 俺が最下位だと? 冗談じゃない。最後尾の二人は洗濯場行である。

 ただ目の前のサザを追い抜こうと、後先考えずに速度を上げて、結果、体力不足でもう二度と追いつけないほど先頭集団から引き放されてしまった。視界から遠のいていく同年代の塊を、俺は絶望的な眼差しで見送った。

 つまり、俺は兵士としてはあまりに脆弱であった。

 やたら重たい洗濯板を担いで隣を見やる。救いなのは、俺を出し抜こうとしたサザも結局息切れして洗濯係の任に就いていることだ。ちなみに、下位連中は皆、無言であった。雑談する体力も残っていない。

 この俺に、野郎の靴下と下着を洗わせるとは。いつか全員、不敬罪に処してやる。

 そうやって悶々としているうちに、サザが静かに立ち上がった。

 まさか終わったのか? 俺は未だうず高く積み上げられた他人の汚れ物とサザの顔を交互に見た。おかしい。俺のだけ多いんじゃないか? 見渡すと他の奴らもそろそろ仕事を終えようとしている。

 目を白黒させている俺に、サザは疲れ切った顔を無理矢理に笑顔の形にして言った。

「僕、慣れているから」

 そういえばこいつは従者という阿呆な仕事をしていたのだった。

 一月前まで雑巾も搾れなかった俺には、過酷な任務であった。

 我々最後尾組は、休息時間を削って洗濯をしているのである。このままでは死ぬ。洗濯物に殺される。俺は多いに焦って、こっそりカナンに洗濯のしかたを訊きにいったほどだ。

 ちなみに、カナンは軍籍には入らなかった。本人の希望で、軍事修錬のかわりに、花嫁修業に入らせた。砦に幽閉された放逐王子専属の下女として。

「願ったり叶ったりね。聞けば王子様はまだ十四歳だっていうし」

 カナンは十分、満足そうだった。

「でも、私、まだ一度もお見かけしたことないの。どんな方かしら? はやく会ってみたいなぁ。お世話するのが楽しみ」

 うふふ、と指を折り合わせてうっとりする彼女には申し訳ないのだが、当面、その王子様には会えないだろう。というより、幻滅されると多少なりとも傷付くので、あまり夢をみないで欲しい。

「でも、ロボってはかわいいところもあるのね。洗濯の仕方を教えろなんて。でもそれって、びりっけつだかよね?」

「......」

「洗濯が上手になることより、順位を上げたほうが......あう、ごめん! 嫌味のつもりじゃないの。ただ、その、ロボは矜持が高いから、洗濯なんて嫌だろうなって」

「嫌に決まっている」

「ええっと、まあ、頑張ってね。応援しているからね。ね? あ、あとね、洗濯物の量はちゃんと確認しておいたほうがいいかもしれないわよ」

「何故だ?」

「世の中にはね、こっそり自分の分をロボの籠に入れちゃう、嫌な人もいるものよ」

 この時、俺は女とはかくも鋭く物事を見抜くものかと、驚いた。

「あんまり洗濯が終らないようなら、今度、籠を確認してみたらどうかした?」

 カナンの的確な指示に従って、俺は翌日(つまり毎日俺は洗濯係なのだが)、不意をついて背後を振り返ってみた。すると、あろうことか俺の配分の籠に己の籠から汚れ物を移す大馬鹿者と目が合った。

 馬鹿者はその瞬間、あきらかに「しまった」という顔をした。しかし、それは一瞬だけで、奴は開き直るとそのまま立ち去ろうとした。

「おいこら、待て」

 振り向きもしない。そこで、俺も容赦なく怒ることにした。

 馬鹿者の肩を掴んで振り向かせるや、無防備なその頬骨に直拳を一発見舞ってやった。大した威力ではないはずだが、不意の一撃だったためか、相手はひどく動揺し、自分が殴られたことに気付くと、今度は顔を真っ赤にして激昂した。冷静な判断力を失って、迂闊に俺の胸倉を掴まえようとして腕を伸ばしてくる。どこまでも頭の悪いやり方に運座位しながら、俺は上体を捻って回避し、大きく泳いだ相手の頭に回し蹴りを入れて落とした。

 汚れ物の籠の中に頭から突っ込んだので、盥の水をその上に掛け流しておく。

「これで返済したことにしておいてやるから、お前が残りをやっておけよ」

 俺は最後に奴の汚い尻を蹴り飛ばして水場を後にした。

 すぐにサザが追いかけてきたが、サザはちゃっかり自分に課せられた仕事を済ませており、籠を抱えていた。

「説教なら聞かないぞ。ついてくるな」

「そんなつもりはないよ。ただ、あの場に僕が残っていたら、きっと袋叩きにされるよ」

「何故だ?」

「今の一件でロボは喧嘩が強いのはわかったでしょ? 彼らは君に勝てない。だから、君ではなくて、だけどいつも君と行動を共にしている僕へと、鬱憤を向けるだろうさ。そんな餓えた狼の群に、子羊の僕を置き去りにしないでくれよ」

 サザは朗らかに笑いながら、結構濃い毒を吐いた。そういう奴である。

「俺は別に、強い方ではないと思うぞ。さっきも不意打ちの先手が取れたから崩せただけだ。体術訓練みたいに正面から向き合ったら、体格差で押し切られる」

「それをわかっているところが、ロボの強みだと思うよ。彼らはロボのことを完全に下にみていたから、きっとかなり手痛い敗北になったはずだ」

 サザはなぜかしら嬉しそうだった。余程あの甲冑様にいびられたのか、それとももとからそういう性格か、サザの根性は思った以上にひねくれているようだ。その分、観察眼はなかなかに研ぎ澄まされている。

「自分よりも弱い奴を探して強いふりをして、矜持を保とうとする奴は僕は嫌いだ」

 俺はサザを振り返る。

「そういうお前は?」

「僕は自分が弱いことを知っている。だから、君の背中に隠れているよ」

「嫌な奴だな」

「お互いさまだよ」

 サザはにっこり、乙女のように首を傾げた。

「それにしても、ロボはどうしてそんなに喧嘩が強いの?」

 強いわけじゃない。腕力も筋力も速力も、平均以下だ。だから、不意打ちくらいしか手がないわけだが、それをわざわざ暴露することもないので、俺は自分に都合のいいことだけをサザに教えた。

「喧嘩をするときには予備動作があるだろう? 構えたり、怒鳴って脅したり。そういう、動作と動作の間が長いほど次の手を読みやすいじゃないか。脅したり、威嚇したりする奴の行動ってのは単純だから、対処しやすい」

「普通、次の手なんて読めないものだけれど」

「そうか?」

「だって、たとえば左から拳が来ると思って避けたとしても、そうじゃなかったら攻撃を受けるでしょう?」

「だからこそ、初手は意表を突くのが肝心だ。俺だって未来が見えているわけじゃないんだぞ。いくつか行動を予測しておいて、実際相手が動いてから、頭の中にある手札を状況に合わせて切っていくみたいな感じだ」

「君の頭の中って、かなり特別かも」

「医者にも言われた」

「そういう意味じゃなくて......まあ、いいや。ところで、ロボはそんなに賢いのに、どうして今日に至るまで増え続ける洗濯物の謎が解けなかったんだろうね」

「うるさい」

 俺は顔を顰め、それからサザの言葉を反芻して「あ」と思った。

「お前は気付いていたのか?」

「気付くも何も、見ていたから」

 俺は絶句して、一見しただけでは温和で人の良さそうなサザの笑顔を凝視した。

「何故、教えない?」

「そりゃあ、面白かったもの」

 サザはなおさらにっこり、笑みを深くした。

 ちなみに、今日の事件はすぐにジエンに暴露した。告げ口があったわけでない。俺に任された馬鹿どもが逃亡をはかり、見つかったためだ。

 脱落者は、珍しくなかった。俺が紛れ込んでからすでに三月が経っていたのだが、その間に、最初は五十を超えた十五歳未満の新兵が、三十八まで減っていた。

 俺は去る者にかける言葉を持ち合わせていない。というより、奴らが逃げ出したせいで、結局洗濯物のツケは俺に回ってきた。ついでに、暴力沙汰の責任を取らされて、ジエンの部屋掃除まで罰則を科せられた。

 理不尽極まりない。

 そもそも、この俺が何故下女のようなことをせねばならんのだ。

「それは、お前が下っ端だからだ」

 ぎくりと、俺は振り返った。

 ジエンがにやにや笑いながら、机の端に浅く腰かけて俺を監督していた。

「ロボ、お前今、『何で俺がこんなことを』って思っただろう?」

「口に出してはいません」

 ところで、現状俺は歩兵団の一兵卒、それも戦力外の見習の立場であり、ジエンは我らヒヨコ部隊の教育を請け負う兵長殿である。

「心の声がしっかり聞こえたぞ。悔しいか?」

「いいえ」

「いや、ちったぁ悔しがれ」

「はい」

「お前なぁ」ジエンは溜息混じりに言う。「発奮って言葉、知っているか?」

 ジエンは無精ひげを撫でながら、まじまじ、珍獣を見る目で俺を見ている。

「いつまでも下っ端のままでいいのか?」

 ははーん、と俺は硝子越しにジエンを見た。

「兵長殿は、歴戦の傭兵隊の御出身と伺っております。何ゆえ、我々のような新兵の訓練の担当を希望されたのでしょうか」

 俺はジエンがモルドァ中佐への仁義だけでこの砦に残っていることを知っている。俺の、つまり放逐王子の意向に従って兵力増強に努めることはないのだ。ところが、ジエンは熱心に教官を務めている。人員の配置について、俺はモルドァ中佐に一任してあるのだが、ジエンのこの配置についてだけは疑問であった。ジエンは尉官級であるべきだ。

「兵長御自ら、新兵の教育係を志望されたという話も聞こえます。恐れながら、兵長ほどの猛者なれば、尉官級であっても遜色ございません」

「おう、ロボよ。お前、耳聡いな。お前みたいのを、『狼の耳』という」

「失礼いたしました」

 ジエンは硝子の向うでゆるりと笑っていた。

「俺がモルドァ傭兵隊に入った頃、隊は、兵隊なんかじゃなくて、ただのゴロツキ集団だった。生まれた街で何かしでかしていられなくなったような、どうしようもねェ奴らばっかりだった。無論、俺もその一人だった」

「モルドァ中佐に救済されたことへの、婉曲な恩返し、というわけですか?」

「そんな綺麗なモンじゃねぇ」

 ジエンは苦く笑って続けた。

「もとから屑野郎ばかりだが、その分、仲間意識も強かった。どいつもこいつも、傭兵という生き方しかできない大馬鹿野郎ばかりだった。だけどな、俺たちは兵士だった。金で買われて、顔も名前も知らない奴の、何のためだかわからない戦争の最前線で戦って、どいつもこいつも死んでいった。だけど俺は生き残って、また戦って、生き残って、そして気付いたら、一緒に郷を出てきた仲間はモルドァ隊長だけになっていた」

 立ち止まってしまったのだ、と、ジエンは言った。

「ちょうどこの砦に来た頃だったかな。人生ってのは不思議なもので、俺は服屋の売り子していた女房のことが好きになって、結婚して、娘が生まれた。その娘がな、まだ一歳にもならない頃のことだ、俺の顔をじっと見て、俺の指をぎゅっと握ったんだ。それからだ。俺は、突然、引き金を引けなくなった」

 もう戦場には立てない。そう呟いて、ジエンは、祈るように指を折り合わせて俯いた。

「兵長は、勇猛果敢な兵士であります」

「過去には、な」

 人は変わる、とジエンは言った。

「もう俺は、兵士としては死んじまったんだろう。この先俺にできることは、精々、お前らぺーぺーを一人前の兵士にして、せめて死ぬ時にぴーぴー泣き叫んで逃げ惑うことなく最後まで兵士たれるよう、性根を叩き上げることくらいだ」

「兵長は、今、幸福なのですね」

「そうでもないぞ。正直、他人に向かって鉄砲を撃つことができなくなったと知ったとき、そのまま自分の頭を撃とうとしたんだ。だけど、女房と娘の顔がチラついて、それさえできなんだ。夕飯待っているからね、なんて言われて出てきて、結局、俺は家に帰ったよ。それでよかったのか、今でもわからねぇ。今の俺は、ただの抜け殻さぁ」

 俺には、ジエンにいかなる心境の大変革があったのかついにわからなかった。

「ところで、ロボ。お前、喧嘩したんだってな。サザに聞いたぞ」

 うぐ、と俺は息を呑む。サザめ、どこまでも口の軽い奴だ。

「どうした? お前は人を嗾けることはあっても、自分から手を出すような奴だったか?」

 貶されているのか、叱られているのか、ともかく、俺は正直に事の顛末を打ち明けた。ジエンは身悶えて爆笑し、俺は顔に朱が上るのをどうしても隠しきれなかった。

 増える洗濯物に気付かなかったのは、確かに、阿呆な話である。

「馬鹿だなぁ」

 ジエンは酸欠に喘ぐほど笑って、それでもまだ足りず、目尻に涙さえ浮かべていた。

「馬鹿な上に、ガキだなぁ」

「お言葉ですが、兵長は侮らせたままでよいとお考えか」

「そうムキになるな。いやはや、若い。わかいというか、ばかい」

「卑怯なのは向こうであります」

 俺は憮然と窓拭きに意識を向けた。返す返すも、腹立たしいことである。

「それにしても、オッサンはちょっと安心したぞ。俺はな、お前がこのサルマリアに流された第二王子様かと、疑っていたんだ」

「......」

 ジエンは、どこか確信的に俺を見た。

「まあ、王子様に洗濯させたり部屋掃除させたり、できるはずもないけどな。ただ、お前はあまりに他と違うから、そんな夢想をしただけだ。ま、どんな経緯であろうと、今のお前は歩兵見習、それも、落ちこぼれのな」

「......精進いたします」

「おう。頑張れや。頑張って出世したら、うちの可愛い娘を紹介してやらんでもない」

「俺なんぞより、もっと将来有望そうな男が相応しいでしょう。俺は......十中八九、ご息女を幸せにしてやれませんよ」

 ほとんど本音の言葉に対して、ジエンは「それもそうか」とおどけただけだった。

 俺は、何だかんだ、砦の新兵生活に適応していた。

 ここの生活は余計な雑音がなくていい。訓練と洗濯物に忙殺される日々を無駄な時間だとは思わなかった。

 そうして半年が過ぎた。まさしく駆け抜けた半年であった。

 虚弱であった俺の体も、少しは人並みになったと言えよう。最近では頭痛もない。

 基礎体力では劣るものの、武術や射撃の訓練が始まると、俺は翻って成績上位者となった。殊に、射撃は他の追随を許さぬ優秀さであった。まあ、先んじて訓練を受けているので、差が出て当然だ。しかし、王城ではけして人より抜きん出てはならなかったので、俺は自分自身の腕前をほとんど自覚していなかったのだが、こうして存分にやらせてもらったところ、実は結構いい腕をしていることに気付いた。

 思えば、ススロに紛れて迎撃戦の真似事をしたとき、俺は夜間に小さな的を射ぬくという芸当をしてのけたのだった。もっとも、あれは罠を仕掛けた位置を覚えていたからできたことで、別に見えていたわけではない。当てずっぽうで撃って、何となく命中したのだ。

 サザは俺の射撃技術を訝しんだが、「狩人に弟子入りしていたことがある」と言って誤魔化しておいた。嘘ではない。現在の俺のこの性格も、ススロたちの言動を真似することで形成された「庶民の仮面」である。

 そう。俺は自覚している以上に、ススロたちから多くのことを吸収したらしい。

 天井に吊るされた燭灯の赤い色に、ふと、緋色の髪をした少女の面影が重なった。

 ところで、我がサルマリア砦の兵たちの食事についてだが、率直に申し上げよう、不味い。クソ不味い。しかし金を支払っているのは俺で、費用に見合った献立となると、安定して生産できて嵩を稼げる玉菜と大根、粗悪な穀粉、豆、鶏肉が主体となるのは仕方ない。

 かなしいかな、餓えこそ最高の珍味とはよく言ったもので、悪質な食事でも、ジエンの殺人的に厳しい訓練を耐え抜くには、養分として吸収しないわけにはいかない。かといって、牛肉や果実の糖蜜浸けなど出したところで、七日以内に破産だ。俺はざっと周囲を見渡してみる。三週間も獲物にありつけていない野犬の群のような有様が、講堂一帯に広がっている。実際三週間喰っていないなら仕方ないのだが、彼らは、無論、俺も含めて、この光景を毎日二度、昼と夕刻に繰り返す。

 それでも、俺は豆の塩煮には辟易していた。皿に山成す豆、豆、豆。たまに鶏肉の欠片。

 一度、サザに食事の質について意見を伺ったことがある。俺としては最低水準だと思っていたのだが、奴は「ここは結構いい方だよ」と、けろりとしていた。

「辺境の砦の兵の食事なんて、もっとひどいものだよ。虫食い豆とか、黴た穀粉とか、運送途中で雨に濡れて痛んだ野菜とかも、平気で送りつけてくるらしいよ。ここの食材の質が安定しているのは、やっぱり塔のてっぺんにお姫様ならぬ王子様が捕らわれているからだと思う。きっと毎日、御馳走食べているんだろうな」

「......そうだといいな」

 俺は言いたいことをぐっと飲み込んで、豆の中から肉の欠片を発掘する作業に取り掛かる。背後のほうで、誰かが騒いでいた。振り向きもしなかった。

 しかし、その時、不意に項の冷える感覚があった。

 俺は何とはなしに振り返り、そして、俺の真後ろに立つ男を見上げた。目が合うよりも先に、燭灯の光を反射して禍々しく閃く金属の閃きを見つける。俺はサザを背中で押しのけて、辛うじてそれが俺の目に突き刺さるのを回避した。

 どんな凶器かと思ったら、突匙であった。ただ、食器としての存在意義を見失うほどには、俺を襲撃した不埒者は、殺気だっていた。卓の木目に見事に突き刺さり、戦慄く突匙の柄に、相手の顔が映っていた。

 隻眼の男だった。肩幅が広く、背もあり、頑健な体格であったし、何より半眼を隠すような革の眼帯が、侮ることを許さない。

「ロボ!」

 長椅子から転げ落ちたサザが、俺を呼んだ。俺は、ほぼ無意識のうちに相手の手を抑えていたのだが、立ち上がりかけの半端な体勢では反撃も覚束ない。膠着状態で、先に動いたのは相手の方だった。

「今、ロボって、確かに呼んだな?」

 隻眼の男は、血走る目で俺を睨んだ。

 その馬面に、俺は見覚えがあった。

「フィオ?」

「覚えていてくれて、光栄だ!」

 俺の人生初の喧嘩相手は、獣のように唸りを上げて俺を机に押し倒し、再び突匙を手に取ると、俺の顔面向かって振り下ろそうとした。こうなると、食器も立派な凶器である。俺はなりふり構わず一番手に近かった豆の皿を引っ手繰って盾の代わりにした。

「よォ、ロボ。この死神野郎。会いたかったぜぇ」

 唸るように低く喉の奥から怨嗟を吐き出して、フィオはぎりぎりと先端を押し込んでくる。皿の盾は辛うじて俺を守ってくれたが、いかんせん、劣勢である。向うはじわじわと体重をかけてくる。

「こういう時は、ご無沙汰しておりますって、言えばいいのか?」

 俺は苦し紛れに、豆の一粒を奴の右目に弾き飛ばした。一瞬怯んだところで、すかさず先端を反らして奴の下から逃げ出す。が、見逃してくれるはずもなく、奴は俺の襟首を掴まえて、再び床に引き倒した。どうやら本気で俺を殺すつもりらしい。

「目つぶしたぁ、相変わらず卑怯な野郎だ」

「そっちこそ、攻撃が単調で読みやすいぞ。ヒヨコ頭」

 俺は叫びたい。何故だ、と。

 俺は、品行方正であるよう努めているはずなのだ。それなのに、なぜこうも俺の周囲では問題ばかり起こるのだ。何故、俺は面倒な奴に絡まれるのだ。

 取っ組み合いになり、俺たちは犬のように転げまわり、いつぞやのように見世物となり果てていた。体格で勝るフィオと、技術で勝る俺とでは、どうしてもフィオの攻撃を避けて、避けて、そうして作った隙に一撃入れるという戦法になる。防御一辺倒だったはずの俺が一撃で攻勢に転じて、また押し返されて、というのは、見ていて面白いに違いない。俺だって観客に回りたいところだ。

 見やると、サザが銀貨を見せびらかして観衆を煽っている。あの野郎、俺を賭けにしやがった。地獄に落ちてしまえ。

 いや、現状、俺のほうが地獄的か。

 何を考えているか、俺は。

 俺とフィオの突発的犬試合は、そう長くは続かなかった。

「何をしている!」

 雷が講堂に落ちて、阿呆どもは一瞬で口を噤んだ。やっとお開きかと安心したのも束の間、フィオは攻撃をやめてくれなかった。奴が襲ってくるのなら、俺も受けて立つしかない。まずい。相当にまずい。ところがフィオは状況が見えていないのか、俺への攻撃を中断する気配はない。そしてとうとう、我々は大人の兵に後ろから羽交締めにされて引き離され、互いに柱に押し付けられて、ようやく終幕となった。

 背中に腕を捻りあげられて、抑えつけられた体勢では、振り返れない。なので、視線だけ向けて、青筋浮かべたモルドァ中佐と目が合い、慌てて背ける。

「ちくしょう! 放せ、殺す!」

 フィオはまだ熱が下がらないのか、俺への殺意も剥きだしに、片方だけ残った目で俺の息の根を止める勢いで睨んでくる。

 怒り狂っているフィオに事情を説明することはできず、かといって、俺の正体を知る中佐が公然と俺を特別扱いするわけにもいかず、下った判決は「二人とも懲罰房」。

 俺は大人しく引きずられながら、今一度、何故だ、と運命を呪った。

   ■

 フィオがどこまで俺を殺すつもりだったか、定かでない。

 ただ、俺の胸のうちには何とも言えない暗雲に似た思いが満ちていた。

 あの夜、死んだ人間がいる。

 俺があの場にいなければ、俺が城から出なければ、俺が、この世に存在していなければ、家族に囲まれて天寿を全うしたはずの人たちを、俺はけして忘れたわけじゃない。

 フィオが生きていてよかった、というのは本音だ。

 フィオに二度と会いたくなかった、というのもまた、本音だった。

 俺たちは別々に呼び出され、先にフィオが呼ばれたので、モルドァ中佐には俺があの晩、砦に転がり込むまで何をしていたのかばれてしまったに違いない。

 フィオと入れ違いに個室に呼び出された俺を目の前に座らせて、中佐は結構な時間、腕組みしたまま俺を睨んで黙っていた。

 耐えかねて、俺は口を開いた。

「正当防衛だ、と、主張させていただきたい」

「発言を許した覚えはない、と言って張り倒すところでございます。殿下が王族でなければ、の話ですが」

「それを今言うか。殿下と呼ぶなと、言ったはずだ」

「兵士見習が准将であるはずもありませんので」

 小さな部屋であった。机と、椅子と、換気のための煉瓦一つ分くらいの小さな窓だけ。手燭の灯が揺れて、モルドァ中佐のもともと怖い顔に、さらに深い影を作っていた。

「事の顛末は、聞きました。一つお伺いいたします。殿下は、もしあのまま誰にも発見されなければ、国外逃亡するおつもりであったか」

「否、と答えておこう。そのつもりならば、砦に庇護を求めず、あの騎馬隊に身を寄せた」

「あの者は、殿下を疫病神だと言っておりました」

 遠回しに、王子の身分はばれていないと、モルドァは伝えた。俺は完璧に微笑んでみせる。エランが処刑された今、俺の心を知るのはモルドァ中佐だけだった。

「俺は側近に騙されて攫われかけた憐れな王子様で、中佐は敵の手に落ちかけた王子を救った英雄だ。それで、いいではないか」

「本当に、殿下はそれで済ますおつもりか」

 ゆらりと、壁に映る影が揺れた。モルドァの手には掌銃が握られており、その照準は俺の眉間に定まっている。銃口まで指幅三つ。撃鉄を外す音が重々しく部屋に響いた。

「俺が敵通していると疑っているか?」

「殿下がそれでもいいとおっしゃるのなら」

 俺は身を乗り出した。自ずと額が銃口に触れたが、それよりもっと重大な情報が、今の短い会話に含まれていることに気付いた今、銃など脅しにもならなかった。

 もっと恐ろしい脅され方をしているのだ、俺は。

「俺の運命はお前の手の内だ、モルドァ傭兵隊長殿」

「言葉遊びがお好きなようで、結構です」

 俺はいつぞやのように銃口を指で弾いて額から逸らすと、さらに身を乗り出した。狭い部屋の、狭い机を挟んでのことである。互いの前髪が触れ合った。

「俺を担いで武装蜂起でもするつもりか? よせ。まだ早い」

「同感でございます。しかし、殿下の癇癪で移籍を余儀なくされた諸侯が王城でさめざめと涙ながらに訴えたようで。城を追われた殿下が独自の軍を得んとしている、と」

「まあ、そう思われても仕方のないことだ」

「私は殿下にお願いしているのです。どうか、私の隊を散らかさないでいただきたい」

「俺は、お払い箱か?」

「返答次第では」

 俺はモルドァから離れると、硬い椅子の背に身を預けた。

「とりあえず、その物騒な物をしまってくれないか。この砦の主は俺であるが、この砦にいる兵を動かせるのはお前だ。違うか? そんな状況でお前に逆らうほど勇猛ではないよ、俺は。大人しいかどうかは、別としてな」

 モルドァ中佐はようやく銃口を降ろしたが、しかし、机に伏しただけで、掌の下では未だに黒々と物騒な光を放つ銃口が俺を照準したままであった。

「要望を聞こう」

「結論から申し上げます。あと二年、現状を維持していただきたい」

 俺は、思わず「は?」と首を傾げた。

「最初から俺はそのつもりだ。兵を増やすなという意味か?」

「可能であれば、当初の御約束通り二千に増強していただきたい」

「すぐには無理だ」

「そういうことではありません。先ほど、王城より殿下宛てに書簡が届きました」

 それを真っ先に出せ、と言いたいところだが、俺の真意を確かめぬことには渡せない情報だったのだろう。

 俺は受けとり、内容に目を通して、青くなった。

「国王陛下から、会食の招待の報せが届いております。殿下には極力、行儀よく振る舞っていただきたい。けして今宵のような粗相のないよう、お願い申し上げます」

 俺はモルドァを見、もう一度手紙の真贋を検め、事実、明日には王城に出頭せねばならないこと知る。

 急に、心臓が激しく脈打ち始める。俺は自覚している以上に、父王を怖れているらしい。

「告白しますと、私は国王陛下から殿下の教育を承っておりました」

 だろうな、と俺はモルドァを見やった。

「俺にはお前を監視しろという訓令は届いていなかったぞ」

「その役目は、たまたま殿下が行った一斉解雇で砦を去った貴族将校たちが担っておりましたから。ところで、放埓の元王太子殿下に代わって、私がその御心を汲み取り、僭越ながら国王陛下に手紙を出しておりました。お許しください」

「何だと?」

「お怒りになられませぬよう。とある者からの、進言がありまして」

「誰だ、余計なことをお前に吹き込んだのは」

「お忘れか。エラン少尉を逮捕したのは、この私です」

 鋭い痛みが胸を突いて、俺は、しばし黙ってしまった。

「恭順の手紙を書き、許しを請うよう殿下に伝えてほしいということでしたが、殿下は微塵もそのつもりがないようでしたので、差出がましいようですが捏造し、独断で送らせていただきました。これは複写です。一応、ご確認くださいませ」

「何故だ?」

 俺は歯の浮くような媚び諂いの文言に激しく嫌悪感を抱きながら、それでも全文、頭に叩き込むしかなかった。俺は父王の前で、この手紙を送った従順な息子を演じなければならないからだ。

 私の愛する父上にお願い申し上げます。どうか私にお恵みをお与えください。私の至らなさが父上を怒らせたのならば、心からお詫び申し上げます。どうかお許しくださいますよう、重ねてお願いいたします。愛する父上が、私に対する激しい憎しみをお捨てになりますように――駄目だ、耐えられん。反吐が出る。

「そんな顔をなさいますな」

「お前がこれを考えたのか?」

「原案は、ジエンです。もし娘が許さぬ男と駆け落ちした先で捨てられて、許しを請う手紙を送ってきたとして、どんな文面ならば許せるかと相談したところ、これを書いてくれました。それを殿下の性格を考慮して私が書き直し、文書官に貴文体に書き直させました」

 俺は、絶望的な気分で額を抑えた。心なしか頭が痛いような気がする。

「ちなみに、殿下は身も心も病に侵され、筆さえ持てない有様だということになっていますので、そんなに闊達なご様子では困りますぞ」

「困るのは俺だ。何てことしてくれたんだ」

 指の隙間から恨みがましく睨み上げると、モルドァの涼しい瞳と目が合った。

「その甲斐あってか、太子位復権の話も噂されています」

「困る」

「我儘をおっしゃいますな。当方といたしましては、御旗である殿下の身分が上がることは喜ばしいことですが、かわりに重石を乗せられては飛び出したいときに飛び出せません」

「つまり、お前は俺を手元においたまま、俺を昇格させて美味しいところを吸い上げたいわけか。やり方があくどいぞ」

「傭兵あがりですからな。手荒いのはご容赦くださいませ。できぬとは、言わせませんぞ」

「できなかったら俺はお前に殺されるわけか」

「そのおつもりで」

 ところで、と、モルドァ中佐はこめかみに青筋を復活させて、悶々と項垂れている俺を見下ろした。

「懲罰房行きになったことは、お忘れではありませんな?」

「あー......出立の用意があるから今宵は自室で」

「許すと、お思いか?」

 俺はモルドァの手にある掌銃を奪って今すぐにでも己の頭をぶち抜きたい衝動に駆られたのだが、どれだけ頭の中で作戦を練っても、このモルドァから一本取るのは無理だという結論に達した。

 そういうわけで、俺は最悪の気分で、最悪の相手と一夜を共に過ごす羽目となった。

 房に戻って壁の手枷に両手を固定されて、深々溜息をつく。

 反対側の壁には、同じように両手を頭の上に固定されたフィオがいるはずだが、真っ暗で顔を拝むことはできなかった。

「お前のせいで、この様だ」

 半分八つ当たりで言ってやったところ、「そっくりそのまま返すぞ」と言われてしまった。

「何だ、起きていたのか」

「寝れるか、馬鹿野郎」

 フィオの声は鋭かったが、静かであるところを聞くに、頭が冷えたらしい。それならば、俺はこいつに聞きたいことが山ほどあるし、向うもそうだろう。

「なぁ、ヒヨコ頭」

「うっせ、根暗。黙ってろ。話しかけるな」

「お前、何でここにいるんだ?」

「お前こそ、何で邑に来た? 攫われたとか、もう信じねェからな」

 事実なのに、と言いたいところだが、俺も、もはや何か真実であったからわからなっている。フィオからしてみれば、記憶喪失だのなんだの、俺の一切が信じられないに違いない。当事者の俺でさえ、まだ真相は見えていないのだから。

「お前、軍隊に入りたかったのか?」

「違う。俺はススロだ」

 フィオの答えには全く迷いがなかった。

「ここへ来たのは、お前がここにいると知ったからだ。イェナに聞いたんだ。イェナは何だかよくわからないみたいだったけれど、俺はわかった。お前は貴族だ。違うか?」

「貴族じゃない」

「嘘だ。お前は俺たちをどこまで騙すつもりだ?」

 俺は、フィオの言葉に答えてやれない。どこまででも、騙すしかない。

「お前、俺を殺しに来たのか?」

 そうだとしても、俺はこいつにだけは、殺されても仕方ないと思っていた。あのススロの邑の誰かが、いつか真実を知って、俺を怨みにくるかもしれないと、ずっと待っていたのだ。だから、フィオだとわかったとき、俺は、心のどこかではほっとした。

 フィオでよかった、と。こいつが俺を恨むことは、正しいことだから。

「殺したいわけじゃない」

 しかし、フィオは言った。

「復讐とか、そんなのは筋違いだってわかっているし、イェナにも散々言われた。だけど、やっぱり俺はお前を許せない。お前に会って一言、言わないと、気が済まない」

「何だ? 今なら甘んじてお前に刺されてやってもいいし、お前が望むなら、失ったその左目の代わりに俺のを抉ってくれてやる」

 割と、本気であった。しかし、フィオは「いらね」と突っぱねた。

「そんなんじゃないって、言っているだろうが。俺はな、お前に一つだけ聞きたい。何で黙って出て行っちまったんだ?」

「......悪かった」

「何で、戻ってこなかったんだ? 貴族だからか?」

「そうだ」

「俺たちはお前のことを『仲間』だと思っていたんだぞ」

 仲間、という言葉に、俺は不覚にもぎゅっと胸を押しつぶされるような愛惜を覚えた。ススロとして過ごした数日が脳裏を駆け巡り、最後に、空色の衣装を着て顔を赤くしていたエランの姿を思い出して、それから俺は、深い泥に埋まるような罪悪感に溺れて、しばし、息を止めた。

「すまない」

「本当に、そう思っているのか?」

「信じては、もらえないだろうけれど」

「ああ、信じられない。お前の言葉はどこか作り物めいているからだ」

「お前、意外と鋭いんだな。ヒヨコ頭のくせに」

「け。俺は最初見たときから、お前のそういう薄っぺらいところが気に入らなかった。お前見ていると、鏡に映った影に話しかけているような気分になるんだよ。実体はどこか別のところにあって、俺たちは騙されている。そんな気になる」

 ススロというのは、皆こうも敏いものなのだろうか。俺はフィオの眼力を薄ら寒く思うと同時に、奇妙な安堵を覚えていた。俺の言動が嘘っぽい、というのは、翻って、本当の俺は他にあるということを、フィオは感づいているということでもある。

 フィオの言葉を借りるなら、大抵の人間は俺の虚像に騙される。俺自身でさえ、己が作り上げた「仮面」と素顔の区別が怪しくなる瞬間がある。フィオが憶えた違和感は、きっと俺自身が与えられた役を演じきれずに尻尾を出す瞬間のことを言っているのだろう。

「おい、ロボ。正直に答えろ」

「嘘か真実か、見分けるのはお前だけれどもな」

「いいから、答えろ。俺たちは、どうして鉄砲で撃たれたんだ?」

 ずしりと、闇が重くなったような錯覚。

「わからない」

 俺は真実を答えた。

「わからないじゃ、すまないぞ」

「じゃあ、言い方を変えよう。俺がいたからだ」

「それですむと思っているのか?」

「すまされない。だから、俺はここにいるし、お前だって、そうじゃないのか?」

「どういう意味だ?」

「俺に拘って、わざわざ俺を追いかけて入隊してきたのは、自責の念があるからだ」

「はぁ? お前、意味わかんねぇよ」

「そうか? 俺は、お前が何でススロの邑に居られないのか、よくわかるぞ。お前は自分を許せない。あの夜狩りに出た中で、たった一人だけ生き残った。そしてみすみす、邑へ敵を連れてきてしまった」

 闇の向うで、激しく金具の鳴る音が響いた。拘束されていて助かった。お互いに。

「フィオ。俺は知りたいんだ。一日だって、あの夜を忘れた日はない」

「嘘だ」

「本当だ」

「なら、お前と一緒にいたあの人は今どうしている? この砦にいるのか?」

「そうだったら、いいのにな」

「回りくどい言い方はよせ。俺はお前の言う通り頭が悪いからよ、はっきり言ってくれなきゃ何言っているのかわからねぇんだよ、ボケ」

「死んだよ。頭と胴を切断されて、裏切り者の汚名を被って、罪人として、処刑された」

「そんな......」

「事実だ」

 フィオは、それきり黙ってしまった。やがて、冬眠を邪魔された熊のような唸りを上げて、手枷をガタガタ打ち鳴らす。

「煩いぞ。何だ?」

「お前の方が煩い!」

 俺は何も音を上げていないのに、理不尽な奴だ。

「あー、くそ! お前は卑怯だ。狡賢い狼野郎だ」

「そんなに俺が気に入らないなら、改めて決闘でもするか?」

「お前が勝つから嫌だ」

「何なんだ、一体。だからお前はヒヨコなんだ」

 俺は物理的にガタガタ煩いフィオに言った。

「うるせ」

「ヒヨコのままじゃ、いつまでも俺には勝てないぞ。せめて後二年、ここで訓練を受けたらどうだ? ヒヨコから軍鶏くらいにはなれるかもしれんぞ」

「いちいち嫌味な奴だな。煩せぇんだよ。わかった、一時休戦だ。どっちみち、ない知恵絞って考えたってろくな結論に至らないんだ。頭と口先じゃお前に勝てる気がしねぇ。だから、あの晩のことが解明するまでは、俺はお前と手を組むことにする」

「賢明な判断だ」

「相変わらず、偉そうだなお前」

「事実、俺は偉い。あの一件の主犯が誰だったのか、それについては俺に任せてくれてかまわない」

「信じられねェな」

「とはいえ、お前の言葉を信じるしかない。そうだろう?」

「......お前と口をきくのが嫌になりそうだ」

 そこで俺は、どうせ見えていないだろうが、お得意の完璧微笑を浮かべて言ったのだ。

「それでもお前は、俺と楽しくお話してくれたじゃないか」

 翌朝、朝礼前に我々はようやく解放され、その朝礼で臨時休暇の報せを受けた。フィオは大層驚いていたが、そういう気まぐれな命令をすることのある王子様がこの砦の主だ、と、俺は俺のために説明しておいた。休暇を出したのは単純、俺が今日一日いなくても不自然のないようにするためだ。元来、俺の立場はややこしくて理不尽だ。理不尽には理不尽で対処する。以上。

「和解の象徴というわけでもないが、ピヨに見せたいものがある」

「おい、お前。今さりげなく俺のことピヨって呼ばなかったか?」

「さあ? 聞き違いじゃないか?」

 どこへいくだの、お前に従う理由はないだの、フィオは逐一煩かったが、何だかんだ言って俺に追従するのだった。

「長い事、無断で借りたままだった。悪かったな」

 俺はフィオを、蜥に会わせた。風角には霊力でも宿っているのか、蜥は一目見るなり、フィオを認識した。俺には主人と、その忠実な僕が出会ったのだと、すぐにわかった。俺に散々噛みついた蜥も、相手がフィオだと恋に落ちた乙女のように従順で淑やかであった。

 素直に喜色を浮かべるフィオに、俺は言った。

「今ならまだ間に合うんじゃないか? 邑へ戻って、ススロとして生きることもできる」

 フィオは振り返り、俺は咄嗟に目を逸らしてしまった。

「じゃあ、逆に聞くぞ御曹司。お前は今から、あの夜以前の生活に戻りたいのか?」

 俺は、答えなかった。

「ありがとう」

 ふと、フィオが呟いた。

「俺の蜥を、ちゃんと守ってくれた。俺の邑を、お前はちゃんと、守ってくれた」

「礼は、言うな」

「俺だってお前に頭下げたかぁない。だけどなぁ!」

 フィオはやおら俺の胸倉を掴まえた。

「お前がいなかったら、イェナも、俺の家族も、皆殺されていたかもしれない」

 フィオのたった一つだけ残された右の目が、見る間に潤んだ。

「だから、ありがとうよ」

 フィオは俺を突き飛ばすと、くるりと踵を返した。それから、洟を啜りながら、手早く蜥の躰を触って状態を検分する。

 俺は瞬きを二回して、フィオの言葉を咀嚼した。正直、予想だにしない言葉であった。

「イェナはお前をすごく心配していた。あんまり会わせたくないけど、一生気にされているよりかはいい。お前のこと、皆は今でも仲間だと......家族だと、思っている」

 俺はその時、逃げ出そうとしていた。辛うじて逃げ出さなかったのは、逃げ込む先が咄嗟に思いつかなくて、実際の行動に移せなかったからに過ぎない。

「おい、どうした? なんで黙っている?」

「......いや、悪い。少し、驚いて」

「驚くほどのことでもないじゃないか。そうだ、一緒に邑に来いよ。皆お前の元気な顔みたいと思っているぞ」

 俺にとっては驚天動地、急転直下である。

「どんな顔して会えばいいんだ?」

 本当に困っていたので、俺は懇願する思いでフィオに訊ねた。一方、フィオは俺が真剣に悩んでいることそのものが理解できないと言った様子で、首を傾げた。

「普通でいいんじゃねぇか?」

「その『普通』がわからないから、訊いたんだ」

「別に片肘張ることねぇよ。皆、お前に会いたがっている。悔しいことにな」

「......行けない」

 実際、俺には厄介な仕事が待っている。

「いや、だから。別に誰もお前のこと、恨んじゃいないって。それおどころか、イェナなんてすっかりお前贔屓で、あっちこっちでお前のこと英雄みたいに言いふらしているせ。悔しいことにな。だから、余計な気を遣わずに、家族に会うような感じでいいと思う」

 なおさら、難しいことを言う。俺はほとほと困って、正直に「これから少し、実家に帰る」と打ち明けた。フィオはあんぐり口を開けた。

「今度は何だ?」

「いや、お前にも帰る家があったのかと思って......。いや、悪い。ただ、お前が休暇に実家に帰るなんて言い出すとは思ってなくて。でも俺はちょっと安心したぞ」

 今の会話のどこに安心する要素があったのか。むしろ殺伐とした不安要素しかなかったように思うのだが、フィオは今までで一番穏やかに目元を和ませて言った。

「お前、変わったな」

「外面に騙されているぞ」

「はは。違いねぇ。でもよ、なんつーか、最初の頃は本当、悪霊の類だと思ったくらいだったけど、今のお前は、ちゃんと人間っぽい」

 そうだとしたら、お前たちが人にしてくれたんだ。

 言えばよかったのに、こういう時だけ、俺の口は重くなる。

「ところでロボ、お前、どこの班にいたんだ? 全然見かけなかったが」

「当然だ。俺はまだ一般兵じゃない、見習だ」

「え、冗談か?」

「事実だ」

「お前、年下だったのか!」

 愕然とするフィオの顔を見て俺はふと、気になる。そんなに俺は老け顔なのだろうか。考え出すと、気になる。不意にフィオの手が伸びてきて、俺の眉間を指でぐりぐりし出した。不敬罪もいいところだ。

「お前、そんな顰め面しているから老けるんだ」

「なぬ」

「おまけに陰鬱だし。そんなに悩んでいると、禿るぞ」

 フィオが俺の背中を叩いてくるので、俺の眉間の皺はさらに深刻になった。

「いきなり兄貴風吹かせて、何のつもりだ? 人の目玉めがけて突匙振り下ろしたくせに」

「ロボ、お前、しつこいな」

「昨日の今日だぞ」

「昨日から今日にかけて、俺のお前に対する評価が変わったんだ」

「そういうのを翻意という」

「心変わりは世の常だ。悩みがあるなら、聞いてやるよ」

「では、頼もうかな。今現在、鬱陶しいのに絡まれて困っている。何とかしてくれ」

 年齢を暴露したのは失敗だった。フィオは今後、俺を弟のように扱うかもしれない。俺の行く末には色々な懸案事項が山積みである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ