たしかにクロユリの片鱗がありますね
1、 犬も歩けば人に紛れる
遠く、夜半の角笛が鳴っている。
月さえ出でぬ闇を走る。ただ、走る。
イェナという。
風に翻る夕景色の髪が僅かな星明りに耀いて、焔のようであった。
速く。もっと速く。速さを願うのは、もはや本能だった。馬を見ればそれよりも、燕を見ればそれよりも、速く、速く。
蜥という。
二本足で走るトカゲのような生き物だ。頭に角のような突起がある。風覚といって、人間の目や耳のように、ここで速度や距離を測っているらしい。
魚が水流を知るように、蜥は風を読む。
四足の生き物にはない特殊感覚で体の均衡を調整できるから、この生き物はすこぶる速い。おまけに足の指が鳥のように内側に握り込めるので、悪路も岩間も軽々跳ねていく。関節可動域も広く、見かけによらず柔軟な生き物だ。
しかし騎乗には向かない。背が水平でないので、立ち乗りしかできない。乗り手にも平衡感覚と速度感覚が求められる。
そんなややこしい蜥を乗りこなす民がある。ススロと呼ばれる流民たちだ。狩猟を糧とし、ムール山脈からガウカリア平野にかけて渡りゆく旅の民族である。
イェナはススロの民であった。おまけに、十五の娘であった。
珍しい緋色の髪と、翡翠の瞳。他にはちょっとみかけない組み合わせに、一見しただけでススロだと知れる。黒髪の多いこの土地で、火の色をした髪はよく目立つ。故に、ススロの民は歴史から爪弾きされてきた。ススロたちも、国とか、政治とか、領土とか、そういう臭いものには背を向けて、風のままに蜥とともに生きることを選んだ。
それではだめだ、とイェナは思う。
世界はめまぐるしく変遷していく。雲は一時として同じ形を留めない。風に流されるばかりではいつか散じて消えてしまう。
そんな焦りがある。
だからイェナは禁を破って、人の作った道を駆けさせた。
蜥は馬などよりよほど優駿であることを知らしめたかった。とはいえ、真昼に実行するほどの度胸はなくて、こうして夜中こっそり連れ出しては、石畳の道を走らせていた。
いつか馬と競わせてみたい、というのがイェナの密かな野望であった。そして圧勝し、蜥の素晴らしさを人々に見せつけてやりたい。
そんなことを企んでいる時のことであった。こんな夜更けに蹄の音を聞いたのは。
イェナは蜥ごと道を降りた。
ベルテ河の急流が永い時をかけて削った大地は、浅からぬ崖を作っていた。突出した岩に跳び、そこで蜥を停めて様子を伺う。
気持ちよく走っていたところを唐突に邪魔された蜥は、不機嫌に鼻を鳴らしていた。が、イェナはわくわくしていた。
来る。ずっと待っていたモノがやってくる。
直感的に、そう思った。
イェナは冷たい岩に背を預けながら、「マクマク」という神様のことを思い出していた。マクマクはどこにでも、誰にでも訪れる。神様というよりはモノノケの類に近いかもしれない。ある日突然、背後からものすごい勢いでやってきて、人の真横をすり抜ける。マクマクは絶対に一人でいるときにしか現れない。人生でたった一度だけ、ほんの一瞬、マクマクは現れる。すり抜けるその刹那、マクマクを捕まえられた人には、生涯幸運の風が舞い込むという。だけどマクマクはとても速くて、何の前触れもなくやってくるから、ほとんどの人は気付かないか、気付いたとしても後になってからで、悔しがる頃にはマクマクは地平の彼方へと去った後なのだという。
無論、本気で信じているわけではない。
だけど何となく、しかし確信的に、イェナは今近づいてきているものはマクマクに似たモノだと思った。だから、頭上を蹄の音が通過した瞬間、蜥ごと飛び出した。
この蜥ならば、マクマクにだって追いつける。そう思った。
これは挑戦だ。
一番早い者であるための、勝負なのだ。
ところが、そのマクマクはとても鈍間だった。瞬く間に追いついてしまい、何だ、と拍子抜けする。銃声が煩く鳴いていたし、追手が顔を黒布で覆っていたので、野盗に追われているのだと考えた。
出しかけた手を途中で引っ込めることもないので、イェナは逃亡者に加勢することにした。もう一人くらいなら、乗せて崖を降りられる。
走る馬に並走させてみて、イェナは乗り手が撃たれていることを知った。思ったよりも状況は芳しくない。おまけに大きな荷物を大事そうに抱えている。荷を捨てれば、それに気を取られて追手の足が止まるかもしれない。ところが、頑として手放そうとしない。こうなったら見捨てるか、無理をするかのどちらかだ。
見捨てなかったのは、けして善なる思いからではない。
イェナは試したかった。自慢の蜥がどこまでできるのかを。
そこで大した考えもなく、イェナはその人と、その人の抱える大きな荷物を、自分の懐に招き入れたのである。
重さが変わって、蜥の重心がぶれる。イェナは舌打ちした。こんな程度の変化には即座に対応できるようにしたい。思ったことが伝わったのか、蜥が「ぶふん」と鼻を鳴らした。
あ、とイェナは自分の失敗に臍を噛む。
この蜥は大変に鋭くイェナの胸の内を読む。読みすぎて、時々困る。貶したのがばれたようで、蜥はイェナの手綱を振り切って反転。
手綱を引く間もあらばこそ、蜥は跳ね上がると一際大きく迫り出した岩に跳び乗った。
すっと短く息を吸った、その瞬間。蜥は引き締まった後脚で岩を蹴り、もろとも宙に身を躍らせた。
束の間の浮遊。
イェナがその能力を見抜いて手塩にかけて育て上げた蜥だけあって、下降は実に見事なものだった。平地を駆けるような軽やかさで次々に岩棚を跳び下りていく。落下の衝撃などまるで感じさせない身軽さで岩棚を跳び降りると、恨み言のような唸りをあげているベルテ河の水面に飛び込んだ。
この蜥は水が好きみたいで、気に入らないことがあるとすぐに水に飛び込む。飲み水の桶だろうが雨上がりの川だろうが、お構いなしだ。イェナとしてはもう慣れっこなのだが、せっかく助けた相手に溺れられては寝覚めが悪い。流されないように首根っこをひっつかんで引き上げ、手綱を絡ませる。
荷は諦めよう、とイェナは沈みゆく布袋を見やった。
その時。
衝撃で、袋の紐が解けて、中から吐瀉物に塗れてひどい有様の、人の頭が覗いた。緩やかに真っ暗な河底に吸われて消えかける。
イェナは絶叫するかわりに大量の泡を吐いて、夢中で手を伸ばしてそれを引っ張った。
そういう、出会い方だった。
「ともあれ、死んじゃわなくてよかったね!」
イェナは毛布を被って震えている相手に、無理矢理に笑いかける。炉の火に照らされてもなお青白い顔で、その人は「礼を言う」と頭を下げた。
抑揚のない、石ころのような声だった。
手足を縛られて袋詰めにされた少年と、鉄砲で撃たれて流血の激しい怪我人と、一度に二つも「とんでもないもの」を拾ってしまい、イェナは困り果てて居幌[いえ]に逃げ帰った。寝ている父を叩き起こして、半べそかきながら寝床から引っ張り出して、それからは大騒ぎだった。叱られながら水を汲みながら蜥を囲いに入れながら、とにかく誰かれかまわず怒鳴られながら、ようやく腰を下ろして息を付いたところ、目の前に毛布にくるまった、墓石のような目をした男の子と目があった次第である。
連れ(どちらがどちらを連れているのかわからないけれど)の方は、かなりの深手で、肩に受けた弾が残っているらしい。幸い、骨は砕かなかったようだが。
「よかない!」
突然、怒鳴られて頭をひっぱたかれる。さっき散々説教くらったのに、まだ収まらないらしい。イェナはぶうたれて叩かれた頭の後ろを抑えた。
「この馬鹿たれ! あれほど蜥に石の道を踏ませるなと言ったのに、まだわからんか!」
「父さんが殴るから余計に馬鹿になったのよ!」
負けじとイェナは怒鳴り返し、舌を出す。
「人助けして何が悪い! あたしはね、野盗に襲われて危ないところを勇敢に――」
「何が人助けだ。どうせ駆けっこのついでだろう」
図星である以上、イェナは黙るしかない。ぐぬぬ、と渋い顔をした時、隣で毛布がふわりと動いた。
「お連れ様なら隣の幌で傷の手当しているよ。大丈夫。ばあちゃんの縫合は なみだから。顔はしわくちゃだけどね」
ほら、と、イェナは上衣を捲って背中を見せる。狼に噛まれてごっそり肉を持っていかれた。野の獣に負わされた傷は、その武勇伝とともにススロの民の誇りであった。ところが、相手は僅かに眉を顰めて「ひどい傷だな」と一言。
そういえば、余所者だったか。イェナは当たり前のことを思い出す。
「これだけの深手を負ったら普通、傷口が塞がらんと」
毛皮商人たちと直接やりとりする父は、黒髪たちのこういう反応にも慣れている様子だった。鷹揚と笑って、イェナの古傷をばんばん叩く。
「様子を見てくる」
「あ、待って!」
イェナは慌ててはためく毛布の端を引っ掴んだ。多分、今行ったら邑の女衆の総攻撃に遭うに違いない。
掴んだ拍子に、彼の肩から毛布がずり落ちて、背中の半分が露わになる。
今度はイェナがぎょっとする番だった。
彼の背には、爪で引掻いたような痕が幾重にも走っていた。
どうしたのか、と訊くより早く、彼が毛布を掛けなおす。その、あまりにも早い反応に、イェナは反ってかける言葉を見失った。
肩越しに振り返る、暗い瞳。さっき溺れかけた河の底のようだとイェナは思った。
「あれは俺の側付だ」
「ソバツキって? あ、いや、それはどうでもいいや。とにかく今は、多分、縫合しているだろうから行かないほうがいいよ」
「今後の方針を相談したい。傷の具合も、この目で確かめたい」
「だめだってば! 今、多分、上、脱いでるから!」
思わず足にしがみ付いて、イェナは「何か問題が?」と首を傾げる頑固な鈍感野郎を止めにかかる。
「おやまぁ。お前さんたちそういう関係か? その齢でやるねぇ。ちゃんと勃つのかぁ?」
父がやらしく頬をたるませるので、イェナはその脛と蹴っ飛ばしておく。父は大してこたえた様子もなく、へらへら笑って頭の後ろを掻いていた。
「冗談はともかく、心配するってこたぁ、少なくとも身内のようだな。いやぁ、最初は人攫いかと思ってよ。女の人攫いなんて珍しい......ん?」
父が途中で言葉を切ったので、イェナも顔を上げる。見ると、彼の石みたいな無表情が、実に、何と言うか、珍妙に歪んでいた。
「おんな?」
愕然、というのは、こんな顔のことを言うのだろう。彼はやたらとゆっくり瞬き一つしたかと思うと、そのまま額を抑えてしばらく固まった。イェナと父は顔を見合わせ、イェナは肩を竦めて首を横に振る。
やがて彼は、「そうか」と誰にもともなく呟くと、そっと戸布を捲って外へ出ていったので、イェナも後をついて行った。
「あの灯りのついているところか?」
何のことだろうかと束の間考え、連れの治療をしている幌のことを言っているのだとわかり、イェナは肯く。
「ススロの民か」
彼は余所者のくせに、自分の縄張りを点検する狼みたいに悠々と幌の間を進んでいく。途中、犬に吼えられて足を止めていたので、苦手なのかもしれない。
「ねぇ、どこいくの?」
「それをこれから考える」
変な奴だな、とイェナは唇を尖らせた。
「ねぇ、あんた、なんていうの? あたしイェナ」
「忘れた」
「はぁ?」
「頭を強か打って、記憶がない」
イェナは目を丸くして、慌てて先をゆく彼の前に回り込んで歩みを止めさせる。
「本当? それ、かなり大変だよ? わかっている?」
「覚えていないから、どれくらい大変だかよくわからない」
「......ごめん、こんな時、どうやって励ましたらいいのかわからないや。記憶を失くした人、はじめて見た」
「俺も、ススロの幌に入るのははじめてだ」
あ、とイェナは閃いた考えに思わず声を上げた。
「はじめてだってわかるってことは、全部忘れちゃったわけじゃないんだね! なら、きっとすぐに思い出すよ! 元気出して!」
「俺はこれでも、元気だよ」
そうは見えないけれど、本人が元気だというのなら、元気なのだろう。
「名前も憶えてないの?」
「忘れた」
「じゃあ、好きによんでいい?」
「許す」
「......君、何だかすごく、偉そうだね」
実際、偉いのかもしれない。状況が状況であっただけにろくに確認しなかったけれど、こいつも、連れの男装の女も、結構いい身なりだった。父がうっかり雑巾と間違えて濡れた彼を温めるために熾した火にくべてしまったので、もうわからない。あんなに立派な布を襤褸と間違える父の阿呆を嘆いたが、本人は全く気にしていない様子だった。もう一人の方は見事に血染めになっていたので、悪いが無断で一緒に燃してしまった。
「何てよぼうかなぁ」
イェナは満天の星空を見上げて、あれこれ思い浮かべる。色々な景色が脳裏を過っていったけれど、最後にくっきり像を結んだのは、彼の背中の無数の傷だった。
「ロボ」
口に出してみると、それがもとから彼の名であったように自然に耳に染みた。
イェナは満足して、にひ、と笑う。
「狼にやられたと言っていたな」
「そう。五年前にね」
「俺は狼か」
「嫌?」
「構わない」
「一応、誤解のないように言っておくけど、ロボは凄いやつだったんだよ。ガウカリア平野の王様だったんだから。過去にも未来にも、ロボほど立派な狼はいないって、邑の皆は言っている。あたしが留めを刺したんだよ。この背中の傷は、そのときに」
「本当に狼にやられたのか」
「何だと思ったのさ?」
「いや、先ほど、父君に叩かれていたようだから」
イェナはぽかんと首を傾げた。
「あんなの、毎日だよ」
「毎日、声を荒げたり、手を上げるのか。お前、よく生き延びられたな」
「あれ? ええっと......」
何だか噛み合わない会話に、イェナは困惑した。
ススロの邑はだいたい三家族から五家族、大きなところでは二十家族くらいで一つの共同体として渡り歩く。イェナが知る限り、自分の邑の父親たちは皆子どもが悪さをすれば怒るし、男も女も割とばんばん叩いて可愛がるので、普通のことだと思っていた。蜥がお互いに角突き合わせて絆を深めるのと同じだと思っていたのだが......。
「君、背中に凄い傷痕があったみたいだけど?」
「そうだったか?」
口ではそう言いながら、ロボはしっかりと毛布を掛け直す。
訊いてはいけないことなのだ、とイェナは理解したので、話題を変えることにした。
「ロボはあたしと刺し違える気だったみたいだけどね。残念、私はこうして生き残った。あたしがこうして元気にしているのは、ばあちゃんの縫合の腕がよかったからだよ。だからね、あんたの連れの傷も、無事回復するよ」
「気遣い、感謝する」
形ばかりのお礼を述べて、ロボが振り返った。
「決めた」
「何を?」
「俺はススロになろう」
「はぁ?」
「そういうわけだから、お前を手本にしたい。構わないな?」
「ちょっとちょっと、君、頭大丈夫? あ、大丈夫じゃなかったんだっけ。家に帰らなくていいの? あ、家もわからないんだっけ。あれ? どうしよう?」
「断る理由はないな? では、了承したものと見做す」
「......君、本当に偉そうだねぇ」
「ロボは王様だったのだろう? なら、俺は偉いんだ」
阿呆なだけなんだろうか、と、イェナはこの時、一見涼やかで聡明そうな顔をしている黒髪に黒い瞳の少年に、こめかみを引き攣らせた。
「とりあえず、君の着る服をなんとかしないとね」
イェナは毛布に包まってくしゃみをしたロボを見て、くすりと笑った。
■
イェナという少女は、賢くて善良だ。
そう判断した俺は、彼女をこの集団との連結点として利用することに決めた。
イェナは俺に服を用意するから待てと言い、俺はぼんやり、彼女を待った。
木を隠すには森の中という。ない知恵を振り絞って、人の群に紛れるのが最も生存確率が高いという考えのもとの判断だった。
それに、利があるのは俺だけではないはず。イェナの父親は、きっとわざと俺の制服を燃やした。夜戦訓練からそのままの出で立ちで拉致されたものだから、俺が軍属であることは誰にも一目瞭然であった。それを余人の目に触れないうちに隠滅したのにはわけがあるのだろう。ならば、むこうから要件を言い出すのを待つべきだ。
そう、待つしかない。俺には切れる札が一つもない。
さしあたって俺は幌の外でエランを待った。
と、その時。
「何をする? こら、やめないか! やめ......おい、よせ! わ、やめろ!」
突然、幌の中から聞こえた妙な悲鳴に、さしもの俺もぎょっと振り返る。エランの声であるから、まあ、元気そうで何よりだ。ついでに、女どものきゃいきゃい浮かれ騒ぐ声も響いている。
「やめろと言っているのが聞こえぬか! あっ......おい、ふざけるな!」
エランはブランカとほぼ同じ頃に、側近として俺にあてがわれた。ブランカを殺すなと進言したのも、エランであった。俺は今までエランについて、何か思惑があるのでは、と疑うことこそすれ、その他の情報を得ようとは思ってもみなかった。故に、これだけ近くに置いていたというのに、性別さえ気付けなかった。
まさか女だったとは。
言われてみれば、声が高かったかもしれない。線も細かった、ように思う。あくまで、女だという前提のもとで記憶を辿れば、という範疇だが。
「いい加減にしろ!」
幌の中で器の類がひっくり返る音が聞こえ、大して危機感のない悲鳴がいくらか重なり、笑い声も被さり、そして戸布を割って飛び出してくる人影。
「こんなものを着せおって!」
恨みがましく戸布の向うを睨むその人は、こうして見ると間違いなく女人であり、間違いなく、エランであった。蒼天を切り抜いたような青。裾には松明の灯りの中では金に光って見える、黄色の花の刺繍が施してある。鮮やかなススロの女物の衣装を着せられて動揺するエランは、どこからどうみても女であった。
拳を握ってわなわな震えていたエランが、ようやくこちらに気付いて振り向いた。
殿下、と開きかけた口を慌てて塞ぐ。
俺は軽く肩を竦めて、お座なりに「綺麗だ」と言ってやった。すると、エランはまず、真っ赤になり、次に真っ青になり、額に冷や汗を浮かべて硬直した。面白い。
「......ご無事で何よりです」
辛うじてといった様子で頭を下げるエランをまじまじ眺めて、俺は言った。
「お前は無事ではないようだな」
「かすり傷にございます」
「その恰好のことを言っている」
「これはッ、その、彼女らが勝手に......」
「いい、構わん。そのままでいろ」
とうとう震えだしたエランの肩に手を置き、彼――いや、彼女にだけ聞こえるよう声を潜める。
「城内に知るものはいない。そうだな?」
エランは無言を以って返答する。
「なら、このまま女に戻っていろ。その方が好都合だ。ススロに紛れていれば、発覚も遅れる。時間は稼いだぞ。俺にできることは、これくらいだ」
エランはじっと探るような目をしたあと、不意に、視線を落とした。
「なにゆえ......」
「俺がお前の企てに協力的な理由は単純だ。そのほうが、生存確率が高いからだ。お前から逃れたところで、俺は帰り道さえわからない。よいか、エラン。目的を果たすまでは、しっかり俺を守れ。ブランカを殺した者が本当に殺したかったのは、俺だ」
予定外のことが起きたのだ。エランにとってブランカ殺しは全く計画になかった事故であり、反面、思いがけぬ抜け穴となって堅牢な王城の守りからまんまと俺を盗み出すことに成功した。一方、犬を惨殺することで俺を罠に嵌めようとした者たちにとっては横から獲物を掻っ攫われたことになる。正体不明の暗殺者とエランでは、どちらに身を預けるべきか、いくらボンクラな俺でもわかる。
エランが誰の手先であれ、俺はその人物に会わねばならない。まずはそこを突破しないことには破滅あるのみだ。
「なにゆえ、わけを訊ねないのですか?」
「お前が女を隠して俺に近づいた理由など、知ってどうする? それとも拉致なんて馬鹿げた計画を実行したことか?」
「それもですが、貴方様はブランカを大変に可愛がっておられました。何故あんなふうに殺されなければならなかったのか、知りたくはないのですか?」
エランの言葉に、俺は思わず笑った。
「愚問だな。それは、俺の犬だったからだ」
そんな当たり前のことが、どうしてこいつにはわからないのか。俺にはむしろそのほうが謎である。大人しく飼われているしか、俺には生きる道がない。どんなに痛くても、苦しくても、たとえば殺されたとしても、それは仕方のないことなのだ。
何故なら、俺は父王に忌避されているから。
「エランよ、俺はススロになる」
「今、何と?」
「聞こえた通りだ。それから、俺は河に落ちた時に頭の打ち所が悪くて記憶がない」
「それは、まことにございますか?」
「嘘だ」
「お戯れを」
「戯れて悪いか?」
「......いいえ」
「本当に記憶がなくなっていればいいと思っている」
「殿下」
「それはここでは禁句だ。俺を助けたという娘に、たった今、ロボという名を貰った。結構、気に入っている」
「狼[ロボ]とはまた、皮肉な名をくれたものです」
苦笑するエランに、俺は言った。
「好きにさせてもらう。もう『ぼんやり』している必要もない。そうだな?」
「はい」
「俺はあの二本足の蜥に興味がある。何でも俺とお前と、騎手、女子供とはいえ三人乗せて崖を飛び降りたそうじゃないか。面白い生き物だ」
「蜥というのだそうですよ」
「エラン」
俺は自分の手を見つめる。小さな子どもの手であった。
この手はまだブランカの温度を覚えている。思い出になるにはまだ早すぎるのに、もう二度と触れることはかなわない。その事実だけが、ぽっかりと掌に残っているようだった。
「これが『自由』か」
口に出すと、思っていた以上に心の浮くような心地がした。だけどそれは、空の青さに鳥影が吸われて消えるのに似た、ひどく不安定な軽やかさであった。
俺はいつになく饒舌で、エランはいつにもまして優しかった。
■
ロボは変な奴だった。
イェナは、不用心に蜥に近づいていていっては思い切り警戒されて噛みつかれそうになっている少年を、まじまじ観察していた。
記憶がないという。ススロになりたいという。
加えて、何を考えているか全く読めない無表情。一日中雲を眺めていそうな勢いだ。
頭を打ったせいなのかは知らないが、何だかぼうっとした奴で、全体的に水で薄めたように茫洋とした印象だった。
おまけに、何一つ自分ではできなかった。
着替えを持ってきたら、小さい子どもみたいに両手を広げて突っ立っているので何事かと目を丸くした。これも頭を打ったせいかもしれないと思い、着方を教えてやった。とりあえず掃除くらいはできるだろうと雑巾を渡したら、これもできない。イェナは「雑巾のなんたるか」から教えなければならなかった。本当に全部、頭を打ったせいだろうか?
ススロの子どもたちは、乳離れしたらそれぞれに「仕事」が与えられる。どんなに非力で不器用で阿呆であっても、できないことはない。しかしロボに限ってはそうはいかなかった。掃除も薪割りもできなければ、洗い物も水汲みもできない。
そんなぼんくら、拾ってきた場所に捨ててきなさい、と母は怒鳴った。
「ちゃんと面倒みるから! お願い、うちにおいて!」
イェナは半べそかきながら母に追いすがり、父は父で「ああ」とか「うう」とか、曖昧に肯くばかり。当のロボは時たま瞬きすくらいで、黙ってひたすら動かない。
自分から行動する、という、根本的な意志が欠落しているようでさえあった。
「わかった、これでどう? ロボの命を助けたのは私。だから、私にはロボの運命をどうにかすることができるし、最後まで付き合う責任がある。私がロボを一人前のススロにするから。これで文句ないでしょう?」
破れかぶれで、そんなことを言ってしまった。
「アンタ、自分も半人前のくせに! そういうご立派な台詞はね、立派な旦那様見つけて、立派な子を産んでからおっしゃい、このゴクツブシ」
イェナは「うぐ」と呻いて黙ってしまった。イェナは十四。同い年で姉妹同然に育った他の娘たちは皆よその邑に嫁に行くか、あるいは婿を貰っている。妹分だと思ってかわいがってきた娘さえ、今年の春に嫁に出た。まだ十四だった。
ロボを見やると、茫洋とした瞳があるだけだった。その墓石みたいな黒い目玉に、炉の灯の赤が映っている。殻を割ったばかりの蜥だって、もうすこし敏い目をしているものだ。
「まあ、母さんや。よいではないか。はねっかえりのイェナとは、相性がいいかもしれん」
夫にするにはあまりに頼りないので遠慮したいところだが、イェナはせっかく父が出した助け舟に乗っかることにした。
「そうだよ! それに、連れの女の人のほうはかなり優秀だよ。美人だし」
これには母も黙らざるを得ない。エランという名のその女性は、涼やかでありながら華のある、何と言うか、つい娘たちがぽうっとなるような、かなり魅力的な人だった。事情を知らない邑の娘たちが上せ顔でイェナに紹介しろと迫って、実は困っている。ロボとは正反対で、蜥のこと以外は全て、針仕事から力仕事まで誰よりも器用にこなした。おまけに文字が読めて数字に強く、異邦の言葉も使いこなす。
惚れ惚れするような、という言葉がぴったり似あう。
エランで二人分の仕事量として換算して、ようやくロボはイェナの幌に落ち着いた次第である。そんなわけだから、イェナの当面の仕事は、無能力のロボをせめて「半人前」まで育てることだった。
これは大変なことを引き受けてしまった、と、後悔しなかったと言えば嘘になる。
しかし、ひと晩過ぎて、一日つきっきりで面倒を見ているうちに、イェナのロボに対する評価は変わった。
ロボは、その実とても頭がいい、のかもしれない。
最初にそう思ったのは、蜥の頭にかける面懸[おもがい]という縄の結び方を教えた時だった。イェナは何度も何度も失敗を繰り返して覚えたのに、ロボは一度見ただけで結び方を習得してしまった。一度教えた仕事は忘れないし、最初は不器用だと思っていたけれど、気付けば女子に混じって刺繍をしていた。
ロボの良いところは、何でも嫌とは言わないところだ。
多少潔癖なところがあって、けして地べたに座らなかったり、他人の食器を使わなかったり、すぐに手を洗いに行ったりするけれど、蜥の糞の始末から雑巾搾りまで、言われれば何でもやった。そういうところは皆ちゃんと見ているもので、邑の皆はロボを邪険にしたりはしなかった。一方、エランはことあるごとにぎょっとしたように目を剥いて手を出しかけ、ロボに睨まれて退散し、少し離れたところから様子を伺っており、小母さん連中に「子離れしなさいな」とからわかれ、顔を真っ赤にしていた。
お母さんにしては、エランは若すぎる。おまけに容姿端麗であるから、どうしても「お姉さん」に見えてしまう。この二人もよくわからない関係だった。姉弟だとしてもエランはロボに大分遠慮しているし、家族ではないのだろう。イェナはロボの家族を想像しようとして、全く思い描けなかった。
とにかく、ロボは不思議な少年だった。
奇天烈な出会い方だったせいか、イェナはどうにもこの毛色の違う新しい仲間が気がかりで仕方なく、手があくとついつい、ロボの様子を見に行ってしまう。何か困っていないか、どこかでうっかり倒れていないか、性質の悪いのに絡まれていないか......。きっとエランも似た心境なのだろう。
イェナやエランの心配などどこ吹く風、砂に雨の浸みるように、ロボはススロの技術を吸収していった。
覚えたのは、仕事だけではない。
白紙のようだった顔に、表情が出てきた。ぎこちなかった言葉遣いも、記憶が戻ってきたのか、馴染んできた。三日経つ頃には、まるっきり普通の男の子になっていた。
ただ、相変わらず墓石のような暗い目をしているのが、イェナはどうにも気になった。彼の背中の異様な傷が、どうにも瞼から離れなかった。
相も変わらず蜥に噛まれそうになりながら砂掻きをしているロボを見ていて、ふと、イェナは思いついた。
「ロボは蜥を嫌がらないね。気味悪くないの?」
くるりと、黒石の瞳がこちらを向いた。
「何でそんなふうに思う必要が?」
「だって、土地人はみんな不気味だって言うから」
イェナたちススロは、定住して畑を耕して暮らす人々を「土地人」と呼ぶ。それに対して、イェナたちは彼らに流民と呼ばれる。どちらも侮蔑の意味がある。
「面白い生き物だと思っている。機動力......ええっと、イェナには運動神経がいいと言えばよいか? 馬にはできないことも可能だ」
それを聞いて、イェナは嬉しくなった。
「でしょう! 馬より速いよ!」
「そうだな。とくに平衡感覚に優れている。この角、風覚というんだったか?」
ロボは蜥の額に触れかけて、噛みつかれそうになって慌てて手を引っ込める。本人は蜥に嫌われていると思っているらしいが、イェナから見れば、かなり好かれている様子だった。ああして口に含みたがるのは本能で、それをロボがそつなく回避するのを確かめて、蜥のほうでもロボの身体能力を図っている。つまり、この人間とはどこまで遊べるか、というのを蜥が試しているのだ。
イェナはそんなロボがかわいくて仕方ないので、結構な時間、見つめていた。
ススロではないロボならば、わかってくれるかもしれない。
ふと、そんな思いに駆られた。
「私ね、夢があるの」
イェナは蜥の鼻面を撫でながら、ここではない、どこか遠いところを見つめた。
「蜥を軍馬にしたいの」
イェナは、自分が見つめている景色が蜃気楼よりも儚いことを知っている。そこに至る道のりは見えなくて、ぼんやり、きらきらしているだけの景色だった。そしてそれはイェナにしか見えていなくて、目指すにはあまりに曖昧な幻にすぎない。そう思っていた。
だけど。
「悪くないな」
ロボは平然と、そう言った。
「ただ、既存の騎馬隊に編成するには持久力に劣る。大軍にも向かない。斥候や奇襲に特化した亜種機動部隊として活用したいところだ。最大の問題は、誰にでも乗りこなせるわけじゃないという点か。人間の方の訓練に時間がかかる......どうした?」
イェナはぽかんと、口を開けて聞いていた。ロボの言葉の半分以上は意味不明だったけれど、ロボが自分の話を真に受けたこと自体が驚きだ、
「軍馬だよ?」
イェナは思わず確認してしまった。だって皆、冗談だと思って笑ったから。
「俺は、笑えばいいのか?」
「え? いや、ええっと」
「冗談なら、そんな真顔で言わないでくれ。人並みの冗談でも俺には難しかったりする。蜥は馬じゃないってところが、笑いどころか?」
盛大に眉間に皺を寄せられて、イェナはぶんぶん首を横に振った。
「私は真剣だよ。本気で、蜥を軍馬にしたい」
「理由は?」
言われて、イェナは少し困った。大概、理由を訊かれるより前に笑われて終わるからだ。
「うーん。そうやって改めて言われると......恰好いい、から?」
「俺に疑問形で問いかけられても、答えられない」
ロボの言う通り、答えはイェナしか知らない。イェナはあるかもわからない答えをさがして、虚空に視線を彷徨わせた。
「もうせんに、軍隊の行進を見たんだ。怖かったけど、でも、すごいなって思った。馬も人もぴったり揃っていて、一つの大きな生き物みたいだった。それだけでも、とても強いのがわかったよ。有能な狼の群は、毛の一本まで統率されている。絆も深いけれど、規律も厳しい。個にして全、全にして個。だから強い。強いものは、美しい。軍馬の行進は綺麗だった。私は、すごいなって思うと同時に、悔しかった」
「悔しい? 何故?」
「だって蜥の方が速いもの。蜥だって軍馬になれば、きっと皆に格好いいって思ってもらえる。気味悪がられて、土地人に石を投げられることもなくなるかなって」
気付くと、ロボがじっとこちらを見つめていた。
「認めさせたい、ということか?」
「よくわからないけど、多分、そういうことなんじゃないかな」
「それが本当に良いのかどうか、俺には判断できない」
俯いたロボの横顔。前髪に隠れてその表情は窺えない。
「認められることが良いのか、悪いのか、わからなくなった」
「皆がすごいって言ってくれるなら、それって良い事に決まっている。蜥が褒められれば、私も気分がいいもの。注目されたら、誰だって嬉しいでしょ?」
「見つからないほうが幸せなこともある」
イェナの思考の糸が、ピンと震えた。
ロボの記憶は戻っている。いや、最初から、失くしてなどいなかったのかもしれない。
だけどそれを言及するつもりはない。イェナはロボがこのままススロになることを、いつの間にか望んでいた。
「何かあったんだね?」
記憶喪失だと言い張る相手に過去を訊ねることで、イェナは間接的に確認をしたのだ。やはりロボはぼんくらだけれども馬鹿ではなかった。
「犬を飼っていたんだ。立派な猟犬だったけれど、俺が阿呆だったために早死した」
「どうして?」
「他の猟犬より優れていてはいけなかったんだ」
「だから、どうしてさ?」
「俺の犬だからだよ」
「わけわかんない」
「そうか? 俺にはとてもわかりやすいんだが」
「わかるからこそ、わけわからないって言っているの」
イェナは胸やけのする思いだった。
「それ、私たちは『抜けた蜥の鼻を叩く』って言う。能力のある奴に嫉妬して足ひっぱったり、誰かが先に行くのが許せなくて邪魔する奴がいる。そういう時に使うんだ」
何となく、ロボがどんな人生を歩んできたのかわかった気がする。幸せではなかったのだろう。少なくとも、記憶喪失を装って過去を消し去りたいと願う程度には。
「だけどね、それってアンタが悪いんじゃなくて、相手が悪いよ」
その刹那。
ロボの顔が歪んだ。ひやりと胸の奥の凍えるような顔。笑ったのだと気付くのに一瞬遅れるほど、陰鬱な微笑だった。
「間違えたのは、俺だ」
イェナは黙ってしまった。
かわいそうだと、思ってしまった。
彼の何を知るでもないけれど、きっとこのままではロボは「かわいそう」なままだと思った。何とかしたいと願い、どうしていいのかもわからず、イェナは得も言われぬ無力感に苛まされた。イェナにできることと言えば、蜥に乗ることくらいで......
「あのさ、蜥に乗ってみない?」
気付けばうっかり、口走っていた。
「乗り方を知らない」
しかし、ロボはまんざら嫌そうでもなく、むしろ身を乗り出した。
「一緒に乗ろうよ。私が背側で手綱を取るから。誰だって最初はそうやって上手い人に同乗してもらって、体で覚えていくものだよ。恥ずかしいことじゃない」
ロボは少し考えるように視線を外して、ぼんやり肯いた。
「そうか。では、頼もうかな」
「任せて!」
イェナは満面の笑みで、胸を叩いた。
■
ススロたちは「清浄」という言葉を、速度を表わすのに使う。なるほど、こうして駆けていると、こびりついた泥が乾いて剥がれ落ちていくようだった。
速く、速く、さらに、先へ。
自我が解けて絡まる風に融けていくような、そんな錯覚。
この速さは忘れられそうにない。
俺は一目見た時から、蜥という生き物に是非とも乗ってみたいと考えていたのだが、こんなに早急に機会が訪れるとは思っていなかった。
蜥は跨るだけでも難しかった。洗練された馬具に慣れた俺の目には、蜥のそれは、鞍というより足を引っかける革紐が巻きついているだけに見えた。重心を支えるものはなく、自身の筋力と平衡感覚だけで体勢を保たねばならない仕組だ。
原始的で極限まで簡略化された騎具に、見よう見まねで乗りかかり、見事に転落。イェナは腹を抱えて笑い転げ、俺は躍起になって挑戦を繰り返した。イェナが連れてきたのは大人しくて気立てのよい、年寄の雌だったので、俺が何度しくじってもじっと辛抱強く待ってくれた。
最終的に、俺は半ばよじ登るようにして何とか背に跨るには至ったが、馬とは骨格の構造からして違うので、坐ることができない。上手く体勢を保てずに猿のように蜥の首にしがみ付き、これにはさしもの老練な牝蜥様にも嫌がられた。俺の無様を散々笑っていたイェナだったが、さすがに見かねたか、ひらりと俺の後ろに乗り込み、体を密着させる。
「始めてにしては乗れただけでも上出来」
などと役に立たない慰めを口にしてイェナは俺の背中に覆いかぶさる。そうしなければ乗っていることさえ難しいので、致し方あるまい。手取り足取り腰取り、イェナの丁寧な指導が入ったが、こちらは落ちないだけで精一杯で雑念を抱く余裕もない。
「ほら腰上げて。蜥の上で四つん這いになる感じ。そうそう。じゃあ、ちょっと走らすよ? 動き出したら、背中側に重心を移して。いくよ? せーの!」
体高は馬と変わらないので、高さに対する違和感はない。すでに馬術の心得のある俺を、イェナは「筋が良い」と言って褒めた。そこはかとなく、屈辱的である。
しばらく徐行させながら、イェナが耳元で言った。
「こいつは私の蜥のお母さんなんだ」
ススロの子どもは自分の誕生日に一番近い日に殻を破った蜥を、生涯の伴[とも]と定めて一緒に育つ。その絆は、ときに親きょうだいよりも深い。
曰く、イェナの蜥は若くて血気盛んなので、初心者には敷居が高すぎるそうだ。
自分の蜥、という言葉に、俺は性懲りもなく憧れた。ブランカの教訓を忘れたわけではないが、それでもやはり、欲しいものは欲しいのだ。
俺は「自分のもの」がほしい。この命も、意志さえも、俺のものじゃない気がしてならない。この世界に対して、俺の存在全て、仮初なような気がしてならないのだ。
イェナたちを見ていて、ススロになりきろうと、彼女たちを粒さに模倣するうちに、その思いは一層、明瞭になってきている。
少し慣れてきた頃、俺は調子に乗って「なんだ、馬と変わらないじゃないか」と、イェナの逆鱗に触れてしまった。
「アンタがぷるぷる震えているから、減速させているんだってば!」
俺もつい「そんな気遣いは無用だ」と言ってしまった。
無論、失言であった。しかし、撤回する間もあらばこそ、イェナは「ああ、そう!」と鼻息も荒く憤り、加速しようとする蜥を宥めに宥めて引き続けていた手綱を緩めた。
「泣いても降ろしてあげないから!」
蜥の頭が沈んで、重心が前へと傾く。自ずと前かがみに丸まった俺の背中を肘で押さえつけて、イェナが蜥の腹帯を締めた。途端。
それまでいかにこの蜥が俺を慮って慎重に駆けていたのか、思い知る。初めて知る蜥の本気に、俺は泣いて詫びる暇さえなかった。
が、恐怖したのもはじめのうちだけで、速度に体が慣れると、過ぎゆく景色に目を留める余裕も生まれてきた。あるいは、あまりの速力に常識の箍が外れてしまったのかもしれない。耳元で唸る風に紛れて、イェナの声を拾った。
「どうよ!」
イェナの声は誇らしげに甲高かった。そこには迷いの欠片も無くて、そう、かつて白い猟犬を呼んだ口笛によく似ていた。
「いい。実に素晴らしい」
俺は思ったままを口にした。
日没の荒野。斜光を受けた雲が淡く金色に反射して、それを風がぐんぐん押し流していく。煌々と、空は赤に、緋に、朱に耀く。
イェナの髪は夕景の空と同じ色に翻る。新緑の瞳は、円く世界を映していた。
風よりなお速くあらんと欲する、少女がいる。
綺麗だ、と思った。
そのことに俺は、少なからず驚いた。
「綺麗だ」
気付けば、考えるより早く言葉が口から飛び出した。
「本当、すごい夕焼け! 明日はきっといい天気になるね!」
イェナはすっかり機嫌を直して、俺の背中できゃらきゃら笑っていた。
過ぎゆく景色を、綺麗だと思った。
人を、美しいと思った。
極限の速さと限界の光の最中、俺は、生まれて初めて「楽しい」という感覚を知った。
ちなみに、たっぷり遊んで戻った俺とイェナを、エランと親父殿が険しい顔をして待っていたのは、言うまでもない。
無断で蜥に騎具を装着してはいけないのだと、今頃になってイェナが言った。そういうことは予め教えてもらわないと困るが、こうなってはもはや言い逃れもできまい。
そこで我々は清く正しく潔く、自らの過ちを認めて頭を下げた次第である。
「この、大馬鹿者! 飯抜きだからな!」
イェナが頭を叩かれていたので、俺も叩かれて然るべきだ、とエラン言ったら、ひどく困った顔をしていた。最終的にエランは俺を叩くかわりに、「お話があります」と、居幌[いえ]の裏へと俺を連れて行った。
「あまり申し上げたくはないのですが」
エランは王城の側付の顔に戻ると、声を潜めた。
「自重なさいませ。ここは、貴方様の生きる世界ではありません」
「承知しているつもりだ。お前のその傷が塞がったら、離脱する予定だ」
言われるまでもない。だが、俺にも思うところはある。
「しかし、エランよ。お前は俺をどこへ連れて行くつもりなんだ?」
返答はなかった。
「無理に聞き出すつもりはないが、お前が腹を明かさなければ、俺はこのままどんどんウススロになっていくだけだ」
「貴方様は、それでよいのですか?」
「流れに逆らう理由がない。俺には野心もないからな」
そう。俺には何もない。
ぼんやり、空っぽ。
不意に、エランが俺の手に触れた。城内ではけして許されない行為であるが、俺がそうであるように、エランもススロに紛れて箍が緩んでいたのかもしれない。
俺は反射的に手を引いた。
体が勝手に反応したのだ。何かを考えた上での行為ではなかったのだが、一瞬、エランの表情が強張った。エランもまた、驚いたように目を瞬いた。おそらくは彼女もまた、無意識の行為だったのだろう。
「失礼いたしました」
「いや、いい」
俺はエランの左手に手を伸ばして、指先を捕まえる。不思議な感じがした。エランとは四六時中行動を共にしてきたはずなのに、こうして触れるのははじめてのことだった。
ここ三日、俺の身の回りは「はじめて」づくしだ。
彼女の左の中指に、黒い石の指輪がはまっていることにも、はじめて気がついた。中指というのは、微妙な位置だな、と思った。薬指なら愛の徴、小指なら祈願成就、親指なら忠誠、人差し指は......たしかこれにも意味があったはず。ただ、中指だけ何の意味もない。強いて上げるならば「挑発」か。
俺は何とはなしに、拾ったエランの掌に自分の手をあてがい、五指を絡ませる。
「信じられないかもしれないが、俺はお前に、生きていてほしい」
我ながら驚くほど素直に、心のままに言葉が出てきた。俺はこんなふうに考えていたのか、とさえ思った。
ぼんやりしすぎたせいで、俺は俺のことさえわからなくなっていた。わからなくなっていることにさえ、今更自覚した。
人に紛れ、人に交わり、俺は、そういえば俺も人だったことを思い出している。
鳶色の瞳が大きく見開かれていくのをしっかり見届けて、俺は彼女に言った。
「俺は、間違っているか?」
俺の問いに、エランはついに答えなかった。その代わりに、鳶色の瞳がぼろぼろと涙がこぼれて、扱けた頬を伝い落ちていった。彼女が流した涙の意味が、俺にはわからない。イェナならば......人並みの心の持ち主ならば、わかるのだろうか。そんなことを考えた。
エランは自分が泣いていることに気付いて、水を引っかけられた猫よろしく飛び上がって逃げてしまった。
俺は憮然と、顔を顰めた。これでは次に会う時に気まずいではないか。
エランを探して首を回らすと、円形に並ぶ幌群の中心で、熾[ひ]が弾けるのが見えた。
大人たちが何かを話し合っているが、雰囲気は深刻ではなさそうだ。そろそろ移動しようか、と、誰かが話していたのを耳が拾った。
抜けるなら、移動の時がいい。むしろそれしかない。わかってはいるのだが、どうしたことか、俺の頭はこんな時に限って余計な事を考えはじめた。何とかしてここに残る方法はないかと、結果のわかりきったことをしきりに考える。阿呆め、と、俺は分裂する思考の片方を罵る。俺がこの集団に居ることは、害にしかならない。自分が何に追われているのかを思い出し、俺は一瞬過ったブランカの死に様にぞっと身震いして、そこで考えるのをやめた。いつも通り、ぼんやりしていよう。そうしよう。
ところが、王城にいた頃には難なく全ての思考を閉じることができたのに、ここではそれが難しい。熾の弾ける音や、人の話す声、つんと鼻を刺す蜥の匂い。そういう雑多な情報があまりに多くて、集中できない。
心なしか、頭が鈍く疼いているような気がする。俺は額を抑えて、踵を返した。
と、誰かにぶつかった。
すまない、と謝ろうとしたのだ。よそ見していたのは俺だから。
しかし、相手は有無を言わさず俺を突き飛ばした。見ると、イェナと同じくらいの年ごろ――つまりは俺と似通った年齢層の男子が五人、こちらを睨み下げている。
「おい、お前」
背の高い、面長の奴が口を開いた。
「イェナと二人乗りしたって、本当か?」
俺はぽかんと首を傾げた。事実だ、と告げると、俄かに彼らがざわめいた。いや、色めきたったというべきか? とかく始めて見る表情だ。だた、その根底にある感情にはなじみ深い。「嘲笑」というやつだ。
城の囲いの中にも外にも、こういうことは存在する。その事実に俺は少なからずがっかりした。思えば彼らも人間で、そう、どこに行ったって人間はいるものだ。
何やら頬をたるませている連中がほとんどだが、一人、顔を真っ赤にして怒気も露わに肩をいからせる奴がいた。最初に口を開いた馬面だ。
「おい、立てよ」
立てと言うなら、そうするまで。俺は言われたままにしたのだが、相手の機嫌はますます悪くなっていた。不用心に俺の間合いに踏み込むや、乱暴に胸倉を掴み上げる。
「イェナが庇うから今まで黙っていたが、もう我慢ならん。調子乗ってんじゃねぇぞ、余所者が」
俺は黙って彼の言葉を聞いた。言っていることに間違いはないのだが、どうも釈然としない。そこまで怒り狂うほどのことだろうか。
彼は拳を握り込み、振り上げた。が、それを俺の顔面に叩きつける直前で動きを止めて、怖い目をして声を落とした。
「正直に答えろ。返答次第では、泣かす」
ひょっとして俺は、脅されているのだろうか。正体がばれたのか、と、俺は俄かに焦った。が、そうだとしても、こんな素人を寄越すのはいかがなものか。俺は反撃していいものかとても迷っていた。
「お前、イェナのことが好きなのか」
「............は?」
あまりのことに、一瞬、全思考が漂白された。きっと今の俺はひどく間抜けた顔をしていたに違いない。そしてその間抜けが、相手の癇に障ったようだ。奴は今一度俺を突き飛ばして転ばすと、俺の上に馬乗りになった。
夜闇の中で、彼の瞳がやたらと炯々と光って見えた。
「好きでもないのに、同乗したのか!」
振り下ろされた拳が頬を直撃する寸前、俺は掌で止めた。どうやら、俺は弱者に見られていたらいし。攻撃を阻止させて、馬面がぎょっと目を剥いて動きを止めた。
「言っていることがわからない。確かに後ろに乗って手綱を取って貰ったが、何か問題が?」
すると、彼の後ろで様子を見守っていた取り巻きたちが一斉に囃しだしたので、俺はようやく、これが色恋沙汰であることに気付いたのだ。
「自分の蜥に他人を乗せるってのはなぁ」
地の底に隷属された魔物もかくや、彼は怨みの籠った目で俺を睨む。
「好き合っている恋人同士のすることだ!」
ぶわ、と。馬面の目から大粒の涙が零れ落ちた。今宵はよくよく人を泣かすものだ、なんて考えている場合ではない。馬面は目元を拭うと、一層凶暴な顔をして拳を振り上げた。
「とりあえず、殴らせろ!」
そんな無茶な、と俺は彼の二度目の攻撃を受け流す。
関節の使い方も心得ない、粗暴な拳だった。下手すぎる拳撃に、むしろそっちの筋が痛むのではないか、と余計な心配をしてみる。取りあえず、このまま相手に有利な位置を取らせてまま殴らせておくのも拙いので、俺は奴の頭を捕まえて、頭突きを見舞った。よろけたところを押し退けて、間合いを取る。
悶絶してのたうちまわる馬面を見下ろし、その取り巻きに目をやると、一人と目が合ってしまった。俺が悪いのか、向うが阿呆なのか、退けばいいものを、こちらに向かってきた。向かってくるものは仕方ないので、俺は殴られるふりをして上体を捻って紙一重で躱す。空ぶって大きく前へ泳いだ背中に、肘打ちを入れた。体術訓練ならこの後追い打ちで鳩尾に一撃入れ、地面に伏せさせて後ろ手に抑え込むところだが、あまりに技術に差が在りすぎて組手にもならない。
圧倒的な力の差を感じて引いてくれないな、などと暢気なことを期待していた時。
「こンの野郎!」
復活した馬面に後ろから羽交締めにされて、己の慢心に臍を噛んだ。体格差と数で相手のほうが圧倒的に有利である。一対五ではどれだけ俺が技術に優れていても不利になる。寄って集って攻撃されては堪ったものじゃないので、こうなった以上、できる限り一対一になるようにもっていくしかない。
なので、俺はまず、考えなしに跳びかかってきた一人を蹴り倒し、馬面の柔な拘束を抜け、足払いを仕掛ける。奴は膝をついたが、倒れはしなかった。
「やるじゃねぇか!」
馬面が吼えた。
「いいぜ、そうこなくっちゃつまらねぇもんな! 徹底的にぶっ潰してやる! 俺はお前の事が、最初に見たときから気に入らなかったんだ!」
「そうか」
気に入らないので殴る、というのはあまりに単純である。しかし、悪い気はしなかった。むしろこれだけ明瞭に敵意を剥き出しに向かってこられると、いっそ清々しい。
「ロボ、敗けんなー!」
不意にイェナの声が聞こえたので振り返り、俺は唖然とした。どこにイェナがいるのかわからない程度には、人の垣根ができていた。見世物じゃない、と言いかけたが、訓練でもなければ決闘でもないので、見世物であることを否定できない。
そもそも何でこんなことになっているんだ、と、イェナを探しているうちに、エランを見つけた。どこにでも駆けつける奴だが、いつだって事が起きてからやってくる。
エランは渋い顔をしていたが、本当に拙ければ止めにくるはずなので、無視する。
「おい、どうした! こいよ、腑抜け野郎!」
腑抜けとは、これまた俺にぴったりな罵倒を。だいたい、こいと言われていく馬鹿があるか。俺が腑抜けなら、お前は......
「ヒヨコ野郎」
口をついて出てきた罵倒文句に、誰よりも俺自身が驚いた。
「数を集めないと、不安か? この臆病者ども」
何を言っているか、俺は。
「それも、集まっただけで何の算段もない。お前らみたいのを『烏合の衆』っていうんだ。中でも、取り巻きに守られててっぺん気取って声ばかりでかいお前は、鶏みたいだな」
「ンだとォ」
ごう、と昇る蒸気の見えそうなほど怒り狂った相手の形相に、内心、俺は非常に焦っていた。思ってもない事、というわけでもないのだが、言う必要のないことを口にして悪戯に挑発しても、俺の利になることは何もない。
「その賺したところが、気に入らねぇんだよ! 自分だけ特別だ、みたいな顔しやがって」
何たってこんなことになっているんだ、冗談じゃない。俺は困り果てて再び観衆を振り返る。いつの間にか陣の先頭に出てきていたイェナが、こともあろうか、満面の笑顔で俺に手を振った。
「がんばれー、私はロボを応援しているよー」
「くあぁっ!」
馬面が奇声を上げて飛び掛かってきたので、俺はそれを両手で受ける。もともと奴の方が背が高いので、こうして上から押し込まれると、踵が地面にめりこんでいくようだった。
「どこまでも気に入らねえ野郎だな!」
「知るか」
「今だって全然、本気じゃねぇんだろ? そういうところが、腹立つんだよ!」
「本気で相手したら、俺の圧勝だが?」
「やってみやがれ、根暗野郎」
「いいのか?」
俺は今一度、人垣のどこかで今も俺を見ているはずのエランを探した。残念ながら目視で見つけることはできなかったが、何となく、彼女の苦笑している気がした。
「......いいのか」
ここでなら、俺は自分を試していいのか。
勝っても、いいのか。
「では、遠慮なく」
その瞬間、俺は自分がどんな顔していたのかさっぱり憶えていない。後からイェナに聞いたのだが、取っ組み合いの最中、俺はずっと笑っていたという。試合でもない、訓練でもない、規則もない。これではただの暴力だ、と言ったら、それが喧嘩ってものだよ、よ不思議な顔をされた。
なるほど、俺は彼らと「喧嘩」していたのか。
ちなみに喧嘩の結末は、双方体力切れで幕切れ。襤褸切れのように引きずられて退場した次第である。こんな引き際、相手が貴公子どもならば名誉のために後日正式に決闘の申し出がありそうなところだが、彼らはそういうふうには考えないらしい。それどころか、昨夜まではどこか俺を敬遠していたというのに、犬のじゃれるように俺に絡んでくるようになった。俺にはその心境が理解できないので、素直に訊いてみた。彼らが言うには、「強きに靡き弱気を挫く」のだそうだ。
認められた、ということだろうか。しかし、あのヒヨコ野郎とは何だか妙な蟠りができてしまい、一夜明けた今なお、まともに顔も合わせていなかった。
それから、ことの発端となった相乗りについてだが、要するに誤解であった。重要なのは魂の伴侶である自分の蜥に乗せることに意味があるのであって、イェナが連れてきたのは主人を持たない蜥だった。イェナの蜥の母親、という事実の、「母親」という部分が抜け落ちて彼らの耳に入り、「あのイェナが男を乗せた」という話になり、相手が俺だと知れて、土地人が誑かしたという話にまで肥大して、ああなったそうだ。迷惑極まりない。
「いやぁ、びっくりしたよ。君、見かけに依らず、喧嘩、強いんだね」
イェナは我が事のように嬉しそうに笑う。俺にとっては「喧嘩を教えろ」だの「さっきの技どうやった?」だの、まとわりつかれて鬱陶しいことこの上ない結果となったのだが、イェナがこれだけ嬉しそうなら、これはきっと、「良い結果」なのだろう。
このまま、こういう時間が続けばいい。
願い始めた頃だった。狼狩の依頼が舞い込んだのは。
■
狩があるのか、とロボに聞かれて、イェナはびっくりした。まだ父は誰にも話していないはずだったので、何で知っているのかと訊ねたら、蜥の騎具が大量に陽干してあったkらだ、と答えられ、唖然とした。
「狼狩の依頼があったのよ。でも、アンタは連れていけないよ?」
わかっている、と、ロボは賢そうな目をして肯いた。
ススロは狩の民だ。
とは言っても、今の世の中、貨幣に換算できないと食っていけない。主な収入源は毛皮だけれど、春から夏にかけてのこの季節に毛皮を着こむ人はいない。
毛皮の需要のない温暖な季節にススロの臨時収入となるのが、狼狩だ。
狼狩はざっくり二つの方法がある。巣穴や縄張が割れている群を狩る「首取り」と、家畜を狙って夜間にやってくる群を威嚇する「追い払い」だ。前者は時間が掛かるし、毒餌を撒いたり、罠をはったり、費用がかかるけれど、いい稼ぎになる。後者は賃金が低いし、何せ夜通しの仕事になるから体力も消耗するけれど、小遣い稼ぎにはちょうどいい。
「ちなみに私のこの背中の傷はね、前にも言ったけど、ロボって言う狼の王様にやられたの。この時は、腰を据えて七日くらいかけて勝負したんだよ」
イェナは自慢しようと上着を脱ぎ賭け、人間の方のロボに、裾を引っ張り下ろされた。
「ガウカリアの狼王、ロボ。私はアイツのことが嫌いじゃなかったよ」
イェナは自分の背中の傷のことを、一欠けらも嫌だとは思っていなかった。
狼のロボは、それはそれは、大した奴だった。
ガウカリアはイスガルの西部、隣国オストヴァハルとの国境にまたがる豊かな放牧地帯で、羊や牛が悠々と群をなす豊かな牧草地が、壁飾布[タペストリ]のように連なる。その間を幾重にも清流が走り、それらはやがて大いなるベルテ河へと合流する。
「ロボはガウカリアの牛たちを五年に渡って屠ってきた。日に一頭だとして、実に二千頭。それも値の張る三歳未満の処女牛ばかり」
「美食家だったんだな」
「そう! しかも自分がしか食べないの。そんな馬鹿なって思うでしょ? だからうちでも、毒餌を仕掛けたのよ。鮮血に浸した牛の脂身に、ソルミアニンっていう、植物由来の毒を仕込んで撒いたの。結果は惨敗。見向きもしなかった」
「罠はどうだ?」
「全然だめ。バネも作動していないまま、繋いだ鎖も丸太も、馬鹿にするみたいに掘り起こされてた。それならってんで、牛飼いに金を出させて罠を増量して、狼たちの通り道の両側と中央に、びっしり並べてやったのよ。横に避けても縦に避けても、かならずかかるようにね。さらに、その日、ロボはどうやら抜けていたみたいで、とこことやってきたの」
「待て、どうしてそれがわかる? ずっと潜んでいたのか?」
「まさか。足跡よ。足跡と糞で、大抵の獣の行動はわかるもん」
イェナはふふん、と胸を逸らした。
「かかったのか?」
「ぞれがね、どうしたことか罠の三歩手前で急に反転した跡があったの。きっとお告げでもあったんだわ」
「悪運の強い奴だな」
そうなの、と、イェナは人間の方のロボに笑いかけた。人のロボは、自分と同じ名を持つ狼の王に興味があるのか、イェナの話に根気よく耳を傾けてくれた。
「で、どうやって仕留めたんだ?」
「火薬を仕掛けたり、いろいろやったわ。でも、最後は蜥で追い込みの列を組んでの、持久戦だった。ひたすら、追うの。こうなったらどちらが先に音を上げるかっていう、根性の勝負よね。ロボは最期まで諦めなかったよ」
その後、人間のロボはやたらと狼狩の手法について詳しく訊いてきた。火薬の罠の仕掛け方や種類・分量・配合、追い払う時に使う「棹槌[ツェン]」という道具について、それから人数や地形、深追いするときの編成、狩の技術やその名称まで、最初の頃こそ色々訊かれて浮かれていたイェナだけれども、あまりにもロボが詳細に渡って深く訊いてくるので、とうとう音を上げた。
「君、結構知りたがりだね」
ロボは「重要な戦術だ」と、真顔で答えた。イェナは目を瞬き、まあ、面白いと思ってくれているのなら、別にいいかと開き直る。
「それでロボ狩りの話に戻すけど、あの王様はね、一体どうしてここを縄張に選んだのかって思うくらい、ガウカリアのことを知りつくしていた。ここはベルテ河の他にも幾つも細い支流があるでしょう? 谷がいくつもあって、高低差があるの」
「そうだな。どうやって追ったんだ?」
「それはほら、蜥の足の素晴らしさよ。崖でも河でも跳んで越えていくもの」
「なるほど、ススロを雇う理由がわかった。どれだけ射撃や鋼鉄の罠を仕掛けても、そもそも人の踏み入れられない場所に陣取られては、いつまで経っても人間が不利だな」
賢い生徒を持つと先生というのは嬉しくなるものだ。イェナは得意になってない胸を反らして授業を続けた。
「牛飼いたちは馬に乗るでしょう? 狼のロボはその辺りもよくよく承知していたみたい。でも、まさか自分と同じように崖を駆け降りることのできる人間がいることは、知らなかった。駆けっこなら、私の蜥は一番速い。あと蜥の歩幅で一歩というところまで追いついたところで、私に欲が出たの」
イェナはその時の事を思い出して、手綱を引く仕草をした。
「限界まで速力を上げた蜥の進路を、無理矢理傾けさせたの。崖を降りた後だったし、結構な時間、駆けていたから、足にガタがきていたの。私は気付かなかった。ううん、知っていたの、本当は。だって足音が乱れていたから。でも無理をした。それが原因で、私の蜥は石に躓いて横転。下手した骨折ものの大事故よ。運よく蜥は無事だったけれど、ロボはその一瞬を逃さなかった。反転して、私に向かってきたの」
逃げきれたはずだ、と人のロボは言った。イェナも、そう思っている。
「でもね、わかる気もするの。ロボの手下は、皆私たちが狩りつくしたから」
あの瞬間のロボには、守るものも、失うものも、なかったのだろう。
「死に際の獣の慟哭って、聞いたことある?」
「いいや」
「凄まじいものがあるよ。私は、ロボの最後の一声が忘れられない。夢中でナイフを振ったの。だって、食い殺されると思ったから」
それは偶然だった。あと一瞬イェナが早くても遅くても、狼の牙の方が先に届いたはずだ。ロボの爪が伏したイェナの背の肉を裂いて、イェナのナイフの切っ先が狼の開けた口の奥を突き刺した。
「引き抜いたらだめだって思ったの。腕を裂かれるって。どのみち狼の顎の中に突っ込んだ腕が無事なわけないじゃない? だから私はそのまま手の中で刃を返したの」
それが留めであったと知ったのは、ロボの体がガクガクと痙攣して、ついに草の褥に堕ちたまま起き上がらなくなって、しばらく経ってからだった。
「学んだことは二つ」
と、イェナは指を折る。
「一つ、無理は禁物。二つ、知らないと損をする」
「二つ目の意味は?」
問われて、イェナはかの気高き強き、ガウカリアの王の瞳を思い出す。
「蜥に乗った人間は崖を越えられるって知っていれば、ロボは別の手を考えたかもしれないでしょう?」
ススロは蜥を持っている。蜥の脚力があるから、イェナたちはガウカリアの荒くれ狼に勝ったのだと、そう思っている。
「あ、それでね、狼狩の話に戻すけれど、今回の依頼は『追い払い』なの。すごく簡単な以来で、ガウカリアの中でも比較的谷の少ない高台で、夜間、狼が来たら追い払うだけの依頼。賞金なしのかわりに、前払いで半額貰える上に『首取り』と同じくらい貰えるらしいのよね。まあ、『首取り』は出来高払いが多いけど」
ともあれ、割の良すぎる話である。
「まあ、フィオの受け売りなんだけどね」
賢ぶっても底が知れているので、イェナは早々に白状して追及を逃れる。フィオという名に覚えがないのか、ロボは首を傾げた。
「ほら、この前君につっかかってきた奴」
ああ、とロボは大して興味なさそうに視線を逸らした。
「二人一組で四つ、八人で牛の群れをぐるぐる回りながら見張るから、夜通し蜥にの立派なしになるね。私は平気だけれどもね」
イェナは蜥に乗ったまま眠れる。勿論、狩の最中に居眠りしたりはしないけれど。
「イェナも狩に参加するのか? 女子なのに?」
「あ。土地人の嫌なところが出た」
イェナは顔を顰める。
「どうしてだか、土地人は女をなめる。言わせてもらうけどね、ガウカリアの狼王の首を獲ったのは、この私。狼と闘ったら、ススロは女でも子どもでも立派な戦士として一目置かれるし、逆に長男だろうが父親だろうが、狩のできない奴は軽蔑される」
「悪かった、無思慮なことを言った」
「反省しているなら、許す。ふふん。女は度胸よ」
愛嬌だ、とロボが小さな声で言ったのを無視する。
ふと、ロボが顔を上げた。
「火薬を使うのか?」
ロボは鼻の利く狼のように風上に顔を向ける。
イェナは時々、思う。ロボという名をつけたのは自分なのだけれど、この名無しの少年は本当にあの狼王ロボが化けて出たのかもしれない、と。彼の聡さは野性の獣じみている。
「私たちだって銃を使うよ」
イェナは、鉄砲は撃てない。ちょっと練習したけれど、銃をかちゃかちゃ弄っている間に、蜥に飛び乗って突撃してしまったほうが俄然速いかな、なんて思ってしまってからは、鼻を狂わす火薬の匂いが苦手なのも相俟って銃から遠ざかっていた。
「射撃なら俺も少しは貢献できそうだが?」
「とりあえず一人で蜥に乗れるようになったらねー」
イェナは笑ってロボの背中をばんばん叩いた。三日前には、こうして背中を叩くのは暴力だと言ってイェナをぎょっとさせたロボだったけれども、もうそんなことは言わなくなっていた。
風が一筋、抜けていく。
「......依頼主の身元は確かか?」
「ちゃんと支払ができるかどうかって意味? ああ、そういうこともあるのよね。やるだけやらせて金を払わない阿呆も、いる。でも今度は大丈夫そうよ? 大分羽振りのいい商人が後ろについているみたいだから」
「安心した。ところで、薬包の予備はあるのか?」
「へ? 多分、あると思う。ここのところ狩に出ていないから」
「もうすぐ移動するという噂を聞いた。すぐにでも発てるのか?」
「そもそも、狩場から狩場への移動中だったのよ。君たちを拾ったものだから、今はちょっと休憩しただけ。夏場のススロはほとんどずっと毎日あちこち動き回って、一か所に七日以上泊まっていることのほうが珍しいわね」
ロボの黒曜石の瞳に、一体何が見えたのだろう。僅かに眇めて、ロボは俄かに緊張した面持ちになると、声を潜めた。
「今朝からエランの姿が、見えない」
そういえば、と、イェナは幌の群を振り返る。エランがロボを探すのはいつものことだけれど、ロボのほうからエランを探すのは珍しい。何か気になることでもあるのか、と訊こうと思って再びロボを振り返ると、彼は突然に額を抑えて低く呻きだした。
「どうしたの?」
びっくりして顔を覗き込む。
「頭が、いたい」
「どこかぶつけた? あ、そういえばぶつけたんだっけ。ええっと、どの辺?」
「外じゃない、内側が......」
「と、とりあえず、寝てなよ。ね?」
返事をするのも辛そうだ。イェナは心配だったが、ロボを居幌に戻した直後に狩の準備の手伝いを言いつかってしまい、仕方なく彼の元を離れた。
フィオは「軟弱な奴だ」と罵っていたけれど、イェナは何だか妙に胸が騒いだ。何となく、日没とともにロボがいなくなってしまうような、そんな気がした。
ロボが狼でありませんように。
唐突に、そんなことを願った。
そうこうしているうちに日が暮れて、いよいよ出かける寸前、イェナはエランの姿をみかけた。エランはいつもと変わった様子もなく、昼間ロボが探していたことを教えると、父と一緒に商談に出ていたと教えてくれた。このたびの狩の依頼主は地元の牛飼いであるけれど、金の支払いは別のところで、牛を買い付ける大きな商会が財布を握っているらしい。異邦の商人が相手なので、通訳として交渉に同席していたという。
ふうん、とイェナはただ訊いていた。その手の話にとことん疎いイェナは、何だかよくわかっていなかった。
今夜の仕事はイェナの父が頭だった。二人一組で牛の放牧されている区間を駆け回り、狼の群を威嚇する。鉄砲はお守りみたいなもので、使わずに済むに越したことはない。
「イェナは俺と一緒だ。いいな?」
父に言われて、イェナは憮然とした。イェナは十四で一番若い狩人だったが、イェナの蜥は誰よりも速いし、勇敢だ。親と一緒だなんて恥だと思った。ぶーぶー文句を垂れたけれども、父は頑として譲らない。そうこうしているうちに出立の刻限になり、イェナはしぶしぶ父の補佐に甘んじることにした。
と、蜥を牽く父の中指で何かがきらりと反射した。つい目を奪われる。それは指輪であった。黒い石が篝を反射している。
珍しいな、とイェナは思った。
空には三日月が白く鋭く光っている。刃物によく似た姿だった。
「何だ、狼なんていないじゃない」
三刻ほど駆け回った頃、イェナは欠伸をしながら言った。牛たちは皆安心しきって眠っている。確かにこの辺りに巣があるのか、狼の遠吠えが聞こえる日もあるが、今日に限って彼らは大人しい。そもそも、イェナたちがあの日、大王[ロボ]とその一味を全て狩ってしまってからは、ガウカリアの狼どもは腑抜けになった。大王のいた頃は、こんな寒々した夜には遠く高く、夜の寂を破って、狼たちの呼び合う声が輪になって轟いたものだ。そして風の渦巻く彼方に緑色の瞳を炯々と光らせて、いつの間にか忍び寄り、とびきりの牛に目星をつける。
「イェナは狼に遭いたいのか?」
父が微妙な笑顔でそう訊いてくるので、イェナは「まぁ、ね」と肩を竦めた。
「父さんは、遭いたくない。誰だって喰われたくはないだろう?」
「そう? 私は平気よ。それに、私たちが狼を殺すなら、私たちだって狼に殺されることだってあるわ。獣を相手にしているのだもの。そういうこともあるって、ばあちゃんが言っていたわ」
イェナの祖父は狼ではなく熊にやられたと聞いている。勇敢な狩人だったが、たまたま一人で森を歩いていたときに、ばったり遭遇してしまったそうだ。
殺していいのは、殺す覚悟のあるやつだけだ。だから、年寄たちは鉄砲を使う現役の狩人たちのやり方に渋い顔をする。
「私たちはススロだもの。狩を怖いとは、思わない」
「そうか。イェナは、勇敢だな。父さんはまだ怖い」
その時、父がどんな顔をしていたのかイェナは見ていなかった。暗闇の向うから来るか来ないかもしれない狼たちの幻影を探して、ただ、胸を躍らせていた。
「父さんは、お前を失うのが怖い」
え、とイェナが振り返った時だった。
ガウカリアの夜空に、乾いた破裂音が響きわたった。
「何? 銃声?」
イェナは自分の蜥の背に立って、真っ暗な野を見渡す。安眠していた渡り鳥たちが恐れおののいて飛び立つのに混じって、続けざまに二発聞こえた。
「おかしいよ、父さん」
イェナは浮足立った。狼の群が近くにいたのなら、遠吠えで仲間同士の連絡を行っているはず。こちらが鉄砲を使わなければならないほどの混戦になっているのなら、どうして笛で知らせてくれなかったのだろう。
少し遅れて、散らばった仲間から安否を問う笛の音が響く。一つ、二つ。イェナも応じて笛を吹き、四つ目の応答を待った。
が、その後は遠い谷を抜ける風の音と、叩き起こされた鳥獣たちのざわめきだけだった。
「ねぇ、お父さん! 何か変だよ!」
狼たちの姿を思ってわくわくしていた胸の内に、あっという間に不安の暗雲が立ち込める。急に闇が怖くなった。見えないことが、こんなに怖いとは思わなかった。
「イェナ」
父の声はとても静かだった。静かすぎて、いっそ空恐ろしい。
「お前は邑に戻って、皆に知らせるんだ」
「何を? 父さんは? ねぇ、何が起きているの?」
イェナの不安に敏感に呼応して、蜥が俄かに落ち着きなく足を踏み鳴らしはじめる。
「中止だ。事故が起きた。父さんは頭だから、皆の無事を確認してから戻る」
嘘だ、と直感が告げた。
「私も一緒に」
いくよ、と、言いかけた時。
「来るんじゃない!」
突然怒鳴られて、イェナの体が跳ねた。それは本能的な反応だった。小さな獣が大きな音に驚いて飛び上がるのと同じ、自分では制御のしようのない、恐怖に対する野性の反応であった。イェナはすっかり黙ってしまい、その一瞬の隙に、父は蜥を走らせる。
得体のしれない暗闇に、父の手持ち篝[ひ]だけが、いつまでも、いつまでも、赤々と緒を引いていた。
はっと、イェナは我に返り、蜥を反転させる。
逃げ出した。
そんなことを、思った。
イェナは心底自分にがっかりしていた。これまでイェナは自分のことを、強かで勇敢な狩人だと思っていた。仲間の危機には颯爽と駆けつけて、獰猛な狼にも怯まず、そしてこの世の何者よりも速いという自信に満ちていた。
ガウカリアの荒くれ狼を斃した、この自分こそが王様だ。
おこがましくも、そう思っていたのかもしれない。
だけど今、イェナは暗闇に怯える小娘に過ぎなかった。
はじめて、夜を怖いと感じた。
闇がヒヤリと纏わりついて、胸に満ちる空気は重たく凍えていく。
怖かった。
イェナは祈った。
大丈夫。きっと、大丈夫。悲しいことなんか起こらない。
信じているのに。
それなのに、どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。
大丈夫。絶対、大丈夫。私が帰ったら、母さんも、ばあちゃんも、皆、何を血相変えて、と、笑ってくれるはず。
だから速く。もっと速く。
この夜から、逃げ出したい。
■
頭が痛い。脈拍とともに、深く鈍く、頭蓋骨の奥が疼く。
こんな時に、と、俺は奥歯を噛みしめた。「その時」までに、やらなければならないことを、やれるだけやるしかない。願わくは、「その時」など訪れなければいい。
思い過ごしであってほしいのだ。
だかしかし、かなしいかな、俺の悪い予感はよく当たる。
食事を断ったので、ひどく腹が空いていた。頭痛が治まらず、日暮には噛むのが辛いほどに悪化していて、とてもじゃないじゃ硬い肉の煮込みを咀嚼する余力がなかったのだ。
イェナの母君にも、他の娘たちにも、寝ているように言われたが、横になると痛みの巣が偏ってきて余計にしんどいので、俺は熾の輪から離れて一人でぼんやりしていた。
ススロの民は火を重んじる。居営地の中心に薪を組み上げて熾を点け、移動しはじめるまでは昼でも絶やさない。いつも誰かが熾の側にいる。幼い子たちは熾の近くに集められ、時には軽く火傷を負ったりしながら、火の扱いを覚えていく。子どもは物をよく知らないから、きゃらきゃら笑いながら火の縁に手を突っ込んでは大泣きする。いつか火だるまになるのではないかと心配していたけれど、少なくとも今日に至るまで、火傷の程度はあるにしろ、どの子もひどい事故には発展せずに火の扱いを覚えていった。
火はススロにとって「安全」と「安心」の象徴なのだと、イェナが教えてくれた。火のあるところに人が集まる。困った時には熾に行けば、誰かが面倒を見てくれる。「家族」の徴だと言っていた。
その赤々と耀く光に背を向けて、俺はひとり、空を見ていた。
夜空に瞬く星が落ちるのを待っていた。
流れ星でも落ちようものなら、無病息災と家内安全を願おうと企んでいた。しかし、待っているときには機会というのは訪れないものだ。
流れ星は待てど暮らせど瞬かなかったけれど、待ち人はやってきた。
「頭が痛いそうで」
エランが湯気の立つ木の椀をもってやってきた。
「鎮痛効果のある薬草の煮汁だそうです。イェナのお祖母様からですよ」
エランはいつもの習慣で俺の目の前で毒見をしてみせる。よほど苦いのか、あまり好き嫌いをしないエランの眉間が弱冠、揺れた。
俺は素直に受け取り、素直に飲み干す。ここで学んだ言葉に「明日吹く風」というのがある。なるようにしかならない、という意味だそうだ。
俺が今からしようとしているのは、明日の風をどうにかしようとするのと同じだ。
どうにもならないことは最初からわかっていた。
それでも、どうにかしたいと願った。
死んだブランカの首を繋げたところで、彼女は甦らない。だけど、惨たらしく殺される前に俺にはできるこがあったはずなのだ。それが何なのか今でもわからないけれど。でも、今の俺にならできることがある。
父王のいない、今ならば。
「昼間見かけなかったが?」
「イェナの父君に頼まれて、通訳として同伴しておりました。無断で御側を離れて申し訳ありません。急だったもので」
「そうか。で、この場にはお前はいて、イェナの親父さんはいない」
俺は天空のお星さまから地上の石ころへと思考を移した。振り向けば、エランが何かを察したように、神妙な面持ちで俺を見ていた。
「揃いの指輪は夫婦の証......というわけではなさそうだな」
俺はエランの中指にある指輪と、イェナの父親の中指にあるそれが、同じ形をしていることに気付いていた。同じ形の指輪が別の人間の指にはまっているということ自体、普通じゃない。普通じゃないことには、意味がある。
「エラン、何故だ?」
「それは、殿下を拉致した目的についてお訊ねですか?」
「違う。お前がそれを俺に話さないことは、知っている。俺が知りたいのは......」
遠いところで熾が弾けるのが聞こえた。灯が明るいほど、影も深まる。赤く照らされたエランの顔の半分に、暗澹たる影が差していた。
「俺が知りたいのは、成功するはずもない愚行に走った理由だ。お前は待っていた。俺の側付を務めながら、何年も機をうかがっていた。お前が何を待っているのか知らないが、何かを待っていたことぐらい、俺にはわかっていた」
「殿下、私は言い逃れするつもりはございません」
「罪を問うているわけじゃない。お前は機を誤った。違うか?」
返答はなかった。
「何故だ? 何故、失敗するとわかっていて決行した?」
「いたたまれなかったので」
エランの言葉は、とても単純であった。
「何だと?」
「あなたがあのまま壊されていくのに、私はとうとう、我慢できなくなったのです」
不思議な目をして俺を見つめる女に、俺はかける言葉を見失った。一瞬だけ見せた、エランの素顔。彼女の本当の人生を、俺は知らない。しかし、エランはすぐにもとの忠臣面に戻ると、苦笑して僅かに首を傾げた。
「殿下はすばらしい才能をお持ちです。無自覚を装っておられますが、本当はご自身が一番よく己の才覚について理解しておられるのでしょう?」
「馬鹿言え。俺は......」
「父王が恐ろしいですか?」
さっと、自分のでもわかるほど顔から血の気が引いた。エランは、やめなかった。
「国王陛下もまた、殿下を懼れています。あのまま城の中にいては、殺されてしまいます。貴方様の中に眠る、才能を。私にはそれが許しがたいのです。なので、このような手段に出た次第です。無論、勝算あってのことでしたが、ずぼらな私は綿密な計画が苦手でして。つい、短絡的になってしまったのです」
嘘だ、と俺は思った。
イェナがあの晩、俺たちを発見したのは確かに偶然だったかもしれない。しかし、そうそう都合よく移動中のススロの邑に遭遇するものか。
計っていたはずだ。イェナの父親のいる邑が、ベルテ河沿岸の街道付近を通過するのを。ガウカリア産の牛を群で取引するような阿呆な資金源を有する大商会が、一介のススロを相手にするものか。
未だ、ガウカリアに狼たちの遠吠えは響かない。狼たちは賢いから、こんな夜には我関せずと、巣穴に籠って出てこないつもりなのだろう。
ぼんやりしている犬だけが、のこのこと月光に身を晒す。
俺にだってこの犯行が失敗に終わることはわかっていた。エランだって承知していたはずなのだ。それなのに何故。
何故、一人で罪を被って破滅しようとしている?
何故、お前はどこまでも俺に優しい?
ずしりと、重たい痛覚が思考を押しつぶした。
「俺は、誰に狙われている?」
「お答えできません」
敵は、一つじゃない。王城の暗がりから放たれた暗殺者たちの他に、エランを俺の懐まで送り込んで、何年もかけて俺を生け捕ろうと目論んだ老獪な輩がいるのだ。この場合、どちらのほうがより恐ろしいか、俺はしばし悩んだ。
「あなた次第です」
エランはにっこり、微笑んだ。
「好きなように、なさってみてはいかかでしょう?」
好きなようにするといい。そう言って、父王は俺に白い仔犬を与えた。稚い俺は殺してもいいかと訊ねた。あの時、人の言葉のわからぬ犬に代わって命乞いをしたエランが、今度は俺に決断を委ねている。命乞いしてくれたほうが、どんなに楽だったか。
「せっかく誰に気兼ねすることもなく、思う存分、やりたいようにやれるのです。今はそういう状況です」
世話になったススロの一家の命を、エランが棒切れのように投げて寄越すものだから、俺は大変に焦った。必ず拾わなければならない。エランがぶん投げたのは何も知らないイェナたちの運命だけじゃない。自分自身の運命も一緒に投げてきた。そこで、俺はほとほと困り果てた。エランとススロたちは、同時に二つは拾いに行けない。俺はどちらかを取り落とすことになる。
「僭越ながら、申し上げます。今現在、殿下は、あまりよい手札をお持ちではありません」
「知っている」
「ならば、持っているもの全て使いなさいませ」
「お前が最大の切り札だ」
「いいえ、もう一枚、強力な札をお持ちです。ただし、その札を切ったら最後、殿下は二度と敗けることを許されなくなります」
「俺は、負け犬の人生でよかったのだ。余計なことをしないでくれ」
「本当にそうでございますか? ちなみに、私はすでに全て持ち札を切ってしまいました。私の手を全て見抜いた殿下に、潔く敗けを認めましょう」
「俺には、決められない」
「大事なことは、自分の足で踏み出すことです。自分自身の決定であるからこそ、結果に責任を持てるのです。今なら私は殿下を連れて逃げることができます。必ずやお守りいたしましょう。私には頼もしい協力者がついております。さあ、殿下。ご命令を」
「俺には、できない」
俺には何もない。意志さえない。できない。それでもエランは強要するのだ。
「ご命令を」
エランが俺に跪く。俺にはそれは、別れの挨拶にしか見えなかった。
ぼんやりしていれば、それでいいはずだった。エランが俺を連れ出し、世界の広さと人の手の温もりを知るまでは。
最善の手は見えない。だけど、俺の望みははなから変わらない。
「......逃げろ」
「それが、ご命令ですか?」
「そうあ。お前は今すぐここから離れろ。そして俺の前に二度と現れてはならない」
こういうとき、イェナならどんな顔をするのだろう。まともな人間ならば、どんな感情を示すのだろう。俺はまだ、人並みの心がわからない。自分の心を知ったのさえ、昨日今日のことなのだ。
「俺はお前に、生きてほしい」
「はい。承知いたしました」
軽々しく了承して、エランは自分の指から件の指輪を引き抜くと、俺の掌の上に乗せた。女物の指輪だけれど、辛うじて小指にならはまりそうだ。
「どうかこれをお受け取りください。きっと未来の殿下の援けとなります。これが必要になるまで、どうか、殿下も生き延びてください」
「わかったから、もう行け。けして、戻るな」
俺はエランに背を向けた。振り返る時間はもうない。ここから先は時が過ぎるほど死者が増えていく一方だからだ。
勝ちたい。
その時、不意にそんな願望が沸き起こった。小さな欲の火はあっという間に乾いた俺の胸の内へと燃え移り、ごうごうと唸りの聞こえる劫火となった。
勇気と呼ぶにはあまりにかなしい熱量だった。
俺は皆のところへ戻ると、薬包をできるだけ出すように皆に言った。熾の輪で団欒していた彼らは、一斉にぽかんとした顔で俺を見た。
その時だった。イェナが血相変えて転がり込んできたのは。
間がいいのか、悪いのか。いつだって転がりだした運命の最先端にいる。イェナはそういう娘だった。真っ先に戻ってきたのがイェナであったので、俺はイェナの親父殿は戻ってこないと確信する。
様子がおかしい、とイェナは言った。連絡用の笛が三つしか聞こえなかったという。
「銃声が聞こえたのなら、狙撃されたんだ」
俺にとっては全くもって当然のことなのだが、その時、俺以外の人間は一様に息を呑んだ。中には青ざめて泣きだす女もいて、それで俺はようやく、狙撃されたといことの意味を理解する。
撃たれた人間は、死ぬものだ。
「ここに来るかもしれない。迎え撃つ用意をしておいたほうがいい」
はっと水を被ったように顔つきを変えてすぐに立ち上がった者もいた。だけど大半の人間は、信じられない、といった様子で俺を見た。何でそんな顔をするのかわからなかったが、取り合っている時間が惜しい。姿が見えてからでは生存者数が半減する。俺は、ここにいる人間の誰一人として死なせたくはないのだ。
「協力してもらいたい。狼狩りの時の罠の要領と同じだ。火薬を二倍にすれば、人馬相手にも通用するはずだ。この中で罠を仕掛けられるのは?」
反発されるだろうな、とは覚悟していた。俺はここでは何の優位性も特権なく、雑巾も搾り方も知らない、役立たずの居候だからだ。しかし、さすがは日常的に戦闘を知る狩の民だけあって、ススロは指揮を執る者を選定するのも、そして判断も一瞬で済ました。結果、俺は暫定指揮官として彼らに認められたらしい。よかった。ここで揉めたら五人は死者が出るところだった。
周囲の様子を伺いながら、手が上がる。最初に決断した者の顔を俺は脳裏に書き留めておく。自ら「できる」と判断した人間は戦意高揚、責任感も高い。
驚いたことに、女性が圧倒的に多かった。腕力で勝る男たちは、罠の技術より、仕留める技術の方が高いということか。
「薬包は『渡り鳥』型に」
ぎょっとしたように数人が振り返ったので、俺は「イェナに教わった」と正直に答えた。彼らにしてみれば、ついさっきまで邑のお荷物状態だった子どもが、突然に熟練した狩人たちの技術を口にしたのだから、まあ、驚かれるのも無理はない。
「相手が狼なら火薬に驚いて退散してくれるけれど、人はそうはいかない。そこで、棹槌[ツェン]と投げ縄を併用する。殺す必要はない。相手が驚いている間に何人か落馬させればいい。敵は邑に向かって突撃してくるわけだから、投げ縄班は敵を捕まえたら外側へと走って、相手が落ちた手ごたえがあった時点で反転してすぐに戻る。これを左右それぞれ連続五回もやれば十分だ。だから、十人必要だ」
数を口にしたところで、俺ははたと顔を上げた。三家族構成、まともに動ける人間が全部で十五人もいないうち、蜥の騎乗技術に長けて体力のある八人は偽の「追い払い」の仕事にとられている。こちらの戦力として残されたのは、腕力的に不利な女性が五人、火薬を扱える老人たち、それから、あまり蜥乗りが上手くないと判断された男子が、俺を含めて四人。蜥に乗れても子どもは数には入れられない。
「......足りないな。では、三人ずつで六人だ。棹槌はかなり蜥の扱いの巧い人にお願いしたい。撃ったら即逃げる。相手に肉薄させてはいけない。向うは銃を持っている。蜥の技術の精度がそのまま生死にかかわる」
「私! 私、やる!」
不意に背中から鋭く叫ばれて、俺は振り返った。イェナは真っ青な顔で手を上げており、俺は思わず「やめておけ」と言いかけた。言葉を飲んだ理由は二つ。一つは、イェナがこの中では群を抜いて機動力に優れ、本番に強い性格で、これ以上ない適任だから。二つ目は、いつになくイェナの表情が硬かったためだ。何とも言えない、微妙な表情だった。毛を逆立てる猫のようだと思い、俺は色々考えて、ようやくイェナは緊張しているのだと理解した。ただ強張っているだけじゃない。彼女の顔には半信半疑と書いてあった。
見渡せば、皆イェナと似たような表情をしている。イェナが青くなって転がり込んでこなければ、俺の言葉など一笑に付されていたに違いない。
誰かが「本当かな」と言った。いや、発言したかどうか定かでない。だけど、そういう空気ができはじめていて、いつ誰が俺を非難しだすかわからない。反感を抱かれてはひとたまりもない。数からいって、俺は袋叩きにされてしまう。
頼むから信じてくれ。そうでないと、エランを切り捨てた意味がない。
俺は彼らに懇願するつもりだった。ところが。
「敵の姿が見えてからじゃ遅いんだ!」
怒号が腹の底から飛び出してきて、他の誰より、俺が驚いた。
しん、と水を打ったように静まる彼らの後ろで、熾が笑うように揺れている。
「相手は銃を持っている、数も練度も知れない! 皆殺しにされるかもしれない!」
皆殺しという言葉に、俄かに大人たちの顔色が変わった。
ススロのような流民は、よく兵士崩れの野盗に目を付けられやすいというのを、どこかで聞いたことがある。ガウカリア一帯はオストヴァハルとの国境が曖昧で、十五年前にはここらも戦場だった。戦争はイスガルの敗北に終わったが、その頃の敗残兵が喰うに詰まって徒党を組んで、行商人や近郊の街から略奪を行っているとも聞いていた。
「俺の思い過ごしならば謝罪する。しかし、火薬代で家族を守れるのなら、安いはず」
家族だなんて俺が口にするといかにも白々しい。だが、俺の拙い演説は彼らの心に届いたようで、そこからはさすが狩猟民族だけあって、皆、機敏に動いてくれた。そのおかげで、俺たちには敵が罠の圏内に入るのを待つ時間が与えられた。
軍の払下げの(ということにしておこう)旧式銃を調整しながら、俺は妙に静かな気分でその瞬間を待った。ちなみに、イスガル軍のものもあれば、オストヴァハル軍のものもある。流民の彼らがこれおらをどこでどうやって手に入れたか、俺はあまり考えてはいけない気がする。そんな俺の配慮もあっさり無視して、イェナは「拾った銃だけど、君、使えるの?」と背中を突っついた。憲兵に知れたら逮捕されるというのに。
俺は仕掛けた薬包を撃つ狙撃手として、黒い布を被って岩の影に隠れていた。攪乱作戦の中核である棹槌要因のイェナも、俺と一緒に布の中で丸まっている。
「君、本当は狼なの?」
なぬ、と俺は彼女の赤毛を見やる。
「何故そう思う?」
「君を見ていると、ロボを思い出す」
「狼王か? 言っておくが、ロボという名をくれたのはイェナだ」
「本当は何ていうの?」
「忘れた」
「びっくりしちゃった。君ってば突然、何かが乗り移ったみたいに頼もしくなって」
「死んだ狼王に憑りつかれたかな」
不安なのか、イェナはしきりに俺に擦り寄って喋りかける。
俺も、不安といえば不安だった。
「父さんたちは、戻ってくるよね?」
「戻る」
「どうして私だけ先に帰したのかな?」
「襲撃の可能性を察して備えるように言いたかっただけだと思う」
「......うまくいくかな?」
「成功する」
俺は銃弾が補填されていることを確認して、訓練通り、肩に担いで待機した。
「君、銃を持つのははじめてじゃないよね。私たちより、扱いがこなれているもの」
「イェナ、そろそろ黙ったほうがいい」
「もう。都合の悪い話題は、そうやって答えないんだから」
イェナは身じろいで、より一層、俺に引っ付いてくる。綻び始めた花のような香りがして、俺は彼女の白い項から目を背けた。
「頭いたいのは治ったの?」
「ああ。不思議と今は、痛くない。君のおばあさんの薬湯が効いたんだな」
「ねえ、ロボ。エランがまたいないよ」
「うん、知っている」
「探さないんだね」
「うん」
できれば、誰も彼女を探さないでほしい。俺は今後のことを考えながら、小指を締め上げる金属の輪を摩った。
ふと、イェナが顔を上げた。
「フィオだ」
え、と俺が思ったときには、イェナは這い出していた。
「馬鹿! 見つかる!」
しかし、彼女は素早かった。引き止める間もあらばこそ、自分の蜥に飛び乗って暗闇の彼方へと消えてしまった。
間もなくイェナはもう一頭、蜥を牽引して戻ってきた。確かに背中にへばりついているのはフィオであった。ただ、無事とは言い難い。顔の左半分から流血しており、どれくらい経ったのか、今もまだ血が止まっていなかった。貧血で顔はむくんで青白く、意識も混濁している様子で何があったのか詳しく訊けそうにない状態だった。
とりあえず幌で手当てを、と言いかけて、俺は、ある可能性に気付いてイェナを見た。イェナもまた、何かを察して俺を見た。
手負いの獣をわざと群に帰して巣穴を叩くのは、狩りの常套手段だ。
イェナの方は耳に手を当てていたので、俺にはまだ聞こえていない音を拾ったに違いない。耳がいいのだ。さっきも蜥の足音で乗り手を判別したのだろう。
「蹄鉄の音がする。いっぱい......」
「どれくらいいるかわかるか?」
「重なっているから、はっきりしないけど、十はいるかも」
途端にイェナが落ち着きをなくして、くしゃりと顔を歪めた。
「どうしよう?」
どうするも何も、最初から数でも戦力でも武装でも、こっちが不利であった。唯一、蜥の足の速さと瞬発力だけが頼りなのだ。だから、変に怖気づいて機動力が損なわれると、この方法は失敗する。
俺は、イェナを高く評価している。彼女は善良で、ひどくまっとうな人間であるから、人々が共感しやすい。イェナのような少女が、弾丸飛び交う最中を堂々と駆け抜けていくことで、敵だけではなく味方も騙される。自分らは強力な集団なのではないか、と。
「いいか、イェナ。はったりかませ。相手がイェナのように耳が好ければ数がばれるけど、土地人は目を使う。この夜の闇の中じゃあ、正確な数なんてわかりゃしない。運よく雲も出てきた」
イェナは納得たというより、気圧されて肯いた。
俺はフィオの様子を見やる。かなり深手のようだった。
「こいつの手当をしてやりたいが、幌まで戻っている時間はない。一刻も早く奴らを追い払って、君のおばあさんに傷を縫ってもらわないと、手遅れになるそ」
イェナは再び肯いた。今度は、ちゃんと自分の意志で肯いたようだった。
悪いな、と俺は無言でヒヨコ野郎に謝罪しておく。イェナのような人間は善良である分、大局を見ることができない。目の前で傷付いた仲間を無視できないからこそ、こいつの傷はイェナに発破をかけるのに有効だった。
俺は被っていた布の端を裂いて、取りあえず出血しているあたりをぐるぐる巻いておく。その頃には俺の耳にも届くほど、馬たちの蹄鉄が地を蹴る音が大きくなっていた。
足音に規則性がある。訓練を受けた集団で、おまけに熟達している。彼らはけして急いでいない。奴らは自分たちが追跡者であることをよく心得ている。ただ追っているわけじゃない。彼らは獲物を追いつめているのだ。
追いつめられているのが自分であるという事実に、あと少しでも俺が敏感ならば、今すぐにでも全部投げ出して遁走しようとしたかもしれない。ところが、この期に及んでもなお、俺は自分の身に起きている危機に対して鈍感だった。何だか他人事のような気持ちである。ぼんやりが過ぎたのだろう。
きっと俺はススロの子どもたちとは違って、熾に手を突っ込んでひどい火傷するに違いない。そして今までそうならなかったのは、エランがあれこれ先回りして火を消してきたからなのだろうな、と、こんな時に限って要らぬことを考えていた。
「どうってこないさ」
よくもまあ、そんな無責任な言葉を口にできるものだと、自分でもそう思う。だけど、今のイェナには嘘でも何でも、この手の気休めが必要だと判断したのだ。
「狼の口に手を突っ込んだことを思えば、相手の背後を襲うくらいなんでもないだろう? 背中の傷は勇敢な狩人の証だって言ってたじゃないか」
俺は見よう見まねで、イェナの背中をぱしぱし叩いた。それが暴力ではなくて、相手に対する親愛と信頼の気持ちの表現だと、ここで学んだ。
すると、イェナの青白かった頬に、少しずつ血が上ってきた。
「そう、ね。どうってことないわね。ロボがいるものね!」
俺は大きく肯いた。失敗したら冗談でなく皆殺しにされる可能性が高いことを、俺は誰にも言っていない。襲撃者たちの目的が俺であり、王が正規に派遣した捜索隊でない限り、俺に関わったススロは全滅させられる。相手は誘拐の事実を隠蔽したいだろうから。
というより、俺なら、そうする。
だから、勝たねばならない。俺は勝ちたい。
その時、俺の胸には蜥で駆けた時に感じた、清涼な風が吹いていた。
そうか。俺は今、「楽しい」んだ。
■
罠を仕掛けて迎え撃つ、とロボが言った時、気でも触れたか、とイェナは思った。
イェナだけじゃない。邑の皆がそういう顔をした。
ススロには、出会ったら即逃げる、三大禁物がある。一つ、病の獣。二つ、怒れる獣。そして三つ、二本足の獣。
野盗や人攫いどもに狙われたら最後、着のみきのまま、蜥の脚力にものを言わせて逃げるしかない。走って、走って、走って、ふと気付くと一人二人、減っている。そういう時、イェナは自分たちがひどくみじめな生き物であるように思えてならない。猛獣に襲われる兎ほどに、弱い。いいや、もっと悪い。野の獣は食うために獲物を追う。人間は何のために人間を襲うのか、イェナにはわからなかった。まさか食うわけではあるまい。
だから、ロボが戦うと言い出したとき、衝撃であった。
兎が狼に噛み付ようなものだ。鼠は束になったって鷹には勝てない。
と、誰もが思っただろうに、誰も口にしなかった。何やら大きくて圧倒的な気配を放つ者が、自信満々に指図するので、そういう弱気を口にすることは許されない雰囲気だった。
そんなこと、今までなかったのだ。闘うと言い出す者ははじめてだった。
しかも、あのロボが。
いつもどこか心ここにあらずといった様子で、ぼんやり一日中雲を眺めていそうな男の子だった。こいつ大丈夫か、と心配したのは一度や二度ではない。ロボが野の獣なら、自分が喰われたことさえ気付かないまま喰われていそうだ。そういう、何につけイェナが面倒をみてあげなければ生き残れない、はっきりいって、弱い子だと思っていたのだ。
そのロボが、群を率いている。
最初こそ度胆を抜かれていた皆だけれど、ロボの指示があまりにも明確で、彼にはまるで少し先の未来が見えているかのようだった。ロボの思い描く「勝ち」がイェナたちにも見えるようで、あっという間に誰もが「こいつに任せておけば生き残れる」と考えるようになっていた。
あの狼王の手下たちも、そう思っていたのだろうか。
ガウカリカの王の一派をこの目で見たイェナは、彼らが常に自信に満ちていたことを知っている。毛の一本一本まで輝いて見えるのは、彼らが自分たちこそ世界で最も強いと思っていいたからだと、そう考えている。
今、イェナの邑は、あの狼たちと同じだ。
神がかった頭領に、皆が自分の運命を預けている。良く言えば信頼、悪く言えば慢心だ。
もともとロボは表情に乏しかったけれど、今宵は特に無表情だ。彼だって緊張しているに違いない。
イェナは棹槌を握り締めて、隣の少年を見やった。ロボはもうイェナを見ていなかった。襲撃者の一団の最後尾が罠の範囲に入りきるのを待っている。
茫洋とした墓石のような目に、今は獰猛な光が浮かんでいる。
その目は喰う者の目だ。けして、追われて捕らわれ、屠られる者の目じゃない。
ぞっと身震いした時だった。
ロボがすくりと立ち上がった。夜色の布が滑り落ちる。見かけによらず軽い身のこなしで大岩に上り、肩に鉄砲を担ぐ。
夜をものともしない、その姿に、イェナの胸が震えた。
狼だ。
今は亡き狼王の遠吠えが、今にも聞こえそうだ。
ロボは咆哮のかわりに銃声をあげた。イェナなんかはとてもじゃないが拳一つ分くらいしかない小さな的を、夜間に撃ち抜くなんて芸当はできない。ところがロボはあやまたずしかけた薬包を次々に撃ち抜いていった。
馬は恐れおののいて、嘶きを上げて立ち上がる。
閃光と轟音が彼らを締め上げて、一瞬にして群は混乱状態に陥った。
「イェナ、今だ」
ロボは驚くほど落ち着いていた。結果のわかっている作業を淡々とこなしているだけのような、そんな声。その静かさに誤魔化されて、イェナは自分がこれから敵のど真ん中に突っ込んでいくという事実さえ忘れかける。
普段の狩と変わらないじゃないか、とさえ思っていた。
蜥に飛び乗り、そのまま慌てふためく馬の群へ突撃する。イェナの仕事は、馬に乗っている人間を、どこでもいいから殴って馬から落とすこと。そして、落ちても、落ちなくても、一人やったらすぐに離れること。絶対に連撃しないこと。けして止まらないこと。
ロボに言われた通りに、イェナは敵の一団の背後から斜めに駆け抜けた。
自分が銃を持った危険な襲撃者の集団の真っただ中にいることも忘れていた。
そうだ、私は狩人[ススロ]だ。イェナは胸の奥に沸々と熱を感じていた。さっきまでイェナは自分がただの女の子になってしまったようで、情けなかったのだ。夜を¥が怖い、とおもってしまった瞬間、土地人の娘のように、自分では闘えない無力な少女になってしまったようで、がっかりしたのだ。だからこそ、イェナはロボに問われてまっさきに手を挙げた。ススロの誇りにかけて、闘うことを志願しなければならないと思ったのだ。
とても近いところで発砲音が聞こえた。火薬の匂いが鼻の奥まで染みついて、しばらく落ちそうにない。
本当のことを言うと、怖かった。
父や、残された仲間のことは考えないようにしていた。フィオの怪我を思い、イェナは蜥の腹をしめて速度を上げた。
とにかく棹槌の範囲の届くところにいる奴を叩き落としていく。蜥同士の試合に比べれば、馬は横に跳べない分、楽に落せた。しかしいかんせん、数が多い。二人落として、五人外した。もう一人くらい落としておこかと振り返ったとき、それまでぴったりと息のあっていた蜥が急にイェナに反発した。
無理するな。
そう言われた気がした。背中の古傷が引き攣れる感覚があって、イェナは蜥を戻すのを止め、全力前進を決める。
その直後だった。
ざふ、と変な音が耳元で聞こえて、項をひんやりと夜風が撫ぜた。
髪を切られたらしい。
あと蜥の歩幅一つ、イェナが前に出ていなかったら、落ちたのは結った髪ではなくて首だったかもしれない。
ぞっと悪寒が駆け抜けて、イェナはすっかり臆してしまった。
怖くなったら幌に逃げ帰れと、ロボが言っていた。むしろ闘ってはいけないと教えられた。逃げるが勝ち、イェナは二度と背後を振り返ることも、敵を落とそうなどと欲をかくこともなく、全身全霊、逃げ出した。だけど父に言われて逃げ帰ったときとは違って、不思議と清々しい逃走であった。
イェナが罠の線を避けて逃げ帰ると、左手から投縄の班が飛び出す気配がした。蜥の駆け出す時の土を蹴る音が蹄の音に混じって聞こえたのと、あとは、イェナの蜥がそちらをちらりと見やったので、間違いない。蜥の風覚は他のなによりも鋭敏だ。
幌群に逃げ帰ったイェナは、そこでようやく振り返り、息を呑んだ。
黒い馬の群に、黒い面の集団が、火薬の閃光の中に一瞬だけ浮かび上がる。特殊な面を付けていた。鳥の嘴のような形をしている。鴉みたいだと思った。
もう一人の棹槌係も戻ってきて、「四人落としたよ」と胸を張った。
やっているときにはよくわからなかったけれど、こういうことだったのだろう。罠を炸裂させて足止めをした直後、その背中からイェナたちが十字に駆け抜けて不意を衝く。蜥は速いし、小回りがきくから、敵にしてみればあっちでもこっちでも、群の後ろと真ん中で次々と仲間が落ちていくように感じたに違いない。一拍遅れて先頭集団が背後の奇襲に気付いて鉄砲を撃つ頃には、イェナたちは離脱したあとで、その間に間横からも攻撃をしかける。思いもよらぬところで襲撃をくらった彼らは、火薬の煙と土煙の向うにいる敵を探すも、その頃には蜥の群は遠く鉄砲の射程範囲の外へと逃げていった後である。
イェナはまだ岩場で身を潜めているであろうロボを思って、頬が熱くなった。
ロボに狼狩りの知恵を与えたのはイェナだった。罠のかけかたや、狩りの編成は、ススロたちが何百年もかけて伝えてきた技術で、とても一朝一夕には体得できるものじゃないし、現に、ロボは蜥に跨ってさえいない。それなのに、邑の年寄たちよりも狩りの方法を熟知し、イェナが教えた技を幾重にも連結させて、こんな大仕掛けを成功させてしまった。
やっぱり頭がよかったのだ、と、イェナは自分の慧眼を誇った。
出鼻を挫かれた鴉たちは、間もなく反転して撤退していった。
どこからか歓声が上がって、それはたちまち邑に広がっていって、冷え冷えとした星空に響き渡った。
みんなが戻ってきても、ロボだけがなかなか戻ってこない。痺れをきらしてイェナが蜥の鼻先を岩場に向けた頃、ロボが蜥を牽いてのこのこ歩いてくるのが見えた。蜥の背に頭陀袋のようにひかかっているのがフィオだと知れて、邑は一転、しんと静まった。
ロボは相変わらずの無表情だ。
「俺が撃たれなかったということは、敵は全員引き返したみたいだな」
そんなことを真顔で呟いて、本人は淡々とフィオをおろしにかかる。
「ロボはすごいね」
イェナはこの黒髪の少年を、立派な狩人として認めていた。邑の年寄たちだって、紺やの彼の活躍を認めるはずだ。
「ねぇ、ロボ。朝になったら、成人式しようか」
は? という顔をされた。
「ススロの男子は十五歳で一人で狩りに出て、持ち帰った獲物を邑に供物として捧げるの。兎ってのはさすがに今まで一度もないけれど、鹿とか、狐が多いよ。腕のいい人は熊を獲ってきたりもする。ちなみに、私は狼王。単独の狩じゃなかったけど、狼王を獲った娘として、初狩[ういがり]として認められたの。だから、今夜のことも認められると思う」
「何で今その話を?」
「うちの邑のススロになりなよ。きっと立派な狩人になるよ」
ロボはいつぞやの暗い微笑を浮かべると、はっきりと首を横に振った。ロボが否と答えるのはわかっていたので、イェナは特別残念がったりはしなかったけれど、少し、胸に浸みるような痛みが走った。
「やっぱり、帰っちゃうんだね」
「......気は進まないけれど。あとそれから、俺は十四だ」
「うそ」
「本当だ」
「え、笑うところ?」
「事実、十四だ」
目を円くするイェナを見て、ロボは弱冠、眉間に皺を寄せる。
「それにな、あれは狩りとは言えない。俺が撃ったのは薬包だ」
「でも、邑を守った英雄だよ」
冗談、とロボは陰鬱に笑った。
「本気にならなければならないのは、これからだ。同じ手は二度と使えない。日が昇れば、こちらの実数が知れてしまう。俺がしたのは、夜襲で邑が全滅するのを防いだだけだ。守ったわけじゃない。この先は、イェナたち自身が自分を守っていかなければならない」
だから、と、ロボは遠い星を見上げる。
「逃げろ。できるだけ、今すぐに」
「でも、父さんたちを待たないと」
「今戻らないのなら、きっと、永遠に戻らない」
イェナは言葉を失った。
頭の後ろが冷たく痺れていくようだった。
そんなことないよ、と言わなければならないのに、喉が塞がって言葉が出てこない。
「ここから先は、一刻一人、死者が出ると思った方がいい。すぐに北へ向かって移動してほしい。できれば、街道に沿って。大人たちに伝言を頼む。もし行商人や憲兵に出会ったら、ガウカリアの東部[オストヴァハル]側から敵がやってきた、と皆で口を揃えるんだ」
「え? おす......何?」
「今日、皆が『追い払い』に出た辺りのことを、ススロは何て呼んでいる?」
「高台って呼んでいるけれど」
「じゃあ、高台でいい。必ずそう言え。鉄砲を持った騎馬隊だったと、伝えるんだ。いいな? 騎馬隊だ。野盗とは違う、訓練された動きをする集団だったと言え」
イェナはわけがわからなかったが、肯くしかない。
「じゃあ、頼んだぞ」
ロボはそう言うと、フィオの蜥に乗りかかった。
「あ、待って! どこ行くのさ?」
だいたい、一人じゃ乗れもしないくせに。そう言おうとしたイェナだったが、驚いたことに、ロボは自力で蜥に跨ってしまった。
「一度乗せてもらった。下手くそだが、乗り方はなんとなくだけどわかった」
何てこった。イェナは目を白黒させながら、慌てて蜥の前に飛び出して止めた。
「だめだよ、人の蜥に勝手に乗ったら! あと、体に合わせて騎具を調整しないと......」
「時間がない。本人は昏倒しているから、意識が戻ったら借りたと伝えてくれ」
そんな無茶な、とイェナは首を横に振った。
「フィオ、きっと怒る! ものすごい怒ると思う!」
「文句があるなら、きっちり回復してから聞いてやると伝えてくれ。それまで、こいつをしばし借り受ける。そのまま死んじまったら俺のものだからなって、あのヒヨコ野郎に言っておいてくれ」
ロボは何度か居住まいを直して、いよいよ蜥の鼻を南に向けた。その先には、イェナが最初に彼らを拾った崖がそそり立つ。まさかあれを登るつもりだろうか。だとしたら、初心者にはちょっと難易度が高すぎる。
「ちょっと、ロボ! 無理だよ!」
「無理でもなんでも、俺は行かなければならない」
ふと、ロボの手がイェナの頬に伸びてきた。冷たい指先が、するりと頭の後ろへと滑り落ちる。
「髪、斬られたのか」
「あ、うん。首じゃなくて、本当によかったよ。首が繋がっていたら、髪なんてすぐ伸びるからね。でも、ちょっと残念。私、髪が自慢だったから」
「綺麗だ」
へ、とイェナは顔を上げる。突拍子もない言葉が聞こえたのは幻聴か?
見上げると、見たことのないロボの表情があった。
深い瞳に射抜かれて、息ができなくなる。
脈打つココロが肋骨を破って、今にも飛び出しそうになる。
「とても綺麗な色だと思った。残念だけれど、本当に、斬られたのが髪でよかったと思っている。イェナが無事で、俺は、本当に......ほっとしたんだ」
「ロボ、君......」
どうして泣いているのだろう。
千の星の瞬く夜空を、閉じ込めたような瞳をしていた。人は悲しい時に泣くものだと思っていた。だけどロボが今、何を悲しんでいるのか、イェナにはわからなかった。そもそも悲しい涙なのかさえ、わからない。
「ありがとう。イェナは無事でよかった。君に会えて、本当に、よかった」
触れていた指先が離れていく。
「待って! ロボ!」
この世に駆け出した蜥より速いものなんてないと、イェナは信じている。だから、あっという間に闇に消えたロボを追おうとはしなかった。
涙が溢れそうになる。
だけど泣いている暇なんてなかった。イェナは幌に戻ると、ロボから預かった言葉を伝えた。一刻も早くここを離れたほうがいい、ということについては満場一致。向かう先は意見が割れた。ベルテ河の対岸辺りを移動中の親戚の邑に身を寄せるか、ロボの言葉を鵜呑みにして南に向かって街道へ出るか。口裏合わせについては、皆意味がわからず訝しげに首を傾げていた。イェナだってよくわからないのだから、もはやロボ以外には誰にもわかるまい。おまじない程度だと思って覚えておくぶんには、害はないだろうということで落ち着いた。
ここから先は、年寄の判断に任せよう。幌を出ると、小さな子が毛布を丸めて荷車へと運んでいた。すぐにでも発てるように、皆一斉に自分たちの仕事に取り掛かっている。巣イェナは、引退した年寄蜥たちや母仔の群をなだめすかして、移動用に各々の面懸を繋ぎながら、居幌の群を振り返った。時折、フィオのものじゃないかと思われる絶叫が聞こえてくる。怪我というのは、負った直後より治療時の方が痛い。思い出したのか、背中の古傷がひりひりと痙攣した。
生き延びるための忙しさに押し流されて、イェナは未だ戻らぬ人々のことを考えるのを止めていた。きっと皆そうだろう。
ススロは死者を悼んでも、死体を振り返ることはしない。
だから、どんなに痛くて苦しくても、絶叫をあげる喉が残っているフィオは、運がいいほうなのだ。せっかく繋ぎとめた命だ、どうかこの地に留まりますように、と、イェナは友人のために運命の神様に祈っていた。
死者が甦りますように、とは、祈らなかった。
■
砦の灯りはまだ見えない。
何も、見えていないのだ。
俺には勝利の景色が見えない。何せ生まれてこの方、俺は闘う前から敗けてきた。だから今だって、脳裏により鮮明に思い描けるのは、この安い罠を軽々突破されて次々にススロの民が撃ち殺されて、轟々と燃える怨嗟の焔を背に俺を睨むイェナの顔だった。
俺が今やっているのは、そうならないための予防にすぎない。
だけど、そんな凄惨な絵の下に、もう一つ、景色が見える。怨嗟の焔ではなく、熾の火が赤々と燃えている。何の祝い事か知らないけれど、ススロの皆が楽器を鳴らして笑っている。その輪の中に、俺は入ってみたかった。
だから、イェナが生きていて、本当によかった。
無残に斬られた夕景色の髪を見て、俺はようやく、自分が死地に突撃させたのがイェナであることを思い知った。イェナはどこまでわかっていたのだろう。自分の命があとほんの少しの誤差で、失われていたかもしれないことに。
フィオにしたってそうだ。俺の最初の喧嘩相手が、手負いとはいえ戻ってきたのはよほど悪運が強いからだ。
弾が当たったら死ぬ。当たり前のことだった。
だけど、人が死ぬことが当たり前だと、今の俺には言えなくなっていた。
ちょっと前の俺ならは言えただろうさ、ブランカの時と同じように。俺を抱き込んだばかりに、と、平気で言えた。
言えなくなったのは、彼らには自分の人生があるのだということを、見てしまったからだ。今夜、戻らなかった人の中には色々な人がいたのだ。大人に交じって狩りをすることを俺に自慢して行った奴がいた。犬を飼っていた話をしたら、自分のところの犬を触らせてくれた小父さんもいれば、今年の春に結婚して初めて子どもを抱いた父親もいる。以前に狼狩で旦那を亡くして、それでもなお自分が狩人であることを誇る未亡人もいた。
あの邑が滅ぶのは防いだ。この先は、守らねばならない。無力な集団じゃないというのは、俺自身が良く知っている。しかし、訓練を受けた狙撃手の集団は、野の獣とは違う。
実際にオストヴァハルの兵団であるかどうかなど、どうでもいい。この俺が、ガウカリアの東北域で騎馬隊に襲われたという事実さえあれば、かまわない。イスガルの国境警備の軽騎馬隊が、イェナたちの行く先を守るように仕向ける。イスガルの正規兵はススロの言葉になど耳を貸さないが、情報通の商人たちなら、きっと拾ってくれる。
できるかぎりばらまいてもらおう。
国境侵犯ともなれば、すぐにでも警邏隊を組むはずだ。
俺は、今日ほど自分が王族であることをありがたく思ったことはない。第二王子という肩書も、使いようだ。
しかし、この切り札はエランの命と引き換えになる。
他に手はないものか。
俺は慣れぬ蜥にゆっさゆっさと揺さぶられながら、必死になって探していた。
しかし、とうとう何の手も見つけられないまま、砦の灯りが見え始めた。
サルマリア砦。イスガルの東の果ての石の砦である。この先のガウカリアはベルテ河を挟んで西がイスガル、東がオストヴァハルの領土、と、イスガルの地図には記すことになっているが、成文化された証書はどこにも残されていない。証書がないのをいいことに、先代の王がちゃっかり砦を築いて以来、オストヴァハルとはかなり険悪になっている。
そもそもイスガルは巨大な「聖皇国」の片田舎を意味していた。そこを異邦に対する尖兵団が侵略の拠点として東部皇国領[イストヴァハル]としてぶんどり、近隣の王侯貴族と政略結婚を進めるうちにかつての主人であった皇家の姻戚とまで成り上がり、ついには独立した「王家」として皇国から承認され、戴冠するに至った。
王を名乗ることを許された最初の王、つまり、俺の祖父にあたる人物は、早速、聖皇国との間に線を引いた。もはや皇家の狗ではく一つの国である、という象徴として、国境線を守る最果てにサルマリア砦を築かせた。
そういう背景のある砦であるから、サルマリア砦に配属された兵士たちは、ガウカリア東部という言葉にはかなり神経質になっている。ましてや、この近辺で拉致された第二王子の消息が途絶えたとあっては、砦を預かる責任者は青ざめているに違いない。
二本足の蜥蜴に跨って単騎突入してきた俺を、門番は最初、相手にしなかった。
お前など相手にしているほど暇じゃない、と言われた。それはそうだろう、大変に忙しく緊張状態にあるに違いない。しかし、早急にお前たちが相手にしなければならないのはこの俺である。大きな問題が一つ片付くではないか。
そこで俺は名乗りたくもない長ったらしい本名を名乗った。が、狂人扱いで、あまつさえ銃口を向けられた。
無理もない。いかんせん、今の俺は、彼らが歯牙にもかけない流民の恰好をしている。
しかし、物乞いだと勘違いされて硬貨を投げつけられたのには、さすがに腹が立った。威嚇射撃を無視して門番に詰め寄り、筆記用具を出させて、今現在、サルマリア砦の最高責任者であるモルドァ中佐に一筆進呈する。
『灯台もとくらし』
悔しかったので古語で書いてやった。ついでにモルドァの、全部で八十を超える本名を一字も漏らさず書き切ってやる。家柄がよくて資産の多い貴族出身者の名前が長いのは、イスガルの背景が背景なだけに、婚姻関係が複雑だからだ。
文盲のはずの流民が貴筆体を書いたものだから、門番は目を剥いた。書いている最中に後頭部に銃口を突きつけられたりもしたが、「武装していない民間人を射殺してみろ。軍法会議ものだ」と脅したところ、すごすごと引き下がった。
それから間もなく、モルドァ中佐がおおあらわで出てきたのは、言うまでもない。彼が俺に跪いたことで、真面目に職務を遂行していた門番も、ようやく信じてくれたようだ。
馬番が蜥を怪訝な顔つきで見上げるので、俺は釘を刺しておく。
「そいつは借り物だ。丁重に扱え。万一にも、殺すな」
砦内では何やら異邦人が取り調べられており、しきりに何かを説明していた。珍しい顔貌だったので、目を引いた。黒い髪に、平坦な鼻。糸のような目。噂に聞いたことがある。オストヴァハル領土のさらに向こうに、極東域と呼ばれる地があるという。
「だから! 盗られた! 紛失、盗難、在不明! 発行、再、申請!」
恰好はススロの衣装に似ているが、小さな引出のついた木の箱を指さして、しきりに喚いていた。どうやら身元証明を失くしたようだ。それなら救済所へ行けと言いたい。
「困ったなぁ。ひょっとしてここ、バルマティス商会、違う?」
まったく通じないわけではないらしく、時折、片言のイスガル語が聞こえてくるのを片耳に聞きながら、俺は道すがらモルドァ中佐に俺のでっちあげた筋書を話した。
精々、俺は何者かの陰謀に巻き込まれた風情を装うまでだ。これで仕掛けは済んだのであとは思惑通りにことが運ぶかどうかだな、と息をついた時だった。
額から項にかけて、頭蓋骨が割れたような激痛が走った。
思わず膝を付いた俺を、モルドァ中佐は起こして揺さぶる。やめろ、余計にひどくなる。言いたいが、言葉も出ないほどの激痛に襲われ、項にじっとりと嫌な汗が滲んだ。
「おい、誰か! 医務班を呼べ! 殿下が昏倒された!」
意識はあるのだ、反応できないだけだ。
俺は自力で立ち上がろうとした。が、どうしたことか首から下がまったく動かない。舌も痺れたように感覚がないのである。意のままになるのは瞼だけらしい。
おや、ひょっとして俺は死んだか?
しかし、聴覚は正常であった。
「あ、ハイハーイ! わたし、わたし!」
間抜けた甲高い声が響いて、取り調べられていた極東人と思しき奴が駆け寄ってきた。無論、兵士に威嚇されて俺の五歩圏内には入ってこなかったが、こんなことを言っていた。
「あー、だめだめ! そういう状態の人を揺すってはいけない! ねかせて。通じてる? ええっと、横臥、安静、意識有無。ああ、通じない!」
銃剣の隙間から手を伸ばしてばたばた振っているのが見える。医者、か? 声質からして女だ。ふと、彼女は首を傾げる。
「あれ? 今『お客様の中にお医者様はいませんか?』って言った、違う?」
「お前、医者か?」
ハイ、と薄い顔に満面の笑みで女は肯く。
「一、その子をそっと横に寝かせる。二、意識があるか確認する。呼吸と脈を確認して、生きているか調べる。でも何よりも先に、わたしを側に行かせる。ここ、通します」
俺としてはこの頭痛を今すぐ治せるのなら誰でも構わない。
モルドァ中佐はしばらく考えていた風だったが、部下を下がらせて得体のしれない共闘人を俺に寄せつけた。彼女は医者ややるように俺の手首を取り、「あれま」と奇怪な声をあげた。それからいきなり首筋に指をあてると、何か所か強めに押して、最後に項をぐいと押した。途端、鈍器で殴られたような激痛が頭を駆け抜ける。
「聞こえます? 喋れます?」
「あ......」
舌に痺れが残っているが、口がきけるようになった。なるほど、確かに医者かもしれない。かなり怪しげではあるが。
「どうされました?」
「頭が、痛い。それから、手足が動かない」
「なるほど。結構な時間、痛いです?」
「途中で痛みが引いた。が、再発した」
「いつごろから痛いです?」
「昼間だ。今のほうがよりひどい」
「うーん、そうだとしたら、今までは痛覚がぶったぎれていたとしか......。君の症状、とても厄介です。とても痛かったはず」
「さっさと治せ」
「とりあえず、鎮痛します?」
「やれ」
すると、女は例の怪しげな箱を持ってこさせて、引出から包みを取り出した。広げると、中には髪の毛のように細い針が丁寧に仕舞われていた。モルドァ中佐は息を呑み、取り調べの兵はいつでも射殺できるよう、彼女の後頭部に銃口を押し付ける始末。
「煩いです、ちょっと離れます。手元が狂うとこの子、永久に目覚めません?」
とか言いながら、その女は俺の項にその針をぷつりと刺した。
不思議なことに、鈍痛がぴたりと止んだ。
「どーですか? まだ痛いですか?」
「いや、痛みはない。が、手足がまだだ。すぐ治せ」
俺はエランがちゃんと国外に逃亡できたかどうか確かめるまで、死ぬわけにはいかない。
俺のやらかしたことの成果は小さく、代償はあまりに大きい。最大成果は国境警備の強化が進んで俺にかかわったススロの一家を深追いすることを相手が諦めること。そして最悪の場合は、一家はすでに全滅し、エランが拉致事件の実行犯として捕らわれること。
結果がどう転ぶか、俺は見届けなければならない。
ところが。
「治します? では、しばらく眠ります。一月くらい安静にします」
ふと、頭の芯の蕩けるような感覚があった。ふわりと浮くような感覚があって、体が熱り、眠気が髄から込み上げてくる。
最後に見たのは、俺の小指にはまった黒い石の指輪だった。こうして近くで見ると、黒い石ではなくて、基盤に何かが編み込まれ、上から奇石で塞いでいるのがわかった。
髪?
これまた気味の悪いものを寄越したものだ。次に会ったら突っ返そう。そんなことを思いながら、俺は次第に暗く温い、眠りの底へと沈んでいった。
それから、どれくらい経ったのか。
昏睡したせいで時間の感覚がなくなってしまった。
手足の痺れも消えている。寝台に寝かされていることに疑問を抱き、そういえばここはサルマリア砦の内部だったかと思い出す。
まず何をすべきか考えていた。
蜥の様子を見に行こうとしていた。あんなに無茶な走らせ方をしたから、足を痛めているかもしれない。それに、労ってやらないと。そんなことを考えて、頭を振る。
違う、俺はススロではなくなった。イスガル第二王子に戻ったのだ。別に嬉しくも懐かしくもないが、得た権限の代償を負わねばならない。
「誰かいるか」
木の扉が微かに開いて、世話を仰せつかった下女が深々と頭を下げた。
「中佐を呼べ」
もう一度、彼女は頭を下げると音もなく扉は閉められた。その冷然さに、ピンときた。俺は監視されている立場らしい。俺がそのように扱われているのならば、全て、罪は露呈したということだろう。
俺は窓の外の空を見る。とてもよく晴れていて、どこまでも、遠かった。
モルドァ中佐の報告を待つまでもない。
エランは、捕まったのだ。
結論からすると、最大の成果と最悪の結果であった。
俺が昏睡していた三日間のうちに、エランは捕縛され、すでにシュレスタン監獄へ送られている。
「軍法会議か、それとも『星の間』か?」
枢機卿らによる審議会を、その会議場の天井に極星が描かれていることから「星の間」と呼ぶ。極星は移ろう星の並びのただ一つの不動の真理の象徴、人の運命は変遷すれど、ここで審議され、決定されたことは何人たりとも変えようのない真実とされる。要は、扱いの面倒な王侯貴族を有罪にするための諮問機関だ。
俺の問いに対して、モルドァ中佐は事務的に「星の間にございます」と答えた。
つまり、審議されたのはエランではなく、俺ということか。
「過日、エラン少尉の斬首刑が決定されました」
そうか、と俺はモルドァ中佐に背を向けて、さりげなく小指の指輪を外しておく。隠しておいた方がよいと、直感が囁いたのだ。
「殿下、国王陛下から招聘の令状が届いております」
「すぐに参る」
「帯刀は許可しない、とのご命令です」
「心得た。誠心誠意、真心をもって御許に参上仕る」
いい天気だった。頭のよく冴えている。
不意に、笑えてきた。
「何だか、夢でも見ていたような気分だ」
変な夢であることは確かだけど、不思議と嫌な感じはなくて、むしろこびりついた錆が取れていくような心地であった。
だが、これは悪夢だ。
覚めぬ夢なら、徹底的に楽しむしか救いがない。
押し黙る中佐やその他一同を見渡して、俺は思ったままを言った。
「こんな日もあるさ、生きていればな」
逃げ出したかった。だけど、どこへ向かえばいいのかさえ見えていなかった。
回りだした運命の輪を止めることはできなくて、俺は何もできずに巻き込まれていくようで、はじめて、それを悔しいと思った。
勝ってみたい。
運命に抗って、争って、本気の勝負をしてみたい。
この感情を、人は何と呼ぶのだろう。