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狼王記原本@2013  作者: 清水さゆる
1/6

まあ読んでわかるけどこりゃ没ですよ

狼王記




序、 負け犬の逃亡


 狗と呼ばれた国があった。

 狼[ロボ]と呼ばれた王がいた。

 後に大陸の三分の一の領土を誇る大帝国へと成長を果たす、その繁栄の礎となった一人の男の生涯は、謎に満ちている。肖像画一枚、今世には残されていない。

 形を無くした武勲[いさおし]の数々だけが、風とともに人々の心を渡りゆく。

 狼王、ロボ。

 屍山血河を睥睨する冷酷無慈悲な侵略者の虚像が「人狼王[ロボ]」の渾名の由来である、というのが専らの説であるが、彼の王について妙な話も残っている。

 狼王ロボには常に色恋沙汰の噂が絶えず、百花繚乱、名だたる才女と浮名を流した。

 煌びやかな戦歴と華やかな逸話に彩られた「王」であるが、実は歴史上、彼が正式に王位を継いだ記録はない。

 無敵にして無冠の、影の王。

 そんな不遇な側面も相俟って、狼王と同じくらい不名誉な渾名も残っている。

 人よんで、「女難の王」。

   ■

 逃げ出した。

 だけど、その時の俺には逃走したその先の景色が全く見えていなかった。

 とはいえ、逃げ出したのなら、覚悟を決めてとことん逃げ切らなければならない。

 それができねば、殺されるだけのこと。

 物心つく前は、自分が殺されることが、普通のことだと思っていた。

 時たま飲食物に毒が混入して内臓ごと吐き出す勢いで嘔吐するのも、当然に頭を殴られて昏倒するのも、運悪く乗った馬が暴れて橋から落ちて河に流されるも、寝室に蛇やら蜘蛛やら紛れ込むのも、子どもだからだと思っていた。

 子どもにはお化けが見えるように、それらは子どものうちにしか起こりえない自然現象なのだと、かわいいくらいに浅はかな俺は、勝手にそう考えていたのだ。

 子どもは弱い。死にやすい。だから親が庇護しなければならない。親の庇護が得られない子どもは、普通は死んでしまうもので、幼いうちに母をなくした俺が今日まで生き残っているのは、運が良かったからだと、そう思っていた。そして、運が良いのは王族だからだと、選ばれた人間だからだと、そう思っていた。強ち、間違いではない。

 確かに俺は選ばれた。ただ、俺を選んだのは幸運の女神ではなく、冥府の女王だったらしく、かつて経験した死線の数々は、自然現象などではなくて明らかに人の手によるもので、言葉に表すならば「暗殺」と呼ばれる行為であった。幼い俺は「暗殺」という言葉を覚えると同時に、自分が選ばれたことを知った。

 支配される、生贄として。

 愚かでなければならない。

 俺は、稚いなりに、そう考えた。首にひっかかった死神の鎌を、優しい慈愛の手に撫でられていると勘違いしたほうが安全だ。

 鼻の良すぎる犬は、飼えない。

 ぼんやりしていよう。子どもながらに俺は、その結論に至った。

 餌を貰って飼い馴らされていよう。噛みつこうとしなければ、ここは平和だ。

 俺には兄と弟がいる。全員胎が違うが、一番身分の低い胎は俺であった。おまけにこの世にもういない。なので、俺の役目は二人を褒め称え、敬い、常に優先させることだった。そのように言い含められていたので、俺は勉強でも武芸でも、二人の「ちょっと下」を狙うよう努めた。思えば、それがたった一つの生存戦略であった。

 その唯一の手段を、俺はうっかり自らの手で塞いでしまったらしい。

 遡ること五年前。

 突然に、俺は父王から犬を与えられた。

 白い雌犬だった。雄犬二頭は兄弟にとられた。

 悔しいとも思わなかった。それが普通のことだった。父王は「お前の好きにしてよい」と言って、青白い顔で微笑んだ。そこで俺は「殺しても?」と訊ねた。返ってきた答えは「お前のものだ、思うままにしてみよ」ということだった。

 俺はその時、なるほど一度誰かの支配に下るとそうなるのか、と考えた。

 ふわふわの毛玉は、きゃんきゃん騒いで俺を拒絶した。

 そうやって逆らわれると、手懐けたくなるものだ。

 俺はその犬を育てることにした。「恩返しがあるかもしれませんよ」と、冗談交じりに進言した者がいたのも、理由の一つだ。

 それに、俺自身は決して兄弟に勝ってはいけないが、自分以外ならば良いだろうと考えたのだ。そして五年の訓練を経て、そのふわふわの毛玉は涼やかな猟犬に成長した。

 ブランカという名をつけた。「白」という意味の古語だ。

 闇夜に冴える月のような犬であった。

 ブランカは、たった一つの自分の物だと言える財産だった。おまけに彼女は見目麗しく、俺の自慢の愛犬だった。

 ぼんやりの俺は、産まれて初めて「誇る」という感覚を覚えた。

 ブランカの猟犬の能力は群を抜いていた。先の野狩で、彼女は最も多くの獲物を誘導し、俺に花を持たせてくれた。

 あの時殺さなくてよかったな、というのが、その時の率直な感想だった。

 俺は彼女を褒め、そして俺は父王に褒められた。父王に褒められた俺は注目された。貴婦人方に褒めそやかされて、まんざらでもなかった。

 それで気分を良くした俺は、阿呆である。

 そして、今宵。

 夜戦訓練から戻ってきて、ブランカの姿が見当たらないことに気付いた。常ならば馬を止めたところで大理石を蹴る爪の音が聞こえてくるのだが、いつまで経っても虫の音しか聞こえない。

 口笛を吹いて呼び寄せたが、やってきたのは側付のエランであった。

「お前はお呼びでないぞ」

 犬のようにやってきた齢三十の側付は、俺の言葉に軽く頬を緩ますと、鳶色の瞳を細めて一礼して下がろうとした。

 と、そこでエランが妙な角度で動きを止めた。そのまま屈むと、地面に軽く指を触れた。そこには犬のものと思われる足跡が残っていた。

 点々と続く足跡。俺はお得意のぼんやり顔でそれらを追っていたが、間もなく、違和感を覚えた。

 どう見ても、足跡が一種類しかない。右の前足の次に、また右の前足が出ている。どうやったらそんなことになるのか、俺は色々想像しながら、ぼやぼやと足跡を追って行った。

 追って行った先には、想像の域をあっさり超越した光景が待ち受けて得た。

 真っ赤に染まった毛皮が、襤褸切れのように転がっていた。

 尻尾と、三つの足がついていた。残り一つの足は、少し離れたところに転がっていた。

 ああ、なるほど。あの足跡は、そういうことか。

 となりでエランが何か言っていたが、ぼやぼやの俺の頭にはちっとも入ってこなかった。

 考えるな。

 ぼんやりしていれば、それでいい。

 考えては、いけない。

 とは、わかっているのだけれど。

 石火の弾けるのが見えそうなほどの勢いで回りだした頭を止めることはできなかった。

 俺はエランの制止を振り切って、その死骸に近づいた。おそらくはブランカであろうその死骸は、まだ熱を残して柔らかかった。死んだらすぐに冷えて固まると思っていた俺にとって、それは少し、意外な事実であった。

 ブランカだと断定しないのは、頭がないからだ。

 腹を裂かれ、内臓[なか]を暴いた跡がある。見れば、食い散らかされた痕跡が方々に転がっていた。ひどいことをするものだ、と俺は思った。

「これは刃物の跡だ」

 俺はすっぱり裂けた腹と首の傷を調べて、もう一度、ブランカを構成した種々の部分の残骸を見渡す。まあ、いまさら掻き集めたところで半分も残っていないだろう。

 人の手で殺された後、刃物で腹を裂いて犬に喰わせた。そんなところか。

 頭がどこにあるのか、何となくわかる気がした。回収しにいこうとしたところ、エランが押し倒す勢いで止めたので、俺は何事かと見上げた。

 エランは顔を強張らせて、何か言いかけ、俺の様子を伺う。そして考えに考えた末に、ひどくありきたりな言葉を口にした。

「大丈夫ですか?」

 語彙の貧しい奴である。が、俺は嫌いじゃなかった。

「俺は、な」

 ブランカは、無事とは言えない状況だが。

 俺は振り返り、小さく息を吐いた。確かにこんな有様では呼んでも来られるわけがない。無理な命令をして、悪かった。

「頭を探してやらないと」

「殿下......」

「わかっている。頭を繋ぎ合わせても生き返ったりはしないだろうさ」

「殿下」

「俺が足跡を追っている様は、犬が犬を探しているみたいで、滑稽だったろうな」

「殿下!」

 怒鳴られ、向き直らされる。真正面から俺を見るエランの目が、波間の月のように危うげに揺れていた。

「本当に、大丈夫ですか?」

「そんなに俺は危なっかしく見えるのか?」

 俺はエランににっこり余裕の笑顔を作って見せた。

「そうは見えないところが、心配なのです」

 エランは命じてもいないのに跪くと、俺に視線を合わせる。

「殿下は、追い込まれるほど愛想がよくなります。今の殿下は、とても晴れやかに笑っておられます」

「そうだとすると、今の俺は相当に危険だな」

「さようです。ですから、約束をしましょう。ブランカの頭を見つけたら、すぐにここに戻ってきてください。私はそれまで、ここで見張っています」

「子ども扱いか」

「いいえ、これは要求です」

 俺はちょっとだけ考えた。このまま「ぼんやり」を続けるか、それとも素を晒すか。

 現状、俺は自分が思っている以上に動揺しているらしい。どう振る舞うかを決定するよりも頭の方が早く回転してしまって、いつものようにぼんやりしていられない。

 この、自称忠臣は、俺が血迷うことを懼れているのだ。このまま兄弟に復讐を仕掛けるのではないか、と。その結果、自分の主が罪人として処刑されるのを回避しようと、必死になっている。

 エランは側付として俺をよく守っている。物理的にも、精神的にも。俺はこいつの、その点においては信頼している。いかんせん、エランには俺に破滅されては困る理由がある。

 俺が血迷った場合、正体を隠して側付として懐に潜りこんだ苦労が水の泡になる。今日までエランが俺に忠実であったのは、その目的を達成するためには俺が生きている必要があるからだ。暗殺者にあっさり寝首をとられても、俺が癇癪を起して自滅しても、エランの目的は達成されない。

 エランは現在、一触即発の関係にある隣国ローハンが放った間者である、というのが俺の見解である。真実は、まあ、事が動けば知れることだ。俺はぼんやりを決め込んでいるので、エランが自ら白状するまでは決して明らかにならないし、その必要もない。

 少なくとも、今までは。

 さて。俺はどうやら岐路に立たされているらしい。

「聞き入れなかったら、どうする?」

「殿下は聡明な方ですから、今のやり方では勝てないことをご存知です」

「俺は、あんまり勝とうとは思っていない」

「それは残念です。私は勝つ気にございます。よいものですよ、勝利の味というのは」

「血の味がしそうだ。要らない」

「それでは、自由ならどうでしょう?」

「どんなものか、想像もつかない。だから価値もわからない」

 そう。全て、俺が今まで通りぼんやりしていれば済むこと。エランの目論みに気付かないふりをして、ブランカのこともなかったことにしてしまえば、少なくとも俺は安泰だ。

 俺だけは。

 ......ああ、やはり今はダメだ。頭が冴えすぎて、未来まで見えそうだ。

 ここで俺が易々とエランに連れ出されたのならば、それは、反逆に等しい。死してなおこの国の土を踏むことはかなうまい。とはいえ、それほどの愛着もないわけだが。

「エラン、あらかじめ断っておくが、俺に人質の価値なんてないと思う」

「ご自身を過小評価なさるのは、殿下の悪い癖にございます」

「過大評価もできまい」

「殿下の価値を決めるのは、恐れながら、殿下ではございません」

 エランは優しい笑顔のまま、酷いことを言ってのけた。

「殿下は、早熟であられます。しかし、世間にとっては弱冠十四歳の幼い王子にございます。国王陛下は父親である以上、見捨てることはできません」

「それは、不幸だな」

「はい。不幸です。そして不幸中の幸いは、殿下が愚かではないことです」

「お前は俺を買いかぶりすぎだ」

「いいえ。殿下は非常に優秀です。故に、阿呆を演じておられることぐらい、五年も御側に仕えておりますればわかります。殿下、どうか、お覚悟を」

 俺は赤い塊になり果てた自慢の愛犬を見やる。

 不意に、欲が湧いた。

 大事なものをこんな形で失っても「ぼんやり」していなければならないこの現実を振り切って、逃げ出したしてしまいたいという、欲望。願望。あるいは、希望。

 俺に、一瞬だけ勝つことの意味を教えて、自分はさっさと逝ってしまった薄情者。残酷なことをしてくれる。俺は二度と、負け犬の生活に戻れなくなった。

「ところでエラン。俺がブランカの頭ではなく、近衛兵を連れてきたらどうする? 俺は安寧と平和のためなら何でもするぞ」

 何だかこいつの掌で踊らされているようで癪だったので、意地悪を言ってみる。しかし、さすがは俺を手懐けた人物だけあって、エランは鼻で笑った。

「それはなかなか、穏やかではありませんね。殿下のおっしゃる『安寧と平和』が私には理解しかねますが、そのつもりならば、すでに私は捕縛されています。そうでしょう?」

 然り、と俺は肯く。

「そもそも、ブランカの頭より優先されるべきことはないからな」

 俺はすっかり板に着いたぼんやり顔をして自室の窓を見上げた。

 ブランカの頭はきっと俺の寝台だ。

 行ってみれば、案の定、虚ろな瞳が枕の間から俺を茫洋と見つめていた。

「悪かった」

 もはや届かぬ詫びではあるが、言わずにはいられなかった。

「俺の犬じゃなければ、お前はもっと生きながらえた」

 もうちょっとだけ生き残れば、仔犬の毛を舐めていたかもしれない舌が、血にまみれてだらりと口から零れている。裂けた腹を思い出し、雌犬であったことを思い出し、母親になるかもしれなかった可能性に気付いて、俺は、罪悪感に呻いた。

 呻いたところで、ブランカの頭と体はもう繋がらない。死んだものは、死んだのだ。俺がするべきことは、選択。そして、その先にある結果を受け入れること。

 犬の生首を持って部屋を出てきたものだから、すれ違う者皆が、ぎょっと息を止め、眉を顰め、大仰な場合は悲鳴を上げ、ひどいときには気絶した。

 正気を失いたいのはこっちである。しかし、昏倒するどころか、俺の頭はますます冴え渡り、夜だというのに木々の枝間に眠る鳥の姿さえ見えそうなくらい清々しい。

 俺は諸々無視して、一つだけ、「ひとりになりたい。しばらく誰も寄越すな」とだけ命令した。あえて生首を見せたのは効果絶大で、俺の周囲は俄かに騒々しくなった。良くも悪くも、俺が注目されているのならば、その他が疎かになるものだ。

 エランは実に仕事のできる奴で、こんな時にちゃっかり墓穴まで掘って俺と首を待っていた。事が事だけに、ひっそり綺麗に、跡形もなく埋めなければならない。俺はエランと二人で黙々と土を掛けた。エランが時折寄越す気遣わしげな視線が鬱陶しくて、俺は「泣いた方がいいか?」と訊ねた。

「ええ。そのほうがよろしいかと」

「泣き方を忘れた」

「では、思い出すまでは無理に泣かずともかまいません」

「そんなに俺を泣かせたいのか」

「殿下を泣かせたいわけではありませんし、泣かせて喜ぶ趣味もありません。ただ、ブランカのために、悲しんではいかがでしょう?」

「悲しみ方も忘れた」

「そうでしょうとも。だから、私めが殿下の代わりに泣いて差し上げているのです」

「俺の代わりだと? 無礼者め」

「では、代わりなど必要ないよう、早く誰かのために泣くことを思い出してください」

「......努力しよう」

 ブランカの亡骸に土を被せながら、俺はきっと、俺自身も埋めていた。

 犬好きで、引っ込み思案で、昼間の月のようなぼんやりした俺を。

 愚かで大人しい飼い犬でなくなった俺は、その時、逃げることしか考えていなかった。

 エランは埋め終わるまで物騒な計画を実行に移さなかった。その間抜けを、人は優しさと呼んでやたら尊ぶ。

「それでは、殿下。失礼いたします」

 人を押さえつける方法はいろいろあるようで、一見、心痛で脱力した俺を支えるような恰好でエランは俺を抱えた。驚くべきことに、上半身が磔にされたように身動き取れなくなり、俺はなす術もなくエランに連行された。

 かくして、第二王子誘拐という前代未聞の犯行は、堂々と、淡々と実行された。

 途中、幾人かとすれ違ったが、俺を介抱しているのが側付で、連れて行かれる俺が大人しいのならば、止める輩はいなかった。部屋に俺が戻らず、医務官も呼ばれず、城内のどこにも第二王子の姿が見当たらないことに皆が気付くのは、おそらく日が昇ってからのことだろう。あるいは、死んだものとして探されることもないかもしれない。

 そうあってほしい。下手に探して連れ戻そうとすれば、エランは無事ではすまない。

「ご不便をおかけしますが、なにとぞご容赦ください」

「どの道、今夜はあの血染めの寝台では寝れまいよ」

「寛大なお言葉、痛み入ります。では、しばしの間、辛抱してください」

 言うや、目隠しをされた。それから舌を噛まぬように布を口に詰め込まれる。手首と足首を縛られ、何か大きな袋に詰め込まれて肩に担ぎあげられる。自害するほどの根性も、報復するほどの意志も持たない俺に、些か厳重すぎるのではないかと、思わなくもない。

 犬の生首騒動のおかげで、エランの企みはすこぶる順調に進んだようだ。馬の匂いがして、降ろされる。鞍に括りつけられながら、輿車を使わないのは得策だな、と考えていた。

 王城の、それも王子の居区[すまい]からの誘拐だなんて、大それたことを成し遂げるならば、機動力が鍵となる。騙し討ちのような鮮やかさで遂行しなければ、時間が経つほど包囲が固まって手狭になっていく。

 走り出した馬の鞍にしこたま腹を打ち付けられながら、俺はぼんやり、考えていた。

 エランのこの企ては、どこまで成功するするだろう。

 答えを出しかけて、俺はそこで考えるのをやめた。

 代わりに、明日からのことを考えた。こうなった以上、俺はエランに協力する所存だ。大人しくローハンの捕虜となったとしても囲っている建物が変わるだけで俺の在り方は今までと変わらないだろうし、逆に連れ戻されでもしたら、反って危険だ。抵抗しなかったのは明らかに俺の失策であり、反逆の意志ありと見なされ処刑されるならまだしも、勝手に病を仕立て上げられ幽閉されたらたまらない。人間の心を壊すのは難しくない。薬物浸けにされて自宅療養という名の監禁状態にされた者も、政治犯として牢獄送りになって廃人になってしまった者も、俺は知っている。

 そんなことを考えているうちに、酔ってきた。走る馬の背に俯せに固定されるというのは、連続して腹に打撲を喰らうようなもので、俺は腹の中を胃液の一滴までげぇげぇ吐き出して、とうとう出すモノを出し尽くして、すっからかんになって、ふと気付く。

 そうか。もう、別に「ぼんやり」していなくてもいいのか。

 俺は馬の息と蹄の音を聞いていた。息はまだ上がっていないのに、蹄の音に乱れがある。と、感じたのは、どうやら酔いのせいで俺の耳がいかれて距離感を誤認したためらしい。蹄の音が明らかに多い。並走するのが一つ、二つ......その奥にもう一騎。

 思いのほか俺は大事にされていたらしく、早くも王都守衛のために配備された憲兵たちが、追いついたらしい。

 なかなかに手回しの良いことだが、警笛が聞こえないのが気になった。

 数で押せば簡単に取り押さえることができるものを。

 しかも、あろうことか発砲音が聞こえた。連続、三発。俺の乗る馬は軍馬であったようで、暗闇も銃声も気にしない度胸のある馬であった。そしてそれは、追跡者にも言えることで、つまり、訓練された狙撃手である。

 守衛の憲兵ではない、と俺は判断した。

 仮に王子誘拐の実行犯であるエランに射殺許可が出ていたとしても、先に馬を止めさせるのが筋だろう。何せ、誤って俺を撃ったら一大事だ。......いや、まて。中てろ、という指示か? 死人に口なし、エランも俺も死んでしまえば、事実を知る者はなくなる。彼らは涙ながらに俺の死体を持ち帰り、追いつめられたエランが撃ったことにすればいい。

 憲兵を呼ばないのは、憲兵に見られると拙いからだ。

 そもそもエランの馬鹿は、どのような言い訳をして城門を開けさせたのだろう。

 俺なら、犬の死体を捨てにいくと言う。すでに俺は袋に入っていたし、大変に大人しくしていたし、首のない犬の死体なんて誰も検めたりしたがらない。ついでに「王子の目には触れさせたくない、できれば城外で然るべく弔いたい」と添えれば、しばらく戻ってこなくても怪しまれない。

 こちらの馬の息は、二人乗せているにも関わらずまだあまり乱れていなかった。なので、そう時間が経過しているとは思えない。袋の中身が犬の死体でないことを知っているのは俺と、エラン本人と、そして、死体が持ち出せるような状態ではなかったことを知っている者だけだろう。

 なるほど、ブランカの死を利用するのは俺だけではなかったということか。

 ふと、エランが俺に覆いかぶさった。エランはしばらく俺の上から動かなかった。やがて袋を浸みて何か温かい液体が俺の背中に触れた。

 どうやら撃たれたらしい。阿呆、お前がしっかりしてくれないと、俺も終わりだぞ。

 もはやこれまで、と大して長くもなかった人生の終いを覚悟しかけた時だった。

 ザフ、ザフ、という、耳慣れない足音が後方に聞こえた。と、認識した頃には、すでに真横にまで迫っていた。速い。走る馬よりも遥かに。

「荷を捨てな!」

 声がした。

 俺も同感だが、エランは死んでも荷[おれ]を手放したりはしないだろう。この企て、実行した時点でエランにはもはや自分だけ生き伸びて無事に帰るという選択はない。

「だめだ」

 よほどの深手なのか、エランの声は低く擦れていた。

「欲張るんじゃないよ! 命とどっちが大事なんだい!」

 女の声だった。まだ若いが、腹の底に響く良い声だった。

「命よりも重要だ」

 エランの答えに迷いはなかった。

「ああ、もう! じれったいね! わかったから、しっかり抱いて、こっちに移りな!」

 袋の中の俺としては、感触とやり取りだけでしか状況を掴めない。

 ザリ、という、地面を引掻くような音の直後。

 浮遊感。

 それから、着水。

 死んだ。俺はその時、確信的にそう思った。


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