チッチの逃避行
シンの家からは南門が近いが、門に近くなるに従って黒服の数が尋常じゃなく増えていった。
裏道を通る様にして門自体が何とか見える所まで行ってみたが、門の前には黒服しかいなかった。
『ちっ!だめっすね。』と心の中で毒づきながら、チッチはすぐに物陰に隠れた。
どう見ても門から外へ出る事は無理だった。
南門がこの状態なら、他の門も同じ状態のはず。
そこでチッチはスラム街へ向かって、黒服に会わない様に裏道を通りながら移動した。
チッチはスラムに住んだ事はないが、スラムに行った事があるのだ。
王都の中でもスラム街が始まる辺りは、いわゆる赤線地帯で、貧困に喘ぐ女性たちが路地に立ち、客を取っているのだ。
娼館などと違って、容姿や年齢を問う者は少ないので、それなりの数の女性が商売しており、いわゆる格安のお値段で路地裏で事を致すのだ。
中には歯の抜けた老婆なども混じっており、一部にはその老婆を目当てに通う者もいるらしい。
チッチもこの辺りなら数度は来た事があるのだ。
スラムの一角には王都で追われている罪人などを、金を取って抜けさせる細いトンネルの様なものがあると聞いた事があったのだ。
チッチはそのいわゆるトンネル屋の場所を知っているわけではない。だが、全く見当がついていない訳でもない。当然、王都をぐるりと囲っている塀のすぐ近くであるのは間違いないはずだ。
それに、今の王都から外へ出るにはこの方法が一番安全なはずだ。
「らっしゃい」
ボロイ小屋の入口にだらしなく座っていたボロを着た男が、チッチを見て声を掛けて来た。
この状況で黒服を怖がらず、建物の外に出て佇んでいるってだけで何かありそうな感じだ。それも、チッチがトンネル屋を探そうと、小一時間この辺りを歩き回っている間中、男はそこを動かなかったのだ。
この、目端の利く者なら黒服とかち合わない様にするために、家から一歩も出ないこの朝にだ。
恐らくここがトンネル屋だ。チッチは徐に声を掛けて来た男に近づいて行った。
「ここがトンネル屋っすか?」
チッチの問に、目つきを鋭いものに変えたさっきの男が、小さく頷く。
「いくらっすか」
「金貨1枚」
結構な値段なのだが、向こうも罪人を逃がした事が分かれば極刑にされるのだ、高い料金も取ろうというもんだ。
チッチは値段交渉など一切する事なくうなずいた。
「王都を出たところで全額支払いっすか?それとも最初に半額、王都を出てから半額っすか?」とだけ聞いた。
「半額だ」
チッチは右のポケットから皮の小銭入れを出し、銀貨5枚を取り出した。
皮の小銭入れには残り数枚の銅貨しかなかった。チッチはわざと小銭入れの中身が相手に見える様にしたのだ。
やられちゃえば、どうせ身ぐるみ剥がされてしまうが、こうやってどこに金を隠してるかちょっと見分からない様に用心しているというところを見せるだけで、対応が少し違ってくるのではないかという考えからだ。
「ちゃんと残金はあるんだろうな」
「あるっす」
「ついてこい」と男が金を受け取り、薄暗い小屋の中へ入っていった。
トンネルは四つん這いになった男がなんとか通れるくらいの大きさしかなかったし、地下水がにじみ出ているところも何か所かあり、膝と手のひらは泥まみれになった。
王都の外壁ぎりぎりに建てられた小屋だったが、トンネルは結構長い。
王都の先にある森の中まで続いているそうだ。
チッチ1人を逃がすために、先導する男1人と、チッチがちゃんと支払いをするまで見張る筋肉隆々の男が後ろに1人ついてきた。
なんとか森の入口に出る事が出来、ちっちは首からぶら下げていた別の小銭入れから残金である銀貨5枚を取り出し渡した。
金さえ払えば興味を失ったかの様に男二人は地面に蓋をする様に取り付けられた木製の小さな戸を開け、またトンネルの中に入って行った。
金を払ったら殺されるかもしれないと、緊張しまくっていたチッチは大きく息を一つ吐くと、重い一歩を踏み出した。
手持ちの金はボルゲに都合してもらったものが殆どだったが、そろそろりんご亭に猿酒を届けにくる馬車が王都に近づいている頃なので、うまい具合に捕まえる事ができたら、御者のポルゴルや護衛に金を借りるなりできるだろうし、何より歩かず馬車での移動に切り替えられる。だから、それまでの辛抱だ。
街道を歩けば黒服に見つかりやすいが、かと言って街道から外れると馬車と行き違いになってしまう。
出来るだけ王都から離れた所で馬車を見つけたい事もあり、王都から見える範囲までは森に隠れて移動したが、見えない範囲まで離れたらチッチは街道を歩き始めた。
所持金もほとんどないので、馬車を早く見つけないと食事も摂れない。
向かいから黒っぽい服を着た人やそんな人物を乗せていそうな馬車が遠くに見えると、少し街道を外れて様子見をしながらの移動なので、移動速度はそんなに早くない。
『早く馬車が来てくれないと、辛いっす。』と思いながら歩き続けた。
その日は馬車と行き当らなかった。
『もしかし・・・・王都横の森の中を歩いてるときに、街道を気にしながら歩いたつもりだったけど、見逃したのか?』と額を汗がダラダラと流れたが、その夜どこで寝るかを算段しなくてはならなくなったので、一旦その心配は脇に置いておく事にした。どうせ歩いても数日で港町の拠点には到着するのだ。
着の身着のままではあっても、あてがない訳ではないと自分に言い聞かせた。
歩いていると、もう、灯りがないとはっきり物の形も見えなくなりそうになって来たが、小さな村に行き着いた。
宿に泊まれる程のお金は持っていない。
明日の朝、パンを買うくらいの金だけしかないのだ。
村という集合体は小さくて、知らない人物や不信な自分が紛れ込むのは難しいが、宿屋に泊まる事のできないチッチはとにかく村人の目に付かない様に、安全な所で野宿をしないといけない。
不審がられないためには、目的をもって歩いている様に見せる事だ。
暗くてお互いの顔も見わけが付かないこの暗さが幸いした。
どんな村や町も、その集落の中心には広場があるのがこの国の一般的な常識だ。
だから、チッチは迷いのない足取りで村の中心に向かって歩いた。
果たしてすぐに広場は見つかった。
村の広場の木陰で木に背中を預け座り、遅い夕食の時間帯なので、ぼちぼちと村の男たちが広場からいなくなっ事を確認し、地べたにそのまま横になった。
ここの広場の床は踏み固められた土なのだ。石畳でなくて良かった。
ベンチすらないが、大人より少しだけ大きい丈の木が複数植えてあった。
ベンチくらいあれば、それをベッド替わりにできたのに、土に直に寝ると固いというより土が含む湿気でなかなか寝づらいものだと初めて知った。まぁ、石畳よりはマシだが・・・。
それでも明日は朝早くからまた歩かないといけないのだ。
チッチは無理にでも寝なくてはと思い、不快感をどうにか飲み込んで寝た。
朝起きて、早起きのパン屋でパンを2つ買った。
歩きながら食べる。
今日も街道を移動する。
お昼前に遠くに馬車が見えた。
まだ遠いのではっきりとはしないが、積み荷は樽の様だ。
恐らくこの馬車はりんご亭の馬車だと見当をつけたチッチは、今回はすれ違いになる事の方が痛いので、乗っているのが黒服ではない事を祈りつつ、俯き加減に街道を進む。
遠目に見えていた馬車までは歩くと結構距離があった様で、誰が乗っているのか見極めるのにかなり歩かなければならなかったが、御者席に乗っているのはりんご亭が雇っている御者ポルゴルだった。
荷を守るために一緒に移動している今や社員でもある護衛は3名。
「おいっ!あっしだ!止まってくれ!」とチッチが大きな声を出すと、ポルゴルが、「おっ!チッチさんじゃねぇですか。どうしたんでい?」と聞いて来た。
「とにかく止まって欲しいっす。ここからは引き返さないといけねっす」
「引き返す?王都はもうすぐそこですぜ?」
「王都は帝国に乗っ取られたっす」
「え?」
「乗っ取られて、あっしはそこから逃げて来たっす」
「えっ?どういう事なんですかい?」
「それは、引き返す道中に説明するっす。そこの道幅が広くなってる所でUターンするっす」
「え?でも・・・」と護衛の3人も当惑を隠さず口ごもる。
「ごん様は今どこにいるっすか?」
「恐らくだけど、ザンダル村じゃないですかい?」とポルゴルが言うと、護衛の1人も、「多分そうだと思いますよ。この前、ザンダル村へ行くって言ってらしたから。」とポルゴルの意見に同意した。
「そうか。あっしは、今後の指示をもらうためにごん様に会いに行くっす。あんたたちには、この猿酒を帝国兵に知られない様にしてもらうっす。知られるとりんご亭みたいに接収される可能性が高いっす。あんたたちも命が惜しけりゃ、ここはこの道を引き返すっす」
「え?りんご亭が接収されたんですかい?」
「そうっす」
そう言って、チッチは馬車に乗り込み、一路港町の方へ移動を開始した。
道中、何度説明しても御者はチッチの言う事をなかなか信じれない様で、積み荷を雇い主である4人以外の人の指示で、届け先ではなく、発送元の方へ返送しようとしているのだから、冗談であったら職を失う事になる。
だからしつこいくらいチッチに同じ事を何度も繰り返して聞いたが、チッチの説明は何度繰り返しても矛盾がなく、同じ事を繰り返している。
これはチッチが本当に起こった事を話しているんだなとなんとなく分かって来た。
「さっきも言ったっすけど、猿酒は黒服に見つからない様、一時的どっかに隠すっす。あっしがザンダル村まで移動して、ごん様に今後の事を聞いてくるまでは何とか隠しといて欲しいっす。」
そう言って、チッチは港町からグリュッグへ行く船に乗った。
船賃は御者から借りた。
船旅の間の食糧も彼らから貰った。
「いつでも連絡が付く様にはしておいて欲しいっす。今後は馬車を使う事がもっと増えるかもっす。」
そう指示を残して、チッチの姿は船と共に段々と港町から離れて行った。