第129話 ビートの体調不良
「ゴホッ、ゴホッ!」
ベッドの上でオレは、何度か咳をする。
今、オレが横になっているベッドは、2等車の個室のベッドではない。
アークティク・ターン号の救護車の、患者室に置かれた固い医療用ベッドの上だった。
オレは、風邪をひいてしまった。
風邪を引いた原因は明らかだ。
それはちょうど、数日前にさかのぼる――。
先日、ライラと過ごした後、オレは汗と体液で身体が湿ったまましばらく眠ってしまった。ライラに搾り取られて気を失っていたとはいえ、不覚だった。
起きたときに出たくしゃみから、嫌な予感がしていた。
それからしばらくして、鼻と喉の奥がムズムズするようになってきた。
過去の経験から、オレはそれが風邪を引いたという身体からのシグナルであることは、よく分かっていた。
こうして風邪を引いたオレは、救護車で医者に診てもらった直後、ちょうど空いているからとこの患者室のベッドに寝かされた。
オレは温かくして寝ていれば治るものだと思っていた。患者室のベッドで寝るほどではないと医者に伝えた。だが医者曰く、1日も早く風邪を治療する以外に、感染拡大を防ぐ目的もあると伝えられ、オレは渋々承諾した。
医者の云うことも最もだった。アークティク・ターン号の中で風邪が蔓延してしまうと、今後の運行にも支障が出てしまうだろう。
こうして風邪を引いたオレは、救護車の患者室に閉じ込められてしまった。
「……暇だな。ゴホッ」
そう呟いて、オレは咳をする。救護車の患者室に入れられてから、すでに2日目になっていた。
昨夜は熱が出ていたが、薬のおかげかなんとか眠ることができた。
起きたときには、来ていた服は汗でぐっしょりとしていた。患者室に入れられた直後、医者の指示でこの白い服に着替えておいてよかった。普段の服のままだったら、服をダメにしていたかもしれない。
「……ライラ」
オレは、2等車の個室に居る、ライラのことが気がかりだった。
ライラはまだ、1回も見舞いに来てくれていない。
いつも隣に居たライラが居ないことで、オレは寂しさを感じていた。
しかし、ライラに風邪を伝染してしまってもいけない。
ライラに、オレと同じ風邪の辛さを味わってほしくは無かった。
そうだ、ライラに風邪を伝染してしまうくらいなら、会わない方がいい。
それでライラの健康が保たれるのなら、寂しさぐらいどうってことない!
「必ず治すから……ゲホッ、ゴホッ!」
オレはそう誓い、そして咳を繰り返した。
「はい、おまちどうさまー」
医者が入ってきて、オレの目の前にパンとスープを置いていく。
スープにはニンニクやタマネギが入っているらしく、食欲をそそる匂いがした。
パンには木の実などが練り込まれている。栄養価を高めるための工夫であろうと、オレは思った。
これが、アークティク・ターン号の病人食だ。
「残さず食べれば、早く個室に戻れますからねー」
医者はそうアドバイスをして、患者室から出て行った。
何はともあれ、食べないことには元気も出ない。
幸いにも、昨日までは無かった食欲も、今は戻っている。
「よし、食べるか……」
オレはパンを手にし、スプーンを手にした。
そしてパンとスープを交互に食べ進めて行った。
病人食を食べ終えたオレは、ベッドに横になった。
しばらくして消灯時間が訪れ、部屋の中が暗くなる。
久しぶりに、1人で眠る。
熱が下がった今、オレは昨夜よりも落ち着いた状態になっていた。
「……ライラ」
そして寝ても覚めても、考えるのはライラの事ばかりだった。
ライラも今、2等車の個室のベッドで、1人で眠っているに違いなかった。
1人になったからといって、他の男と会っていることは考えられなかった。
ライラの普段の様子を見れば、そんなことがあり得ないことぐらいすぐに分かった。
あぁ、ライラ……ライラ……。
ずっと一緒に過ごしてきたせいか、ライラの事を考えるのは顔を洗うのと同じくらい日常になっていた。
考えてみれば、オレはずいぶんとライラの世話になってきたような気がした。
グレーザー孤児院を出た後は、ライラに家事の多くはやってもらってきたし、一緒に旅をするようになってからは、唯一の身近な人だ。オレにとってライラは、単なる幼馴染みや妻以上の存在になっていた。
風邪が治ったら、すぐに個室に戻ろう。
そして、ライラを思いっきり抱きしめよう。
そしてそれから数日後。
「はい、これでもうすっかり良くなりましたねー」
体温計を見た医者の言葉に、オレは風邪が治ったことを知らされる。
もう咳も出ないし、身体も痛くない。
悪寒もしないし、鼻と喉の奥も普通だった。
「もう個室に戻ってくださいねー」
「ありがとうございました」
「お大事にー」
オレは一言お礼の言葉を告げると、そのままの足で救護車を後にした。
救護車を出ると、オレはすぐに駆け出した。
向かう場所は、1つしかない――。
オレはまっすぐ、2等車の個室に戻った。
すぐに鍵を取り出し、鍵を開けて個室に入る。
「ライラ!」
オレが嫁の名前を叫ぶと、ベッドに座っていたライラが立ち上がった。
「ビートくん!」
ライラがオレの名を叫び、オレは後ろ手にドアを閉めて個室に入った。
個室の中が、すごく懐かしく感じられた。
「ライラ、もう大丈夫。この通り、治ったよ」
オレがそう云った直後、オレはライラに抱きつかれた。
ライラの柔らかい身体が、オレの身体を包み込んでくる。
久しぶりに感じる、ライラの温もり。
「心配かけて、ごめんな」
そう云って、オレはライラの頭を撫でる。
すると、ライラ俺に抱きついたまま、声を上げて泣き出した。
「ビートくん、寂しかったよぉ!!」
ライラは泣きながら、オレの胸に顔を埋めてくる。
服が涙で濡れたが、そんなことはどうでもよかった。
「もう、独りぼっちにしないで……!」
「ごめんな、ライラ」
オレはライラの頭を撫でながら、泣き止むまでそのままでいた。
ひとしきり泣いた後、ライラはオレに頭を撫でられていたからか、泣きはらした目で笑顔を見せてきた。
「えへへ……ビートくん、大好き」
「ありがとうライラ。オレも、ライラのことが大好きだ」
オレが云うと、ライラはブンブンと勢いよく尻尾を振る。
「そうだ! ビートくんの風邪が治った記念に、今日の夕食はわたしが御馳走するよ!」
「いいの? 本当に?」
「まかせて! ちゃんと手持ちのおカネはあるから!」
ライラがオレに財布の中身を見せてくる。中には大金貨に金貨、大銀貨や銀貨などがたくさん入っていた。
「ビートくん、何が食べたい?」
「うーん……食欲もすっかり戻ったから、何か元気が出るものがいいな」
「じゃあ、サーロインステーキね!」
いや、そこまで無茶しなくても……。
オレはそう思ったが、ライラはすっかりその気になっているらしく、財布の中のお金を数えていた。
夜になり、食堂車に夕食を食べに行くと、本当にライラはサーロインステーキを2人分注文してくれた。
少し胃に重く感じられたが、オレはサーロインステーキを美味しく全て食べ切ることができた。風邪が完治したと、オレが感じた瞬間だった。
代金ももちろん、ライラが支払った。
夕食を食べ終えて部屋に戻って来ると、オレは後ろを歩いてきたライラに振り向く。
「ライラ、今夜はご馳走様――」
オレが振り向くと、ライラは小さなビンからピンク色の液体を飲んでいた。
ピンク色の液体を飲み干したライラは、ゆっくりとオレに向かって歩いてくる。
「ビートくん、わたし、ずっと寂しかった……」
ライラが何を求めているのか、オレは考えなくても分かった。
ライラが望んでいるのは、このオレ自身だ。
オレの前に立ったライラは、そのままオレに抱きついてきた。
「ビートくん……お願いだから」
「ライラ、実はオレもっ――!」
抱きついてきたライラに、オレはキスをした。
ライラが驚いたようで、目を見開いてオレを見てくる。
オレも、ライラを抱きたかった。
患者室のベッドに寝かされている間、オレも寂しかったからだ。
ライラがとろんとした目になり、オレに身体を預けてくる。
それは、オレの好きなようにして良いよ、という合図だった。
オレはライラを連れて、ベッドに向かった。
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