猫耳少女襲来 side ミーヤ
私は路地裏の片隅に座りこみ、ずっとお母さんの帰りを待っていた。
魔王討伐が国によって宣言され、街中がその知らせにわいたのはたった一年くらい前にもかかわらず、今では遠い昔のように思える。
あのときは街中がお祭り騒ぎで、ヒューマンもドワーフもエルフも亜人間も顔中に希望を浮かべて、みんな一緒に輪になって踊っていた。
音楽が鳴り響き屋台が立ち並んだ街を、両親に手をひかれながら一緒に歩いたのを、私は今でも覚えている。
冒険者のお父さんと、元娼婦のお母さんに囲まれて、質素ながらも私は幸せだった。
しかし暗い影が、街を覆った。
住民たちが異変に気付き始めたのは、祭りの終わりから数日たったころだった。
ある日の夜、帰ってきたお父さんは、信じられないことを私とお母さんに告げた。
森の表層の魔物の数があまりにも少ない、と。
お父さんのその言葉が、私の人生を百八十度反転させた。
その噂は瞬く間に広まってゆき、街中、いやきっと世界中はパニックになった。
だって魔物がいなくなるということは、お肉が食べられなくなるということなのだから。
誰しもが情報を求めて駆けずりまわり、様々な憶測が流れていた。
魔王の呪いだとか、天変地異の前振りだとか。
事態を重くみた冒険者ギルドは、すぐに大規模な森の調査の依頼を発注した。
お父さんの所属するパーティも、それに参加していたことを覚えている。
その調査により判明したこと、それは森の表層に巣くっていた魔物が、深層に移動したということだった。
森の深層は、濃い魔素が充満しており、強力な魔物のテリトリーである。
そこに潜ることのできる冒険者は、ごく一部の高ランク冒険者のみ。
ほとんどの冒険者にとって、森の深層に潜るということは、自殺行為にも等しいことだった。
あっというまに冒険者の人々の死亡率は跳ね上がり、食べものの値段は異常なほどに高騰した。商人たちは食料を売り渋るようになり、あちこちで人々の衝突が起こった。森に潜ることを諦めた冒険者が街にあふれ、一時期は路上のあちらこちらで餓死者の遺体が転がっていた。
お母さんも私も、働いていた飲食店を首になった。そしてそれからいつの間にか、その飲食店も閉店していた。
お父さんは中堅どころのパーティーに属しているにもかかわらず、毎日命がけで森の深層に潜った。
大けがをして帰ってくることが頻繁にあった。お父さんは気丈に振舞おうとしていたが、パーティーのメンバーが死んだ日などは、お母さんの胸で泣く姿を、私は何度も見た。
お父さんはそれでも毎日私と母のため、森に潜った。パーティーがなくなっても、別のパーティーに所属して必死に森の深層に挑んだ。
傷の癒えていない体で森に向かおうとするお父さんを、お母さんは泣きながら止めようとすることもあった。
けれどお父さんは、今だけの辛抱だから、とお母さんをやさしく諭して一人、森に向かうのだった。
そしてある日魔物の討伐に森にでかけたお父さんは、そのまま帰ってこなかった。
命からがら逃げ出したパーティーの仲間によると、キングオーガに襲われて、一瞬のことだったらしい。
あの優しくて強かったお母さんが、まるで子供のように泣きじゃくる姿を、私は初めて見た。
私とお母さんの生活は、ますます苦しくなった。
家にある売れるものなど、今では二束三文だった。なんとか食べるものを得るため、家の家賃を払うため、私を育てるため、元娼婦のお母さんは自分を売ってなんとか食料を得ようと必死だった。昔働いていた娼館を頼ったお母さんは、にべもなく追い返され、それでも必死に路上にたち、客を得ようとした。
お母さんの体にはしだいに痣が増えていった。
お母さんはお父さんがいないくなってから家でうつろな表情のまま、ぼーっとすることが多くなった。かと思えば、急にヒステリックにわめき散らすこともあった。
私はそんなお母さんが見てられず、少しでも苦しみを分かち合いたいと、私も体を売りたいとお母さんに何度も何度もお願いした。しかし私がその話をすると、お母さんはきまって鬼のように怒り、決して許してもらえなかった。
結局家賃が払えず、私たち親子が住む家を追い出されたのは、それからすぐのことだった。
私たちは家から持ち出せた僅かな荷物だけを担いで、行くあてもなくさまよった。
お母さんは、路上で生活するようになってからも、必死に客を得ようと努力した。
大好きなお母さんは、お父さんがいない寂しさの中で、一人ですべてを背負おうとして、頑張って、頑張って、そして壊れた。
ある日、お母さんは私に「お父さんを探しに行ってくるね」と言い残して、どこかに行ってしまった。
その翌日私は街中を探しまわったけれど、お母さんの姿を見つけることは出来なかった。
あの日から私はずっとこの路地裏でお母さんの帰りを待っていた。
お母さんはきっと必ず、帰ってくる。だからそれまでは私は、頑張って待つと決めたのである。
でも、お腹が減った。もう丸三日何も食べていなかった。このままでは、飢え死にしてしまう。
……本当は、とっくに気付いている。
お母さんは、もうきっとこの世にいないということを。
「ごめんなさい、お母さん……」
私はその日、自分の体を売ることを決めたのだった。
私は目をつむって手を合わせ、今まで育ててくれたことを感謝した。
それから街に繰り出した私は、とりあえず街の比較的裕福な人たちが住む地区にむかった。
不安で心臓がつぶれてしまいそうだった。娼婦の真似事なんて初めてであり、どういう手順でことに及ぶのか、どれほど痛いのか、考えると怖かった。
それに加えて、私の体が母と違い貧相であることも不安要素の一つだった。胸もないし、本当に買ってもらえるのか、とても自信がもてない。
(でも、男性は初めての女性が好きだって……)
前の職場で、昔冒険者の男性が言っていたのを聞いたことがある。だからそれをアピールすればきっと大丈夫、そう言い聞かせた。
目的の地区についた私は、道に沿って並ぶ建物を一軒一軒よく見ながら、通りを歩いた。
よさそうなところがあればノックをして、出てくれればお願いしてみよう。そう考えるも、中々一歩が踏み出せず、気付けばその地区も半分を過ぎていた。
これではだめだと私は思い、私は覚悟を決めた。
調度前にあった一軒を、最初の一軒に決めた。
その家の扉の前にたった私は、緊張で胸が張り裂けそうだった。
深呼吸をして、呼吸を整える。よし、と気合を入れ、震える手で戸をたたいた。
返事はかえってこない。
もう一度たたいた。
返事はかえってこない。
「あのすみません、食べ物を恵んでくださいませんか。その、お支払いは体で払います」
返事はない。
「あ、あの、私処女です。だから、その……」
そのとき扉が開いた。
中から出てきたのは、胡乱げな眼をした一人の男性だった。それなりにきちんとした身なりの男性で、これならお金も持っているかも、と思った瞬間、その男性の張り手が顔面に飛んできた。
衝撃で私は地面に倒れた。はたかれた頬がじんじんする。
頭上から男性の罵声が降り注ぐ。『衛兵につきだすぞ、この人モドキが!』と言われ、私はなんとか起き上がって逃げ出した。男性は追ってはこなかった。
すぐに走りつかれた私は、道の真ん中で立ち止まり、蹲った。
涙があふれ出そうになったのを、歯を食いしばってこらえた。
叩かれた頬はもう痛くないのに、心が悲鳴を上げていた。
もういやだと、もう疲れたと、泣き叫んでいた。
(お母さん……)
街をゆく人々は、私の横を通り過ぎても、一瞥をくれるだけだった。
そう、誰も助けてはくれない。お父さんも、お母さんも、いなくなってしまった今、私に手を差し伸べてくれるような人は誰もいない。
泣いたって、何も変わらない。
私はゆっくりと立ち上がった。
街を歩く。涙は出ないけれど、体中の力が抜けていた。
ふらふらとさまようように歩き続け、気付けば地区の端に近付いていた。
そのとき、少し向こうにある建物が目にとまり、私は足をとめた。
別にその建物に珍しいところがあったわけではなく、扉の隙間から男性が顔を覗かせているのが見えたのである。
その男性は外を見つめていたかと思うと、すぐに室内にさがってしまった。
閉まる寸前に、何かを拾ったみたいである。
私はじっとその建物を見つめた。
留守では無いことと、男性が住んでいることは間違いない。
先程みたいに、ぶたれたらどうしよう。
怖い。でも怖がっていたところで、誰も助けてなんてくれない。
私はとぼとぼと、その建物にむかってゆっくりと足を進めた。
扉の前に立った。一軒目の出来事を思い出して、震えが止められない。
それでも、私は戸をたたいた。
一軒目と同じく、返事はかえってこない。
もう一度たたいた。
返事はない。
「あ、あの……、どなたかいらっしゃいませんか?」
返事はない。
「えっと……、その、食べ物を恵んでくださいませんか?」
返事はない。
「お、お願いします。え、えっと、その、何でもします。だから、少しでいいんです。その、お願いします! え、えっと……私は、しょ、処女です! だ、だから!」
「ちょっと待って! 今でます!」
そのとき、扉の内側から男性の声が聞こえた。
どうやら話だけでも、聞いてもらえるようである。
私は息を大きくはいた。すごく緊張する。
扉の向こうに、人の気配を感じた。しかし扉は開かない。
「あ、あの!」
「あ、はい、今開けます」
少しして、扉が開いた。出てきたのは、二十歳くらいに見える、男性だった。
少し変わった衣服を着たその男性は、私のほうを見てなぜか固まっている。
あまり見ない顔立ちをした人だな、と思った。
(でも、優しそうな人だ……)
その男性は少なくとも、私に嫌悪感は抱いていないように見える。私はひそかに胸をなでおろしていた。
「あ、あの」
「は、はい」
私は意を決して、お願いをした。
「あの、食料を恵んで……」
「あ、ああ! 食料ね、食料」
すると男性は思い出したように室内に戻り、そして初めて見るような白い袋を手に戻ってきた。
そして男性はそれを私に手渡した。どうやらこれに食料が入っているらしい。
「あ、ありがとうございます」
私は予想外の展開に混乱しつつも、頭を下げた。
まさかこんなに簡単にもらえるとは思っていなかった。
しかし予想外の展開は、まだ始まったばかりだった。
「それで、その、支払いなんですけど……」
「いや、支払いはいいですよ」
その男性は、こともなげにそう言った。
私には男性の言っていることの意味が、よく分からなかった。だったらどうして、食料をくれたのだろうか。
「で、でも……」
「いや、いいですよ、これくらい。また買えばいいので」
男性は、当然のようにそう言った。その表情は嘘をついている風には見えない。
まるで本当に、食料なんて買おうと思えばいくらでも手に入ると言わんばかりだった。
私の中で、この男性に対する謎は膨らむばかりだった。
しかし体のほかに私には払えるものなんて何もない。私はそのことを男性に伝えようとして、言葉にならなかった。もしかしたら、だったら食料を返せと言われるのではないかと思い、怖かった。
「え、えっと、それより、よかったら中に入りませんか?」
しかし男性に掛けられた言葉は、またしても予想外のものだった。
断るという選択肢は思い浮かばず、よく分からないまま私はうなづいていた。
男性に勧められるがまま、家に上がらせてもらう。
「あ、そうだ、靴……」
その家の中は、なんというか不思議な感じだった。外観からの予想に比べて中はとてもこじんまりとしており、そんな空間に見たこともないものがたくさん並んでいる。銀色の四角い置物やその横にある白い棚など、どれもこれもがとても色鮮やかだった。
男性に勧められるがまま椅子に腰かけた私は、失礼とは思いながらも部屋の中の調度品を見ていた。材質のまったくわからない灰色の棚に、非常に精巧な魚の絵が描かれた真っ白なお皿が無造作に置かれている。壁には時計がかかっており、ベッドに敷かれている布もとても上質そうなものだった。
男性がタオルを私に差し出してくれ、それで足をふくように勧めてくれた。
靴を持っていなくて裸足だった私は、厚意に甘えさせてもらう。
それから男性が飲み物を出してくれた。ただその透明な飲み物の入ったガラスは、一体いくらするのか考えるのも恐ろしいほどに精巧な作りだった。
芸術品を日用品のように使うこの男性に、ちょっと怖ささえ感じる。もしかしたらものすごいお金持ちなのかもしれない。
私は恐る恐る、そのグラスに口をつけた。中の飲み物は少し冷たくて、ほんのり甘かった。
「おいしい……」
何のフルーツが入っているのだろうか。ジュースなんて久しぶりに飲んだ。
「おいしいですよねそのジュース、私も結構好きなんですよ」
私の前の椅子に座った男性は、そう言って同じ飲み物を飲んでいる。
「あの、聞いてもいいですか」
男性が私にそう聞いた。
「はい、なんですか?」
「その耳って、すごく本物ですよね?」
男性の質問は、いまいち意味が良く分からなかった。本物とはどういう意味なのだろう、偽物があるのだろうか。
とりあえず私は頷いた。
「はい。えっと……すごく本物です?」
「ですよね」
男性は満足そうに、何度もうなづいている。
よかった、どうやら今の返答でよかったようである。
でも今の質問はどういう意味なのだろう、そう考えて一つの可能性に気付いた。
もしかしてこの男性は、亜人間が嫌いなのではないだろうか。
「あの、もしかして……亜人間は嫌いですか?」
不安に感じた私は、素直にそう聞いた。しかし男性は大きく首を横に振った。
「いやいや、すごく夢を感じますよね」
「夢……?」
「なんていうか、その、ファンタジー的な」
「ファンタジー?」
ファンタジーとは何だろう。分からない。
そのとき、私のお腹が、大きな音を立てて鳴った。ジュースを胃に入れたことで、ますますおなかがへっていた。
すごく恥ずかしかった。
「あ、どうぞ、食べてください」
男性は気にした様子もなく、私に袋の中身を勧めてくれる。
私は袋の中身をのぞいて、とりあえず一つとりだした。パンに具を挟んだサンドウィッチのようなものが、非常にうすい透明な袋の中に入っていた。
「なんですかこれは?」
「サンドウィッチです」
「えっと、このまわりの透明なのはなんですか?」
「あ、かしてください」
私は言われるがまま、サンドウィッチを男性に手渡した。
すると男性はその透明な袋をきれいにはがして、中身を一つ私に渡してくれた。
私は真っ白サンドウィッチを少し眺めた。具と一緒に挟まっている、この白いソースものは何なのだろう。それからゆっくりと、一口頬張った。その瞬間、口の中に経験したことのない香ばしい味が広がった。
もう一口、もう一口とおいしいそれを口に運ぶ。そんな私を男性は嬉しそうに見ていた。
その瞬間、私の中で今までずっと張り詰めていたなにかがゆるんでしまった。
涙が勝手にあふれて、止められない。
一つ目のサンドウィッチを食べおわると、男性は当然のように二つ目を渡してくれる。
それがまた、嬉しかった。
「ごちそうさまです……」
私は結局、白い袋の中に入っていた二つのサンドウィッチを一人で平らげてしまった。
そこで私は、自分がまだ名前を名乗っていないことを思い出した。
「あの、申し遅れましたが、私、ミーヤといいます」
「ああ、タナカって言います、よろしくお願いします」
この優しい男性は、タナカさんというらしい。しゃべりも私なんかにすごく丁寧だし、育ちのいい人なのだろう。それに珍しいものをたくさん持っているので、商人なのかもしれない。
そんな男性に食べ物を恵んでもらい、優しくしてもらったのに、返せるものがほとんどないのがとても歯がゆかった。
「あの、タナカさん。本当にありがとうございました。本当にお腹が減ってて、でも、お金はないのでその……」
私が払えるとすれば、この貧相な体一つだけ。
「は、払えるのは、体くらいしか……」
「いや、本当に、大丈夫ですから……」
断られてしまう。やっぱり、この体では魅力が足りないのだろう。それでも何かお礼がしたかった。お父さんもお母さんも、優しくしてくれた人にはいつかお礼をしなさいと、言っていた。
「でも、お父さんとお母さんは、優しくしてくれた人にはお礼をしなさいって……」
「あ、両親いるの?」
タナカさんの質問に、私は一瞬口ごもった。
「……いたんですけど、お父さんは死んで、お母さんはいなくなってしまいました」
「す、すみません、答えにくいことを聞いて」
「いえ、いいんです、でもだから、何かお礼をさせてください」
するとタナカさんは少し考えたのち、次のように切り出した。
「あ、それなら、街の事を教えてください」
「街の事?」
どういう意味か、よく分からなかった。
「そう、扉の向こうの街の、例えば名前とか」
「? 街の名前はフロイトですけど……、タナカさんはこの街の住人ではないのですか?」
「ああ、えっと……最近遠くからこの街に引っ越してきたんです」
私は納得した。だからこんなに珍しいものもたくさん持っているのかもしれない。
「そうだったんですか」
「あとそれから……」
私はそれからタナカさんにいくつか質問をされた。それも学のない私でも知っているような簡単なことばかりをきかれた。
(もしかして)
タナカさんは私にお礼をさせるため、わざと簡単なことを聞いているのではないだろうかと、私は思った。
「でも、これじゃあ、何もお礼になってません……」
私が思わずそう言うと、タナカさんは少し困ったような顔をした。
私はタナカさんを困らせてしまったことを、とても後悔した。これではお礼どころか邪魔になってしまっている。
きっとタナカさんは、言外に私に手伝えるようなことなどない、と言っているのだと、私は思った。
しかし、タナカさんの次の言葉は、またも予想外だった。
「だったら、その、ミーヤさん、私に雇われてくれませんか?」
「え?」
私は聞き返していた。
「そう、これから何かその、ミーヤさんに手伝ってもらいたいこととか、教えてもらたいことがでてくるかもしれないので、食事の代わりに雇われてくれないかなって……、これからもここに来てもらって」
私は驚きで、言葉を失った。
それは、つまり、私を雇ってくれるということ。
信じられなかった。
「い、いいんですか?」
「はい」
「私、力もないし、かしこくもないですよ?」
「はい」
「……」
どうしてタナカさんは初対面の私に、ここまでしてくれるのだろうか。
分からない、けれど、ただただ嬉して、涙があふれて止まらかった。
張り詰めていた何かが、少しだけ楽になった。
「あ、ありがとうございます、本当にうれしいです、よろしくお願いします」
このタナカさんとの出会いが、私の人生を百八十度反転させた。