七話
***……!
声が聞こえる、私を呼びかける声。聞いたことがないようでそれとなくなく懐かしさを感じる不思議な声。
「貴方は誰なのですか?」
呼びかけても返事はない。ただ、聞こえる目覚めよという声。そして、突然の落ちて行くような浮遊感。
周りは暗闇、私はただ落ちて行くだけ。
私は何もかも諦めたようにその落ちて行く感覚に身を任せる。
それを呼び止める一つの声。
シエル、シエル?
その声で私の視界に光がともった。目の前にあるのは見慣れた赤い瞳、小さな御顔、そして特徴的な黒い角だった。
「あれ、お嬢様? おはようございます」
「おはよう、シエル」
……心なしかほんのりと赤い顔のお嬢様。ん、私より先にお嬢様が起きている? ということは……時計を見るなりベットから飛びおり着替えを始める。完全なる寝坊だった。
「すいません!」
きっとグラウディアさんが朝食を準備して疑問を浮かべながら待っているに違いない。
お嬢様の方を見ると惚けた様子で固まっていた。その髪に服は整えられており、既に準備が整っていた。
ああ、もう、お嬢様も起きたのなら起こしてくれればよかったのに! それから慌ててお嬢様と朝食に向かったが、それは普段よりも随分と遅い時間だった。
すっかり冷めた朝食を二人で食べる。
「すいません、お嬢様。私のせいで……」
「いや、たまにはそれもいいな」
「?」
よく分からない返答をお嬢様は返す。
先程から何か上の空な気がする。心ここにあらずと言った感じだ。まさかそれほど迄に私が寝坊したことに怒っているのかな。そのせいで冷たい朝食を食べることになったんだし。
朝、お嬢様を起こすのはメイドになってからずっと私の役目だった。お嬢様は朝が滅法弱い。私が来るまではグラウディアさんが起こしていたそうだけど随分手間だったそうなので私の役割となった。朝、起きて、お嬢様の寝顔を眺める。
それだけで一日が頑張れる気がする。まぁ、お嬢様が近くにいるのならばいつでも頑張れるのだけれども。今まで決して一度も失敗した事が無かったのに。どうしてだろう。
「珍しいわね、シエルが寝坊するなんて。それにお嬢様がこんなにはやくお目覚めになるのも……」
「うぅ……すいません」
「いや、怒っている訳じゃないのよ。大丈夫なの?」
「はい、それは大丈夫です」
これといって自分の体に変わった様子はない。そういえばなんで寝坊したんだろう?
確か何か夢を見ていた気がする。それも初めてではない夢。
あれ? 何の夢だったっけ。
それは私の記憶からすっかりと抜け落ちていた。まあ、夢の内容を忘れるなんてよくあることだし気にしないでいいか。
・・・・・・・・
見つめる先、そこには一人の女性。腰まで伸びるこの世界では珍しい黒髪に、整った幼さが随分と残る可愛らしい童顔。否、私のメイド、シエル。
私はそのシエルの寝顔を見つめていた。
どうして寝顔を見つめているか、普段なら私よりもシエルの方が起きるのは早い。
そもそも私は朝自分から起きることは滅多にないのだ。起きたとしても随分遅い時間だ。
その私が先に起きているということは、つまりシエルが寝坊したということだ。なんとも珍しい話だ。まあ、だからこそこうやってゆっくり寝顔を眺めているわけであるが。
滅多に見れない貴重なシエルの寝顔。それは想像していたものよりも遥かに可愛らしいものでつい、にやけてしまう。これなら早起きするのも悪くないかもしれない。
そうやって時間も忘れてシエルを眺めること数十分、途端にシエルが苦しげな表情へと変わる。
「シエル……?」
苦しげな様子にみかねて声をかける。それでもシエルが目覚める気配はない。それどころか苦しげな表情が深まるばかりだ。
「シエル、シエルッ!」
強く呼びかける。数度呼びかけてやっとシエルは目を開いた。その表情に先程のような苦しげな様子はなく、いつも通りのシエルだった。
重なる私とシエルの目線、そしてやっと今気づいた。そういえば私はシエルの寝顔を見つめていたんだった。
それの気づきなんとなく恥ずかしくなってしまい、顔が赤くなるのを感じる。
「あれ? お嬢様、おはようございます」
「おはよう、シエル」
上手く返せただろうか。自信が無い。
「すいません!」
ベットを飛び降り、準備を始めるシエルをよそに私は先程のシエルの寝顔を思い浮かべながら一人でにやにやと笑っていた。すっかり冷めきった朝食を二人で食べる。
待っていたディアは怒ってはいないようだ。寧ろ心底からシエルが起きなかったことを不思議がっているようだった。
私が何も口を開かないのを見かねてか、それとも冷めてしまった食事を口にしてかシエルが謝る。
「すいません、お嬢様。私のせいで……」
確かに食事は冷めてしまったが寝坊のお陰で私は存分に寝顔を楽しむことが出来た。普段見つめようにしてもシエルのその圧倒的な可愛さで途中、すぐに目を逸らしてしまうのだ。ああいうふうにシエルを見つめることができるのであれば寝坊もいいものかもしれない。元より私が早く起きるという選択肢はない。
「いや、たまにはそれもいいな」
「?」
会話の流れに疑問を覚えるメイドをよそに私は一人妄想にふけていた。
それからは執務だった。シエルは傍におらずいるのはディアだ。
シエルというと私の自室、と言っても随分と前から私とシエルの部屋になっているのだが、そこにいる。なんともないと言っていたが念のため休ませることにしたのだ。
本人は大分渋っていたのだがキツめに言うと寝坊した事を悔やんでいるのかあっさり、とは言いがたいが凄く微妙な顔しながら従った。何かあってからでは困るのだ、大事をとるにこしたことはない。
「お嬢様、手が止まってます」
つい、手が止まっていたようだ。その声で気を取り直し書類へと目を向ける。手を動かしながら考える。
やはりシエルの体を一度検査してみるか?
今まで寝坊などしたことなど無かったのに突然にだ。見た目に何もなくとも身体には何かあるかもしれない。それならば一旦エウロスの所へと連れていくべきなのだろうか。もし病気だとしたら……いや、そうであってもエウロスならば治してくれるに違いない。あれでも一応この世界で一番医学に長けている者だ。あいつならばシエルが重大な病気だとしても……
「お嬢様、手が止まっています」
「おっと」
また動きが止まっていたようだ。いかんな、シエルの事を考えるとつい手が止まってしまう。
「そこまでシエルの事が気になるのであれば部屋に戻ったらどうですか?」
そんな私の様子を見かねて呆れながら言った。
「し、しかし……仕事を止める訳にも」
「少しぐらいなら休んでも大丈夫でしょう。こうやってずっと考えているよりもいいと思いますが」
ディアの言う通りだ。
それならばさっそく……
「ちゃんと戻ってきてくださいね?」
「ああ、分かっている」
ディアのその言葉を聞く前に私は駆け出していた。
勢いよく閉まる扉。その背をグラウディアは見送って一人呟いた。
「帰ってくるのかしら?」
勢いよく扉を開けた先、そこには神をくくり部屋の掃除をするシエルがいた。勢いよく開けられた扉にか、それとも私がやって来たことにか、はたまた両方に驚いたのか、ぽかんと呆けたような顔を浮かべている。
「お嬢様? どうされました?」
「シエル、体の方は大丈夫なのか?」
「朝も言ったじゃないですか、大丈夫ですよ」
「いや、しかし……掃除なんてしてないで念のために休め。そのために部屋に残したのだから」
「お嬢様が働いているというのに私だけが休んでいる訳にはいきません!」
軽くため息をつく。そう言うだろうと言うのは何となく想像がついていた。
「お前の今の仕事は休むことだ、しっかり寝てろ」
「そうはいいましても……」
やはり、渋る。大人しく従う気はないようだ。それならば、やはりこうするしかないか。
「分かった、ならば私は寝る。一人では寒いから温めてくれる人が欲しい。シエル、頼めるな?」
「えっ、はい……はい?」
ベットに横になる。それに付き添い、おずおずとベットに入ってくるシエル。
「ほら、寝るぞ」
私はその私よりも大きな図体に抱き付く。これがシエルに何も言わせずに寝れる一番の手段だろう。
戸惑いながらも抱きしめられる感触。
「ありがとうございます、お嬢様」
シエルのお礼を聞きながら私達は眠りについたのだった。
「お嬢様っ……!」
執務室には一人取り残され、寝てしまった誰かの代わりに仕事に励む姿があった。