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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『老婆』

作者: 岩度 莞犬

私の作品を検索し、

読もうとしてくれている事、

本当に嬉しいです。


どうかこのお話が貴方の心に響く

作品になれますように。

____夏のお話。

茹だるような夏の陽射しに延々と谺する蝉の鳴き声。

飽きること無く鳴き続ける様子に半分感心しながらも半分呆れ返った。

蝉の寿命は約3ヶ月。

人の寿命は約80年。

2つの命に何か違いが有るのだろうか。

私には皆目検討がつかないが、

老婆は言った。

「違いなんて何もないよ。生きている時間が長いか短いか。それだけの事さね。」

老婆が喋った瞬間蝉は鳴き止んだ。

そして喋り終えればまた鳴き出すのだった。

まるで私に命の尊さを教えるかのように。




____裏野ハイツ2階。

階段を上ってから真っ直ぐ進んで突き当たりにある203号室。そこに私は住んでいる。築30年の木造物件ながらもバス・トイレ別、独立洗面台有り、ベランダ有り駐輪場有り、間取りは1LDKリビング9畳洋室6畳の広さがあり、家賃は4.9万円と言う好物件だ。更に最寄り駅まで徒歩7分、徒歩10分圏内にコンビニ・郵便局・コインランドリーまで有るのだから最早理想郷と言っても過言では無い。ちょっと景色が悪いのが玉に瑕なのだが、一人暮らしの大学生が気にするようなことでは無いだろう。

また、同じハイツの住人とも関係は良好だ。会ったことが無い人も中には居るがそれは仕方が無いというもの。そもそもお隣さんである202号室にも人の気配が時折するのだが未だに人の出入りを見たことが無い。きっとお仕事で忙しい人なのだろう。邪魔しては悪い。そのうち会えるだろうし、用があれば向こうから来る。ポストに入れておいた引越し蕎麦も受け取ってはくれているのだ。悪い人ではない。

さて、色々個性の強いこのハイツだが、総じて皆人がいい事は言わずもがな。101号室のおじさんは気さくだし、103号室の家族もいい雰囲気だ。子供も礼儀正しい。その中で最近最も仲がいいのは、201号室の荻原テルさんと言う70代の女性だ。私は親しみを込めて『婆さん』と呼んでいる。婆さんは70代と言っても今年で御年79歳。80歳にリーチがかかっている。引越し挨拶の後に仲が良くなってからというもの、私は文学部史学科に在籍しているので、ちょくちょく70年前にあったとある事について体験談を聞いている。今は2016年。70年前と言えば嫌でも判りうるのではなかろうか。そう、太平洋戦争、第二次世界大戦、大東亜戦争…様々な呼び方をされている先の戦争の事だ。先述の通り婆さんは79歳。つまり、終戦時は9歳だったという事になる。私は以前婆さんに問うた。

“そんなに昔の事、もう曖昧なのでは?”

こんな質問、するだけ野暮だったと後から後悔したが、婆さんは何時もの柔和な笑顔でこう答えた。

“いいえ、目の前で母が死んだり、街が灰になっていく様などという物は、今でも鮮明に思い出せます。時折夢にも出てくるのですよ。”と。

今でも自責の念でタイムマシンでもあれば自らの後頭部を鉄パイプで殴り倒したくなるが、その後に私は恥を偲んで婆さんに願ったのだ。

“今となってはお婆さんの様な戦争体験者はもう殆ど亡くなられてしまっています。どうか、お聞かせ願えませんでしょうか。”

この言葉を発した際、婆さんの言葉から相当なトラウマになっている事は容易に伺い知れる。断られても仕方が無い。そう思っていたが、婆さんは快諾してくれた。

そして、

____2016年8月14日

長い長い夏休みに入った今、今日も婆さんの所に通って戦争講話を聞くのだ。部屋を出て通路を歩けばすぐに婆さんの部屋だ。インターホンを鳴らしてから婆さんが出てくるのを待つ。低く落ち着いた足音がしてドアが開けば親しげに挨拶を交わすのだ。

「婆さん、おはよう。今日も来たよ。」

「あら、いらっしゃい。上がってどうぞ。」

婆さんは冷たいお茶を用意して待ってくれていた。一礼してからお言葉に甘え、靴を揃えてから部屋に上げて貰う。

婆さんは歳こそ取っているものの未だに元気だ。杖はなくても歩けるし、毎朝ラジオ体操にも参加している。背中も曲がっていない。戦後の日本を生きてきた身体は伊達ではないのだ。ちなみに婆さんは話を途中で切るのが好きではないので前以てトイレに行くようにしている。

「ちょっと御手洗に。」

いつも通り婆さんがトイレに言っている間に

少し婆さんのプロフィールを紹介しておこう。

“荻原テルさん、79歳。

東京都の下町に生まれる。

戦時中に生まれるも、軍人だった父のおかけで当時としてはそれなりの暮らしを送っていた。父は徴兵で招集される迄は母と共に本屋を営んでいたという。徴兵後は母が店を切り盛りしていたが、テルさんも本が大好きな少女であった。

しかし、1945年1月5日。

父、荻原賢二郎さんが神風特攻作戦により南溟に若き命を散らす。まだ29歳であった。テルさんや母、ミヱさんの元に訃報が届いたのはその3日後だ。遺書と遺髪が手渡された時に母は崩れ落ちて噎び泣いたという。軍人の手前、

「万歳…万歳…」と呟きながら。”


そこまでが前回聞いた話だ。今日はどんな話なのだろうか。正直ここまでの話で短めのドラマが作れてしまいそうなものだが…

「お待ちどうさま。さて、どこまで話したかね?」

「婆さんのお父さんが亡くなったところまでだよ。」

いいタイミングで婆さんが出てくると毎度の事ながらどこまで話したかを確認する。

「そこまでかい。まだまだ長いねぇ。」

「そうだね。」

それもそうだ。婆さんの話ではまだ1月。誰でも知っているような。アレも、アレも、まだ起こっていない。それでも既にもう悲惨なのだ。“これからもっと酷くなる。”という事は容易に察せる。つまり、婆さんにとってはもっと辛くなるという事だ。心して聞かねばならない。

婆さんはお茶を啜ると短く溜め息をついた。そしてまた語り出すのだ。

“____1945年3月10日。

連日連夜続いた空襲。今日も何処かで機関銃の音が響く。何処かの家から光でも漏れてしまったのだろうか。そう思いながら当時の婆さん(以下、テルさん)は窓に暗幕を張り、室内の明かりを蝋燭で最小限のものにした。空襲は漏れ出た光に向けて行われるのだ。

しかし、この日は違った。普段の空襲は機関銃であるにも関わらず、今夜アメリカは民間人の多く住む東京に対して焼夷弾による無差別爆撃をしたのだ。かの有名な爆撃機B-29によって。

だが、爆撃は以前にもあった。1944年11月、サンアントニオ作戦、1945年2月、ミーティングハウスの第1号作戦である。しかし、この2つを遥かに凌ぐ規模で行われたのが3月10日、ミーティングハウスの第2号作戦だ。こう言うと大体の人は何の事だか解らないだろう。ミーティングハウスの第2号作戦とは『東京大空襲』の事である。死者8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸という空襲では当時最大の被害を出したのだった。多くの人が死に、負傷し、炎に包まれた。それはテルさんも例外ではない。暗幕を張って蝋燭を灯した後に暫くして、テルさんの家の周りにも焼夷弾が落とされたのだ。家が燃え、当たりからは怒号や悲鳴が飛び交い、空からは鉛玉の雨が降り注ぐ。テルさんと母のミヱさんは怪我の痛みも忘れて四方八方へと逃げた。安全な場所を求めて。しかし、辺りは1面火の海で、安全な場所などありそうも無い。少しでも立ち止まれば炎が全身を焼く。ここでミヱさんが何かを思い出したのか急いで近所の井戸へと向かう。するとミヱさんは火傷に沁みる痛みに耐えながら自らとテルさんに水をかけて、水を多めに飲んでからテルさんを抱き上げて炎の中へと駆け出したのだった。ただひたすらに炎の先の安全な場所を求めて、何分、何時間と我が子の為に駆けたのだ。テルさんはこの後の事を疲労から気を失ってしまい、あまりよく覚えていないという。テルさんが目を覚ましたのは翌朝だった。柔らかな感触からベッドに自分が横たわっている事に気付く。身体を見ると丁寧に包帯が巻かれている。ここは病院だ。助かった。まず、テルさんの脳裏に浮かんだのはこの言葉だったそうだ。だが、次の瞬間に痛む体を無理矢理起こしてある人を探した。ミヱさんだ。幸いすぐ隣にいたので見つける事は容易だったものの、その症状はあまりに重い。

「テル…テル…」と愛する娘の名を上の空で呟きながら、包帯だらけで辛うじて顔がわかる程度の状態で病床に横たわっていた。テルさんは子供ながらに自らを己の事を顧みずに守ってくれた母の愛を確かに感じていた。

「お母さん。ここにいるよ。」

母の手を痛くないようにそっと握り声をかける。するとどうだろうか。今迄苦悶の表情を浮かべていた母の表情は和らぎ、途端に懐かしい笑顔を浮かべていたのだ。父が亡くなってからというもの、すっかり憔悴した母は笑みを浮かべても何処か暗いものがあった。しかし、これは、これだけは、昔大好きだった母の心からの微笑みだった。

「ああ…、良かった。テル…。」

これが臨終の言葉だった。

____1945年3月11日

母、ミヱさん他界。享年29歳。”


婆さんの話を聞きながらレポート用紙にメモを取る。時折啜り泣く声から相当な心労がかかっている事が伺える。いや、例え啜り泣いていなくてもその心労を察することくらいは出来る。私だってそこまで馬鹿ではない。というより既に私が泣きそうだ。他人の私が泣きそうなのに婆さんの心労が軽いわけが無いのだから。婆さんは上品にハンカチで涙を拭くとコップに手を伸ばす。私も釣られてコップに手を伸ばしたものの、互いのコップからは氷の乾いた音が鳴り響くだけだ。

「あら。飲みきってしまったみたいだわ。替えを持って来るわね。」

「いや、婆さんは座ってて。お茶が冷蔵庫の何段目にあるか言ってくれれば取るから。」

「ありがたいねぇ。3段目くらいにあるよ。」

婆さんに言われた通り冷蔵庫を開けるとそれなりに食材が入った冷蔵庫の3段目にお茶が陳列してあった。その中で開いてるものを手に取ると婆さんのコップと自分のコップにお茶を注いで持って行く。なるべくゆっくり、婆さんが落ち着くまで。辛い話を聞かせてもらっているのだ。これくらいして当たり前だろう。

「婆さんごめん。お待たせ。」

「大丈夫。待ってないよ。」

軽く微笑みながら婆さんの前にお茶を置いて、その後自分の分のコップを持ちながら席に着く。婆さんは既に平静を取り戻していたようだ。一安心である。しかし、婆さんはある物を握っていた。手紙か、或いは古ぼけた写真のような物だ。時折握っている姿を見る事はあるがそれが何なのかはさっぱり分からない。

「婆さん、それなんだい?写真?」

「そうだよ。可愛い孫さ。」

婆さんの顔が笑顔に戻る。見た感じ5歳かそこらだろうか。1番可愛い時期だろう。それよりも話の続きが気になる。その様子に気付いたのか婆さんは急かす子供を見るかのような苦笑いをして続きを話してくれた。

“____1945年3月20日

無事怪我の治療を終えてある程度回復したテルさんは、医者の計らいから地方への疎開をする事になる。元々父の賢二郎さんと交友があるようで、疎開先は父の実家である千葉県の安房小湊になったそうだ。安房小湊は現在、幾分寂しい漁師町になりつつあるが、以前は大変栄えていた。しかし、その頃はとある基地があった。“御國ノ為ニ”多くの若者が命を散らした特攻作戦。その若者達を送り出す特攻基地である。現在は「鯛の浦」として観光名所になっているが、其処は紛れも無く「祓基地」である。小湊漁港もとある兵器を格納していた。それは神風特攻隊によって有名な艦上戦闘機「ゼロ戦」ではなく、人間魚雷「回天」の更にあとに作られた特攻艇「震洋」だ。(震洋は鉄製のものもあったが、終戦間近には専らベニヤ板製の船体に4tトラックのエンジン。更にその粗末な機体に250kgの爆弾を搭載して特攻するという、まさに“命を賭けるに値しない。”そんな特攻兵器であった。)安房小湊には第135震洋隊が駐屯していた。テルさんの祖父達は老齢である為に徴兵を免れていたので無事だったが、特攻に行く軍人を見送るのはテルさんの心を大きく痛めつけた。夜は当然の事ながら空襲に備えた。その被害は東京にいた時よりは大分マシだったと言う。それでも人は亡くなるのだが。

____1945年7月25日

港に1機の戦闘機が墜落する。港内で爆発すると鉄の匂いと何かが焼けた臭いが充満した。これが当時の軍人の死に方なのだ。テルさんは、父の賢二郎さんもこうして死んだのだと子供ながらに悟った。以来、小湊の町には漁師が残してきた飯を港内に投げ入れる習慣ができる。勿論“魚が獲れるように”では無い。これは当時、食べる物も碌に無かった中で亡くなった軍人さんへのお供物である。”


戦争と言えば、大きな被害のあった場所が多くピックアップされる。ドキュメンタリー番組でもそうだ。しかし、そういった物でピックアップされず、例え目立たない地方でも戦争はあるのだ。当然の事だが、この話を聞いてそれを再認識した。

「人の焼ける臭いは大空襲で体験していたから知ってたのだけど、一人の血があそこまで広がると言うのは衝撃的だったよ。」

婆さんから驚きの言葉を耳にする。“人の焼ける臭いは知っていた。”つまり、“慣れていた。”という事だ。

残念ながら私にはその光景を想像することすら難しい。現代人は人の焼ける臭いすらあまり嗅いだ事がないだろう。しかし、婆さんは主観で体験したのだ。思い出してしまったのか、幾分顔色が悪い様にも思える。

「そろそろ1回休憩しようか。」

1度休んだほうがいい。私はそう思い提案した。婆さんも静かに頷いたので、30分位の休憩を取ることにした。その間に私は婆さんの話を聞いたメモをまとめる事にした。私がまとめている間に婆さんは御手洗いに行ったり、お茶をお代わりしたりと1通り寛いでいた。顔色も殆ど戻ったように感じる。そんな時、隣の部屋からカタンと何かが落ちる音がした。誰か居るのだろうか。しかし、今はどうでもいい事だ。

「さて、そろそろ続きを話そうかね。」

「ん、ああ…お願いします。」

音に気を取られていたので戻っていた婆さんに気付かず、一瞬遅れて敬語が入り混じった変な返事をしてしまう。

「どうかしたのかい?」

「いや、何でもないよ。」

案の定婆さんに怪訝な顔をされるも何でもないと調弄す。婆さんは納得いかないようだがそこは流して続きを話してくれた。

“____1945年8月6日

7月25日に野島崎沖で起こった太平洋戦争最後の海上戦から13日後。

ラジオから衝撃の放送が入る。

同日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。人類史上初の原爆投下である。翌日の新聞もこの話題で持ちきりであった。

____1645年8月9日

またしてもラジオから悲劇が放送された。長崎市に対して原子爆弾「ファットマン」が投下された。というものだった。人類史上初の悲劇の僅か3日後の事である。テルさんは恐怖に打ち震えた。いつか自らの住むこの地にも原爆が投下されるのでは?と。

それからは来る日も来る日も恐怖との戦いだった。飛行機の音が聞こえれば原爆を落としに来たのか?エノラ・ゲイなのか?と。

しかし、そんな不安を他所に

鈴木貫太郎総理大臣の英断により

昭和天皇の聖断が仰がれ、

____1945年8月15日

ポツダム宣言受諾により日本は敗戦。

日本全土に響いた玉音放送により

長い長い太平洋戦争は終わった。”


この後婆さんは東京には戻らず(そもそも幼かったテルさんは戻っても何も出来ない。)、小湊で青春時代を過ごした。地元の小学校に通い、地元の中学校を卒業。その後、二駅隣の町の高等学校に通った。そこで恋に落ち、卒業後に結婚。春には県北に引っ越してごくごく普通の生活を営んだと言う。そして、永い時を生きる中で世界は大きく変化した。高度経済成長期によって、昔は“こんなものあったらいいな。”程度に思っていた道具が数多く産み出されていったのだ。人々の生活は大きく発展し、豊かになった。婆さんにもやっと、遅れ馳せながら幸福な時間が流れたのだ。子供ができ、大切な愛娘はすくすくと育った。そしてその愛娘も結婚し、最愛の孫を産んで、“幸せに暮らしていた。”という事だ。ちなみに婆さんが此処に引っ越してきたのは、20年前に最愛の旦那さんが病で倒れてからだそうだ。

婆さんの話はここで終わりらしい。


「さて、これで大体語り尽くしたかしら。何か質問とかはある?」

「いや、婆さんの話は上手で、しかもわかり易く解説もしてくれたから特に質問は無いよ。本当にありがとう。」

「いいえ、どういたしまして。」

婆さんは話終えると質疑応答に入ろうとしてくれたが、特に無い。婆さんは本当に話すのが上手だったので、必要なかった。そして私は婆さんに御礼を言うと、すぐ部屋に戻った。これから私には大きな仕事がある。今婆さんから聞いた事を纏めて、まずは大学に提出する。更にその後卒論にした上で、一冊の本に仕立てあげる。そして世に送り出して、戦争の悲惨さを“当たり前のように現代を生きている”人達(勿論、私も若者なのだが)に伝えるのだ。私はパソコンに向き合うとひたすらキーボードを打ち続けた。また隣の部屋で音がしたように思えたが私には聞こえなかった。


____2016年8月15日午前2:00

長時間パソコンに向き合っていた為に伸びをする。そして時計を確認すると午前2時を既に過ぎていた。思わず大きな欠伸をするものの、何やら隣の部屋から楽しげな声が聞こえる。珍しい。実に珍しい。しかし、午前2時にしては少し五月蝿い。楽しげな所申し訳ないが少しだけ静かにしてもらおうと玄関を出て隣の部屋のインターホンを鳴らす。

軽い足取りからドアが開くと中からは若い女性が出てきた。

「楽しげな所にすみません。少しでいいので喋る時の声を小さくしてもらえませんか。」

「こちらこそ申し訳ありません。久々の家族水入らずなものでして。あなた。少し声がうるさかったみたい。」

女性は丁寧に対応してくれた上に旦那さんまで呼びつけた。別にいいと私が言っても、礼儀作法に気を付けているのか譲らない。仕方無しに少し待つと旦那さんが出て来て

「本当に申し訳ない。久々に娘と会えたのが嬉しくてね。ほら、テルも少しはしゃいだのだから謝りなさい。」

ガタイのいい旦那さんも深く例をして謝罪をしてくるので、いよいよ私は恥ずかしくなって“本当に大丈夫ですから”と言い返そうとする。しかし、私は1つ引っ掛かった。テルと言うのは婆さんの名だ。何故、婆さんに対してこんなに偉そうなのだろうか。そして、何故、子供に呼び掛けるのに私の“背後”に呼び掛けるのか私は恐る恐る振り返るとそこには、ちょうど9歳くらいの女の子が立っていた。流石にこれはおかしい。恐怖心から前に向き直ると


____そこには全身が焼け爛れ、かろうじて顔のみ分かる女性と、ボロボロの軍服に身を包み、血だらけで全身の関節がおかしな方向に曲がった日本兵が立っていた。


「う、うわぁぁぁぁ?!」

私は思わず尻餅を付き、痞えながらも悲鳴を上げる。脚が竦み、呼吸が乱れ、恐怖心に支配された私は一目散に逃げ出そうとする。錯乱した私は階段を下りて朝まで逃げようだなんて考えていたのだ。しかし、行こうとした階段には3人家族が立っていたのだ。私は気付くべきだった。何故、婆さんが古い孫の写真を持っていたのか。大切そうに握りしめていたのか。婆さんが79歳なのだ。年齢的に考えて生きているのであれば孫は20歳くらいであろう。だが、孫は5歳で死んだ。だから続きの写真がないのだ。

「交通事故だよ。」

後ろの少女が告げる。そして同時に悟る。“ああ…囲まれた。”どうなるのか分からない恐怖に心臓は限界を迎えそうな速さで鼓動を打つ。先程よりも更に呼吸が乱れた事で脳に酸素は回らなくり、冷静な判断が出来なくなる。眩暈がする。そしてとうとう、


____私の視界は真っ暗になった。


____翌朝

五月蝿い蝉の声にハッと起き上がる。外で倒れたはずなのに蒲団で寝ている。逡巡の後に下した答えは、“夢か”と。だが、蝉の声以外に外がガヤガヤと騒がしい。私は服や頭髪を最低限整えると、外に出る。

すると下には救急車がいて、ちょうど運ばれていく所だった。サイレンは付いていない。集まっていた野次馬の中に101号室のおじさんが居たので話を聞く。すると驚いた事に婆さんが、何処かへ出掛ける間際に急に倒れたと言う。おじさんはちょうど出勤する所だったのだが、慌てて通報したらしい。私は昨晩の夢など忘れて酷く落胆した。折角仲良くなれたのに…と。

しばらくして、取り敢えず現状でその場に居てもしょうがないと判断を下した私は、部屋に戻る事にした。


____しかし、ドアの前には

陽炎のようにユラユラと揺れる少女が立っていた。まだ昼間だと言うのに。

ユラユラと揺れる少女は、

私に微笑みながら言うのだった。

「ありがとう。」

たった一言、その言葉だけを残して少女は消え去った。

此処で私はようやく理解した。周囲の人間が次々と亡くなり天涯孤独となってしまったテルさんは、寂しかったのだ。人の死を見てきた分、自らの死も悟っていたのかも知れない。だからこそ、私に辛い体験も身を切る思いで話してくれたのかも知れない。亡くなった今ではもう分からないが、何故か私は何かを託されたかのような感覚に陥った。


私は急いで部屋に帰ってパソコンに向き合った。

そしてがむしゃらにキーボード打つ。

原稿を仕上げ、

そしていつか、

ユラユラと揺れる少女に

“どういたしまして。”

この一言を返せるようになる為に。

この話を書くに当たって

沢山の動画を見たり、

書籍を読み漁ったりしました。


更に地元に住む戦争を体験した方への

取材も重ねました。


私に多大なる協力をして下さった皆さんに

感謝の気持ちでいっぱいです。


そして、この話を読んでくれた貴方が、

ほんの少しでも

こうした歴史に興味を持ってくれたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
[気になる点]  「南溟」、「痞えながらも」などにルビを振ってほしかったです。  あとは、人名や地名にもルビが振られていると助かりました。「安房小湊」とか、読めなかったんです。 [一言]  葵枝燕と申…
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