夕暮れのグルメ
心配するな、舌のあるうちは飢えぬ。
だが、女と胃袋には気をつけよ。
『味覚馬鹿』より “北大路魯山人”
――腹が減っては戦ができぬ――
誰が言ったが知らないがこれぞ至極名言なり。
ヒトの本質をついた言葉であり、人間が人間としての本質をついた一言である。
空腹で動くこともままならない俺にとってこの言葉はモノスッゴく共感できる。夕方遅くまで練習を重ねている野球部員は夕暮れの帰り道こそ、一番危険な時間帯なのだ。
――腹が減った。
選択の余地のない本能が吼えるのは飢餓のシグナルで、胃袋から脳神経へと信号を送り出す。
その指令を受け取った脳は飢えを満たすために、どんなものが食べたいか考え出す。これがマズい。胃袋はヘビー級ボクサーに殴りつけられるサンドバッグのように、刺激されるのだ。
胃の粘膜から胃液がどんどんと溢れだし、舌先からは唾液がだらだらと垂れてくる。知らない間に、食道はベルトコンベアーになってしまい、どんな物でも口の中に入れたくなる。
ギュゥゥゥゥ~
腸が腹の虫をねじりだし、切なげに声をあげる。監督にもナイショに腹ペコサインを出してしまった。
「大丈夫か? 稲葉?」
西村が千鳥足で歩く俺のことを心配して声をかける。
「全然ヤバイ。全然ヤバイ」
膝が内股になって、おもらしを我慢する女子みたいに動くことができない。
「腹痛いそうだが、ガマンできるか?」
「いや、そっち違う。腹が減って、ヤバいの!」
「そんなにヤバイのか?」
「腹と背中の間がトイレットペーパー並の薄さになって、そのままに一緒になりそうなぐらいヤバイ!」
「水かけたら、ふやけそうだな」
「冗談はいいから本気でヤバイ。なんか食いたい」
大通りの歩道であぐらをかき、西村に何か買ってこいとパシリを要求する。
「近くにコンビニとかスーパーとかないぞ」
「タクシー拾って」
「できるか!」
西村は俺を置いて、のこのこと帰っていく。
「待てよ」
パシリ作戦が不発に終わった俺は仕方なく、西村の後を追った。
――この走った分の消費カロリー、絶対、支払わせてやる、と、ワケのわからないことを考えていた。
サッサと早歩きしていた西村がいきなり立ち止まる。信号機も横断歩道もないのに。
「稲葉。アレを見ろよ」
「アレ?」
俺は西村の指さす方を見る。
そこには風に揺られるラーメン屋ののぼりがあった。
「ラーメンか」
俺はゴクリと喉を鳴らした。
「噂で聞いたことあるんだけど、あそこのラーメン屋、スゲェうまいんだって」
「マジで?」
「鳥まるまる使った鶏ガラスープ、麺専門店から取り寄せたたまご麺、寝る間も惜しんで寝かしたチャーシューをふんばんに使ったラーメンとか」
またも喉がゴクリと鳴る。いつもは平気で残すスープも、今ならドラム缶みたいに大きい調理鍋の分まですべて飲み干せそうだ。
「西村、カネ持ってるか?」
「稲葉は?」
「今月分のおこづかいの千円はある。これを使ったら半月の間、ひもじくなるけどな」
「おれもそれぐらいかな」
「食べようか?」
ラーメン屋ののれんに視線を向けながら尋ねる。
「家のメシは?」
「食べてから考える」
「いいアイデアだな、それ!」
西村も俺と同じように思考力が劣化の一途を辿っている。
考える力を失った俺たちに止めるものなどいなかった。
大通りから路地へと曲がり、のぼりのある店へと行く。
その店は昔懐かしい定食屋ような建物で、表玄関にはデカデカと店の看板を出していた。
ガラガラと扉を開けて、のれんをかきわけて、店の中へと入っていく。
ただただ静かで、不気味だ。
こういう店は店内の端の方にテレビぐらいあるものだと思うが、残念ながらそういったものが見当たらない。
店員不在のラーメン店、お店をやっている感じがしなかった。
「出直そうか?」
西村は怖がってこのラーメン店から出たがっている。建物が古いこともあり、お化けが出そうな雰囲気があったから、西村がそういうのも無理はなかった。
「バカ言うなよ」
正直俺も怖がったが、もう動く気力がない。身体のエネルギー貯蓄庫はゼロを超えて、クラブで鍛え上げた筋肉にあるグリコーゲンを借りて、必死に動かしていた。
しかしながら、その筋肉もこれ以上、エネルギーに分解されたくないと悲鳴を上げてきた。部活で動かした筋肉が乳酸地獄にハマりだして、筋繊維を癒そうとする。こうなったら筋肉銀行からカロリーを借りることができない。利子を付けて返す番だ。
となると、エネルギー補給をするためには、口から直接摂取するしかない。何が何でもこのラーメン屋のラーメンを食べないことには気がすまなかった。
「スミマセンー、スミマセンー」
店の奥に聞こえるように、店員に声を掛ける。店側もやる気もないのに、声を掛ける事自体おかしなことだが、思考力を失った俺にはラーメン屋の店員だけが頼みの綱だった。
サンダルの音が響く。店の奥からのれんをかけわけて、かっぷくのいいおばさんがやってくる。
「あの、その」
先ほどの声よりも一オクターブ下げた声で話しかける。
「空いてるよ」
おばさんは近くにあるテーブルの方へカオを向ける。
――機嫌が悪い時に来たな。
自分の運の無さを後悔しながら俺と西村はテーブルに着いた。
おばさんは水のプラスチックグラスを持って、俺達のいるテーブルにそれを置く。コップから水が数滴テーブルの上に掛かったが、おばさんは気にせず、注文を取ってくる。
「並?」
おばさんは俺の方を見て、疑問を投げかける。
「ハッ?」
――ナミとは何か? 裏メニューかそれとも常連メニューか?
「並って聞いてるの?」
おばさんはせっかちに追い打ちを掛けてくる。
「あ、はい、……並、並でお願いします」
俺はおばさんの圧迫感に負けて、それを頼んでしまった。
「そちらも並?」
「大盛りありますか?」
俺が頼もうとしたモノを西村が頼む。酷い話だ。
「それにするの?」
おばさんは上品そうに言うが、どう聞いてもめんどくさそうな言い方だ。
「それでお願いします」
西村は声を小さくして、メニューを頼んだ。
おばさんは伝票の確認をすることもなく、店の奥へと入っていた。
俺はあれだけ切迫していた空腹感を忘れ、おばさんから醸し出されたオーラに緊張してしまった。ファミレスや牛丼屋じゃ絶対に味わえない、ピリリッとした緊張感を地肌で広がっていた。
西村も俺と同じなのか、何度もおばさんのいる店の奥を見ている。自分がおいしいお店と言った手前もあり、この店から出て行くことも言いづらそうだった。
「なあ、ホントに美味しいラーメン屋なのか?」
「オヤジが言っていたことだけどな。ここの大将は、オトコの舌を研究している。この町に来たら絶対この店は押さえておきたいって」
「おばさんだったぞ」
「だから、おかしいと思って、のれんの奥を見てる。ひょっとしたら、おばさん一人でやっているんじゃないか?」
俺の中でイメージしていた至極のラーメン像が崩れ、腹ペコが感情を高ぶらせる。
「西村、オマエ、払えよ」
「いきなり何言うんだ?」
「俺はオマエのおいしいラーメンの話を期待して、ここに来たんだ。責任はオマエにあるだろう!」
「そんなこと言われても困る」
「おいしくなかったらカネ払えよ! いいな!!」
「食べてから言えよ。保険かけるなよ」
「保険かけてねえよ!」
冗談のつもりで言っていたが、だんだんと熱を帯びて、本気になってきた。おいしくなかったら西村に慰謝料をふんだんに請求してやろうと思った。
つまらないことを言い合っていると、店の奥からおばさんがラーメンを運んできた。
「並?」
おばさんは西村に尋ねる。
「並はそっち」
注文を間違えたおばさんは表情を崩すこともなく、俺のテーブルにラーメンを置いた。
濃い茶色のスープの上に透明な油がぷかぷか浮かぶ。
スープの底には麺があり、クラゲの足みたいにバラバラなっている。
メンマやナルトのようなトッピングはなく、シンプルなのりがのっている。
切ってから何時間も放置した冷えた脂がくっついたチャーシューが、なんだか口の中に入れたら、ネバネバしそうだ。
この食材の集合体がこの店のラーメンと呼ぶものだ。
「大盛りはそっちね」
西村のテーブルに大盛りラーメンが置かれる。ドンブリが大きいだけで、具がたっぷり入っている感じはなかった。
「ごゆっくり」
その言葉がなんだか嫌みに聞こえた。
おばさんは店の奥に行かず、カウンター席で掃除をしながらチラチラとこちらを見ている。店の奥に厨房があるというのに。
「早く食おうぜ」
「食い逃げとかしないけどな」
無理やり声を上げて、おばさんに対して牽制球を仕掛ける。しかし、おばさんは上の空で、俺の頬が痙攣したかのようにぴくぴくと動いていた。
スープの中にレンゲを入れ、そのスープを口にする。
「どう?」
西村は割り箸を二つに分けてながら、話しかけてくる。
「まずくはない」
しょう油ベースのスープだが塩加減はキツくない。ただ、味に面白味がなく、二、三度口にしたら、飽きてしまう。
西村もレンゲを使い、スープをすくって、口に寄せる。
「そうだな、まずくはない」
まずくはない。それがこのラーメンの印象だった。
俺達は箸を手にして、まずくはないラーメンを攻略していく。
「あぶらっぽいのがスープに浮かんでいる」
「ダシの取り方が下手だな」
「塩気が薄いし、なんかごまかされている。チャーシューも冷めていて、脂が肉の周りについていて口の中に入れたら吐きたくなる」
「麺は硬いのに、ボロボロと落ちてくる。引き締まっていない」
「お腹空いていなかったら、食べないぞこれ」
「同じく食べていない」
小声でグチをこぼしながらも俺達はまずくはないラーメンをずるずると食べていく。期待外れのラーメンにイライラするよりも、目下の空腹感をなくすことが俺達の目的だった。
麺を食べ切り、後はスープのみ。
スープを飲もうとドンブリを手にする。
しかし、口の中でスープの味を思い出すと、持ち上げたドンブリをテーブルに戻し、グラスを口付ける。
口の中にあった貼り付いた粘った液を洗い流すと、大きなため息を吐く。
ついでに、壁に飾られていた名札を見て、もう一度ため息をついた。
「……これで800円。しかもプラス税」
――800円あれば、おにぎりやハンバーガーが8コ買える。
――ジュースなら、6、7本買える。
――でも、どうして、ラーメンは800円なんだろうか?
そんなどうでもいいことを無意味に掘り下げてしまった。
ラーメンを食べ終わった俺達は会計を済ませようと、レジへと向かう。
おばさんは俺達を待っていたのか、ずっとカウンター席にいた。
おばさんはレジチェッカーを操作し、俺達の注文したラーメンの合計金額を口にする。
「別々なんですけど」
「はあ?」
おばさんは言わなきゃいいことを言ってしまう。
「いえ、なんでもありません」
角を立つことはもうイヤだった。
静寂のラーメン店から外へと出ていく。
俺は扉が壊れるぐらいにドアを勢い良く閉める。
バッシーン!! と、音が出て、なんだか気持ちが良かった。胸が晴れた気がした。
いや、緊張感の糸で引き締められていた空間から出られたことが嬉しかった方が大きかったのだろう。解放感ってモノを実感していた。
俺と西村はラーメン屋ののれんを目にする。
赤い背景と白い文字で書かれたのれんは古風なラーメンをイメージさせる。
しかし、店の中にはこだわりの頑固オヤジでは存在せず、変なプライドのあるおばさんがいるだけだ。
――もう二度と、こののれんをくぐるものか!
西村もそう思っているだろう。おいしいラーメン屋なんて簡単に見つかるものじゃないのだ。
「そこにいたら邪魔なんだけど」
後ろから男の声が掛けられる。
どうやら、俺達は店先の前で立っていたようだ。
「あ、すいません」
俺はすぐ謝る。
「ラーメン食べたの?」
男はそういう。多分、俺の口からラーメンの匂いがしたからわかったのだろう。
「ええ、食べました」
「どうだった?」
「なんていうか、その……」
「イマイチだっただろう」
「はい!」
思わず、大きな声を出してしまった。
西村も俺の愚直な声に苦笑していた。
「ここのラーメン屋は、昔はホントにおいしいかったんだけどね。店長が娘さんになったことで、味も何も変わってしまった」
「店長が変わった?」
「そうだよ。ラーメンに詳しいヒトなら知っていることだと思うけど」
「いやいや、全然知りませんよ」
「そうか。それなら、あの味はビックリしただろう? 素人丸出しのスープ、細切れにちぎれる太麺、何時間も経って脂がのったチャーシューでできたラーメンを」
「よく知っていますね」
「ボクはここの常連だからね」
男はのれんを見ながら、そう語る。
「イヤじゃないんですか?」
「イヤだけど、この店を無視したら先代のオヤジさんに悪い気がしてね」
「オヤジさん死んだのですか?」
「いや、生きているよ。でも、糖尿病を患って、病院で寝たきりだよ」
「それならもう店は畳んだ方が――」
「そうした方がいいと思うけど、まだ店はやっているからね。ボクがここに来ているのは、この店が潰れないように、よしみで行っているもんだよ」
「そうですか」
「でも、娘さんはそれを勘違いしているのか、自分の腕は確かだと思って、殿様商売をしている。並と言えば、ラーメンの並だというルールを自分で作っている。多分、ボク達が並とか言っていたから、それがこの店のルールだと学んでしまったんだろう」
「あれはルールだったんですね」
「そういう環境を作り上げてしまったボク達には責任がある。あの娘さんもやりたいこともあったと思うけど、それができなかったからああなったんだろうな。愛想笑いぐらいはできるようになったんだけど、感じの悪さが抜けていない」
「それでも行くのですか? このラーメン屋に」
「ひょっとしたら、また、あの時の味が出てきて、おいしいラーメンにめぐり逢えるかもしれない。そういう奇跡を期待しながら、ここに通いつめている」
俺は彼の言うおいしいラーメンを食べてみたかった。
まずくはないラーメンをもう一度食べたら、そういう奇跡に巡りあうんじゃないかと、思ってしまった。
「まあ、そういうのって夢物語かもしれないけどね」
男は笑うと、店ののれんをくぐる。
「並」
男は注文を取るとドアを閉める。
彼はおいしいラーメンを期待し、店へと入っていた。
車のボンネットが陽炎を生み出し、夕暮れを歪ませる。
交通渋滞で前が進まない。
歩いて行った方が早いのではないかと思うぐらい、車は道路に詰まっている。
俺達はその傍らの歩道を歩き、自分達の家へと向かっていく。
今、俺達の中にあるのは胃のムカつきと、千円という大金を簡単に使ってしまったことに対する後悔だった。
「失敗したな」
「失敗したな」
俺と西村は同じことを口にする。
「コンビニ飯なら300円もしねえのに」
「おいしいラーメン屋って言葉にダマサれたわ」
俺達は力なく笑い合う。
「家に帰ったら食えるか?」
「多分、無理。もう胸いっぱい」
西村の手は腹ではなく胸を抑えた。
「ここまで疲れるラーメンも珍しいわ」
「ホントホント、笑い話にもなれないわ」
俺は小さく笑い、嘆息をついた。
「おいしいラーメン屋って、ホントだったんだろうか」
「昔はそうだったんだろう?」
「今がうまくなきゃ意味ない」
「でも、その味を思い出そうとして、ラーメンを食べに来ているヒトがいただろう? あのおっさんもそうだったはずだ」
俺はラーメン屋ののれんにくぐろうとした男のカオを思い出す。
――昔食べた味に期待をしながらも、何処か裏切られることを知っているような悲しいカオ。
多分、そのカオが喜びに変わることはない。
なぜなら俺達は、この日のラーメンを口にしていたからだ。
「俺らはまずくはないラーメンを食べたからそこで終わったけど、おいしいラーメンを食べたことのあるヒトはまだ、あそこに通っている。頭に刷り込まれたあの味が忘れられなくて、おいしいラーメン屋ということを信じて、また来ている。もう、その味は食べられないことを知っているのに」
「グルメだな」
西村は感慨深く言う。
「いつもどおり、おいしいモノを食べられるってことは奇跡なのかもしれないな。おいしいものが食べられなくなったら、ああやって、おいしいモノを食べた気になろうとするんだから」
当たり前だと思っていたモノは、実は当たり前じゃなかったと思ったのはこの時が始めてだ。
まずくはないラーメンを食べただけで、不安定な感情が胸の中で浮かんできた。
夕暮れの大通りに走る車はのろい。
軽く走れば、車を追い越すことができそうだ。
「夕食のために走るか」
俺の呼びかけに西村は返事する。
「走ろうか」
手にしていた野球グッズを背負い、俺らは走りだす。
――重さは感じない。
――それよりも早く走りたい。
おいしいものを食べるために、俺らはジョギングしながら家へと帰っていた。