第十話 木霊
滲んだ視界一面にふわりふわりと舞う赤いカケラ、静止している巨大な根から受けるこの上ない圧迫感。壊れたような速さで脈打つ心音と反比例するように鈍く痺れた手で、僅かに氷から突き出た先端を撫でると、小さく蠢いていて驚く。慌てて手を引っ込め、その手で震える自分の体を抱きしめる。震えは止まらないが、吐き出す白く曇った息と光輝く巨大な桜が重なる光景が綺麗だと、感じられる程には気持ちに余裕が出来ていた。頭に乗った生物の重み、その揺らす尻尾、目の前で凍りつく根、周囲を囲む氷、それら全てが安心を与えてくれ、恐怖を雫に変えて地面に落としていく。
「備えあれば憂い無し、か。地球の先人は良い言葉を残すな」
頭の上でしたり顔で何か呟いている声が聞こえる中、すぐ近くに転がっていた杖を手で拾い、立ち上がろうとして……体重を支えきれず、腰から落ちてしまう。足が震えて力が入らない。いや、足どころか手も、肩も震えが止まらない。
そこで初めて自分が声を押し殺して泣いていた事に気がつき、情けなくなる。何せ死の危険が迫っていたとはいえ、実際は怪我をした訳でも無い。現実で言えば車に引かれそうになったのと同じ、いやあの状況で実際に死ぬかは分からなかったから、落ちてくる太さの分からない鉄筋が自分の横に落ちたくらいだろうか? そんな状況で、膝を内股気味に寄せ、足を外側に流した女の子座り、そんな状態で只管震えてすすり泣くのだから、情けない以外の何物でもない。声を上げて泣かなかっただけマシというくらいだ。
立ち上がったからといって何か出来るわけでも無い。何せ自分を円状に囲むように、自分の身長よりも高いと思われる氷壁がそそり立っているのだから。脱出するには空を飛んで脱出するくらいしかない。だから立ち上がれなくても問題ない。そう頭で良い訳しても、自分の姿は誤魔化せない。足を寄せ左足前の地面と肩でバランスを取った杖を全身で抱え込み、膝を腹に付けるように寄せる。
「氷壁は長くは持たない。今のうちにここから離れよう」
その言葉に立ち上がれない、と告げようとして失敗する。唇が震えているというか、漏れそうな嗚咽を抑えるのに必死でまともな言葉を紡げそうに無い。
どうすべきか悩み込み、結局うーうーと呻きながら俯いて固まるという状態がまた情けない。そんな自分の頭をポンポン、と尻尾で優しく叩いたテラが続ける。
「まずは飛行術を起動させてここから逃げよう、何、今すぐ氷が割れる事もないだろうから、落ち着いて、ゆっくりな」
その言葉を受けて、ゆっくりとまずは気持ちを落ち着けるよう深呼吸、次いで杖を正面に掲げ飛行術起動と呟く。ひ、ぃごうじゅ、きどぉくらいに不鮮明な言葉だったのに、健気にも光輝き答えてくれる杖が非常に健気だ。
すぐに体がふわりと、エレベーターの降下時みたいな浮遊感に包まれ、体が浮き始めたのを感じ、杖の先端を背後に向けて移動するように念じれば、そのまま体が後ろ上方に流れ、氷の壁を抜け出す。大急ぎで10m程の高さへ距離を取り、周囲を見渡し警戒する。再度同じような目に合ったら今度こそ立ち直れない気がするから。
そそくさと杖に再度手放した時の魔法発動を仕込みながら、眼下を見て鳥肌が立つ。木の根がまるで蛇の集団のように不気味にうねる姿は、夢に出そうだ。いくつかは自分へ迫ろうと伸びており、それがまた鎌首を持ち上げる蛇のように見えて恐ろしいものがある。幸い届かないようではあるが、そちらに杖の先端を向け、氷の壁を落として威嚇を行っていると、頬を尻尾でぺしぺしと叩かれる。
「とりあえず怪我の治癒を行おう。自己状態解析で表示してくれ」
言われるまで治癒が出来ることを忘れていた。杖に意識を戻し言われた通りたどたどしく、自己状態解析起動、結果表示と続ければ、自分の腕部分の怪我が浅く、肩と腰を若干打ったくらいだと言う事が改めて頭に浮かぶ。頭の中に結果が書かれたカードのイメージが浮き上がってくるような感じだ。ついでよく分からない言語が目の前に表示される。天球語なんだろうか? テラが真剣な雰囲気で頷いているから、テラには理解できてるのだろう。しかし、防御魔法で裏切られたとはいえ、スキャン機能有りとはやはり魔法は便利だ。
「思ったより怪我が浅くて安心だ、再生術起動で問題なさそうだ。起動してくれ」
言われて再生術起動と繰り返せば、杖先端から腕へそのまま全身へと薄く赤い光が広がり、痛みが和らいでいく。数分も立たないうちに光が消え、改めて自分の手を見れば傷も残らない白い肌が見え、まじまじとひっくり返して確認するも、何処にも怪我らしい怪我は見当たらなかった。治療中の光景はちょっと見る勇気がなかったが、この結果が分かっているのなら次は見てみてもいいかもしれない。
「さて、治癒も終わったところで、改めて異変解決と行くわけだが……原因は帰し桜だったようだな。唐突に暴れだした要因は不明だが。見てみろ、光り輝いてる」
言われて視線を向ければ、月明かりを受けてではなく、本当に白く光輝く帰し桜がそこにあった。今の自分と同じか、それ以上の高さを誇るそれから伸びた根は、成程確かにその体躯に見合った物……なのかもしれない。しかし、異変の原因は分からない。強い想いの力が原因だとするのなら、木に想いがあったという事になる。それではまるで……
「……帰し桜に、意思が、あった?」
「さぁてね、樹齢1000年ならありえるかもしれないな。付喪神なら10回発生する年数だからな。だとしたら原因は何だ? それが分かれば人形のように消えるかもしれない」
大分落ち着いてきた声でしっかり言葉を区切るように告げれば、疑問に疑問が帰ってきて戸惑う。原因と言われても困るのだが、それを考えずに木を物理的に叩きのめすのはまだ怖い。ここは順を追って考えてみる。
まずここには無抵抗で人に近寄るゾンビが居た、ゾンビを張り倒したら根が飛んできて張り倒され、現状に至った。ではゾンビの前には何が居た。酒盛り客が木に何か祈った? いや、最終防衛帰し桜とかだったら最初から木が襲ってくる筈だし、ゾンビが襲ってくるだろう。そもそも人間は全て追い出されたのし、余程強く祈るような事態が起きないと異変は発生しない筈。では襲ってこないゾンビにどんな意味があったのだろうか?
首を捻り、唸りながら考えても良くわからない。
「ゾンビは、何のために……」
「ふふ。失礼、まだ情報が足りないな。芹弥、近寄れるか?」
思わず呟いた俺に何か微笑ましいものを見るような声を返し、尻尾の先端で頬をくすぐるようになでられた。恐怖をやわらげる為だろうか? 何か無性に腹が立つ。
とはいえそんな事態を招いたのは自分であり、このままでは状況が進展しないのも確か。不満を心に押し込め、帰し桜に近寄ろうとゆっくりと体を移動させるが、凄い勢いで根が木に収束し始めて慌てて動きを止めてしまう。さらに近寄ったら枝とかも飛んできそうで正直怖い。 首を振って杖を握り締めると、前足で頭をぽすぽすと叩かれる。
「無理か。ならば探知を使おう。桜の木の周辺の状況を知るように指定するんだ。木の魔力があるから難しいかもしれないが、何度かやってみるしかあるまい」
桜の木の周辺を知る……か、目で見れれば早いのに。近寄りたくないし、アレと戦うくらいなら原因を解明させて木が退場してくれる事の方が楽だ。根で負った手の傷は深くは無かったが、あの根が自分に向かって迫ってくる光景が思い出され、体が震えてしまうくらいに心に傷が残っている。認めたくないが、認識しておかないと余計酷い目になりそうで認めざるを得ない。
そんな事を思いながら、木の周辺状況探知と呟いたからだろうか。まるで身近にあるように桜の木の遠景がそのまま表示されてしまった。テラがビクッと動き、そのまま固まっている事からして、きっとこれは本来ありえない事なんだろう。
それは兎も角として、表示された図を見れば、木の周囲を覆った紐の内側に、周辺に転がった紙コップや割れた酒瓶があるのが目に付く。臭いは分からないが、きっとアルコールの香りがきついのだろう。こういう場所に付き物のブルーシートや食べ物の類は見当たらないから、違う場所から酒瓶だけ持ってきたのか?
「いやいや、待て待て。どうやって遠景表示した。遠視は存在するが遠距離を視るのはかなり高度なんだぞ……アレか、そこまで行きたく無かったのか?」
待て。何で神木の近くに酒瓶が落ちてる? 酔っ払い何やってんだよ。
「テラ。木に意思が宿っているとして、酒塗れになったら怒るかな?」
「私ですら発動には時間が……ん? あ、ああ。そりゃ怒るんじゃないか? 自分が酒を掛けられたら嫌だろう?」
「……そう、ありがとう」
成功するかは不明だが、何となく分かった気がする。酔っ払いが神木に近寄って酒を掛けたか、酒瓶で殴ったか。それで怒った木が酔っ払いを遠ざける為にゾンビを出したんじゃないだろうか? 自分に襲ってきた理由は不明だ……が……
「テラ、俺がゾンビ蹴散らしているとき、神木に向かって何か飛ばさなかった?」
「どうだったかな。最後の方は雑だったし、斧の先端とかが飛んでいたかもしれないな。で、いきなりどうした?」
……それが当たったんじゃないだろうな……と、猫の言葉を無視して木の周囲を改めて見渡すが、それらしいものは見つからない。ただ、細かく捜せばガラス片に混ざって氷の欠片が混ざっているくらいはありそうで、そう思うと背中に冷たい汗が流れる。
暴力を非暴力で帰して、それを暴力で帰されてキレた。そんな自業自得の結果だったら……戦うしかないかもしれない。そんな嫌な結末に引きつった笑いを浮かべながら、とりあえずやるだけならタダだと杖を構える。謝罪と洗浄で許してくれるほどに、木の意思が優しい事を祈るだけだ。
「さっきからどうしたんだ? その笑い方は恐くて不安になるんだが……大丈夫なのか?」
「……黙って」
「……さっきから酷くないか?」
酷いのはお互い様だろ とは思うがとりあえず置いておく。
言葉に従って黙ってくれた猫が、頭を手でぽふぽふ叩いて抗議を続けているが、気にせず杖を構えて念じる。思い描くのは綺麗に洗い流され、ガラス欠片などが全て取り除かれた木周囲。欠片は散らばるのではなく一箇所に集められ、片付けられるように。非暴力で片付けられるならそれに越した事は無い。戦いたくない、これで解決してくれますようにと祈りを込めて杖を握る。
「洗浄、回収起動、周囲一帯! 神木さん、ごめん! 洗うから許して!」
「そんな術式は無、またか、また発動するのか!」
俺の言葉に合わせ、杖が光り輝く。それに合わせて何処からともなく現れた水が神木を、周囲の桜の上へと寄っていく。表示された遠景を見れば、神木の表面を撫でるように這って地面に降りていく姿が確認できる。その動きはまるで生き物のような、されど統一された動きで広がっていき、俺の真下へと集っていく。次々と水が集っている筈なのに、不思議と足元に水溜りが出来たりはしていない事から、足元の水は消滅しているのかもしれない。
そんな不思議な光景が数分ほど続き、水が全て消えた後の光景に、俺は安堵のため息を付いた。
足元に近寄ると、酒瓶などが集っている事が確認できて嬉しくなる。こちらもしっかり発動したようだ。
周囲を見渡せば、不思議と周囲に水濡れがない事が分かる。やはり謎原理で消えたのだろう。後はこのゴミをどうやって回収するかだが……回収しないで放置したら朝誰か回収してくれないかな……
そんな投げやりの思考の俺と、芹弥は想いの力との親和性が高いんだな、そうに決まっている。もう何が起きても驚かん。と投げやりに呟くテラ
そんな2人の背後には、月光に照らされた、優しい心の桜の木だけが静かに残されていた。




