2、
広い会場には清澄で優しいピアノの演奏が流れている。
厚いカーテンで外の光を遮ったパーティー会場は、天井に六個の宝石のような球を垂らした豪奢なシャンデリアが煌めき、招待客の座る丸テーブルには薔薇のアレンジメントが飾られている。花で飾られた一段高い新郎新婦席は、スポットライトで浮かび上がって見える。全ては幸せな二人のために演出された披露宴会場。その豪華な華やかさに、恭介は息が詰まりそうな気がした。
啓一は到着していない。
ホテル内の教会での式は、当然取りやめになった。そして時間に迫られ、披露宴が始まってしまった。
恭介は奥歯を噛み締め、言葉に詰まりながら啓一の不在を釈明する仲人を見守った。
「このような事態になり、皆様にはお詫びの言葉もございません」
新郎新婦席の脇に立てられたマイクの前で、仲人を引き受けた啓一の大学時代の恩師が白髪の頭を下げた。新郎が現れない式など経験がないだろう恩師の額は、汗で光っている。立ち上がっている両親は身を縮めるように項垂れ、招待客も顔を見合わせざわついている。華やかに飾られた会場が場違いに感じるほど、陰鬱な空気に変わった。
司会を任された、啓一の中学からの親友の長岡がマイクを受け取ると、
「皆様、新郎はこちらに向かっているはずです。どうかもうしばらく待ってやって頂きたいと思います。ですが、予定の時間が過ぎましたので、披露宴は進めさせて頂きます。新郎が遅れようとも、二人がめでたく結ばれることには変わりございません。心からの祝福をお願いいたします。本日は新婦お一人の入場となりますが、その美しさは、新郎など霞ませるほどです。では、今日の主役の登場です。拍手を持ってお迎えください」
と、明るい声で気さくに語った。
新婦の入場に、会場は再び華やかな雰囲気を取り戻したように、招待客たちは出入り口の扉に向かい拍手をした。恭介も係員が開こうとしている扉を、食い入るように見つめた。新婦の傷心した姿を思うと、拍手をする気になれず、緊張したまま膝の上の手を握り締める。
扉が係の手でゆっくり開かれた。拍手が花嫁を励ますように一段と大きくなる。仲人の妻に手を引かれながら、ゆっくりと倉橋杏奈は入ってきた。
会場からどよめきが起こる。白いサテンのウエデイングドレスの花嫁が、たっぷりしたベールを背に垂らし、俯き加減で招待客の前に立った。腰からドレスの襞が波打つように揺れて、胸元が薄いレースで上品に隠されている。ノースリーブの腕には肘上までの白い手袋がはめられ、白い蘭のブーケを胸元で握っている。褐色の髪はアップに結い上げられ、ほっそりした首と肩が露わになっている。誰もが目を奪われる美しい花嫁。
迎えた仲人と言葉を交わすと、並んで招待客の席に向き直った花嫁はくっと顔を上げ、広い会場を見回した。一人きりの披露宴に耐える気構えなのか、目をしっかり見開き唇は固く結ばれている。気丈にも、打ちひしがれることもなく背筋を伸ばし、会場の拍手を受けている。恭介は胸が締め付けられ、兄の仕打ちにきゅっと唇を噛み締めた。
杏奈はゆっくりと招待客に頭を下げた。そして顔を上げると、仲人婦人に手を引かれ花嫁の席に着いた。会場は感嘆と困惑と同情でざわめいている。
司会の長岡が姿勢を正し、マイクに一歩近寄った。
「それでは、これより新郎高遠啓一君と新婦倉橋杏奈さんの結婚披露宴を執り行いたいと思います」
広い会場に彼の声が朗々と響き、BGMのボリュームが上がった。
恭介はじっと花嫁を見つめていた。
本当ならばあの端正な顔に可憐な笑みが浮かび、頬を染め瞳はきらきらと輝いているのだろう。しかし取り残されたように一人、照明にさらされて席に座っている花嫁の口元は綻ぶことはなかった。その凍りついた瞳は華やかに飾られた会場の、何も映してはいないようだった。
主賓の挨拶が始まり、乾杯が行われ、宴は滞りなく進んでゆく。
しかし大きな開閉扉が開くたびに、招待客は一斉に顔を向ける。そして新郎ではないとわかると、誰かれなく落胆の吐息を漏らした。
「恭介、警察から連絡は?」
同席の叔父の太一が、彼に顔を寄せ小声で訊ねた。
「いいえ。俺の携帯番号を伝えてあるけど、今は何も……」
恭介は上着のポケットから携帯を取り出し、確認しながら太一に答えた。披露宴が始まる前に、彼は警察の交通課へ事故の問い合わせをして、啓一の名と車種を告げた。何かあった場合はすぐに連絡が来るはずだ。それからずっと胸の内ポケットを気にしていた。
「連絡がないことを喜ばんといかんが、花嫁の気持ちを思うとたまらんなあ」
太一の言葉に、隣の席の叔母も辛そうに顔を歪めた。
「わしは何も聞いてへんかったが、もしかしてこの結婚に何か問題でもあったんか?」
太一が一段と声を潜め太った体を寄せて、恭介の耳元に囁くように口を近づけた。一瞬顔をしかめた恭介は、
「何もありませんよ。二人とも幸せそうやったし、問題がある結婚なら両親が一番に反対したでしょう。杏奈さんは性格の良いきちんとした女性や思いますよ」
と、太一の顔から体を離すようにして言った。
「そうやなあ。なんいうても上司のお嬢さんやしな。それにあの器量や。啓一が結婚しとうないなんて思われんな」
太一は杏奈の方を向くと、椅子の背に体を預け、肩の力を抜いた。
「おふくろの話では、彼女は小学生の時に母親を亡くし、ずっと父親と二人で頑張ってきたそうです。家事もこなすし気取ったところのない明るい人やって言ってましたよ。結婚の準備もおふくろと仲良くやっとったみたいやし、兄貴が逃げ出す理由なんて絶対ないですよ」
「逃げ出すやなんて、そんなこと思っとらん。啓一はそんな奴やない」
一郎は翳りの浮かんだはれぼったい目で、恭介を見た。
「小さいときから真面目できちんとした子やった。何かがあったんや……偶発的な何かが。啓一が無事でいることを祈るしかない」
恭介は深く頷いた。式が取りやめになり、恭介と一郎は啓一の友人にも研究所の同僚たちにも、行方について訊ねてみた。しかし誰もが首を傾げるばかりで、全く情報は得られなかった。こうなってはただ無事でいてくれと、恭介も親族も祈るしかなかった。
披露宴はプラン通りに進められ、会食が始まった。その間に演壇に立った者は、祝辞を述べながら、いざ啓一の名を呼ぶところで躊躇って言葉を詰まらせた。新婦はそのたびに深く頭を下げた。
フランス料理のフルコースの皿を、ウエイター達が手際よく持ちまわり、静かなクラシックの流れる中で食器の音とざわめきが聞こえ始める。本来なら花嫁はお色直しに向かう筈だが、杏奈は新婦席から立ち上がらなかった。ウエデイングドレスのままで、人形のように凍りつた顔をして座っている。
料理がメインデッシュになる頃、父の一郎は倉橋とともに杏奈の元へ行った。仲人夫婦と、司会の長岡と五人で言葉を交わしている。一郎が何度も頭を下げる姿を見て、恭介はたまらない気持ちになった。父がどれほど辛いかと思うと気が滅入る。たとえ兄が今駆け込んできても、素直に祝う気持ちになれないと、注がれたワインを飲み干す。
席を離れた人達が杏奈と両親たちに挨拶に回っている。ちょっとワインで赤らんだ顔の人も、笑顔と言うわけには行かないようで、短い言葉を掛けている。祝福の言葉にも、一郎と登紀子はひたすら頭を下げ、詫びている。
そのまま会食は進んだが、二人のために用意された盛り上げるためのオプションは取りやめになったようで、母が言っていた幼いときの映像は映し出されない。キャンドルサービスもケーキカットも行われなかった。まるで飾り物のようにメイン席の横に置かれた大きなウエデイングケーキは、杏奈の姿に同調するように哀れな気がして、会場の窓から海へ捨ててしまいたくなった。こんな茶番の結婚式など、誰に対してやっているのか……誰も、笑みの無い花嫁など見たくは無いのに……恭介は顔を歪めたまま、苛立ったため息を吐く。
料理がデザートへ進む頃、宴の雰囲気も次第に和やかになってきた。それぞれのテーブルから笑い声も聞こえ、カメラを手にした人が至る所でフラッシュを光らせる。
恭介が甘ったるいデザートに、浮かない顔でフォークを突き立てていると、
「恭介、頼みがある」
と、父の一郎がやってきた。
「親父、大丈夫か?」
眉根を寄せ目元に深く皴を作った父の顔を見て、思わず恭介は腕を掴み、心配そうに訊ねた。
「ああ、心配ない。とにかく式を無事に終わらせないとな。啓一はどうやら間に合いそうにない」
一郎は立ったまま、大きく息を吐いた。暗い表情にはっきり心労が読み取れる。隣の叔父の太一も口元を固く結んで、一郎を見つめている。
「最後の両親への挨拶だが、杏奈さんの手紙を司会の長岡君が朗読してくれることになってな。その後、花束の贈呈だが、お前に啓一の代わりを頼みたいんや。花嫁をエスコートしてあげてほしい」
恭介は驚いた顔を向けた。
「いいの? 俺で?」
「頼む。杏奈さんがどうしても渡したいと言うてるんや。それで、この式は終わる……」
一郎と恭介の会話を聞いていた同席の叔父や叔母たちは、暗い顔をしてじっと見つめている。
「わかった。花嫁のところへ行ってくるよ」
恭介は頷くと、視線を新婦へと向けた。