1、偽りの結婚式
昨夜まで降り続けていた雨が嘘のように晴れ上がり、港へ続く幹線道路沿いのビル街に、初夏の明るい日差しが降り注いでいる。
梅雨の合間のさわやかな日曜日、高遠恭介は神戸港を望むオリエントホテルへと車を走らせていた。
今日は兄の啓一の結婚式だ。恭介は助手席に置いた黒い礼装のブレザーに、ふっと口元を綻ばせる。
堅物だと思っていた兄がまさか三十歳で、恋愛結婚するとは思いも寄らなかった。仕事も遊びもそれ相応にこなしていた恭介とは違い、仕事一筋だった啓一が女に惚れたということに驚かされた。ましてや、とびっきりの美人を手に入れたのだ。
頭脳明晰な兄は大手の製薬会社、クレハ製薬の主任研究員という立場にある。日々、新薬の開発に心血を注ぎ、通勤時間を惜しんで会社の独身寮と研究所を行き来する生活を六年の間続け、赤穂の実家にさえほとんど帰らなかった。そんな兄が、仕事しか頭に無いと嘆いていた両親に、突然婚約者を紹介して仰天させた。病院の検査室のような全く色のない研究室で、兄が女性のことを考えていたのかと思うと、恭介は思わず運転しながら笑みを漏らした。
昨年の暮れ、啓一が「結婚する」と短い電話を寄越し、神戸市内のホテルに恭介を呼び出した。
お互いに仕事を持ち、恭介も気ままな一人暮らしをしていたために、たまにしか会わなかった兄からの照れくさそうな電話には、実際驚かされた。
そして、会社帰りに向かったホテルのロビーで兄のそばにいる女性を見たとき、彼はもっと驚いたのだ。その女性の美しさに……。ロビーの落ち着いた照明がスポットライトに感じたほど、その人は輝いていた。近づいてきた恭介に気づくとソファから立ち上がり、白い手を前で組むと、女にしては長身の体をすっと伸ばした。そして軽く会釈すると、肩をすべる緩やかに波打つ赤褐色の髪が揺れた……。その髪の美しさに恭介は息を呑んだ。
透けるような白い肌。くっきりした二重の瞳はライトブラウンで、縁取る長い睫が目元に柔らかい影を作る。その目鼻立ちのはっきりした顔は、一目でハーフだとわかる。
すっと伸びた高い鼻の下に、笑みをたたえたピンクの唇がうっすらと開き恭介に微笑みかける。会った瞬間に真っ赤な薔薇が頭に浮かんだ。
「倉橋杏奈さんだ。研究所の上司のお嬢さんなんだ」
立ち並ぶと彼女と同じくらいの背丈に見える兄が、頬を紅潮させ紹介した。銀縁の眼鏡の奥で細められた、兄の優しい目が彼女に向けられる。
でもその時恭介には、兄と彼女がしっくりとなじまない気がした。研究員と言う肩書きそのままの真面目で物静かな兄が、この艶やかな女性を受け止められるのかと正直思った。
しかし、そんな懸念を抱く必要はなかったのだ。啓一は今日、彼女とめでたく結婚する。美しい花嫁を披露することに誇りさえ感じながら。
十一時に始まる式の時間を気にしながら、恭介は駐車場に急いで車を停めた。
ホテルまでは、大阪寄りの西宮市にある彼のマンションからは車で一時間もかからない距離だったが、阪神高速の混み具合を計算に入れなかったのだ。
慌てて車から降りた彼に、さわやかな初夏の風が吹きつけて来た。恭介は髪を撫でつけながら、ホテルの前に広がった風景に目を奪われた。
陽光に煌めく神戸港は凪いでいる。大型のフェリーがゆっくりと進んで行き、ぼんやりと霞んだ対岸には人工島のポートアイランドが見える。湾岸に立ち並んだ荷揚げ用の赤いクレーンは、眠ったように止まったままで、日曜日の神戸湾はとても静かだ。
大都市でありながら六甲山と瀬戸内海に挟まれた神戸は、穏やかで落ち着いた街だ。ここで新しい人生のスタートを切る兄を、心底羨ましいと思う。あの美しい人と、手を取り合って暮らしていけるのだから。
ドアをロックすると、恭介は手に持った礼服の上着を羽織りながら、ホテルのエントランスへと駆け出した。
ベルボーイに迎えられ、カウンターで控室を確認すると、慌ててエレベーターに乗り込んだ。
このホテルは三階が披露宴会場となっていて、礼装の男性やドレスに着飾った女性が、廊下の両側にある両開きの大きな扉から出入りしている。大安の日曜日ということもあって、午前中から会場は詰まっているようで、扉が開くたびに、拍手やざわめきが廊下にこぼれてくる。
恭介は腕の時計を確かめて、絨毯貼りの長い廊下を控え室まで急ぎ足になった。
白い木製のドアの前に置かれた黒いプレートに自分の苗字を見つけて、恭介は息を吸い込んだ。
「遅い」と、母からのお小言をくらうのは間違いないと顔をしかめながら、肩を回して上着を落ち着かせた。中に集まっているだろう総勢三十人余りの親族達の顔ぶれを思い描き、軽くドアをノックしゆっくりと押し開ける。
「遅くなって……」
「恭介!」
途端に母の登紀子の甲高い声がして、恭介は顔を歪めた。
「貴方、遅いわよ。大変なのに!」
しっくりと留袖を着た母が、後ろ手にドアを閉めた彼に駆け寄って来た。心なしか顔が引きつり、蒼褪めて見える。いつもの朗らかな母とは違う面持ちを、恭介は訝しげに見た。
「どうかしたのか?」
眉根を寄せた母の肩越しに、集まった親戚一同の強張った表情を見渡す。広い室内の中央のテーブを、取り囲こんだ面々の視線が、恭介親子に注がれている。
天井まで開いた窓から差し込む明るい日差しが不釣合いなほど、控え室は異様に静まり返り、暗い雰囲気だった。
「おふくろ、何かあったの?」
「啓一がまだ来ないのよ!」
母の登紀子はそう言うと、救いを求めるように目を細め、彼を見上げた。予想もしていなかった言葉に、恭介は眉を吊り上げて言った。
「えっ? 来ないって……? 渋滞にでも捕まっているのか? もう式の時間だろ?」
登紀子は恭介の腕を、今度は険しい顔で掴み、
「わからへんのよ! 携帯も繋がらないし、マンションの電話にも出ないの」
と、苛立ちをぶつけるように声を荒げた。
「じゃあ、こっちに向かっているんだろう。遅れているだけやないか? 兄貴のことやから、きっと遅くまで研究所にいて寝坊でもしたんじゃない?」
「研究室にはこの三日、顔を出してへんって同僚の人は言うんよ。式の準備で休んでいると思ったって……」
母の後ろから近づいてきた父の一郎に、恭介が困惑した顔を向けると、口を固く結び、眉間に皴を寄せた眼鏡の丸顔がこくりと頷いた。
「おふくろ、落ち着けよ。連絡が取れないなら、待つしかないやろう。俺のところには何も言ってきてないし、どうしようもないやないか」
恭介の言葉に登紀子は大きくため息をつき、背後に立った夫にも救いを求めるように振り返った。
一郎も、恭介が何も知らないと知ると、落胆した顔をしたが、うろたえている妻を慰めるように言った。
「そうや。待つしかない。何かあったんやったら、啓一のことや、必ず連絡を入れてくる」
登紀子はうなずいたが、
「昨日は私の携帯に、朝早いから直接ホテルに行くとメールが来たのよ。忘れているってことはないわ」
と、また顔を曇らせた。
「当然だろ! 自分の結婚式だぜ。忘れるはずないだろ!」
恭介はうろたえる母に苛立ち声を荒げた。登紀子はため息を漏らすと、額に手を当てながら叔母達が心配顔で座っているところへ寄って行った。
「何をしているんや、兄貴は!」
と、恭介がはき捨てるように言うと、
「車だからなあ。何もないといいんだが」
と、くぐもった声で一郎は答えた。恭介の頭の中にも、突然悪い予感が浮かんでくる。それを振り払うように父に尋ねる。
「新居のマンションは見に行ったの?」
「ああ。管理人に事情を電話して、訪ねてもらったんやがいないらしい。もう出ていると思う」
恭介は当惑しながら父に言った。
「しかし、なんでタクシーにしんかったんや? 今夜はこのホテルに泊まって、明日はイギリスに発つんやろう?」
父は顔をしかめた。
「車は近くに住んでる友人に乗って帰ってもらうからと言うとった……。まさか啓一に限って遅れるやなんて、思いもしてへんかったから」
「だったら、遅れても来るだろう」
恭介は壁の時計を睨み付けながら、口を引き結んだ。
啓一は結婚を機に研究所に近い神戸市西区ににマンションを購入して、会社の寮から二週間前に引っ越している。そのマンションからこのホテルまでは車で一時間程で来れる。
恭介は生真面目な兄らしくないと顔をしかめた。いつも時間に正確な兄なら、余裕を持って出ているはずだ。
叔母叔父も、そしていとこ達も、もう式の時間が間近だと壁に取り付けてある丸い時計を各々に見上げる。新郎として支度する時間を思うと、すでに間に合わない時間だ。恭介は思いもかけない事態に苛立ったが、自分のように渋滞に巻き込まれている可能性は高い。
気を取り直して、笑顔の失せた親戚たちのテーブルへ近寄った。
「叔母さん、叔父さん、久しぶりです。今日は遠いところを有難う」
恭介が挨拶をすると、礼服に身を包んだ母方の叔父の津田が、陰鬱な空気を払うように、
「恭介、良い男になったなあ。見違えたぞ」
と笑みを漏らし、椅子から立ち上がって腕をポンと叩いた。叔母も懐かしそうに眼を細める。
「恭ちゃん、ますます男前になってわねえ。七年ぶりかしら? 法事の時はまだ神戸高専の学生だったわね」
「叔母さん、本当にお久しぶりです。兄貴と違って勝手気ままにやってたもので」
「建設会社の設計課に勤めているんだろ? どうや、仕事の方は。念願の設計士になったんだなあ」
中堅の建築会社を経営している叔父は、久し振りに目にする甥に目を見張って、心から嬉しそうに声を弾ませた。
「はあ、何とかやってますけど、まだまだ下っ端ですから」
頭に手をやりながら、恭介は照れくさそうに答えた。
「まあまあ、お仕事の話は後で。それどころではないでしょう?」
隣に座った叔母が夫にきっとした顔を向け、話を切った。津田は途端に眉を寄せ、口を閉ざした。
「ええ、叔母さん。本当に心配掛けて……。兄貴のやつ。もう始まるって言うのに、すみません」
恭介は長めの前髪を後ろへ撫で付けながら、親戚を見まわし、たじろぎながら軽く頭を下げた。
本当なら久しぶりに会う甥に、からかいの一つも出て笑顔に包まれるところなのだろうが、流石に皆神妙な顔で会話も続かない。
太った体で憮然として座っていた父の弟の太一は、恭介を一瞥して立ち上がり、一郎の前に進み出た。父と似た丸顔にも、困惑した表情が見て取れた。太一は苛立った声で言った。
「兄さん、とにかく嫁さんのご両親に啓一が遅れることを謝ってこないと……。あと十分もしたら、チャペルへ向かうことになるぞ」
「そうやな。ホテル側にも式の時間を延ばしてもらえるなら、そう頼んでみよう」
二人の会話に、登紀子も親族たちも顔を曇らせて、項垂れている。
「あ、僕も行きます」
と、恭介は扉を開けた父親の後を追って廊下へ出た。母の登紀子も小走りに草履の音を立て、後に続いて来た。
「わしはホテルの係に事情を説明してくる」
太一は小太りの体を翻すと、ロビーにある案内カウンターへと向かった。
高遠家の控え室の斜め向かいのドアの前に、「倉橋家控え室」と白字で書かれた黒いプレートが置かれている。
一郎と登紀子がドアの前に並ぶ。両親の俯き加減に緊張した背を見て、恭介は怒りが込み上がってきた。人生の中でも、今日は一番と言うべき大切な日だ。それは兄だけではなく、両親にとっても……。こんな日に親に苦痛を味あわせる啓一が許せないと、恭介は唇を噛み締めた。
意を決したように、一郎が短くノックするとドアはすぐに開いて、中から背の高い五十歳くらいの男性が顔を覗かせた。
「倉橋さん」
一郎が丁寧に頭を下げた相手は、新婦の父、倉橋隆興。そしてクレハ製薬研究所所長。啓一の直属の上司でもある。
「申し訳ありません。実はお伝えしなければならないことがありまして……」
「高遠さん、どうかされましたか? そろそろ式の時間ですが」
一郎の困惑した様子に、倉橋は怪訝な顔をしながら廊下へ出てきて、にぎやかな話し声の溢れる控え室のドアを閉めた。倉橋家の控室の中は、花嫁を囲んで笑顔が溢れているようだ。
倉橋隆興は恭介と肩を並べるくらいに長身で、背筋の伸びた穏やかそうな紳士だった。痩せた面長の顔に高い頬骨と高い鼻、皴が囲んだ目は細められている。理化学の博士号を持つ啓一の上司は、知的な言葉が出てきそうな締まった口元に落ち着きのある物腰で、恭介は途端に好感を持った。黒のモーニング姿も至極立派だった。両親の背後でじっと見つめる恭介に気づき、倉橋は軽く会釈した。
「ああ、次男の恭介です。ご挨拶が遅れまして」
一郎が思い出したように、恭介を振り返り紹介した。恭介は仕事を理由に、家族同士の集まりに参加しなかったことに罰の悪さを感じながら、
「はじめまして。恭介です。このたびはおめでとうございます」
と、丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。倉橋です」
恭介に会釈して笑顔を向けた倉橋は、またすぐに一郎に視線を戻した。
父の一郎は哀願するように眼鏡の奥の目を細め、倉橋を見上げた。皴の這う広い額には、薄っすらと汗が光っている
「実は啓一が、まだ着いていないのです」
一瞬、倉橋は眉をひそめ、訊き返した。
「着いていない? 遅れていると言うことですか?」
「はい。連絡を取ろうとしているのですが……。連絡もなく、まだ着いていないのです。このままでは、式に間に合わないかと……」
新婦の父は一瞬顔を強張らせ、
「事故にでも遭ったということでしょうか」
と、一郎と登紀子を交互に見た。
「いや、それならそれで連絡があると思うのですが、今はどうしているのかさっぱりわからなくて。申しわけありません」
夫婦は揃って、倉橋に深々と頭を下げた。さすがに彼も渋面を作り、
「もう式が始まりますね。困りましたね。どうしたものか……」
と腕の時計を見て、顎を掴むように手をあて、困惑した表情を浮かべた。
「一郎兄さん!」
叔父の太一が慌しく、ホテルの係の者を連れてやってきた。
「新郎様はまだお見えではないのですね?」
黒いスーツにチョウタイをつけたホテルの式場係は、緊張した面持ちで倉橋と一郎の前に進み出た。
「そうなんです。もう式が始まると言うのに……」
一郎がうろたえた顔を向けると、係も困ったと言う風に口元をひき締めた。
「少し式を待ってもらえますか? こっちに向かっていると思うのですが」
母の登紀子が懇願するように係に言うと、彼は一瞬眉をひそめたが、言葉を捜しながら丁寧な口調で答えた。
「今日はいつになく挙式が多くはいっていまして、実のところ時間に余裕がないのですが、こちらに向かっておられるという事でしたら、ぎりぎりまでお待ちしましょう」
そう言って、手首を返し腕時計を見た。中年の従業員は、トラブルに対して対処する術を心得ているようで、その場の皆が彼の落ち着き払った態度に安堵した。
「啓一君、いえ新郎がそれ以上遅れた場合は……」
倉橋が顔を曇らせて、係に尋ねた。恭介達は係を不安げな顔で見つめたが、彼は戸惑うこともなく、笑みを浮かべて答えた。
「大事なお式ですのに、本当にご心中お察しいたします。でも、時々こういうトラブルは起きることがございます。新郎様が何事もなくお見えになればそれでよいのですが、問題はご招待されている列席者の方々ですね。もし、新郎様が式に間に合わないならば、披露宴だけお開きになって、お式はご家族様で後日行われてもよろしいかと思いますよ。あくまで最悪の場合ですが。不慮の出来事でそんな挙式をされる方はいらっしゃいます。事故と言うことも、お仕事の都合と言うことも有りました。新婦様にはお慰めの言葉もありませんが、遠方を駆けつけてくださったお客様には、取りやめということほど心象を害せずに済むと思います」
皆が頷いたのを見て、係は、
「では、教会に事情を報告して参りますので、控え室で新郎様をお待ちになっていてください。お見えになったら、すぐに始められるように準備しておきます」
と、一礼すると急ぎ足で受付のカウンターへと戻っていった。その後ろ姿を見ながら、倉橋が躊躇いがちに言った。
「とにかく、啓一君が来たら知らせてください。もし間に合わなくても係の言うとおり、杏奈一人でも披露宴はやりましょう。そのうち啓一君も来るでしょうし、親族の方々と仲人夫妻にも事情を説明してあげてください」
「はい、仲人には今からお会いしてきます。本当に申し訳ございません」
憔悴しきった両親が、再び頭を下げた。そして顔を見合わせ、高遠家の控え室に向かって踵を返した。恭介も倉橋に会釈して、両親の後に続こうとすると、
「恭介君」
と、呼び止められた。立ち止まって振り向くと、倉橋は一歩踏み出し、立ち去る両親と叔父に聞こえないような小さな声で話しかけてきた。
「君は……、何も知らないんだね?」
「兄の遅れている理由ですか?」
「そう。啓一君に何か……、杏奈とのことで何かあったとか……」
恭介は驚いて彼の顔を見た。穏やかだった瞳が、険しく静かな光を持って鋭くなっている。眉間の皴が深く刻まれ、ささやくような声は低くく尖っている気がした。
「いえ、僕は何も聞いてはいません。兄の結婚については傍観するだけでした。ですから何の相談も受けたことはありません。去年の暮れに初めて杏奈さんを紹介されましたが、そのときは羨ましいくらいに幸せそうでしたよ。その後も兄は何も言ってきてないですから、問題になることなどないと思いますが」
恭介は二人のことなど何も知らないのに、探るような目を向ける倉橋にムッとして答えた。
「あ、いや、これは失礼な言い方でしたね。一人娘のこととなると、何かと案じてしまってね。彼が遅れているのは、道が混んでいるとか間違ったとか、偶発的なことで、ただ遅れているだけでしょう」
また穏やかな顔になった新婦の父に、恭介は申し訳ないという気持ちで、再び頭を下げた。
「杏奈に啓一君が来ていなくて、式が遅れることを話してきます。驚くでしょうが、仕方がない。彼が無事な顔を見せてくれれば、それですべては収まるんですから」
倉橋はそう言い置くと、軽く手を上げ、恭介に背を向けた。新婦の父の、礼装姿の落とされた肩が恭介の心を締め付けた。
「くそっ!」
兄への苛立ちが口をついて出る。腕の時計は、すでに教会へ入る時間を過ぎている。これほど皆が心配しているのに、連絡もないということは、生死にかかわるような事故にでも巻き込まれたのではないか。恭介は真面目で実直な兄が、連絡も取らずいい加減な理由で遅れるなど考えられないことだと思っている。それはきっと両親も、啓一を良く知る倉橋も同じだろう。ただ、皆彼の身にそんな不幸なことなど起こっていないと信じたいのだ。
恭介は花嫁の控え室の扉の中へ消える、倉橋を目で追いながら、待つ杏奈はどんな気持ちだろうと思った。そう思うと、ますます苛立ってくる。あの艶やかな美しい人は、どれほど心配して辛い思いをするだろう。彼女の二重の茶色の目は、笑うと目じりが下がり少女のようにあどけなさが浮かぶ。そんな笑顔が暗く沈んでしまうと思うと、彼の心も痛んだ。
何でも良い。早く来てくれれば――恭介は祈るように、受付カウンターへ続く廊下を見つめた。
お読みいただき有難うございます。
随分以前に書いた作を書き直したものです。
完成まで、まったりと投稿したいと考えています。
リアルに書いていくつもりです。よろしくお願いします。