19.最後の晩餐キャンセルカレー
あれから、どれくらいの時が経っただろう。
退役から長い時間が過ぎ、海軍士官だったアーロンも、今では白髪の老人となっている。
どこまでも続く海の上でも、豪華絢爛なインディオの豪邸でもなく、一人ベッドの上で見飽きた天井を眺める。
イーストエッジの一角に建つ、古びたレンガ建て。
その二階が、彼の住居だ。
「父さん、入るよ」
立地に見合わぬ、瀟洒な家具や調度品が並んだ部屋。
そこにやって来たのは、アーロンの一人息子だ。
「どう? 脚は良くなった?」
「さあな。まあ、まだしばらくは無理だろう」
ベッドから動けない理由は、脚の骨折。
階段からの転落という、あまりにも情けないものだった。
だが何より大きかったのは、精神的な落ち込みだ。
「スープ買ってきたから、食べなよ」
そう言って息子が鍋をチェストに乗せるが、アーロンは手を伸ばさない。
「食べないと、良くならないぞ」
「お前もいい大人になって、もはや私など必要ない。その時はその時だ」
海軍を退役した後はその経験を活かして教師となったが、それもしばらく前に引退したアーロン。
ぽっかりと空いてしまった心。
今さら食べることに、意味や希望など見い出せない。
それはただ、延命を続けるだけのむなしい行為にしか思えなかった。
「そんなこと言うなよ」
動かなくなってしまうと、人は一気に老け込んでいく。
そして弱った身体が病気を誘発し、そのまま亡くなってしまうということも少なくない。
「なあ父さん、何だったら食べてくれるんだよ」
嘆息する息子の問い。
アーロンの口が、自然と答えをこぼす。
「……カレー」
「カレー?」
「インディオでの勤めを終え、帰ってきた時に食べさせてもらったカレーは本当においしかった……最後の晩餐に、もう一度だけ食べてみたいものだ」
ずっと抱いていた願い。
だが、その実現は不可能だ。
なぜならカレー粉は今もまだ高価で、米も早々手には入らない。
もちろん、調理の仕方も不明だ。
上流階級に雇われている一部のコックにでも頼まなければ、形にはならないだろう。
「カレーかぁ……」
息子もそのことは知っているため、ため息をつくほかない。
アーロンの父は商売に成功して、なんとか中流と呼ばれる層に潜り込んだ。
するとアーロンはブリティシア海軍に入り込み、士官として職務を全う。
その後は海軍で得た測量や航海術の知識を活かし、教師として生きてきた。
息子もアーロンの下で教師となったため、上流階級の料理をすぐに用意できるアテはない。
「でもさぁ、何もこんなところに住まなくてもいいだろ」
「最後は、生まれた場所に帰りたくなったんだ」
そう言って目を閉じると、アーロンは息子に顔を背けるようにして横になる。
「その結果が骨折じゃなぁ……少しだけ、窓を開けるぞ」
こもった空気を換えるために、開く窓。
ロンドールは連日、煙突からあがる煙によって空気が汚れている。
だから少しだけ、風向きが良い時にだけ煤で曇ったガラス窓を開く。
隙間から入り込んでくるのは、工場から聞こえる機械音や、子供たちの騒ぐ声。そして。
「……ん?」
労働者街の喧騒に紛れて届いた、懐かしい香り。
アーロンは目を開き、その顔を上げた。
もう一度鼻を鳴らす。
やはり、そこには覚えのある香りが漂っている。
「バカな……イーストエッジで、ありえない……!」
そう言って立ち上がったアーロンはジャケットを取り、部屋を出て行こうとする。
「親父!? どうしたんだよ!? そんな脚でどこへ行こうっていうんだ!」
片足を引きずるようにして進むアーロンに、息子が問いかける。
「肩を貸せ」
だが止まる気配のないアーロンは、息子の肩を借りてさらに進む。
どうにか階段を降り、転びそうになりながら、それでも足を進めていく。
その必死さに、息子もただ肩を貸したまま続く。
何度も鼻を鳴らすアーロン。
どうやら、この匂いの出所を探しているようだ。
「ここか!?」
その足がたどり着いたのは、得意げに歩くキツネが看板の料理店『みけ』
アーロンは恐れることもなく、勢いよくドアを開いた。
落ち着く雰囲気のその店からは確かに、懐かしい香りがした。
「いらっしゃいませーっ!」
駆けつけて来たのは、満面の笑顔をしたエマ。
その顔が、驚きに変わる。
「ケガですか!? 大丈夫ですかっ!?」
慌てて問いかけるエマだが、アーロンは返事もせずに問いかける。
「この店には、カレーがあるのか!?」
「ありますよ」
アーロンの問いに答えたのは、店主の達也だった。
「カレーを、カレーを頼めるか?」
「もちろん」
「ええと、それなら僕も同じのを」
「はい、少々お待ちください」
達也が用意を始めれば、エマはケガに気を使いながら二人を席へと案内。
訳が分からず、息子は出された妙に綺麗な水を、恐る恐る口に含んでみる。
そしてその思わぬうまさに感心していると、トレーを持ったエマがやってきた。
「おまたせしましたーっ! カレーライスになりますっ!」
「これは……っ!」
まずは美しい白米を、丘の様に盛った皿。
その輝きに見惚れていると、それとは別に銀の食器が置かれた。
アーロンがカレーポッドの取っ手をつかんで持ち上げると、そこにはあの日見たカレーが確かにある。
「間違いない……っ!」
その目を見開きながら、カレーを白米にかける。
やや黄色がかった明るい色味のルーと共に、砕けた鶏肉が目を引く一品。
他の具は全て、その中に溶け込んでいるようだ。
スパイスからにじみ出た金色の油がキラリと光り、刺激的な香りがふわっと広がる。
アーロンは恐る恐るスプーンですくって、口に運ぶ。
「……この味だ。この味だっ!」
食べ始めると、もうその手は止まらない。
口に入れた瞬間、混ざり合った香辛料の醸し出すスパイシーな風味が広がる。
続けてホロホロになった鶏肉の旨味が、溶けるほどまで煮込まれた玉ねぎの甘みと、トマトのわずかな酸味に絡み合う。
それから再びやってくる、香辛料たちの味わい。
飲み込むと、わずかに遅れてチリのピリッとした辛みが舌を駆け抜け、熱を残す。
同時に鼻から抜けていくのは、クミンを中心にしたカレーならではのスパイスたち。
強い存在感を発揮しているルーは、ほのかな甘みを持つ米と一緒に噛めば、さらにそのうまさを発揮する。
嚥下した後も口内に残る温かな風味は、コクの強いカレー特有のものだ。
「……うまい、うまいっ!」
アーロンは夢中で、スプーンを口に運ぶ。
思い出される、懐かしき日々。
赴任で初めて訪れたインディオの豪邸と、きらびやかな晩餐会に圧倒された。
そこで交わされる会話の規模の大きさに、驚かされることも多かった。
そして長い滞在を終えた後、ブリティシアの豪商に招かれて食べたカレー。
ロンドールではまず味わえない、旨みの絡み合った味がたまらなかった。
自分が今食べているのは間違いなく、インディオからブリティシアに持ち帰ってきたことで生み出されたという、あの日のカレー。
そのうまさはさらに洗練され、感動を覚えるほどだ。
「確かに、これはうまいな……!」
香辛料の生み出す弾けるような刺激と、心地よい身体の温まり方。
息子も思わず、スプーンを馬車馬のように走らせる。
「おいしそうですねぇ……っ」
さらにエマも大きく深呼吸するようにして、香りを堪能。
その目を輝かせている。
「……ああ、最高だった」
全てを食べ尽くしたアーロンは、満足そうに息をついた。
「だが、なぜこのような労働者の街に、こんなに旨いカレーがあるんだ?」
すでに思い出になっているカレーは、長い年月の間で大きく美化されている。
それにも関わらず『みけ』のカレーは、ふくらんだ期待に一切負けることなく、想像を追い越していくほどの一品だった。
「もしかして、カレー粉を置いているのか?」
「自家製ですけど、一応」
料理を始めると、ついついこだわってみたくなるカレー。
達也も、実際にやってみたクチだ。
「自家製だと!? これを自分で作ったというのか……!?」
「一度作ってしまえば長持ちしますからね。以前はちょくちょく作り置きしてたんですよ。健康にもいいですし」
「……保存性が高いという事か。健康に良いというのはどういうことだ?」
「スパイスの消化促進効果や体調維持効果に加えて、肉、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎなんかも使うので、栄養もいいんですよ」
「父さん?」
達也がそう言うと、アーロンは不意に何かを考えるようにし始めた。
「なるほど……カレーは大量調理にも向いているか?」
「ええ、もちろん」
そんな達也の言葉を聞いて、今度は息子に問いかける。
「教え子の中に、海軍士官になっている者は?」
「確か今は、アンディさんがそうかな」
「うっかり屋のアンディか! ならばヤツにもカレーの有用性を、うまさを教えてやらねばな! 長期航海も多い海軍に、この料理のすごさを知らしめなくてはなるまい!」
「……それは、良さそうだね」
すっかり意気軒高なアーロンに、安堵の息をつく息子。
スパイスをふんだんに使ったインディオの煮込み料理は、ブリティシアで作りやすく食べやすいカレーライスとなった。
―――そして。アーロンと『みけ』の出会いによって、歴史が動き出す。
後に海軍の定番メニューとなったカレーは、極東の『食へのこだわりが強い国』へと伝えられ、国民的な人気を博すことになる。
そして極東の島国でさらなる進化を遂げた新メニューとして凱旋帰国し、未来のブリティシアで最高の評価を受けることになるのだが……それはまだ先の話。
「店主、明日も来るぞ! またカレーを食べさせてくれるか?」
「もちろん」
「……あれ? これって毎日僕が父さんを運んで来る感じ?」
「当然だ!」
「店主さん、一日も早く骨折が良くなるカレーをお願いします!」
息子のあげる悲鳴に、笑うエマと達也。
新たな野望が生まれ、その目に力を取り戻したアーロン。
どうやら最後の晩餐は、まだまだ先のことになりそうだ。
やはりカレーは全てを解決しますね……!
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