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止まっていた時間の先で

作者: 星渡りん

 夢がある、と言うほど立派なものじゃない。

 そう思うことで、私はずっと助かってきた。


 心のどこかに、やりたいことがある。名前をつければ夢になるそれを、私はあえて曖昧なままにしていた。はっきりさせてしまえば、向き合わなければならなくなるからだ。


 朝は決まった時間に起き、決まった道を歩く。学校も、特別嫌いではない。大きな不満もない。だからこそ、「今のままでいい」という言葉は、説得力を持って私を引き止める。


 踏み出せない理由は、ひとつじゃない。

 失敗したらどうしよう、という不安。

 続かなかったら、という怖さ。

 そして何より、やってみて向いていなかったらどうするのか、という逃げ場のない問い。


 夢は、叶わないままでいれば、きれいなままだ。

 そうやって私は、自分に言い聞かせてきた。


 駅へ向かう途中、歩道の補修工事で、白い線が引かれていた。

 「一歩先へ」と、小さく書かれている。


 足を止めるほどのものではない。けれど、視界の端に残ったその言葉が、妙に気になった。線の向こうは、今立っている場所と、何も変わらないはずなのに。


 私は、その白線をまたがないまま、少し遠回りをして歩き出した。



 日々は、滞りなく進んでいく。

 やるべきことをこなし、求められた返事を返し、笑うべきところで笑う。周囲から見れば、私はちゃんと前に進んでいるように見えるのだと思う。


 昼休み、友人がスマートフォンの画面をこちらに向けてくる。

「やっと受かったんだ」

 試験や選考の結果らしい。私は「おめでとう」と言い、拍手の真似事をする。その言葉に嘘はない。ただ、胸の奥で、小さな砂がずれる音がした。


 引き出しの奥には、昔のノートが眠っている。何度か処分しようとして、結局そのままになっているものだ。表紙を開けば、拙い文字や未完成の計画が並んでいる。ページをめくる勇気が出ず、私はそっと引き出しを閉めた。


 帰り道、ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。足は前に出ているのに、心は同じ場所に留まっている。時間だけが、私を置いて先へ進んでいる気がした。


 家に帰り、使われていない道具を目にする。箱に入ったままのそれは、埃をかぶっているわけでもない。ただ、待っている。何年も、同じ姿勢で。


 夜、ベッドに横になり、天井を見つめる。

 今日も一日は終わった。昨日と同じように、何事もなく。


 私は知っている。

 このままでも、明日は来る。

 けれど、何かが始まることはない。



 その日は、少しだけ帰りが遅くなった。寄り道をするつもりはなかったのに、気づけば駅前の小さな書店の前に立っている。ガラス越しに並ぶ本の背表紙は、どれも静かにこちらを見ていた。


 店内は思ったより空いていて、紙の匂いがやさしく広がっている。目的はなかった。だから、奥の棚まで行って、なんとなく立ち止まる。


 隣で、本を選んでいる子どもがいた。小学校に上がるかどうか、そんな年頃だ。分厚い図鑑を両手で抱え、真剣な顔をしている。


「将来、何になりたいの?」


 連れの大人が、そう聞いた。


「まだ決めてないけどね」

 子どもは少し考えてから、にっこり笑った。

「とりあえず、やってみる」


 その言葉は、私に向けられたものではない。なのに、不意に胸に落ちてきた。とりあえず、やってみる。簡単で、無責任で、でも、どこまでも正直な言葉。


 大人は「いいね」と言って、本を一冊、レジに持っていった。子どもは誇らしげに、それについていく。


 私はその場に残り、しばらく棚を見つめていた。

 決めてから動くのではなく、動いてから決める。そんな順番も、あっていいのかもしれない。


 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。

 夜風に当たりながら、私は小さく息を吸う。


 胸の奥で、何かが、かすかに動き始めていた。



 家に帰ってからも、あの言葉が頭から離れなかった。

 とりあえず、やってみる。


 それは、覚悟を決めることでも、人生を賭けることでもない。成功するかどうかを考える前に、ただ一歩、足を出すだけの話だ。そう思うと、胸の奥に張りついていた重たいものが、少しだけ緩んだ。


 夢は、ずっと遠くにあるものだと思っていた。努力と才能と運を積み重ねた先に、ようやく届くもの。だから、今の自分には早すぎるし、遅すぎるとも思っていた。


 けれど、ノートの一ページを書くこと。

 応募要項を開いてみること。

 連絡先を登録すること。


 それらは、夢そのものではない。けれど、夢へ向かう道の、確かな一部だ。


 私は引き出しを開け、あのノートを取り出した。表紙は少し色あせている。ページをめくると、過去の自分の文字が、思ったよりまっすぐ並んでいた。下手でも、途中で止まっていても、確かに「始めていた」痕跡だった。


 夢は、完成形じゃなくていい。

 途中でも、迷っていても、名前がついていなくても。


 必要なのは、今の自分ができる、いちばん小さな一歩だけだ。


 私はペンを手に取り、白い余白に、短い一行を書いた。

 それだけで、部屋の空気が、少し変わった気がした。



 ペンを置いてから、しばらくその一行を見つめていた。

 たったそれだけのことなのに、胸の鼓動が少し早い。失敗も成功も、まだ何も始まっていないはずなのに、体だけが先に反応している。


 私はノートを閉じ、深く息を吸った。

 ここでやめても、誰にも気づかれない。元の生活に戻ることも、簡単だ。そんな逃げ道が、まだちゃんと残っている。


 それでも、立ち上がった。


 玄関に向かい、靴を履く。夜の空気が、思ったより冷たい。ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。


 目的地は、ほんの少し先だ。大きな決断をする場所ではない。けれど、そこへ向かう足取りは、いつもより重く、そして確かだった。


 途中、朝見かけた白い線のことを思い出す。

 一歩先へ。


 私は立ち止まり、足元を見る。

 アスファルトの境目を、ゆっくりとまたぐ。


 何かが劇的に変わるわけではない。空気も、街の音も、そのままだ。けれど、足の裏に伝わる感触だけが、わずかに違っていた。


 私は、その違いを確かめるように、もう一歩、前へ出た。



 家に戻ると、部屋は出かける前と何も変わっていなかった。机の位置も、灯りの色も、置きっぱなしのノートも、そのままだ。それなのに、同じ場所には戻っていない気がした。


 靴を脱ぎ、ゆっくりと息を吐く。胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていく。うまくいったわけではない。結果が出たわけでもない。ただ、やめなかった。それだけだ。


 ノートを開く。さきほど書いた一行が、そこにある。消えていない。それを見て、私は小さくうなずいた。


 夢は、まだ遠い。

 道の終わりも、見えない。


 それでも、もう立ち止まってはいない。

 歩き出した道は、思っていたより静かで、思っていたより自分の足音がはっきり聞こえる。


 窓の外では、街の灯りが揺れている。今日と同じ夜が、明日も来るだろう。けれど、その中で進む距離は、確かに違っている。


 私はノートを閉じ、灯りを落とした。


 夢は、遠くにあるものじゃない。

 今日の一歩分だけ、近づいている。

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