第5章 炎上
夜明け前の空は、まだ青くも赤くもなかった。
東の地平にわずかに白が差しはじめたころ、
守谷のスマートフォンが震えた。
画面には短い通知が並んでいる。
《帝都北区 工場火災》
《従業員十数名搬送》
《死者一名》
胸の奥が冷たくなった。
読み進めるうちに、手のひらにじっとりと汗が滲む。
記事の文面は淡々としていたが、
現場の映像は違っていた。
黒い煙。
崩れ落ちるプレハブの屋根。
現場に駆けつけた若い通訳が泣きながら何かを叫んでいる。
音は途切れ、代わりに実況アナウンサーの声がかぶった。
「原因は不明ですが、就労実習生が多数働いていたとのことです」
守谷はニュースを最後まで見ずに画面を閉じた。
椅子に背を預け、目を閉じる。
耳の奥で何かが軋む音がした。
——死は、最も速い説得である。
昨夜読んだ言葉が、思考の奥で浮かび上がった。
まるでこの瞬間のために書かれたように。
数時間後、議員会館の部屋に白鳥が駆け込んできた。
目の下にうっすらと隈がある。
「先生、ニュースご覧になりましたか」
「ああ」
「現場にいたのは、以前のあの工場です。
通訳も派遣できず、避難経路の案内もなかった。
けど、マスコミの扱いが——」
「“偶然”ということになっているんだろう?」
白鳥は言葉を失い、うなずいた。
守谷は静かに言った。
「偶然は、いつも誰かの準備の上に落ちるものだ」
白鳥は机の端に資料を置いた。
「……先生、まさかとは思いますが」
「まさか何だ」
「この“風”の中で、誰かが——」
「違う」
「じゃあ、なぜ止めなかったんですか」
声が震えていた。
「止められたと思うか?
あの火を。誰が、どこで、どうやって」
「少なくとも、私たちは“見せるだけ”のはずでした」
「見せるためには、現実が動く必要がある」
「死んだのは、現実ですか? 人ですよ」
沈黙。
白鳥は唇を噛み、部屋を出ていった。
ドアが閉まる音が、異様に大きく響いた。
机の上のテレビをつける。
報道番組のキャスターが真面目な顔で語っている。
「移民労働の現場で何が——」
「安全管理体制の不備」
「政策の検証が必要」
スタジオの片隅に、鷹取がいた。
整ったネクタイ、変わらない笑顔。
「制度には課題がある。しかし、現場の努力も忘れてはいけません」
拍手。
キャスターが頷く。
議論は一瞬で形を失った。
守谷はテレビを消した。
静寂の中で、指先が震えていた。
その震えは恐怖ではない。
何かが動き出したという確信だった。
午後、古本屋に向かった。
路地はいつも通り静かで、看板の灯りは変わらない。
店の奥に店主がいた。
「また、お越しですか」
「……本を返しに来た」
守谷は『灰色の群衆』を差し出した。
店主は受け取り、ページを一枚めくった。
「この本は、読むたびに別の顔を見せる」
「顔?」
「読む人の中に、何かがあるからです」
守谷は短く笑った。
「あなたはこの本を読んだことが?」
「ある。けれど、私は何も変わらなかった。
人を動かすのは本ではなく、人そのものです」
店を出ると、雨が降り始めた。
細かな滴が、街の光を歪ませる。
傘を差さずに歩く。
胸の奥の熱が、雨で冷えることはなかった。
——世論は変わらない。
——人の心は一瞬で変えられる。
——死は、最も速い説得である。
その言葉が、頭の中で重なり合い、輪郭を増していく。
“思想”ではなく、“計画”として。
翌朝、国会周辺は報道陣で溢れていた。
「政策の見直しは」
「責任をどう考えるのか」
マイクが林立し、フラッシュが弾ける。
守谷は何も言わなかった。
表情を崩さず、車に乗り込む。
車の窓越しに、燃えた工場の映像が再び流れた。
煙が上がる。
黒い空の下、誰かが膝をついて泣いている。
その背中に、世論が一斉に向いた。
“注目”は始まった。
まだ小さな炎だが、風があれば広がる。
守谷は、胸の奥で呟いた。
——これが、始まりだ。




