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灰の群衆  作者: 高槻清貴
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第4章 種火

夜が明ける前に目が覚めた。

窓の外はまだ灰色で、街の輪郭だけが浮かんでいる。

机の上に『灰色の群衆』が開いたまま置かれていた。

昨夜、どのページで指が止まったのか、紙に残った折り目が正直に示している。


——死は、最も速い説得である。


声に出さず反芻し、ゆっくりと本を閉じた。

熱い湯を入れたカップを両手で包む。

味は感じない。だが、指先の温度だけで十分だった。


午前六時、議員会館の部屋に灯りをつける。

机上の端末を開き、検索履歴を遡った。

労働災害、通訳配置、市区町村の支援窓口、議事録の削除。

乱暴に散らばっていた単語が、今は一本の線に見える。

“語る”ための資料ではなく、“見せる”ための配置。

誰が、どこで、どれほど、見ているか。


白鳥が出勤してきたのは七時過ぎだった。

ドアを開けると、彼女は少し驚いた顔をした。


「もうお揃いでしたか」


「時間が必要だと思ってね」


「資料の差し替え、持ってきました」


 白鳥はタブレットを置き、表紙をめくる。


「“制度の不具合”を前面に。対立語は極力排除。……ご確認ください」


守谷はページをめくり、頷いた。

整っている。

だが、整然とした言葉だけでは届かないことを、もう知っている。


「沙紀」


「はい」


「“見せ方”を変えたい。数字ではなく、配置を」


「配置?」


「人の目が集まる場所に、事実が自然に流れ込むように。

 ——意図は見えないように」


 白鳥はわずかに目を細めた。


「……広報の技術論、ということでしょうか」


「そうだ。技術論だ。攻撃ではない」


彼は言った。


「ただ、濡れた布より、風の向きを先に読む」


言い換えれば、事実に“風”を与える。

誰かの怒りや涙の上に立つのではなく、風そのものを作る。

それは暴力ではない。

しかし、無害でもない。


「具体的には?」


 白鳥の声は慎重だった。


「番組のコメンテーターに、現場の“映像”が届くようにする。

 匿名のまま、切り取りを避け、ただ流す。

 言葉は少なければ少ないほどいい」


「取材先に当たるということですか」


「正規の取材経路じゃない。

 現場にいる誰かのスマートフォンの向こう側に、偶然が落ちるのを待つ」


白鳥は黙った。

その沈黙の長さで、彼女が何を思ったかが分かった。

違反でもなく、合法でもない。

誰も直に傷つけるわけではない。

だが、火が空気を変えるとき、炭になるのはいつも人の心だ。


「……関わる人は?」


「古い支援者に、情報の道具立てが得意な男がいる。

 名前は出さない。会ってもらう」


午前十時、帝都の外れにある安酒場の二階。

昼間は人がいない。

壁の時計は壊れたまま止まり、窓の隙間から古い風が入ってくる。

男は先に来ていた。三十代半ば、やせ形、色の抜けたパーカー。

選挙のときにSNS事務を手伝った“道具屋”だ。


「久しぶりですね、先生」

 

男は笑い、缶コーヒーをテーブルに置いた。


「で、火事の起こし方?」


「火は起こさない。風だけだ」


「風?」


「映像が勝手に燃えるようにする。

 現場にいる誰かが、思わず撮り、思わず上げる。

 誰かが、その“思わず”に共感して拡散する。

 その道筋を、ほんの少しだけ整える」


男は肩をすくめた。


「やれますよ。やり方は山ほどある。

 ただ、先生の名前は絶対に出せない」


「出すな」


「わかってる」


守谷は封筒を置いた。

中には、通訳不足の記録、過酷なシフト表、生活支援窓口の不在がわかるコピー。

具体的な場所名は消してある。

事実だけを残し、意図を隠す。


「これを材料に、“偶然”が増えるように仕掛ける。

 炎上狙いではない。誤情報も要らない。

 ただ、見たままが他の目に届くまでの距離を短くする」


「配管の蛇口をちょっとだけ拡げる感じですね」


「そういう比喩でいい」


「報酬の振込先、前と同じで?」


「それで」


 男が封筒をしまい、立ち上がる。


「三日。最初の風は弱めに。様子を見る」


「三日でいい」


白鳥は終始、会話を記録しなかった。

部屋を出ると、踊り場に立って深く息を吸い、低い声で言った。


「先生」


「なんだ」


「これは、私の仕事でしょうか」


「君の仕事は、俺の言葉を正しく届かせることだ」


「では、これは——」


「言葉の位置を、少し動かす仕事だ」


夜。

小さな“風”がいくつか起きた。

都心の交差点で、交通誘導のミスがあり、実習生の列が長時間立ち尽くす映像。

郊外の寮で、電気が止まった夜にろうそくの灯りで食事をとる姿。

生活支援の窓口に並ぶ人々の背中。

説明はない。

ただ、見ているだけの映像。

コメント欄には、断片的な言葉が落ちる。


〈気の毒〉〈あり得ない〉〈どこ?〉〈ソースは?〉


すぐに反論も混ざる。


〈切り取り〉〈印象操作〉〈扇動だ〉


賛否は半々。

それでいい。

議論が生まれれば、目は止まる。


二日目、朝の情報番組で短い映像が使われた。


“視聴者提供”。


スタジオの空気は軽く、コメンテーターは無難な言葉を選んだ。


「現場の実態、ですね」

「改善が必要でしょう」


だが、画面の片隅で、列に並ぶ実習生の顔が、ほんの一瞬、カメラの正面を向いた。

その目だけが、言葉をはねつける。


昼、党本部から電話が入る。


「最近のネットの動き、関わっていないよな?」


「関わっていない」


嘘ではない。

 は“関わり方”を変えただけだ。


夕方、白鳥が資料を持って戻る。


「番組のアーカイブです」


彼女は無駄な言葉を挟まない。

画面を一緒に見ながら、守谷は最小限の指示を出した。


「字幕を切る。映像だけにする。

 見たままを、見たままに」


「了解しました」


三日目、最初の“風”が渦になりかけた。

市内の工場前で、小競り合いが起きたらしい。

理由はどうでもよい不便と疲労の重なり。

誰かが声を荒らげ、誰かが泣いた。

そこに偶然——報道のカメラ。

現場の距離は遠く、音声は薄く、何が起きたのかは分からない。

ただ、画面の下に流れるテロップは、断定を避ける語尾で止まっていた。


《実習生、待遇不満か》

《工場側「誤解」と説明》


夜、運転手が車を回し、守谷は静かに現場を離れた。

窓の外で、街灯が等間隔に過ぎていく。

白鳥が口を開く。


「先生。これは“誘導”です」


「違う」


「違わない。風向きを変えたのは私たちです」


沈黙。

守谷は言葉を探し、探すのをやめた。

白鳥の手がわずかに震えている。

資料の角が指先に食い込んでいた。


「……止めますか」


白鳥が言う。

守谷は短く首を振った。


「まだだ。見せたいのは“誰が悪いか”じゃない。

 “何が起きているか”だ」


「でも、誰かが悪いことに必ずなる」


「それでも、隠れるよりはいい」


その夜、古本のページをもう一度開く。

活字は変わらない。

昨夜と同じ文字が、同じ位置に並んでいる。


——世論はすぐには変えられない。

——人の心は一瞬で変えられる。

——死は、最も速い説得である。


視線がそこに吸い寄せられ、離れた。

彼は本を閉じ、机の端に置いた。

使うべき言葉と、使ってはいけない言葉。

その境界線が、ゆっくりと移動していく。


四日目。

男から短いメッセージが届く。


《蛇口、少し開けました》


それだけ。


同時刻、別の場所で、別の映像が上がる。

市役所の窓口で、通訳が一人もいない日に列が滞る様子。

画面の端で、子どもが眠そうに母の肩に寄りかかっている。

テロップはない。

ただ、見ている人間の心臓に、直接触れる長さで切られていた。


反応は早かった。

SNSに、街の小さな喫茶店が“通訳募集中”という貼り紙の写真を上げる。

善意の連鎖と、苛立ちの連鎖が同時に起きる。


〈何年こんなことをやってる〉

〈やれることからやろう〉

〈行政は何を〉

〈仕組みを変えろ〉


守谷はその流れを、距離を置いて見た。

狙いは“怒り”ではない。

怒りは燃えやすく、消えやすい。

目的は、目を離させないこと。

つまり“持続する注目”。


夜、窓の外に雨が降り始めた。

しばらくして止む。

濡れた街が、街灯に淡く光った。


「先生」


白鳥が静かに言った。


「これ以上は、線を越えます」


「どの線だ」


「私たちの側の、です」


守谷は、彼女を見た。

何か強い言葉を探そうとしたが、見つからなかった。

正義、必要、現実。

どの言葉も、どこかで使い古され、軽くなっている。


「……わかった」


彼は視線を落とした。


「一旦、ここで止める。風の強さは維持するだけにする」

「約束してください」

「約束する」


白鳥は小さく頷き、扉へ向かった。

出る前に振り返り、低く言う。


「先生。

 “死”は、絶対に使わないでください」


扉が閉まる。

静かな部屋に、雨の名残が響いた。

守谷は机の上の本を見つめ、ゆっくりと引き出しにしまった。

鍵はかけない。

鍵をかけて守れるものではないと、もう分かっていたからだ。


スマートフォンが震えた。

画面には、ニュース速報。


《与党有力議員、移民政策“見直し”に言及》


鷹取の名が見出しにある。

薄い笑顔が、画面の小さな枠で完璧に整っていた。


守谷は目を閉じ、深く息を吐いた。

風は確かに、どこかで方向を変え始めている。

それが誰の意図に寄っているのかは、もう関係がないのかもしれない。


窓の外で、雲が切れ、わずかな月が覗いた。

夜の底に、熱が細く残っている。

種火は、まだ燃え尽きてはいなかった。

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