第3章 古本屋の影
「書肆 本城堂」。
湿った石畳。
奥まった引き戸の前に、細い影が落ちている。
取手に手を伸ばすと、木の冷たさが掌に伝わった。
ゆっくりと引く。
鈴の音が、小さく鳴った。
中は狭く、暖かかった。
天井から吊るされた裸電球が、黄ばんだ光を落としている。
壁際の本棚には、古い書物がぎっしり詰まっていた。
通路は人ひとり分の幅しかない。
埃と紙と、わずかなインクの匂いが混ざっている。
「こんばんは」
奥のカウンターから声がした。
新聞を畳む音。
白髪交じりの男が顔を上げ、微笑んだ。
「夜にお客とは珍しいですね」
「……少し、時間を潰したくて」
「時間を潰すには、ここは退屈ですよ」
男はゆっくりと笑い、手で棚を示した。
「ご自由にどうぞ」
守谷は頷き、棚の間を歩いた。
どの背表紙も色が抜け、タイトルはかすれている。
政治、思想、詩、社会学、そして聞いたことのない著者名。
指先で背をなぞるたび、粉のような埃が舞う。
ふと、一冊だけ目に留まった。
灰色の布装丁。金の箔押しで『灰色の群衆』とある。
手に取ると、思いのほか軽い。
紙は乾き、脆く、古びた匂いを放っていた。
「それは珍しいですね」
店主が声をかける。
「戦後すぐに出た本です。作者は匿名。
内容が問題になって、すぐに回収された」
「問題に?」
「“世論を操る方法”を書いたと批判されたそうです。
読む人によっては警鐘に、読む人によっては教本に見えた」
守谷は何も言わず、ページを開いた。
インクが滲み、ところどころに鉛筆の書き込みがある。
一つの文に、線が引かれていた。
“犯罪は目的ではなく、一種の方法でもある。
世論はすぐには変えられないが、人の心は一瞬で変えられる。”
文字を追った瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。
理解ではなく、納得に似た感覚。
人を動かすのは理屈ではない。
事件。感情。死。
それらが言葉より速く伝わる。
ページをめくる。
余白に、別の筆跡で短い言葉が書かれていた。
“死は、最も速い説得である。”
目を離せなかった。
その言葉は、静かに、しかし残酷なほど明晰だった。
人は生きている限り議論を続ける。
だが、死はそれを終わらせる。
そして、終わった瞬間に理解が生まれる。
「気になりますか」
店主の声が静かに落ちた。
守谷は顔を上げた。
「……この本を書いたのは誰です」
「誰なのか、分からないままです。
名を出した人は何人かいましたが、みな捕まって消えた」
「思想犯、というやつですか」
「そう呼ばれたのでしょう。思想とは、便利な罪名ですから」
男はカウンターの奥で湯を注いだ。
湯気が白く立ち上る。
「あなたは、言葉を使う人でしょう。議会で見ました」
「……」
「言葉で人を動かす仕事。けれど、言葉は届かない。そう思っている」
「……そうかもしれない」
「なら、この本の言葉は少し危ない。
人は“速く効く言葉”に弱いものです」
守谷は再びページを見た。
「死は、最も速い説得である」。
その言葉は、毒ではなく、論理のように思えた。
死は悲劇ではなく、装置。
誰かの死が社会を動かすのなら、それはもはや事件ではなく、手段だ。
——世論は変わらない。
——だが、人の心は一瞬で変えられる。
——死は、最も速い説得である。
思考が静かに整理されていく。
怒りや焦りが形を失い、代わりに冷たい明晰さが生まれる。
変えるには、語るのでは足りない。
見せること。
人々に、避けられない形で現実を“見せる”こと。
「おいくらですか」
守谷は本を閉じて尋ねた。
店主は首を振った。
「貸し出しです。返すときにまた来てください」
古びた名簿を差し出す。
守谷は自分の名を記し、日付を書いた。
「お気をつけて」
店主の声は、優しいがどこか遠い。
「夜は、人を考えすぎにさせます」
店を出ると、風が頬を打った。
街は静かだった。
遠くのビルのスクリーンには、まだニュースが流れている。
“守谷議員 波紋広がる”。
映像の中の自分は口を開き続けていたが、その声はもう誰にも届かない。
守谷は本をコートの内ポケットに入れた。
歩きながら、活字が頭の奥で反響する。
——死は、最も速い説得である。
足音が、舗装を規則的に叩く。
風が吹き抜け、街灯が揺れた。
夜の冷気の中で、胸の奥に小さな熱が残っていた。
それは怒りではなく、確信に似ていた。




