あとがき
——この国で、“共に生きる”ということ
『灰の群衆』という物語を書こうと思ったのは、
いまの社会に流れる“言えない空気”に違和感を覚えたからです。
移民、労働、福祉、貧困――
どれも現実に存在する課題でありながら、
それを語る言葉がいつしか「危険なもの」とされる。
批判すれば差別と呼ばれ、
沈黙すれば無関心と非難される。
そんな二重の圧力の中で、人々は「何も言わないこと」を選び始めているように思えました。
守谷廉一という人物は、その沈黙に抗おうとした政治家です。
彼は“移民問題”という極めて複雑な現実に向き合おうとしました。
文化の摩擦、経済格差、制度の歪み――
どれも「一方が悪い」とは言い切れない現実の連なりです。
しかし、議論の場ではすぐに“感情”が先行し、
理屈も現場の声もかき消されてしまう。
そんな“議論の不在”こそが、彼の出発点でした。
そして、彼は誤った方向へと進みます。
社会を変えるために“死による説得”を選ぶ。
思想を現実に突きつけるという名のもとに、
人間そのものを“方法”にしてしまう。
それは現実の世界でも、私たちがしばしば陥る危険と重なっています。
移民問題を語ることは、実は「他者をどう見るか」という問いそのものです。
言葉の背後にあるのは、常に人の暮らしであり、痛みであり、生活の現場です。
守谷はそれを数字で、制度で、思想で語ろうとした。
けれど最後に残ったのは、ただ“人間の顔”でした。
彼を見つめ続けた白鳥沙紀は、
政治や言葉ではなく「生き方」で説得する道を選びました。
それは小さく、時間のかかる方法ですが、
現実に変化をもたらす唯一のものだと、私は思います。
この物語の舞台〈帝都日本〉は架空の国ですが、
そこに描かれた矛盾や緊張は、
まぎれもなく私たちの暮らす社会の延長線上にあります。
外国人労働者が街で働き、
ニュースでは“共生”という言葉が繰り返され、
SNSでは一瞬で誰かが“敵”にされる――。
現実はすでに、この物語の半分ほど進んでいるのかもしれません。
私はこの作品を、政治的メッセージとしてではなく、
「人が他者とどう関わるか」という普遍的な主題として書きました。
“移民問題”は単なる社会課題ではなく、
“他者の存在をどう受け入れるか”という精神の問題です。
それは国家だけでなく、家庭にも、職場にも、
私たちの一日一日の中にもある。
だからこそ、結末で白鳥が語った
> 「死ではなく、生き方で説得する」
という言葉を、私はこの作品の“もう一つのタイトル”だと思っています。
この物語を通して描きたかったのは、
沈黙に満ちた社会で、なお「語ろうとする」人々の姿です。
誰かを糾弾するためではなく、
誰かと生きていくために、言葉を使う。
そんな当たり前のことが、どれほど難しく、そして尊いか。
守谷は間違いました。
しかし、彼の間違いはこの社会の鏡でもあります。
そして白鳥が拾い上げた“生の説得”こそが、
私たちがこれから選ぶべき方法の一つなのだと思います。
――この国はまだ、生きている。
そう信じたい気持ちが、この物語の最後の行に込めた願いです。
最後までお読みくださった皆さまに、心から感謝を。




