間章 沈黙の岸辺
列車の揺れが、まるで眠りのようだった。
守谷は窓に額を寄せ、
流れていく灰色の街並みを眺めていた。
車内には数人の乗客。
誰も話さず、車輪の音だけが一定のリズムで響いていた。
目的地はなかった。
ただ、帝都を離れることだけが必要だった。
ポケットの中には、
財布と古いメモ帳、そして使いかけの薬。
ニュースはすでに彼の名前を使い尽くしていた。
《暴動を扇動した元議員・守谷廉一》
《思想犯罪の首謀者》
《灰色の群衆の精神的指導者》
それらの言葉のどれもが、
彼の知らない“誰か”を指していた。
列車は南の港町に着いた。
潮風の匂いがした。
駅前には古い商店街と、
瓦礫を積んだトラック。
復旧作業の人々が行き交っている。
ヘルメットを被った外国人労働者の姿も多い。
炎に焼かれた街の断片が、ここにもあった。
守谷は一軒の宿に泊まった。
木造二階建ての古い宿。
女将は彼の名を聞かなかった。
“出張ですか”とだけ尋ね、
鍵を渡してくれた。
部屋の窓からは、
港が見えた。
静かな波。
かつての帝都の騒音が、まるで幻のように遠かった。
彼は翌朝、作業員たちに混じって働いた。
崩れた堤防のコンクリートを運び、
砂利を積み、汗を流す。
誰も彼を知らなかった。
名を名乗る必要もなかった。
昼休み、隣にいた若い男が話しかけた。
「帝都の人?」
守谷は少し間を置いて頷いた。
「昔はね」
「こっちは静かだよ。ニュースばっかで、
何が本当かわかんないけどさ。
結局、みんな生きてくしかないんだ」
男は笑って、パンをかじった。
その素朴な笑顔を見て、
守谷は初めて“救われたような痛み”を感じた。
夜、宿の小さな食堂で、
テレビが暴動後の報道を流していた。
画面の中で、鷹取が会見をしていた。
《社会安定法(灰法)成立へ》の文字。
「我々は二度と同じ過ちを繰り返しません」
鷹取の口調は滑らかだった。
守谷は、湯飲みの中で茶が震えるのを見ていた。
あの男は、言葉の使い方をよく知っていた。
——だが、言葉の“重さ”を、もう感じてはいない。
画面が切り替わり、
ニュースキャスターが淡々と締めた。
《守谷廉一、消息不明。警察は所在を確認中》
宿の女将が言った。
「こわいわねえ、都会は」
「ええ」
守谷はそれだけ答えた。
彼の声は、まるで誰かの代わりに喋っているように聞こえた。
***
翌朝、港は霧に包まれていた。
守谷は堤防の先に立っていた。
海は鉛のように静かで、
波打ち際には焦げた木片や紙屑が漂っていた。
一枚の紙を拾う。
濡れた端に、見覚えのある文字。
> 「死は、最も速い説得である。」
それは、燃え残った『灰色の群衆』のページの切れ端だった。
彼はそれを握りしめ、
しばらく動けなかった。
潮風が吹いた。
紙は指の間から抜け、空へ舞い上がった。
白い霧の中に消えていく。
「……速すぎたな」
呟きが、波に溶けた。
彼はポケットからメモ帳を取り出した。
最終ページに、小さな字で書いた。
> 「思想は人を動かす。
だが、人を救うのは、思想ではない。」
その行を見つめ、ペンを置く。
静かに立ち上がり、
海の方を向いた。
霧の向こうに、陽が昇る。
灰色の世界が、少しずつ光を帯びていく。
誰も、その姿を見ていなかった。
ただ、堤防に落ちた一枚の紙だけが、
潮に濡れながら残っていた。
そこには、にじんだ文字があった。
> 「人は、沈黙の中でしか、
本当の声を探せない。」
波がそれをさらっていった。
やがて、空も海も、
灰と光のあわいに溶けた。




