第9章 灰の群衆
夜が明けた。
雨上がりの帝都には、焦げた匂いが残っていた。
ビルの壁はすすけ、窓ガラスの破片が路面を光らせている。
サイレンの音はもう遠く、代わりに風の音が街を渡っていった。
守谷はゆっくりと歩いていた。
スーツの裾は灰で汚れ、靴底は割れたガラスを踏むたびに軋んだ。
どこへ向かうのか、自分でも分からなかった。
ただ、足が勝手に“あの場所”を探していた。
角を曲がると、古い木の看板が見えた。
「書肆 本城堂」。
かすれた文字は、雨に打たれて半分ほど消えていた。
引き戸を押す。
鈴は鳴らなかった。
店内は暗く、湿気の匂いがした。
棚は倒れ、散らばった本が床を覆っている。
それでも、あの『灰色の群衆』だけは、カウンターの上に開かれていた。
ページの途中、鉛筆の書き込みがある。
——「死は、最も速い説得である」。
守谷はその上に手を置いた。
紙の感触は冷たく、指先に灰がついた。
視線を上げると、店主が奥の椅子に座っていた。
白髪に煤がつき、手には古い新聞を握っている。
その瞳は静かで、すでに焦点を失っていた。
守谷はゆっくりと近づき、頭を下げた。
「……すまない」
声は震えていなかった。
ただ、それが誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
カウンターの上に、昨日の新聞が一面を飾っていた。
《暴動拡大 死者二十名超 “灰色の群衆”声明削除》。
行間の隙間から、世界が音もなく崩れていくように見えた。
窓の外で、朝の光が差し込み始めた。
埃がその光を反射して舞う。
灰色の粒が、ゆっくりと上へ昇っていく。
守谷は本を閉じ、両手で抱えた。
表紙の金文字が、煤に覆われてほとんど読めない。
扉の外に出ると、風が吹き抜けた。
灰が宙に舞い、朝日を受けて銀色に光った。
街のあちこちに貼られたポスターが剥がれている。
“改革”“共存”“悲劇を無駄にしない”。
その下に、スプレーで殴り書きされた文字。
“死は、最も速い説得である”。
守谷は歩いた。
誰もいない通り。
崩れたビルの陰から、ひとりの子どもがこちらを見ていた。
手には小さなノートを抱えている。
泥にまみれた表紙に、震える文字でこう書かれていた。
——「なぜ人は死ぬの?」
守谷は言葉を探した。
しかし、もう何も出てこなかった。
口を開いても、声が出ない。
喉の奥で、乾いた息だけが鳴った。
子どもは首をかしげ、去っていった。
その小さな背中を見送りながら、守谷は思った。
——この国は、まだ生きている。
自分の思想がいくら灰になっても、
人の“問い”だけは、焼け残るのだと。
風が再び吹いた。
『灰色の群衆』のページがひとりでに開き、
一枚の紙切れが空へ舞い上がった。
それは朝の光に照らされ、
ゆっくりと遠ざかっていく。
守谷は顔を上げた。
遠くの空に、白い煙がまだ薄く残っている。
その向こうに、青が広がっていた。
彼は静かに呟いた。
「……世論は変わらない。
だが、人の心は——
一瞬で、壊せる」
そして微笑んだ。
それは後悔にも、満足にも見えなかった。
ただ、人としての最後の表情だった。
風が止み、街は静かだった。
灰がゆっくりと降り続け、
帝都は白い光の中に溶けていった。




