第8.5章 灰の路地(後編)
夜が明けるころ、雨が降り始めた。
火は消え、煙は風に流された。
しかし、街の匂いはまだ焦げていた。
ユリは路地裏の電柱にもたれていた。
肩の火傷はひりつき、手のひらには瓶の破片が刺さっている。
周囲には、黒くなった瓦礫と、誰かの靴。
あれほどの叫びがあったのに、
いまはただ、雨音だけが響いていた。
彼女の目の前で、
イーサンがゆっくりと立ち上がった。
顔は煤で真っ黒だが、目だけがはっきりしている。
「……大丈夫?」
ユリが問うと、
イーサンは小さく頷いた。
言葉にならない声を出し、
胸の前で両手を合わせた。
ユリはその仕草の意味を理解した。
“ありがとう”と“さようなら”が混じった祈りの動作だった。
道の向こうでは、救急車のサイレンが鳴り始めている。
ストレッチャーに乗せられた翔太が、
目を閉じたまま運ばれていった。
頭に包帯。
腕には火傷。
生きてはいる。
けれど、その表情には、夜の記憶がまだ残っていた。
誰も、誰を責めることはできなかった。
誰も、何が起きたのかを正確に語れなかった。
ただ、そこにいた人たちが、
それぞれの恐怖の中で、相手を“敵”と信じてしまった。
ユリは空を見上げた。
雨が灰を洗い流し、
通りの水たまりが黒く濁っている。
まるでこの街の心そのものが溶けて流れていくようだった。
***
昼過ぎ、ニュースが流れた。
《移民労働者の暴動、下町で死傷者多数》
《治安悪化に対し、市民の抗議行動も発生》
《現場映像:外国人男性が火炎瓶を投げる瞬間》
その映像に、イーサンの姿があった。
逃げようとして振り返っただけの一瞬を、
“投げた瞬間”として切り取られていた。
コメント欄には怒りと恐怖が溢れ、
「やはり危険だ」
「排除すべきだ」
という言葉が並ぶ。
ユリは画面を閉じた。
誰も真実を見ようとしない。
誰も“現場”を確かめない。
みんな“映像”だけを信じていた。
彼女は、警察署の裏手にある医務室を訪ねた。
翔太は腕を吊ってベッドに座っていた。
窓の外では、報道車が止まり、記者たちが何かを叫んでいる。
「……あの人、無事だった?」
翔太の声はかすれていた。
ユリは頷いた。
「うん。イーサン、軽い怪我だけで済んだ」
「……そうか」
翔太は俯き、指を握りしめた。
「俺、あの時……
あいつが火をつけたと思ってた」
「うん」
「でも違った。火を投げたの、俺の後ろにいたやつだ。
でももう、誰も信じてくれねえ」
沈黙。
ユリは静かに言った。
「信じなくていい。
見てた人がいる。それだけで十分だよ」
翔太は泣きそうな顔をして笑った。
「……お前、強いな」
「違うよ。
強くならないと、燃え尽きちゃうだけだから」
外の空が晴れた。
雲の切れ間から光が差し、
雨に濡れた路地を照らした。
ユリはカーテンの隙間から外を見た。
通りには、警察の黄色いテープが張られ、
誰も近づかない。
そこに、イーサンが立っていた。
顔を上げ、空を見ていた。
その手には、小さなノートが握られている。
焦げた紙の上に、震える文字でこう書かれていた。
> 「なぜ人は、怒るより先に、話さないのか」
ユリは目を閉じた。
その言葉が、静かに胸に沈んでいく。
***
夜、ニュースは更新された。
《南区暴動、外国人グループが主導か》
《治安強化へ“灰法”施行前倒し》
画面の隅に、白鳥沙紀のインタビュー映像が流れた。
彼女は短く言った。
「――言葉を失う社会は、必ず暴力を呼びます」
その声を、
ユリは小さな部屋のテレビで聞いていた。
音量を下げ、窓を開ける。
風が入り、街の夜の匂いがした。
どこかで、人が笑っている。
どこかで、またニュースが流れている。
彼女はそっと呟いた。
「……この国は、まだ生きてる」
雨上がりの街に、
再び、灰が降り始めていた。




