第8.5章 灰の路地(前編)
火は、夜の街を赤く舐めていた。
南区の下町――かつて倉庫と下宿が並んでいた通りは、
いまや瓦礫と煙の迷路だった。
焼け焦げた空気の中を、
誰かの叫び声とサイレンが交錯する。
その音は、もう言葉ではなかった。
***
イーサン・ラウは、鉄工所の裏口で立ち尽くしていた。
溶接用の手袋が煤で黒く染まり、
息をするたびに肺が痛んだ。
仲間の一人が駆け寄ってくる。
「イーサン! 出ろ、ここ危ない!」
「外に行けば、もっと危ない」
彼は短く答え、金属扉を押さえた。
外では怒号が響いていた。
《出てこい!》《この街を返せ!》
低い男たちの声。
何人かは鉄パイプを持ち、
誰かが投げた瓶が壁で砕けた。
ガソリンの臭いが鼻を刺す。
仲間の一人が泣き出した。
「俺たち、何もしてない! ただ働いてるだけ!」
「分かってる」
イーサンは囁きながら、扉の裏に椅子を挟んだ。
だが、その声は外に届かない。
***
一方その頃、数百メートル離れた駅前通りでは、
若者たちがSNSのライブ配信を見ながら集まっていた。
「見た? あの動画」
「外国人が倉庫燃やしたってやつ?」
「そうそう、“灰色の群衆”のやつらだって」
「マジ? じゃあもう警察も腐ってるな」
リーダー格の佐伯翔太は、
画面を指で拡大しながら言った。
動画には、火の手の上がる建物と、
その前で走る影が映っている。
だが、誰が誰なのかは分からない。
「な、見ろよ。あいつらに国を壊される前に、俺たちが止めるんだ」
翔太は鉄棒を持ち上げた。
群れの中にあった迷いが、
その一言で“目的”に変わる。
炎の方角を示すように、風が吹いた。
灰の粒が宙に舞い、
それがまるで何かを導く旗印のように見えた。
***
ユリは、夜勤明けのコンビニから出たところだった。
空は赤く、道路の向こう側が光っていた。
まるで空全体が火の中に沈んでいるようだ。
「嘘でしょ……」
スマートフォンを開くと、
タイムラインが“帝都暴動”の文字で埋まっていた。
どの投稿も、怒りと恐怖が混じっている。
彼女は耳を澄ました。
遠くで金属音。
人の足音。
叫び。
すぐ近くの路地で、誰かが倒れた音がした。
駆け寄ると、
そこにいたのは、顔の黒ずんだ青年――翔太だった。
膝を擦りむき、荒い息を吐いている。
「大丈夫? 怪我してる……」
「大丈夫だ。あいつら、向こうの倉庫に集まってる。
こっちの仲間が――」
翔太が言いかけたとき、
背後から別の声が飛んだ。
「ユリ! 危ない、下がって!」
振り返ると、煙の向こうから、
イーサンが走ってくるのが見えた。
ヘルメットの下の額が血で濡れている。
その手には、焦げた工具。
「おい……!」翔太が立ち上がる。
「こいつら、仲間だ!」
「違う!」ユリが叫ぶ。
「イーサンは工場の人! 避難してきただけ!」
だが、翔太の耳には届かない。
風の中で、怒号と警報が混じり、
言葉が音に溶けていく。
次の瞬間、
誰かが後ろから瓶を投げた。
炎が夜を裂き、
熱と光が三人を包んだ。
ユリはとっさに翔太とイーサンの間に入った。
破片が頬をかすめ、
熱風が背を押す。
「やめて! どっちも悪くない!」
その叫びは、
火の音とサイレンに飲み込まれた。
街が燃えている。
だが、それ以上に、
人々の誤解が燃えていた。




