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灰の群衆  作者: 高槻清貴
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第1章 火種(前半)

壇上のマイクは、磨かれた金属の匂いがした。


守谷惟人は台本のない原稿用紙を二枚だけ置き、正面に並ぶ議員たちの顔を順に見渡した。

磨りガラス越しの冬の光が、薄く広い議場を淡く照らしている。

肘掛けに腕を広げる者、スマートフォンを指で払う者、目を閉じる者。誰もこちらをまっすぐ見ていない。


「議長、発言の機会を賜り感謝します。

 ——まず、帝都の現場で起きていることを共有したい」


ひと呼吸置いて、彼は最初の一文を落とした。

数字を並べるだけの話にはしないと決めていた。

届かない言葉の列は、古いビラと同じだ。拾われもせず、雨に溶け、最後には排気口の灰にまぎれる。

だから今日は、現場で見聞きしたことを、できるだけ具体的に。


「過去三ヶ月で、労働災害の報告が十件以上。

 夜勤明けに倒れた者もいる。通訳がいないため、

 説明を理解できないまま契約書に署名した例も、私の周囲だけで四件。

 誰かがうわさを流し、誰かが笑い、

 そして、誰にも届かない助けを待つ顔がある」


傍聴席の一角で、若い男が鼻で笑った気配がした。

別の列では、スーツの襟に花のバッジをつけた議員がゆっくりと首を振っている。


彼の名は鷹取景一。


カメラ前の笑顔を武器に、どんな問題も「前向きな言葉」で包む器用さで人気を得ている。


「移民は必要だ、しかし人の扱いを誤れば適正な受け入れも市民の反発も、

 両方とも壊れる。私は、制度の手入れを求めている。

 誰かを攻撃するためではない」


そこで初めて、真正面のレンズがわずかにこちらを向いた。

守谷は視線を受け止め、続けた。


「三日前、郊外の工場で実習生の賃金が——」


「差別的な表現は慎んでください」


議場の右手から、鋭い声が割って入った。


「差別」という言葉が天井にぶつかり、薄いガラスを震わせる。

別の席から笑いが少し漏れ、すぐに咳払いで覆い隠された。

守谷は反射的に顎を引き、言葉を噛み直す。


「誰かを劣った存在として語るつもりはありません。

 現実の不整合を指摘しています。

 通訳の配置、労働時間の管理、地域での生活支援。

 手入れをせずに数だけ増やせば、いずれ——」


「イメージ操作はやめにしませんか」


 鷹取が笑みを崩さずに手を上げた。


「先生はいつも“危機”を掲げる。

 けれども、ここにいる市民の多くは共に働き、共に暮らし、

 うまくやっていますよ。

 失敗例を拡大して語るのは、成果を積み上げてきた人々への侮辱です」


拍手が散発的に起き、すぐに収まった。

守谷は口を引き結ぶ。

事実は、拍手の音よりも弱い。

音は人を酔わせ、事実は喉に引っかかる。


「——では、問います。

 夜勤明けに倒れた青年の名前を、ここで誰かが言えますか。

 彼を雇った会社の体制を、誰かが説明できますか。

 よくやっている、という言葉の下に押し込まれたものを、

 どこで確かめるのですか」


傍聴席の奥で、カメラの赤い点が灯った。

スーツの内ポケットで、携帯が震えた。秘書の白鳥沙紀からだ。

画面には短いメッセージ——


《テレビ、今きました。言い切って大丈夫です》。


彼は一度だけ頷き、原稿用紙を裏返す。そこに文字はない。


「私は敵を作りたいのではない。

 火の粉が舞い始めたときに、濡れた布で覆う役目を——」


「時間です」


議長の槌が落ちた。

響きは冷たく、長くは残らない。

守谷はマイクから身を引き、軽く一礼した。

拍手はない。ブーイングもない。

何も起きないことが、最も簡単な拒絶であることを、彼は知っていた。


壇を降りると、白鳥が廊下で待っていた。

彼女は紙のファイルを胸に抱え、落ち着いた声で言う。


「お疲れさまです。外、記者が二十人ほど。

 番組のコメンテーターが、先生の発言を“扇情的”と評してます。

 ——どうしますか」


「行こう」


守谷はネクタイの結び目を指で緩め、深く息を吸った。

冷たい空気が肺の奥へ沈む。胸のどこかで鈍い痛みが広がるが、

それが何に由来するのか、うまく名づけられない。


扉の向こうで、照明が待っている。

足を踏み出すたび、床のタイルが微かに鳴った。

外へ出た瞬間、白い光が一斉にこちらへ押し寄せ、誰かが名を呼ぶ。

質問の言葉は途中で絡まり、別の言葉に押し流され、意味を失ったまま、波のように寄せては返す。


「先生、移民排斥の意図はありますか」

「差別を助長する発言では」

「具体的な被害の証拠は」

「政党は処分を検討していますか」


彼は一歩前に出た。


「排斥は意図していない。制度を整える話をしている。

 ——証拠はあります。今ここでは言えないが、現場の記録が——」


言い終わる前に、別の質問が上から重なった。

マイクの先端が頬に触れた。

白鳥がさりげなく身体を入れて距離を作る。

彼女の手の甲には薄い擦り傷があった。

さっきまで資料を運んでいたときについたものだろう。


守谷は群れの隙間から、玄関ホールの大きな窓を見上げた。

曇天。低い雲の底が、街を覆っている。

光は弱く、色のない灰が薄く漂っているように見えた。


「先生、こちらへ」


 白鳥が耳元で囁く。


「郊外で、また一件。現場へ向かいますか」


彼は短くうなずいた。

足元でケーブルが蛇のようにのたうち、カメラの三脚がかすかにきしむ。

振り返れば、誰もが同じ顔をしている。

問いを放つ顔、答えを待たない顔、動画の再生数を思い浮かべる顔。


玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。

車に乗り込むまでのわずかな距離で、焦げた匂いがした。

どこか遠くで、小さな火が上がったのかもしれない。煙は見えない。

だが、街は確かに熱を帯び始めていた。

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