第6話 引っ越しそば
悠真の言葉に、温かかった食卓の空気は一瞬で凍りついた。
父の修一が、持っていた箸をカタンと置く。
「……悠真。お前、何を言っているんだ。寝ぼけているのか」
「本気だよ。俺は、異世界でやり直したいんだ」
悠真の真剣な目に、修一の表情がみるみる険しくなっていく。
「ふざけるな! 四年も引きこもって、ようやく外に出たと思ったら、今度は異世界だと!? いい加減にしろ!」
怒声が飛ぶ。母の惠子が、泣きそうな顔で悠真を見ている。
言葉だけでは、信じてもらえない。分かっていたことだ。
悠真はすっと立ち上がると、両親の肩にそっと手を置いた。
「見せた方が、早いみたいだね」
権能『異世界』。
悠真がそう心の中で念じた瞬間、世界の景色がぐにゃりと歪んだ。
次に両親が目にしたのは、さっきまでの日本の家のリビングではなかった。
石畳の道、木と石でできた素朴な家々、そして土と緑の匂い。どんよりと曇った空の下に広がる、見知らぬ農村の風景だった。
「な……なんだ、ここは……!?」
「悠真、あなた、いったい……」
呆然と立ち尽くす両親を、悠真は促した。
「行こう。俺がお世話になってる人の家だ」
悠真に案内され、二人はおそるおそる村のはずれにある小さな家へ向かう。
エルナとリリアに挨拶を済ませると、修一は真剣な顔で悠真に言った。
「悠真、一度戻るぞ。引っ越しのご挨拶の品が必要だ」
「え?」
「日本の常識だ。これから世話になるんだから、筋は通さないとな」
三人は再び自宅へと戻り、近所のスーパーへ向かった。体力無尽蔵の権能を使い、村の全戸分の乾麺のそばを買い込むと、もう一度異世界の村へと転移した。
そして翌日。村ではみんなでそばを食べることにした。
もらったときは「この黒くて細い紐は何だ」と不思議に思った村人たちも、醤油ベースの香ばしい匂いに誘われて、一人、また一人と集まってくる。
「日本、ええと僕の故郷では、新しく来た時に、そばを配る風習があるんです。『引っ越しそば』って言って」
悠真がそう説明すると、村のまとめ役らしい壮年の男が腕を組んで唸った。
「ほう、『ひっこし』……? 麺を、こう……手で引くからか? なるほど、面白い風習じゃ!」
言葉の勘違いから生まれた解釈に、周りからどっと笑いが起こる。
「うまい! なるほど! 茹でて食べるのか!」
「初めて食べる味だ! いくらでもいけるぞ!」
「悠真、本当にありがとうな! こんなに美味しいもの、初めてだよ!」
見様見真似でそばをすする村人たちの顔に、次々と笑顔が咲いていく。子どもたちはおかわりをねだり、大人たちは口々に感謝を伝えていた。その輪の中心で、悠真は誇らしいような、照れくさいような気持ちで笑っていた。胸の奥に、温かいものがまた一つ、二つと灯っていくのを感じた。
(女神様の言っていた感謝が貯まっている。この前と合わせて二百を超えたぞ!)
すべての家に配り終えた頃には、日は西に傾いていた。
言葉は通じなくとも、村の素朴な人々の優しさに触れ、両親の表情はすっかり和らいでいた。
現実世界へと戻る直前、修一は悠真の肩を強く叩いた。
「……がんばれよ」
その言葉に、悠真は力強く頷く。すると、隣で黙って見ていた母の恵子が、少し寂しそうに笑った。
「ちゃんと食べるのよ。……風邪ひかないように」
母親らしい、飾り気のない言葉。それが、今の悠真には何より嬉しかった。
両親を見送った悠真が、片付けを手伝おうと広場に戻った、その時だった。
遠くから、馬蹄の音が聞こえてきた。
楽しげだった村人たちの会話が、ぴたりと止まる。皆の視線が、村の入り口へと注がれた。さっきまでの笑顔はどこにもない。誰もがこわばった表情で、音のする方を見つめている。
(どうしたんだ、みんな……?)
悠真が戸惑っていると、やがて土埃を上げて一台の馬車が広場に乗り込んできた。それは村の馬車とは違う、立派だが威圧的な装飾が施された馬車だった。
村の男たちは顔を見合わせ、女たちは子どもを自分の後ろに隠す。ろくなことにならない。その場の全員が、そう確信しているかのようだった。
馬車から、尊大な態度の役人が降り立つ。その後ろから、鎧を着た兵士が二人続く。
村で一番の年長者であるエルナが、覚悟を決めたように一歩前に出た。役人はエルナを一瞥すると、顎で兵士に合図を送る。
兵士の一人が前に進み出て、赤い封蝋のついた羊皮紙の文書を掲げた。
その瞬間、村の空気が氷のように張り詰めた。
役人は、文書を見もせずに冷たい声で言い放った。
「これより、このセドナ村に労役を課す!」
その声は、宣告のように静まり返った村に響き渡った。
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