第4話 百のありがとう
ガタン、と大きな揺れで悠真の意識は覚醒した。
ぼやける視界に映ったのは、見慣れた村の入り口と、駆け寄ってくる村人たちの姿だった。リリアとエルナの心配そうな顔も見える。
「着いたぞ! 急患の家はどこだ!」
御者席から女戦士の力強い声が響く。
村人たちに導かれ、医者が少女の家へ駆け込んでいく。悠真も荷台から降りようとしたが、足に力が入らず、その場に崩れ落ちそうになった。
「おい、大丈夫か!」
「しっかりしろ!」
「誰か! 水と食べ物を!」
村の男たちが、悠真の体を支えてくれる。
悠真はなされるがまま、少女の家の壁に寄りかかり、ただ中の様子をうかがうことしかできなかった。
薬を煎じる匂い、医者の鋭い指示の声、時折聞こえる少女のか細い呼吸。東の空が白み、朝日が村を照らし始めても、家の中から誰も出てくる気配はなかった。
(頼む……助かってくれ……)
祈る以外の何もできない自分がもどかしい。
長い、長い時間が過ぎた。太陽が空高く昇り、村人たちが固唾をのんで見守る中、ようやく家の扉がゆっくりと開いたのは、昼も過ぎた頃だった。
出てきた医者が、深い疲労をにじませた顔で、しかし穏やかに告げる。
「……峠は越した。もう大丈夫だろう」
その一言に、張り詰めていた村の空気が一気に緩んだ。嵐の後の静けさ。皆、言葉を失い、ただ安堵のため息を漏らしていた。
静寂の中、村のあちこちから、止まっていた生活の音が戻ってくる。かまどに薪をくべる音、家の奥で赤ん坊が泣き出す声。一羽の鳥が、真っ青な昼の空へ高く飛び立っていった。
「――生きてる」
悠真は、誰に言うでもなくつぶやいた。
その静けさを破ったのは、家から飛び出してきた少女の両親だった。二人は悠真の前に立つと、その場に膝から崩れ落ちた。
「ありがとう……! 本当に、ありがとう……!」
父親が涙ながらに悠真の手を握る。その手は震えていた。
これまで聞いたどの「ありがとう」とも違う、魂からの叫びのような感謝の言葉。その言葉が合図だったかのように、悠真の胸の奥が、かすかに温かく光る気がした。
(でも、僕は走っただけだ。助けたのはあの女戦士で、救ったのは医者だ)
自分にできることなど、たかが知れている。
それでも、村人たちが次々と悠真を取り囲み、感謝の言葉を投げかけてくる。
「悠真さん、ありがとう!」
「あんたは、この村の恩人だ!」
「村の人じゃないのに、ううっ!」
(それでも……それでも、動けたんだ。何もしなかった自分とは、違う)
ありがとうの声が重なり合うたび、胸の中の光は温かさを増していく。それは、心の底でカチリと鳴った小さな歯車のようだった。
ふと視線を上げると、馬車のそばで腕を組んでいた女戦士と目があった。彼女は悪戯っぽく笑うと、ひらりと手を振る。
「あんた、すごいな。また会うかもね」
そう言い残し、彼女は医者を乗せた馬車をUターンさせ、颯爽と去っていく。燦々と降り注ぐ陽の光の中、その背中がやけに頼もしく見えた。
そして、最後にエルナがしわくちゃの手で悠真の手を握った。
「本当に、ありがとう」
その数が、ちょうど百になった瞬間。
心の歯車が、カチリ、と最後の音を立てて噛み合った。
耳の奥で、何かが砕けるような甲高い音がした。
次の瞬間、足元の大地がふっと消え、世界が眩く弾けた。
村人たちの声も、村の風景も、何もかもが真っ白な光の中に溶けていく。
(え……?)
何が起きたのか理解できないまま、悠真の意識は、再び急速に遠のいていった。
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