第1話 ここじゃないどこかへ
午前二時。モニターの青白い光だけが、ゴミの散らかる四畳半の部屋をぼんやりと照らしていた。
大学受験に失敗し、浪人生活も四年目に突入していた。高校の同級生たちは、もう就職の内定が決まる頃だ。SNSに時折流れてくる『内定式』なんて言葉が眩しくて、悠真はただモニターの前で現実から目を逸らす日々を送っていた。
浪人とは名ばかりの、ニートだ。
(また、何もせずに一日が終わるのか……)
ぼんやりとブラウザを眺めていると、一通のメールが受信ボックスに滑り込んできた。時刻を考えれば、友人からの連絡のはずもない。
『おめでとうございます! あなたは選ばれました!』
いかにも怪しげな件名に、悠真は思わず乾いた笑みを漏らす。深夜のテンションで見れば、その胡散臭さも一周回って面白く感じた。
『ニート学生のやり直し ~異世界職業体験プログラムのご案内~』
「異世界……ね」
思わず声が漏れた。アニメや漫画で使い古された、ありきたりな言葉。だが、静まり返った夜の闇の中では、その陳腐な響きが悪魔的な魅力を持って聞こえた。
もう、同級生たちの輝かしい未来を見たくない。ここじゃないどこかへ行きたい。そんな願望が、黒い渦を巻いていた。
「どうせ、くだらないジョークだろ」
独りごちて、メールを開く。簡単なアンケートの下に、参加の意思を問うボタンがあった。
『プログラムに参加しますか? 【はい】/【いいえ】』
そして、そのさらに下にも、小さな文字でこう注釈が添えられている。
『※参加期間は一年。修了条件:地域でありがとうを百回集める』
「ありがとうを、百回……?」
なんだ、それ。まるで小学生向けの町内会イベントだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに、悠真は逆に冷静になっていく。どうせ手の込んだ詐欺か、くだらないジョークだ。ならば、乗ってやろうじゃないか。
(どこへだって、行ってやる)
ほとんど自暴自棄な気持ちで、【はい】のボタンをクリックした。
その瞬間――視界が真っ白な光に包まれ、悠真の意識は急速に遠のいていった。
次に目を開けた時、頬を撫でる生ぬるい風に、悠真は身震いした。
雨の匂いがする。見上げれば、空は分厚い灰色の雲に覆われ、巨大な木々の葉がざわざわと不穏な音を立てていた。
足元が湿った腐葉土で、踏みしめるたびにじゅっと水分が滲む。どこを見ても、天を突くような見知らぬ木々が密集し、昼間のはずなのに薄暗い。
「……は?」
自分の格好を見下ろす。よれよれのTシャツに、履き古したスウェット。この四年、ほとんど変わらない、お馴染みの部屋着だ。
(なんだ、これ……夢か? それにしちゃ、やけに寒くて、湿っぽいな)
頬をつねると、鈍い痛みが走った。夢ではない。
呆然と立ち尽くしていると、不意に、茂みの向こうから甲高い悲鳴が聞こえてきた。
「ひぃっ! あっちへお行き!」
女性の声だ。それも、かなり年を召した方の。
悠真は弾かれたように音のした方へ駆け出した。深い考えがあったわけではない。ただ、放ってはおけなかった。
ぬかるむ地面に足を取られながら茂みをかき分けると、信じられない光景が広がっていた。
腰の曲がったおばあさんが、地面に倒れ込んでいる。その目の前には、人間の子どもくらいの背丈をした、緑色の醜い生き物が立っていた。尖った耳に、濁った黄色い目、手には粗末な棍棒を持っている。
(ゴブリン……!?)
ゲームや物語でしか見たことのない怪物が、現実に存在している。その事実に、悠真の全身から急速に血の気が引いていく。足が震え、今すぐにでも逃げ出したかった。
だが、おばあさんの恐怖に引きつった顔と、ゴブリンが棍棒を振り上げるのが同時に目に入った。
(逃げたら、あの人が死ぬ)
頭の中で、誰かが叫んだ。
ここで見捨てて逃げたら、俺は一生後悔する。この四年間の無気力な自分と、何も変わらないじゃないか。
「くそっ!」
悠真は足元に転がっていた、湿って苔むした木の棒を拾い上げた。ずしりとした重みが、震える手に伝わる。心臓がうるさいほどに脈打ち、喉がカラカラに乾く。
ゴブリンはまだ、悠真の存在に気づいていない。
悠真は息を殺し、そっと背後から回り込んだ。一歩、また一歩と距離を詰める。
(やるしかない……やるんだ!)
ゴブリンの真後ろに立った悠真は、ありったけの力を込めて木の棒を振りかぶった。
――そして、緑色の頭蓋骨めがけて、思いきり振り下ろした。
ゴツッ、と鈍い手応え。
ゴブリンが奇妙な声を上げてよろめく。一撃では倒せない。悠真は恐怖を振り払うように、無我夢中で棒を何度も叩きつけた。
やがて、ゴブリンはぐったりと動きを止め、泥の上に倒れ伏した。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
悠真はその場にへたり込み、肩で大きく息をした。手にした棒が、自分の手ではないみたいに震えている。人を……いや、生き物を殴り殺した感触が、まだ生々しく残っていた。吐き気がこみ上げてくる。
「あ、あの……」
おずおずとした声に顔を上げると、助けたおばあさんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「ありがとうございます、助けてくださって。あなたがいなかったら、今頃どうなっていたか……」
「い、いえ……」
悠真はかろうじてそれだけ答えるのが精一杯だった。
「ひどい怪我はなさそうですな。ですが、お礼をさせてください。わっしの家がすぐそこですから、どうか寄っていってください」
断る理由も、行く当てもない悠真は、おばあさんの申し出にこくりと頷いた。
おばあさんに連れられて森を抜けると、どんよりとした空の下に、小さな村の全景が広がっていた。雨に濡れて黒ずんだ木造りの家々が、身を寄せ合うように建ち並んでいる。石畳の道は湿り、畑仕事をする人々の姿もどこか活気がないように見えた。
村のはずれにある、一際小さな家。そこがおばあさんの住処らしかった。
「ただいま」
おばあさんが扉を開けると、中から一人の少女が駆け寄ってきた。
「おばあちゃん! 遅かったから心配したんだよ。……って、その方は?」
亜麻色の髪を揺らし、翡翠のような緑色の瞳を向けた、歳は悠真と同じくらいだろうか。整った顔立ちの、まさに美少女と呼ぶにふさわしい少女だった。
彼女は悠真の奇妙な服装と、その手にまだ握られている泥と血の付いた棒を見て、一瞬で警戒の色を浮かべた。
「この方が、わっしを助けてくれたんじゃよ、リリア」
リリアと呼ばれた少女は、おばあさんから事情を聞くと、少しだけ警戒を解いたようだった。それでも、まだ疑いの眼差しで悠真を見ている。
「……助けていただき、ありがとうございます。どうぞ、中へ」
家に招き入れられ、木の椅子に腰かけると、リリアが温かいスープの入った木製の椀を差し出してくれた。
湯気の立つスープを一口すする。野菜の優しい甘みが、冷えてこわばっていた体にじんわりと染み渡っていく。
その温かさを感じながら、悠真は自分が本当に『異世界』に来てしまったのだと、ようやく実感した。
おばあさんからの「ありがとうございます」という言葉を思い出す。
(これで、『ありがとう』は一回目、か……)
四年ぶりに感じた、誰かの役に立ったという確かな手応え。
それは、この薄暗い世界で、悠真が見つけた最初の小さな希望の光なのかもしれなかった。
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