光と雪の場合 - 燃え尽きた朝と帰ってきた日常
ツアーが終わった翌週。
光は、昼までベッドでごろごろしていた。
体の芯がまだツアーのリズムを引きずっているようで、何かを始める気力も起きない。
起き出しても特に予定はなく、気まぐれにピアノの前に座り、配信を始める。
「やっほー。今日はなんも考えてない、ただのゆるゆる配信です」
カメラ越しに笑い、気の向くままに鍵盤を叩く。
ツアー中に弾いた曲や、子どもの頃に遊びで弾いたフレーズが、即興でつぎはぎのように繋がっていく。
観客席の大歓声がない分、どこか気が抜けていて、観ている人も肩の力が抜けていくような時間だった。
◆コメント欄のざわつき
チャット欄にはお馴染みの質問が飛んでくる。
『ドームツアーいつ!?』
『全国ドーム、ほんとにやるんでしょ!?』
光は片手でコードを鳴らしながら、困ったように笑った。
「えーとねぇ、あれ勢いで言っただけだから、いつになるかはわかんないんだよね。
きっとマリ姐が頑張ってくれてるから、みんな期待しすぎないでー」
コメント欄は即座に大荒れになった。
『マリ姐休んで』
『マリ姐頑張って』
『上2つですでに矛盾してるの草、でもわかる』
『胃を守れ』
『全国のサプリ会社スポンサーつけてあげて』
そして数分後には「#マリ姐休んで」「#マリ姐頑張って」が同時にトレンド入り。
本人不在のまま、全国規模で胃袋の心配が繰り広げられた。
◆そのころマリ姐
一方そのころ。
デスクに積まれた資料に埋もれながらツアーの後処理をしていたマリ姐は頭を抱えていた。
スマホには「#マリ姐休んで」がトレンド入りしている通知。
「……ったく、なんであんなドームなんて爆弾発言を……」
ため息をつきかけたその時、不意に昨夜の打ち上げを思い出す。
――『よしよし』
「っっっ!!!」
顔が一気に赤くなり、両手で頬を押さえる。
「な、何思い出してんの私……!」
スタッフがノックして入ってきて、真っ赤な顔のマリ姐を見て固まった。
「……あの、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ!! 資料見てただけ!!」
胃を押さえながら仕事に戻りつつも、頭の片隅では光の手の感触が離れない。
「……もう、ほんとに……」
ため息交じりの独り言は、どこか照れくさく甘い響きを帯びていた。
♦︎戻ってきた日常
気まぐれで始めたピアノ配信を終えた光は「ふーっ」と大きく伸びをした。
椅子の背もたれに体を預けると、じわじわと疲労がのしかかってくる。
そんな彼の横に、そっと湯気の立つ湯呑みが差し出された。
「……はい、お茶」
「ありがと、雪」
光は一口含み、喉から胸に広がる温かさにほっと息を漏らす。
「はぁ……。こうしてるとさ、祭りが終わって日常が帰ってきたって実感するよなぁ」
雪はくすっと笑い、少し肩の力を抜いた。
「うん。……やっと、いつもの光だなって思う」
外のSNSは「#星空」「#マリ姐休んで」「#光ドームツアー」で大騒ぎ。
けれど、この部屋の空気は別世界のように穏やかだった。
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◆小さな支え
雪の視線の先、加湿器の水はきちんと補充済み。
机の端には、光が好むのど飴と小さなお菓子。
洗濯機の中では、光が脱ぎ散らかした服たちが回っている。
「……あれ、これ新しいの?」
光が飴を手に取る。
「うん。なくなりかけてたから、補充しといた」
「助かる〜」
光が素直に笑うと、雪は少し照れながらタオルを畳み直す。
「それも、タオルをぐちゃぐちゃのまま置かない」
「えー、俺気にしないのに」
光が笑う。
「……私が気にするの」
雪が苦笑する。
光は苦笑しつつ、安心したように肩をすくめた。
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◆鼻歌
翌日。
光がピアノでだらだらとコードを転がしていると、キッチンから控えめな歌声が聞こえてきた。
「……この夜がくれた奇跡を抱いて……ほら 目の前が 星空みたいだ……」
雪が湯呑みを洗いながら、“ツアーのあの曲”を口ずさんでいた。
光の手が鍵盤の上で止まる。
「……雪?」
「ひゃっ!? な、なに?」
振り返った雪の頬はほんのり赤い。
「今の、歌ってたの“あの曲”でしょ」
「ち、違っ……! いえ、違わないけど……」
耳まで赤くなり、慌てて視線を逸らす。
光は照れくさそうに笑い、後頭部をかいた。
「へぇ〜……鼻歌で歌うくらい、気に入ってくれてんだ?」
「……」
「ありがとな。一番嬉しいかも」
雪は小さく「……私が好きなだけだから」と返す。
その声は小さいのに、光にははっきり届いていた。
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◆スーパーで
数日後。
雪が近所のスーパーで買い物をしていると、野菜売り場から鼻歌が聞こえてきた。
買い物客の若い女性が、かごを片手に“星空”のメロディを口ずさんでいる。
雪は立ち止まり、思わず耳を澄ませた。
(……光の曲が、こんなふうに広がってるんだ)
胸がじんわりと温かくなる。
その光景を見ながら、雪はそっと笑みを浮かべた。
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◆日常の隣
夜。
窓の外には東京の夜景。光は湯呑みを揺らしながら呟いた。
「まあでもさ、こういう普通の時間がないと、次のステージに行く元気も出ないよね」
「そうだね」
雪は頷き、少しだけ目を伏せる。
(……日常が戻ってきた。その日常の中で、こうして隣にいられる。それだけで十分)
その思いを言葉にせず、静かな時間はゆっくりと流れていった。




