ツアーファイナルリハーサル ― チーム光の静かな決意
東京ルミナスアリーナ。
五千席を埋める巨大なホールの中央には、大人の背の高さくらいの円形ステージ。中央がエレベーターのように可動式になっている。
可動部分にはピアノと椅子があり、ステージの東西南北にはステージと同じ高さの花道がまっすぐ伸びていた。
花道の周囲にはアリーナ席が円形に広がり、その外周には広い通路――そしてその上には全周を囲む二階席。
音の反響の広さも、照明の明滅も、どこまでも壮大で――明らかに、これまでのツアー会場とは“世界が違った”。
誰もが思った。
(ここが“最終日”にふさわしい場所だ)
照明が落ち、沈んでいたステージ中央がゆっくりと上昇する。
ピアノ、椅子、そして光。
静かなリハーサルが始まる。
一音。
ホール全体が息を呑む。
「……やっぱり、響きが違うね」
笑いながら天井を見上げる光の声に、スタッフの動きが止まった。
その“一音”で、会場の空気が変わる。
詩音がモニター越しに小さく呟く。
「リハーサルなのに……もう空気が張り詰めてる」
マリ姐が頷く。
「光がステージに立った瞬間、空気が締まるのよ」
♦︎
リハは穏やかに進んでいた。
照明、音響、カメラチェック――どれもいつも通り、笑い混じりで流れていく。
「じゃあ音、ちゃんと出してみようか」
光がピアノの前に座る。
なぜか“ラジオ体操のテーマ”を弾きはじめた。
スタッフの笑い声が広がる。
「おい、またそれか!」
「朝のウォーミングアップ大事でしょ?」
音響席の誰かが「ちょっと懐かしいな」なんて呟くと、光は楽しそうに頷いた。
「でもさ、大きな会場だからか、みんなちょっと緊張してる気がするんだよね。
ほら、手拍子しよう!」
突然の提案に戸惑いながらも、スタッフたちは照明機材やモニター越しに手を叩く。
光はそれに合わせてコードを刻み、軽くジャズ風の即興を始めた。
ピアノの音に合わせて、自然にリズムが生まれる。
「いいねー! この感じ! 本番もこれくらいでいいよ!」
軽口を叩きながら、光はピアノの蓋を軽く叩いて笑う。
詩音がモニター越しに微笑んだ。
「……こういう空気を作るの、ほんと得意ですね」
「光が緊張してないと、みんなが緊張しないの」
マリ姐が肩をすくめる。
「いい意味で、現場が家になってるわ」
その後も、照明の当たり具合を試しながら、光はわざとふざけたコードを鳴らして笑わせる。
「うわ、これ眩しい! あっつ! 俺焼けちゃう!」
「それがステージライトです!」と誰かが突っ込む。
笑いが止まらない。
でも、音が戻る瞬間――空気が一変する。
光の指が鍵盤に落ちた瞬間、五千席の空間が静まる。
一音で、誰もが“この人は本番に入った”と理解する。
笑いと緊張が交互にやってくる。
その緩急が、チーム光らしかった。
♦︎
少しして、光がピアノから立ち上がる。
「ちょっと端まで行ってみていい?」
花道をゆっくり歩きながら、花道下のスタッフに手を伸ばす。
「届くかな……あ、惜しい!」
下でケーブルを巻いていたスタッフが笑いながら手を伸ばす。
ほんの数センチ届かない。
光は満足そうに頷いた。
「うん、ここからだと届かないか。」
詩音が隣のマリ姐に小さく呟く。
「……やっぱり、何か考えてますね」
マリ姐が目を細める。
「止めないわ。もう、決めてる顔してる」
♦︎
光が花道から中央のピアノへ戻ってきた。
軽く和音を鳴らす。
「うん、やっぱり、ここが落ち着く」
マリ姐はインカムを外し、雪に指示を出した。
「光の近く、動けるカメラが一人ほしい。……雪、お願い」
「私が? 本番のカメラをですか?」
「“ライブ感を出すため”って名目にしておくわ。
けど本当は――あなたが一番、光の動きをわかってる」
詩音が小さく頷く。
「……一番近くで、常に見守りながら。何かあったらすぐに動ける位置ですね。……母様の“管理された危険”という線を、踏み越えることになります」
マリ姐は黙って頷いた。
それだけで十分だった。
三人の間に流れる空気が、言葉よりも雄弁に伝える。
(――信じる。そして、守る。たとえ何があっても)
「……はい。わかりました」
雪は深く息を吸い、手持ちのビデオカメラを受け取った。
レンズを構えた瞬間、光がピアノ椅子に座ったまま振り返る。
「撮ってるの?」
「うん。ちゃんと」
ファインダー越しの光は、いつもの“アーティスト”ではなかった。
ステージの眩しさを少し忘れたような、素の笑顔。
画面を覗いていたスタッフが思わず声を漏らす。
「……なんか、雪ちゃんが撮ってると、表情がすごく柔らかくなるね」
「うん、なんか、あったかい顔してる」
その言葉に、マリ姐もわずかに微笑んだ。
光がピアノを軽く叩きながら笑う。
「ねぇ、マリ姐……」
その声を聞いた瞬間、マリ姐は察した。
だから、穏やかに遮る。
「言わなくていいわ」
「え?」
「言われたら止めなきゃいけなくなるもの。
――明日は、思いっきり好きにしなさい。
そのために、雪ちゃんを隣に置いたんだから」
光は一瞬だけ黙り、そして笑った。
「……ありがとう!」
RECランプが赤く灯る。
雪の手の中で、光が笑う映像が記録されていく。
まるで少年のような笑顔。
その笑顔を守るために、自分はここにいる――
雪は静かに、そう心の中で誓った。
♦︎
リハーサルが終わった。
予定通りでも、完璧でもない。
光はいつものように音で遊び、
明日の景色を頭の中で思い描いているだけ。
周囲のスタッフは笑いながら片づけを進め、
「いい雰囲気のリハだった」と口々に言った。
けれど、チーム光の三人だけは気づいていた。
その遊びの奥に――
“何かを変える夜”の予感が隠されていることを。
「管理された危険」の線を越えるだろうと、
誰も口にはしないまま、心の中で理解していた。
それでも構わない。
信じて、守る。たとえ何があっても。
その夜、チーム光だけが静かに覚悟を決めた。
そして翌日――世界が、少しだけ変わる。




