楽屋での慰め
終演のベルが遠のくころ、光は袖に吸い込まれるように歩いた。
インイヤーを外す手が少し震えていて、ピアノの鍵盤に残った温度だけがまだ手のひらに貼りついている。
「お疲れさまです!」
スタッフの声に頷く代わり、光は軽く手を上げた。笑顔は作る——けれど、さっきの深い一礼のあとで、顔の筋肉はうまく動いてくれない。
控え室のドアが閉まる。
エアコンの風、ペットボトルの水、タオル。
ソファに腰を落とした瞬間、背中が全部沈んだ。
「……光」
最初に近づいたのは雪だった。額に触れると明らかな高熱だった。
光は苦笑して視線を伏せる。
「ごめん。今日は……みんなに、悪いことしちゃった」
その言葉と同時に、雪はためらいなく抱きしめた。
汗で湿ったTシャツの布越しに感じる体温。
細い息が、耳元でふっと揺れる。
「悪くなんてないよ」
雪はささやく。胸の前で腕を回し、背中を撫でる。
「みんな、助けたいって思ってた。あの合唱、みんなすごく楽しそうだったよ。……光も、ちょっと嬉しそうだった」
光は、雪の肩に額を預けた。
唇だけで歌をなぞっていたさっきの形が、そのまま小さく残る。
「……嬉しかった。ほんとに、助かった。けど……最後まで歌えなかったの、やっぱり悔しい」
指先が、雪のTシャツの裾を弱々しく掴む。
普段は自由で、軽く笑って、前へ前へと連れていく背中が、今は小さく見える。
雪は胸の奥がきゅっと鳴るのを誤魔化しながら、呼吸を合わせた。
「ね、評判は悪くなかったよ。感想、もう上がってる」
雪はスマホを示す。
“泣いた”“一生忘れない夜”“光くんのピアノが隣で歌ってた”——そんな言葉が並んでいる。
「それでも、気になるなら……」
雪は言いにくそうに一呼吸おいてから、やわらかく続けた。
「今日来てくれた人、対象に——もう一回、ライブしよ。光がちゃんと歌える日に。同じ場所で、ちゃんと最後まで」
光が顔を上げる。
疲れた目の奥に、ぱっと灯りがともった。
「……それだ」
雪の腕の中から身を起こすと、光はドアの外へ声を投げた。
「マリ姐!」
すぐにドアが開く。
マリ姐はタブレットを抱えたまま、じろりと光の顔色を確認してため息をついた。
「はい、なに」
「今日のお客さん、もう一回無料で招待しよう。同じホールで。俺、ちゃんと歌う」
言ってから、はっとして頭を下げる。
「お願い。……でも今は、ちょっと休む」
「はいはい、言うと思ったわ」
マリ姐は口調こそきついが、目だけは心配そうだ。
タブレットに素早くメモを打ち込みながら、短く告げる。
「段取りは“私たち”がやる。だから——」
言い切る前に、光の身体がふっと雪の胸元へ寄りかかった。
力が抜け、呼吸が深くなる。
「……寝た?」
雪が小声で問うと、耳元に穏やかな寝息が触れた。
雪は動けなくなった腕の中の体温を、そっと抱き直す。
(あ、だめ——かわいい……)
胸の奥の衝動を飲み込み、肩に顎をのせて、ただ息を揃える。
マリ姐は二人を見て、長く小さく息を吐いた。
「はぁ……分かった。少ししたらきちんと身支度して、ちゃんと寝せるわよ」
声はぶっきらぼう、手つきはやさしい。ブランケットを引き寄せ、光の肩にそっと掛ける。
「雪、そのまま支えてて。起こさないように」
控え室の灯りが一段落ち、外ではステージ解体の音が遠くに響く。
深い一礼の重みはまだ部屋に残っている——けれど、光は雪にくっついたまま、安らかな寝息を立てていた。
マリ姐はタブレットに数行のメモを残し、静かにドアを閉めた。




