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限界のステージ

公演日の朝。

控室はまだ薄暗く、静けさに包まれていた。

ソファに沈んだ光は、ぼんやりと天井を見つめている。額には汗が滲み、頬はうっすらと赤い。


雪は恐る恐る近づき、冷たい指先をそっと額に当てた。

「……光? 光!?」

触れた瞬間にわかる。明らかな高熱。息が詰まる。


「熱、あります。かなり高いです。」



すぐに詩音がスマホを取り出し、母の人脈で地元の病院へ連絡を入れる。

「往診できる先生を。彼に今できる最高の処置を」


やがて駆けつけた医師は喉を診て、体温計を覗き込むと眉をひそめた。

「今日は休むべきです。このままでは危険だ。少なくとも数日は安静に」


言葉は重く、部屋の空気を一気に沈ませた。



その沈黙を破ったのは、雪だった。

彼女は拳を握りしめ、震える声を絞り出す。

「……やめた方がいいと思います」


誰も答えない。

唇を噛み、さらに勇気を振り絞る。

「光は、きっと“平気”って言います。でも……でも本当は無理してる。昨日からずっと、顔色も声も……」

視線は揺れ、声も掠れる。けれど必死に続けた。

「私、こんなに“やめてほしい”って思ったのは初めてなんです。だから……お願いします」



マリ姐は腕を組んだまま、目を伏せて黙り込んだ。

(雪がここまで言うなんて……でも、止めれば全部が崩れる。どうするべき……?)

胸の奥で、理屈と本心がせめぎ合う。


「……」

深く息を吐き、唇を噛んだその時――


「今日が終わったら数日休みでしょ?」

光が笑みを作りながら割り込んだ。

額に汗を浮かべたまま、けれど声は強く響く。

「だから今日だけは、やらせてほしい」



雪は「だめです!」と声を上げたが、かすれて震えていた。

マリ姐はその肩を見つめ、やがて視線を落とす。


(……止めたい。でも、あの子は止まらない。なら、せめて私が背負うしかない)


「……わかった」

低い声で言った。

「今日やるなら、責任は全部私が背負う。その代わり、限界を感じたら絶対にやめる。それは約束して」


光は真剣に頷いた。

雪は俯いたまま、小さく震える肩を抱きしめるように腕を回す。


――そして、その夜。

限界のステージが始まろうとしていた。



夜。ホールは満員だった。

幕が上がると、スポットの中に光が立つ。拍手が波のように押し寄せ、彼は笑顔で一礼してピアノに腰を下ろした。


一曲目。出だしは悪くない。けれど、二つ目のコーラスで早くも喉が擦れる。

客席の空気が少しだけ固くなる。

光は間を取って水を一口。ピアノのイントロを長めに弾き、声を使うパートを短くする。

二曲目、三曲目——光は自然にキーを落としたり、フレーズを短くしたりして、喉の負担を抑えていた。だが“いつもの伸び”は戻らない。

袖で雪がタオルを握りしめ、マリ姐は腕を組んだまま顎を引く。


中盤、光は演奏の比重をさらに上げた。

ピアノだけで聴かせるナンバーでは、右手が細い旋律を、左手が柔らかな脈拍を作る。

客席は息を合わせるように静まり、咳払いひとつも起きない。

「大丈夫だよ」と笑う視線が客席を撫でるたび、拍手がそっと寄り添った。



そして、最後の一曲。

イントロの和音を落とし、呼吸を合わせ——声を出そうとした瞬間、喉が空を切った。

音が出ない。

会場が、一秒、二秒、長い静けさに呑まれる。


その沈黙を、客席前方の若い声が破った。

恐る恐る、でもまっすぐに。

すぐ後ろの席が追いかけ、二階席が重なり、通路脇の人たちもそっと音を足していく。

やがて——数百人の合唱になった。


光はピアノに身体を寄せる。

右手は客席の主旋律のすぐそばに“もうひとつの歌”をそっと添え、左手はみんなの呼吸の行き来を撫でるように支える。

喉では歌えない代わりに、鍵盤で相づちを打ち、頷き、笑う。

「ここだよ」と目で合図すると、前列の女の子が少しだけ声を張り、光はそのすぐ上に細いハモリを重ねる。

別のブロックの女性たちが追いかけると、光は視線を巡らせて同じフレーズを“もう一回”弾いて見せる。

唇だけで言葉をなぞりながら——声は出ないのに、顔は確かに「歌って」いた。

今日ずっと辛そうだった頬が、ふいにほどける。鍵盤の上で、光はみんなと並んで歌っている。


客席の声は自然にふくらみ、ホールの天井にやわらかな波を描く。

最前列の女の子の透明な声、通路側の学生たちの明るい声、後方に陣取った母親たちの包み込むような響き。

ところどころに混ざる低い声が重みを足し、ひとつの輪郭にまとまっていく。

袖から見守る雪は胸に手を当て、涙を堪えながらテンポの脈を指先で刻んでいる。

マリ姐は奥歯を噛みしめたまま、視線だけで「そのまま」と伝える。


二番のサビ、光は短い応答句を右手で添え、左手はペダルを浅く踏んで合唱の余韻を抱きとめる。

最後のサビ前、ほんの小さな持ち上げ——会場が自然に息を吸い、声が一段明るくなる。

最終コーラスは、光が主旋律の少し上で“歌い”、観客が主旋律で包む。

誰かの震える声、どこかの力強い声、たくさんの普通の声。

それらすべてが、光の指先と同じ方向を向いた。


終止の響き。

光はダンパーペダルを深く踏み、合唱の最後の母音がホールの天井でほどけるのを、ただ聴いた。

そして、ペダルをゆっくり上げる。

音が完全に消える。



次の瞬間、拍手。歓声。泣き笑いの声。

光はマイクを握りしめ、立ち上がり、かすれ声で言う。

「今日はみんなに助けられたね……ごめんね、ありがとう」


そう言って、一礼——そして頭を上げない。

深く、長く。

舞台袖から雪が一歩踏み出しかけて止まる。

「大丈夫!」と客席から声が飛ぶ。

拍手は続くのに、光はなおも頭を下げたまま、指先だけが小さく震えている。

申し訳なさと、悔しさと、どうしようもない感謝が同じ場所に溜まっているようだった。


やっとのことで顔を上げた時、目の縁は少し赤い。

言葉は足さず、もう一度だけ深く礼をすると、袖へと下がった。

その背中を、観客はいつまでも立ったまま見送った。


——この深い一礼は、翌日の決断へと繋がっていく。

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― 新着の感想 ―
まあ一足飛びで全国ツアー組んじゃったのがアレよね。
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