限界のステージ
公演日の朝。
控室はまだ薄暗く、静けさに包まれていた。
ソファに沈んだ光は、ぼんやりと天井を見つめている。額には汗が滲み、頬はうっすらと赤い。
雪は恐る恐る近づき、冷たい指先をそっと額に当てた。
「……光? 光!?」
触れた瞬間にわかる。明らかな高熱。息が詰まる。
「熱、あります。かなり高いです。」
◇
すぐに詩音がスマホを取り出し、母の人脈で地元の病院へ連絡を入れる。
「往診できる先生を。彼に今できる最高の処置を」
やがて駆けつけた医師は喉を診て、体温計を覗き込むと眉をひそめた。
「今日は休むべきです。このままでは危険だ。少なくとも数日は安静に」
言葉は重く、部屋の空気を一気に沈ませた。
◇
その沈黙を破ったのは、雪だった。
彼女は拳を握りしめ、震える声を絞り出す。
「……やめた方がいいと思います」
誰も答えない。
唇を噛み、さらに勇気を振り絞る。
「光は、きっと“平気”って言います。でも……でも本当は無理してる。昨日からずっと、顔色も声も……」
視線は揺れ、声も掠れる。けれど必死に続けた。
「私、こんなに“やめてほしい”って思ったのは初めてなんです。だから……お願いします」
◇
マリ姐は腕を組んだまま、目を伏せて黙り込んだ。
(雪がここまで言うなんて……でも、止めれば全部が崩れる。どうするべき……?)
胸の奥で、理屈と本心がせめぎ合う。
「……」
深く息を吐き、唇を噛んだその時――
「今日が終わったら数日休みでしょ?」
光が笑みを作りながら割り込んだ。
額に汗を浮かべたまま、けれど声は強く響く。
「だから今日だけは、やらせてほしい」
◇
雪は「だめです!」と声を上げたが、かすれて震えていた。
マリ姐はその肩を見つめ、やがて視線を落とす。
(……止めたい。でも、あの子は止まらない。なら、せめて私が背負うしかない)
「……わかった」
低い声で言った。
「今日やるなら、責任は全部私が背負う。その代わり、限界を感じたら絶対にやめる。それは約束して」
光は真剣に頷いた。
雪は俯いたまま、小さく震える肩を抱きしめるように腕を回す。
――そして、その夜。
限界のステージが始まろうとしていた。
⸻
夜。ホールは満員だった。
幕が上がると、スポットの中に光が立つ。拍手が波のように押し寄せ、彼は笑顔で一礼してピアノに腰を下ろした。
一曲目。出だしは悪くない。けれど、二つ目のコーラスで早くも喉が擦れる。
客席の空気が少しだけ固くなる。
光は間を取って水を一口。ピアノのイントロを長めに弾き、声を使うパートを短くする。
二曲目、三曲目——光は自然にキーを落としたり、フレーズを短くしたりして、喉の負担を抑えていた。だが“いつもの伸び”は戻らない。
袖で雪がタオルを握りしめ、マリ姐は腕を組んだまま顎を引く。
中盤、光は演奏の比重をさらに上げた。
ピアノだけで聴かせるナンバーでは、右手が細い旋律を、左手が柔らかな脈拍を作る。
客席は息を合わせるように静まり、咳払いひとつも起きない。
「大丈夫だよ」と笑う視線が客席を撫でるたび、拍手がそっと寄り添った。
◇
そして、最後の一曲。
イントロの和音を落とし、呼吸を合わせ——声を出そうとした瞬間、喉が空を切った。
音が出ない。
会場が、一秒、二秒、長い静けさに呑まれる。
その沈黙を、客席前方の若い声が破った。
恐る恐る、でもまっすぐに。
すぐ後ろの席が追いかけ、二階席が重なり、通路脇の人たちもそっと音を足していく。
やがて——数百人の合唱になった。
光はピアノに身体を寄せる。
右手は客席の主旋律のすぐそばに“もうひとつの歌”をそっと添え、左手はみんなの呼吸の行き来を撫でるように支える。
喉では歌えない代わりに、鍵盤で相づちを打ち、頷き、笑う。
「ここだよ」と目で合図すると、前列の女の子が少しだけ声を張り、光はそのすぐ上に細いハモリを重ねる。
別のブロックの女性たちが追いかけると、光は視線を巡らせて同じフレーズを“もう一回”弾いて見せる。
唇だけで言葉をなぞりながら——声は出ないのに、顔は確かに「歌って」いた。
今日ずっと辛そうだった頬が、ふいにほどける。鍵盤の上で、光はみんなと並んで歌っている。
客席の声は自然にふくらみ、ホールの天井にやわらかな波を描く。
最前列の女の子の透明な声、通路側の学生たちの明るい声、後方に陣取った母親たちの包み込むような響き。
ところどころに混ざる低い声が重みを足し、ひとつの輪郭にまとまっていく。
袖から見守る雪は胸に手を当て、涙を堪えながらテンポの脈を指先で刻んでいる。
マリ姐は奥歯を噛みしめたまま、視線だけで「そのまま」と伝える。
二番のサビ、光は短い応答句を右手で添え、左手はペダルを浅く踏んで合唱の余韻を抱きとめる。
最後のサビ前、ほんの小さな持ち上げ——会場が自然に息を吸い、声が一段明るくなる。
最終コーラスは、光が主旋律の少し上で“歌い”、観客が主旋律で包む。
誰かの震える声、どこかの力強い声、たくさんの普通の声。
それらすべてが、光の指先と同じ方向を向いた。
終止の響き。
光はダンパーペダルを深く踏み、合唱の最後の母音がホールの天井でほどけるのを、ただ聴いた。
そして、ペダルをゆっくり上げる。
音が完全に消える。
◇
次の瞬間、拍手。歓声。泣き笑いの声。
光はマイクを握りしめ、立ち上がり、かすれ声で言う。
「今日はみんなに助けられたね……ごめんね、ありがとう」
そう言って、一礼——そして頭を上げない。
深く、長く。
舞台袖から雪が一歩踏み出しかけて止まる。
「大丈夫!」と客席から声が飛ぶ。
拍手は続くのに、光はなおも頭を下げたまま、指先だけが小さく震えている。
申し訳なさと、悔しさと、どうしようもない感謝が同じ場所に溜まっているようだった。
やっとのことで顔を上げた時、目の縁は少し赤い。
言葉は足さず、もう一度だけ深く礼をすると、袖へと下がった。
その背中を、観客はいつまでも立ったまま見送った。
——この深い一礼は、翌日の決断へと繋がっていく。




