町の音をひとつに〜クラファン演奏会
全国ツアーの合間に無理やり組まれた、特別な一日。
光たちを乗せた専用車は、公園近くの街路を静かに進んでいた。
「支援者は地元の人が多いみたいです。きっと、なんとかピアノを守りたいと思ってる人がたくさんいたんですね」
タブレットを確認しながらマリ姐が言う。
「んー、そうなんだ。じゃあさ、街をぐるっと一周してもらっていい?」
「……いいけど、変に顔出したりとかはなしよ。騒ぎになっちゃうから」
「わかってるって」
光は少しだけ窓を開け、外を眺めた。
夕暮れ前の風が頬をかすめ、商店街のざわめきや遠くの生活音が耳に触れる。
ほんのひととき、街をそっと見つめる横顔に、マリ姐は小さく首をかしげた。
(どうしたのかしら……)
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芝生の広がる大きな公園。
その中央に組まれた仮設ステージに、黒々としたスタインウェイのフルコンサートグランドが据えられていた。
澄んだ青空と芝生の緑に囲まれ、圧倒的に場違いなその姿は、かえって神々しいほどだった。
リハーサル前、舞台袖に案内された支援者は、緊張でカチカチに固まっていた。
光が近づき、鍵盤に軽く指を置く。流れてきたのは〈ラジオ体操第一〉。
「はい、深呼吸〜、肩回して〜」
ふざけたように声をかけると、支援者もつられて肩を回し、スタッフまで笑い声をこぼす。
光はさらに〈ラジオ体操第一〉をジャズ風に崩して弾き、
「いーち、にー、さん、し!」とおどけてカウントをとった。
笑いが広がる中、支援者の表情にもようやく緊張がほぐれた。
(……すごい。場の空気をあっという間にほぐしてしまった。)
「光、リハよ!」
マリ姐に呼ばれてステージへ出ると、光は曲を決めず、いきなり鍵盤を叩き始めた。
柔らかなアルペジオ、派手な和音、急に止まったかと思えばリズムを崩して笑わせる。
無秩序のようで、勢いと熱があって、つい耳を奪われる。
袖で見ていた支援者は、思わず声を漏らす。
「リハーサルって、この時点でも曲が決まってないんですか……?」
マリ姐が肩をすくめて答えた。
「そうなんです。決めてもどうせ守らないことがはっきりしてから、最近はこんな感じになっていまして。」
詩音が静かに笑う。
「でも、決めることが少なければ少ないほど、自由度が上がって良いライブになる感じがありますよね」
「普通そんなこと、ありえないと思うんだけどねぇ……」
マリ姐の嘆きとも呆れともつかない声に、支援者は息を呑んだ。
その時、雪がぽつりと付け足す。
「幼稚園とか小学生の頃から、光はこんなことばかりしていますから。決められてない方が、むしろ慣れてるんだと思います」
支援者は苦笑しつつも、背筋に寒気を覚えるような感覚を抱いた。
(……子どもの頃から、これが“普通”だったなんて。こんな天才、本当にいるんだな)
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夕暮れよりは少し早いくらいの時間。
本番が始まる。
タキシードにシルクハット姿の光が舞台に登場すると、芝生の広場全体がすっと静まった。
いつもはラフな格好でライブをする光がきっちりと装った姿──それだけで、この日の公演が特別であることを物語っていた。
観客の視線が一点に集まり、空気が張り詰める。
光はピアノ椅子に腰を下ろし、深く息を吸い込んでから、ゆっくりと指を鍵盤に置きつつ話しだした。
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「そういえばねぇ、今日ここに来る前に街をぐるっと回ってきたんだ。そしたら、こんな音が聞こえてきてさ〜」
チャルメラの旋律が軽快に流れる。
「ラーメン屋だ!」観客が笑う。
駅の発車ベルが和音に変わると、学生が「これ駅の!」と声を上げる。
移動パン販売車のメロディが混ざると、子どもが「パンの車!」と指差して跳びはねる。
そして焼き芋屋のラッパ。
「冬のやつだねぇ」お年寄りが笑い声をあげる。
広場全体が「あの音だ!」と大盛り上がりになった。
今日の観客は、いつものライブ慣れした光のファンとは違っていた。
“ピアノを守りたい”——そんな思いで集まった人たちが多く、会場には少し硬い空気が流れていた。
けれどその緊張も、"街のメロディ" がいくつか流れた頃には、すっかりやわらいでいた。
袖でマリ姐が小さくつぶやく。
「だから街を巡ってほしいって言ったのね……」
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「じゃあ今度は、みんなから直接リクエストを。好きな曲でも、クラシックでもいいよ」
少女が手を挙げる。
「ドビュッシーの《月の光》!」
光が静かに旋律を奏でると、夕暮れから夜へ移り変わる空気とぴたりと重なり、広場はしんと静まり返った。
「アラベスク!」と声が飛ぶ。
軽やかな旋律に、芝生に座る子どもたちが身体を揺らす。
「じゃあさ、今日のこの雰囲気を曲にするとしたら!」
唐突な無茶振りに、会場が「ええ〜!?」とどよめく。
「そういうのいいね!」
光は目を閉じ、深呼吸。
やわらかな和音が舞い上がり、子どもの笑い声のようなリズムが転がり出す。
チャルメラや駅ベルのメロディがさりげなく溶け込み、旋律は夕闇の空へと伸びていく。
気づけば観客の手から自然に手拍子が生まれ、次々に広がっていった。
ざわめきや呼吸音までもが音楽の一部になり、芝生全体がひとつの楽器に変わる。
最後の音が静かに消える。
一瞬の沈黙を破り、爆発するような拍手と歓声が広場を包んだ。
袖の観覧者は呆然と立ち尽くし、胸の奥でつぶやく。
(さっきの冗談みたいなリクエストが……どうして、こんな奇跡になるんだ)
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光はふっと笑う。
「最後の一曲はね。このピアノのことを最初に話してくれた人に、“この街の人みんな、小さな子からお年寄りまで歌える歌ってありますか?”って聞いたら、この曲を教わったんだ。みんな歌える?」
イントロが流れる。
それは小学校の教科書にも載っていて、誰もが声を合わせられるような、単純で素朴で、それでいてあたたかい曲だった。
この場にふさわしい歌であり、この街の人にとっては歌えない者などいなかった。
なぜならば、この街出身の作曲家が生涯に残した名曲のひとつであり、人々の誇りそのものだった。
子どもたちは手を叩いて大盛り上がり、大人たちは感動で声を震わせ、老人は涙を流しながら口ずさむ。
芝生全体が一つの大合唱に包まれ、光は伴奏に徹した。
袖からその光景を見ていた雪は、目頭を押さえながらつぶやく。
「町全体が、ひとつになってる……」
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演奏が終わると、光はシルクハットを脱ぎ、ポケットからくしゃくしゃの一万円札を取り出して入れる。
それを舞台前に置き、にこりと笑った。
「今日で終わりにしたくないんだ。
でも、俺ひとりじゃここで終わっちゃうから、ちょっと手伝ってくれると嬉しい。
この帽子に“気持ち”を入れてくれたら、このピアノもまだ頑張れると思う。
あとね――入れてくれた人は、一音だけ鳴らしてって。
置いてかれると、寂しがるタイプだからさ。」
そう言ってから、最後まで大きく手を振りながら舞台袖に消えていく。
観客から笑い声が起き、広場がまたあたたかさに包まれる。
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人々は最初は恐る恐る、次第に列になり、ゆるやかに前へ出て、帽子にお金を入れ、ピアノに触れていく。
子どもが「ドレミ」と叩き、学生がクラシックの一節を響かせ、主婦が童謡を一フレーズ。
「楽しかったねぇ」
「夢のような時間だったね」
「町の音もクラシックもやってくれたね」
温かな声が芝生に残り、スタインウェイは人々の温もりをその身に宿した。
雪がぽつりと。
「音が残っていくって、こういうことなんだ」
シルクハットに積もる紙幣と硬貨。
そして最後に、小さな子どもの手が鍵盤に触れる。
やわらかな和音が広がり、夜の広場を包み込んだ。




