翻訳者・黒川遥――もうひとつの舞台袖
一方その頃。
都内の自宅にある防音の作業部屋。壁には吸音パネルが並び、机の上には大型モニターと譜面ソフト、MIDI鍵盤、モニタースピーカーが整然と置かれている。
その前で、黒川遥はヘッドホンを深くかぶり、録音データに耳を澄ませていた。
流れているのは、ツアー初日の高音質録音。
画面上で波形を何度も巻き戻し、MIDIキーボードを叩いて音を拾い、譜面ソフトに入力していく。
だが、その作業は思っていた以上に過酷だった。
「……転調、またか。三回……いや四回?」
小さく舌打ちしながら、再生カーソルを戻す。
ボヘミアン・シンフォニー。
最初は通常のイントロからワンコーラス。ここまではスムーズだった。
だが光はそこから急旋回するように音を操り、フレーズを次々に転調させる。三度、四度、五度……。
「わからない……っ。なんで繋がるんだ、これで……」
譜面に音符を置いては削除し、置いては削除し、画面が何度も白紙に戻る。苛立ちで肩に力が入り、指が強くキーを叩いた。
けれど、その苛立ちの裏には震えるような感情も混じっている。
(こんなの、誰も再現できない……でも、だからこそ、すごいんだ)
ありえない進行だ。音楽として常識外れもいいところ……それなのに、その自由さが奇跡的なバランスで美しさに変わっている。
私なんかじゃ逆立ちしても出てこない発想。ほんの少しの悔しさと、どうしようもない憧れ。そして胸を打つ感動が込み上げてくる。
息を吐き、再び再生を押す。
軽やかな三拍子のワルツ風、そしてクラシックのように壮大な展開。
追い込まれながらも、譜面は少しずつ完成に近づいていった。
♦︎
気がつけば、外から小鳥の声が聞こえ始めていた。
時計は夜明けを示している。
「……やば。気をつけなきゃ。またマリさんに怒られちゃう」
呟いて笑い、伸びを一度だけしてから、またモニターに向き直る。
初日だからと気合いを入れすぎて、結局フルセットを二日がかりで全部採譜してしまった。
本当は一日で切り上げるつもりだったのに、「ここまでやったらキリがいい」と粘った結果、二日目は徹夜に。
徹夜は身体に悪いとわかっている。それでも、音を残すことをやめるわけにはいかなかった。
やがて数時間後。ようやく最後の一曲を書き上げ、PDFに書き出す。
その瞬間、肩から力が抜け、深い疲労と同時に小さな達成感が胸を満たした。
「……ふふ。最初の頃と、やってることは結局同じだなぁ」
光がまだネットで配信を始めたばかりの頃。深夜にこっそり画面を開き、流れてくる音を必死に採譜して――恐る恐るDMに送ってみた。
あの時は返事が来るかどうかさえ分からなかった。
違うのは、今はその譜面を世界中のファンが待っているということだけ。
♦︎
公式サイトに初日公演の採譜が公開されると、SNSは騒然となった。
『え、初日公演の楽譜アップされてる!?』
『もしかして、毎公演を楽譜化してくれる……?』
『チーム光やば』
『譜面みたけど鬼むずすぎて草。なんだこれ。ずっと気分で転調か変拍子してて笑ってる』
『いやこれ採譜する人もチート』
『これ、全部集めたら作品集になるのでは?』
『ツアー終了後に楽譜を出してほしい!!!』
予想もしなかった形で、初日の夜が再び共有され、ファンたちは驚きと喜びに沸いた。
その反応をスマホでこっそり覗き、遥は静かに微笑む。
(……舞台に立てるのは彼だけ。でも、私の役割はここにある)
そう心の中で呟き、再び机に向かう。
今日もまた、新しい録音が届くのだから。
——————
そのSNSの反応を、実は詩音もこっそり眺めていた。
「……楽譜集、ありですね」
小さく呟き、唇に笑みを浮かべる。
ファンの熱を次の形に変える――それもまた、彼女の役割だった。




