第174話 雪と詩音
夜。
人の少ない通りにある、男性認定マーク付きのカフェ。
雪がこの店を指定したのは、意図的だった。
二人が初めて言葉を交わした場所。
それでいて、今日の呼び出しは――仕事ではない。
詩音は、珍しく手ぶらだった。
資料も、タブレットもない。
仕事の延長ではなく、個人的な話だと分かっていたからだ。
雪が詩音を、こうして一対一で呼び出すのは、これが初めてだった。
⸻
向かい合って座り、
飲み物が運ばれてきてから、少しの沈黙。
雪が、先に口を開く。
「ねえ、詩音さん。
ちょっと、真面目な話してもいい?」
「……はい。大丈夫です」
「たぶんね。
今の光って、“元気がない”んじゃないと思うんだ」
一拍置いて、言葉を選ぶ。
「やりたいことがない、っていうより。
やりたいことの前に、
余計なものが多すぎる感じ」
詩音は視線を落としたまま、静かに聞いている。
「……正直に言うね。
“光の全部を一人で支える”ってのは、
私にはできないと思ってる」
短い沈黙。
「そばにいて、寄り添って、
光が光でいられるように願うことはできる。
元気がなくなったら、
一緒に歩いたり、眠ったり、
受け止めることもできる」
小さく息を吐く。
「でも、何かを動かしたり、
現実と渡り合ったりする力は……
私にはない」
顔を上げる。
「今みたいに、
光の前にたくさんの“役割”や“期待”が積み上がって、
身動きが取れなくなったとき。
前に進ませてあげられるのは、
きっと私じゃない」
しばらく、言葉のない時間。
「でもね。
詩音さんならできるかなって」
静かに、確信を込めて。
「現実を整える力。
道を作る力。
光が行きたい場所へ、“橋”をかけてあげられる力」
一拍。
「だから……お願い。
私と一緒に、光を支えてあげてほしい」
⸻
「……」
しばらくして、ぽつりと。
「光さんの“仕事”の隣に立つことには、
迷いはありませんでした。
そのために育てられてきた人間ですし、
僭越ですけど、
それをやるための力だけは、
身につけてきたつもりです」
少しだけ、視線を落とす。
「でも……
“私生活の隣”に立つ資格だけは、
ずっとないと思っていたんです」
雪は黙って聞いている。
「雪さんと光さんの間にある特別な空気感。
あんな空気を、私と光さんの間で作ることは
到底できないなって。
だから、無遠慮に踏み込むことだけは、
絶対にしたくなくて。
……でもそれも言い訳で、
ほんとは、踏み込む勇気がなかっただけです」
雪は、少しだけ目を細めた。
「……ねえ、詩音さん。
一応、聞くんだけど。
...光のこと、好きだよね?」
一瞬、言葉を失ってから、
小さく頷く。
「……はい」
続けるように。
「光さんのプライベートは、
雪さんだけの場所なんだと思ってました。
私は、仕事で支えられればいいって。
それ以上を欲しがるのは、
違う気がして……
自分を抑えてたんです」
声が、わずかに揺れる。
「でも、やっぱり好きだから……
他の人に行くこともできなくて」
⸻
雪は、ふっと息を漏らした。
「詩音さんさ」
「……?」
「意外と不器用で、
可愛いところあるんだね」
「……っ」
一呼吸置いて、少しだけ真面目な顔になる。
「私ね、見知らぬ誰かが急に
『光の新しい彼女です』なんて出てきたら……
さすがにちょっと嫌だけど」
苦笑して続ける。
「でも、詩音さんが光をどう想って、
今までどれだけ支えてきたかは、
ちゃんと見てて、少しは分かってるつもりだよ。
私ね、"詩音さんはすごいなぁ..."っていつも思ってた」
少し照れたように。
「……ふう。
めずらしく、いっぱいしゃべっちゃった」
雪はストローをくるくると回しながら、はにかんだ。
⸻
詩音は、しばらく黙ってから、ゆっくり息を吐いた。
「……ありがとうございます。
正直に言うと、
まだ、迷いはあります。
光さんと雪さんの間に、
自分が入っていいのかも……」
でも、小さく微笑む。
「私からも、
光さんに話をしてみます。
できる範囲で、逃げずに」
「うん。
いったんそれでいいと思う」
⸻
少し間が空いてから、
雪がふっと思い出したように言う。
「そういえばさ」
「……?」
「詩音さんのお母様から、
お見合いとか、政略結婚?みたいな話が来てて
全部断ってるでしょ。
この前ちょっとだけ、聞いちゃって」
「……一度だけ、お見合いに行きました」
「え」
「すごく綺麗な男性でした」
少し困ったように息を吐く。
「でも……
つい光さんと比べちゃって」
「あー…」
雪が詩音を見ながら苦笑する。
「その比較はさ…
ちょっと無茶じゃない?」
「……ですよね、私もそう思います」
詩音も雪を見て、同じように苦笑した。
二人の間に、
ようやく少しだけ、軽い空気が流れた。
いつの間にか、二人のカップは空になっていた。
雪は空になったカップに視線を落とし、
それから、詩音を見る。
「……まだ、話し足りないよね」
詩音は、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせてから、
小さく笑った。
「……はい。
もしよければ、もう少しだけ」
そう言って、
空になったカップに視線を落とす。
「今度は、温かいのを頼みましょうか」
雪は少しだけ考えてから言った。
「じゃあ、私も同じのにしようかな」
⸻
しばらく他愛ない話をした後に、
詩音は、少しだけ間を置いてから席を立った。
表情は柔らかだったが、どこか考え込むような色が残っている。
「……一度、頭を整理してから話してみます」
それだけ言って、カフェを出ていった。
ドアが静かに閉まる。
しばらく、雪はそのまま座っていた。
カップの中の飲み物は、
もうほとんど冷めている。
それを一口飲んでから、
小さく息を吐く。
「……これで」
誰に向けるでもなく、ぽつりと。
「光の状況が、
少しでも良くなるといいんだけど」
窓の外を、ぼんやりと眺める。
詩音がどんな顔で話すだろう、と考える。
どんな言葉を選ぶだろう、と想像する。
その先にある結果については、
特に思い浮かべなかった。
雪にとって大事なのは、
“誰が隣に立つか”ではなく、
“光がちゃんと息をできているか”だった。
ふっと、小さく笑う。
(……私、自分からこんなに動くこと、
なかなかないんだけどな)
「詩音さん、お願いね」
胸に溜まった息を吐きながら、
カフェのソファに沈み込む。
コーヒーを、もう一口。
夜のカフェの静けさの中で、
喋りすぎて少しだけ熱を帯びた頬に、
冷めたコーヒーがちょうどよかった。




