第173話 雪と光、深夜のコンビニ
深夜、リビングで光がふいに立ち上がった。
「……ちょっと、外出たい」
理由は言わない。
雪も、聞かなかった。
代わりに、
玄関に置いてあった黒のベースボールキャップを手に取り、
マスクと、黒いコートをまとめて差し出す。
「はい」
光は黙ってそれを受け取る。
二人とも、
もう慣れた動きだった。
⸻
夜の道は、静かだった。
目的地はない。
会話もない。
ただ、手を繋いで歩く。
街灯の下を通るたび、
光の影が、少しだけ伸びて、また戻る。
雪は、その歩幅に合わせて歩く。
急かさない。
立ち止まらせもしない。
やがて、
なんとなく、近所のコンビニに入った。
自動ドアの音だけが、やけに大きく響く。
光は、飲み物の棚の前で立ち止まり、
一本、ペットボトルを手に取る。
ラベルを見る。
少し考える。
そして、戻す。
お菓子の棚。
アイスケース。
同じことを、繰り返す。
雪も、隣を歩きながら、
もうカゴは持たない。
光に特に欲しいものがないことは、既にわかっていた。
そしてやはり光は、
何も買わずに店を出た。
⸻
今度は、少し先のスーパーに入る。
夜遅く、
人の少ない店内。
二人で、通路を一周。
もう一周。
惣菜コーナーの前で、
光が一瞬だけ足を止める。
だが、何も取らずに歩き出す。
レジを通らず、
そのまま外へ。
冷たい空気が、頬に当たる。
「……帰ろっか」
雪が言うと、
光は小さく頷いた。
⸻
家に戻り、
シャワーを浴びて、
灯りを落とす。
ベッドに並んで横になる。
しばらくして、
雪が小さく訊く。
「……今日も、しよっか」
光は、なんとなく雪を見たまま答えた。
「うん……」
雪は、光を優しくベッドに押し倒した。
それ以上、言葉はなかった。
⸻
やがて、横で眠る光の呼吸が、ゆっくりと整っていく。
雪はベッドに起き上がり、
眠りに落ちた光の頬を、そっと撫でた。
——これで、三日目だった。
深夜に外へ出て、
特に目的もなく歩き、
コンビニやスーパーをうろついて、
結局、何も買わずに帰ってくる。
そして、雪に縋るようにして、
行き場のない力を、すべて吐き出す。
それは求める動きではなく、
逃げ場を探すみたいな、必死さだった。
それきり、
光の体から、張りつめていたものが抜けていく。
雪の腕の中で、
ようやく呼吸が深くなり、
そのまま、眠りに落ちるのだ。
いつもの光は、
雪との時間を、ちゃんと「会話」にしてくる。
触れて、確かめて、
互いの温度を行き来させて、
それで満足そうに眠る。
でも、今は違った。
————
マリ姐は言っていた——
『元気づけてあげて』と。
でも。
雪の目には、
光のエネルギーが足りないようには見えなかった。
眠れていないわけでもない。
食事を拒んでいるわけでもない。
歩く足取りも、普段と変わらない。
むしろ逆だ。
余っている。
ありすぎる。
—— ああ、これ。
元気がないんじゃない。
出口が、見つかってないだけだ。
だから、夜のあの行動に繋がっているのだろう。
歩く。
触れる。
そして、眠る。
雪は、はっきりと自覚していた。
自分は、
光が弱ったときに支えて立ち直らせることは、
—— たぶん、できる。
寄り添って、一緒に歩いて、
受け止めて、眠らせることも —— できる。
でも、
光を取り巻く期待や役割を、
一つずつほどいてあげる力はない。
——これは、
私が横についてても、
解決する種類の問題じゃない。
雪は、
ある一人の顔を思い浮かべる。
光を想っていて。
同時に、現実を動かす腕力も持ち合わせている人。
深夜の静けさの中で、
雪は、ひとつ決意を固めていた。




