男の子がピアノ教室に来ると起きる事件
♦︎雪視点
私はずっと前から、毎週のように近所の小さなピアノ教室に通っていた。
きっかけはずっと前――まだ幼稚園の頃、近所の集まりで見た光の姿だ。
小さな体で一生懸命にピアノを弾いて、楽しそうに音を鳴らしていた。
その姿が胸に残って、どうしても「私も弾いてみたい」と思ったのだ。
だから母にお願いして、習い始めていた。
けれど私は、特別に上手でもなかった。
発表会で目立ったこともない。
ただ淡々と練習して、先生に言われたことをこなしてきただけ。
だから、ここは私にとって“静かにいられる場所”だった。
女の子ばかりの教室で、私はその中の一人にすぎなかった。
――そこに、光が来ると聞いた。
あの音楽会のあと。全校を驚かせたあの演奏を経て、彼はここに通うことになった。同じ教室に。私の知っている、あの教室に。
ドアが開く音がして、彼が入ってきた瞬間。胸がぎゅっと縮む。
(……ほんとに来たんだ)
近所に住む幼馴染。でも今は、私の遠くに行ってしまった人。教室の女の子たちが「男の子が来た!」とざわめき、光の周りに集まっていく。
私はただ、端の席でピアノに指を置いたまま、彼の姿を横目で追っていた。
♦︎光視点
ピアノ教室に通い始めて数回。思った通り、ここも女の子ばかりだった。
「ねえ、ほんとに弾けるの?」「楽譜も読めないくせに」
最初は冗談交じりのからかい。けれど次第に、わざと楽譜を隠されたり、演奏中に茶々を入れられたりするようになった。
光はため息をついた。
(くだらねぇ……楽譜なんてなくても弾けるし。……もう、やめてもいいかな)
その日、大事にしていた楽譜を破かれた。
光は無言で紙を丸め、ゴミ箱に放り込む。
(あーあ、やってらんねぇ)
そう思いながら音楽室に入ると、ピアノの下に何かが潜んでいた。
♦︎再会
「……お前、何してんだ」
覗き込むと、そこにいたのは雪だった。
彼女は膝を抱え、小さな声で答えた。
「ここ……誰も来ないから。落ち着くの」
光は思わず鼻で笑った。
「変なやつ」
そう言って、自分も潜り込んだ。二人で並んで座り込む。沈黙が落ち、やがて光が口を開いた。
♦︎くだらない会話
暗がりの中、二人は膝を抱えてぽつぽつと話し始めた。
「この前さ、先生、授業中に居眠りしてたよな」「……見てたの?」「だってチョーク持ったまま舟漕いでたし」
二人して思わず笑う。
「給食で牛乳こぼしたの、あれお前だろ」「やめてよ!バレないようにしてたのに……」
雪は恥ずかしそうに抗議するが、声は少し弾んでいた。くだらない話なのに、気づけば笑い合っている。久しぶりに、昔の距離に戻ったような気がした。
♦︎雪の勇気
笑いが途切れたあと、心臓の音が大きくなる。私は勇気を出して口を開いた。
「……あのね、私、この歌が好きなの」
そして小さな声で歌い出した。
「きらきらひかるおそらのほしよ――」
光が目を瞬かせ、それから椅子に戻る。
「ふーん、せっかくなら弾いてみよっか」
指が鍵盤に触れ、童謡の旋律が流れ始めた。
♦︎二人の合奏
光のピアノに導かれて、私はおそるおそる声を重ねた。たどたどしく、小さな声。けれどピアノが支えてくれるから、不思議と最後まで歌えた。
「きらきらひかるおそらのほしよ――」
そのとき、不意に光の声も重なった。柔らかく、私より少しだけ低めの声。
驚いて横を見ると、光は何でもない顔で歌っていた。
二人の声とピアノの音が混ざり合う。合唱のときにはいつも埋もれてしまう私の声が、今ははっきり響いている。彼と二人きりだからこそ、こんなに綺麗に聞こえるのだと気づいて、胸がいっぱいになった。
♦︎光視点
(……思ったよりいい声だな)
鍵盤を叩きながら、光は横目で雪を見た。合唱では小さくて聞こえない声。けれど、こうして二人きりで聴くと、透き通るように綺麗だった。
歌い終えたあと、光はふっと笑って言った。
「小さいけど……綺麗な声してるじゃん」
雪の頬が一気に赤く染まる。彼女はうつむき、唇を震わせていた。
♦︎雪視点
(……やめてほしくない。この人の音がなくなるのは、いやだ)
胸の奥で、強い思いが膨らんでいく。さっきまで「近づいちゃいけない」と思っていたのに。彼の言葉と音楽が、私をもう一度隣へと引き寄せていた。




