第117話 スタジオ・セッション ―初めて“音の色”を見た日―
都内のレコーディングスタジオ。
ガラスの向こうで、光がピアノを弾いていた。
流れているのは――「見上げれば」。
やわらかな旋律が、空気を撫でるように広がっていく。
音の粒が光となり、空間の隅々まで漂っていた。
マリ姐はガラス越しに腕を組んで光を見つめ、
雪と遥は譜面を確認し合っていた。
詩音は目を閉じたまま、静かに音を聞いている。
そのとき、控えめなノック音。
「し、失礼します……水野真白です。きょ、今日は……見学を、させていただけると……伺いまして……」
マリ姐が立ち上がり、ドアを開ける。
「あなたが水野さんね? ようこそ。今ちょうど録音中だから、静かに聴いててね」
「は、はい……すみま——」
言葉の途中で、真白の声が震えた。
ガラスの向こうから流れてくる音が、胸の奥を掴んで離さなかった。
目の前で紡がれているのは、画面越しで何百回も聴いたあの曲。
それが、いま、自分のすぐ前で息をしている。
足が止まり、喉が塞がる。
息を吸うことすら忘れて、ただその音を聴いていた。
涙が一粒、頬を伝って落ちた。
それは一筋では終わらなかった。
次の音が鳴るたびに、また一粒――
止めようとしても、こぼれていった。
マリ姐が眉を上げる。
「……ちょっと、大丈夫?」
真白は慌ててスケッチブックを胸に抱き、深呼吸をした。
「す、すみません……初めて……直接聴いて……感動してしまって……」
声が震え、言葉が息に変わった。
それでもどうにか笑顔を作ろうとするが、涙は止まらなかった。
雪がそっとハンカチを差し出した。
「うん、気持ち、わかる気がします」
真白は受け取り、何度も小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます……」
ガラスの向こうで、光はまだピアノに向かっていた。
イヤモニをつけたまま、音の余韻を確かめている。
外の様子には気づかないまま、最後の和音を弾ききった。
静寂。
音が消え、空気だけが残る。
光は軽く息をつき、
「……よし、次の曲いくよー」
と、何気なく言った。
その瞬間、真白は涙を拭いながら顔を上げた。
新しい音が流れ始める。
赤と金の旋律――それは、彼女の瞳に“輝く色”として映った。
まぶしくて、あたたかくて、胸の奥が焼けるようだった。
誰もその表情に気づかなかった。
ただ雪だけが、横目でそっとその横顔を見つめていた。
⸻
やがて曲が終わり、光がブースのドアを開けた。
「うん、今の感じいいかも……あ、こんにちは」
真白がびくっとして、スケッチブックを抱きしめ直す。
目元はまだ赤く、涙の跡が光を反射していた。
光が少し首を傾げる。
「……大丈夫?」
マリ姐がすかさず答える。
「感動したんだって。初めて生で聴いたから」
「そうなんだ」
光はにこっと笑って、自然に言った。
「ありがとね」
その一言に、真白は胸の奥が熱くなるのを感じた。
何度も画面越しに聞いた声が、いま自分に向けて発せられている。
「は、初めまして……水野……真白と申します……」
「うん、よろしく!」
光はためらいもなく右手を差し出した。
「会えて嬉しい!」
マリ姐が苦笑しながらフォローする。
「ごめんね、うちの光、いつもこんな感じなの」
「い、いえ……その……」
真白は視線を泳がせたまま、小さく手を握った。
⸻
光がスマホを取り出す。
「そういえば、この前の会議で見たやつ、スクショ撮っててさ。
送ってもらったやつはこれ、“ほどける夜”でしょ? これが“星空”、で……これ“童謡JAZZ”のやつ!」
「……っ……はい……そうです!……」
「やっぱり! 音の雰囲気、まんま出てるね!」
「……あ、ありがとう……ございます……」
少し間をおいて、真白がそっと口を開く。
「……いま弾いていた曲……ルナリアさんを……イメージ、してるんですか……?」
「え、なんで分かったの!? すご!」
「……赤と……金の……光が、見えました。……まぶしくて……太陽、みたいで……」
光が目を瞬かせる。
「ん? 音に色が見えるの?」
「……はい。あんまり……信じてもらえないんですけど……でも、嘘ではないです……」
「へぇ……やっぱりそうなんだ、なんか面白いね。それ、メロディ変えたらその感じも見える?」
「……たぶん、見える……と、思います……」
光の瞳がぱっと輝いた。
「じゃあさ、ちょっと試してみよう! 今のメロディとコード、少しだけ変えてみるね。色がどう変わるか見てて」
「……あ、はい……」
再び音が流れる。
今度はテンポを少し落とし、リズムを波のように揺らす。
音の響きが変わるたび、真白の視線もわずかに揺れた。
「……あ……今度は、少し青が……混ざってきました……」
「おっ、やっぱり! 俺が入るイメージにしてみたんだ」
「……青……?」
「うん。ルナリアさんが太陽で、俺が青空。混ざったら、朝になるじゃん」
真白は一瞬だけ考え、それから小さく笑った。
「……夜明け、みたいです……」
そのやり取りの間、スタジオの空気は止まっていた。
誰もが息をすることすら忘れていた。
雪がぽつりと呟く。
「……いまの、なに……」
詩音は言葉を探すように小さく息を吐いた。
「説明できないですね……でも、たぶん――通じ合ってました」
マリ姐も腕を組んだまま、苦笑に近い息を漏らす。
「……ちょっと、やばいわね……」
誰も笑わなかった。
常人の理解を超えた“通じ合い”を、ただ見ていた。
そこに漂う何かが――美しくて、少し怖かった。
遥が震える声で。
「……なんだか……光くんが二人いるみたい……」
マリ姐が今度こそ苦笑する。
「それは本当に困るわ…」
真白がスケッチブックを胸に抱きしめたまま、少し迷うように言った。
「……あの……これ……本当に仮案、なんですけど……」
ページを開いた瞬間、空気が変わった。
そこには、夜空に浮かぶステージ、海岸線を結ぶ街の灯、
観客の手元で輝く無数の光――
それらが一筋の旋律のように繋がり、遠くの空へと流れていた。
ツアーの始まりから終わりまで、すべての景色が一枚の中で呼吸している。
ステージ、道、空、海。
そのすべてが「音」と「時間」の形をしていた。
雪が息をのむ。
「……これ……ツアーそのものですね」
詩音が小さく頷く。
「曲の旅路を、ひとつの絵で表現してる……すごい」
マリ姐が口を開いた。
「この絵をそのまま採用するかはわからないけども、ぜひジャケットをお願いしたいわね。」
光が笑いながら言った。
「俺よりも全然上手いし、これでいこうよ!」
マリ姐が激しく言う。
「誰が描いてもあんたよりは上手いわよ!!!」
「えぇ!? そうかなぁ!?」
ようやく空気がほぐれ、笑い声がスタジオを満たした。
――その日、光の音が“みんなの目に見える”ようになる第一歩が、静かに刻まれた。




