舞台裏 ― 世界の支配者。その仮面の下にあるものは
一週間前、横浜の夜。
あの圧倒的なステージの裏で、ルナリアもまた――静かに震えていた。
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ライブが終わり、観客の歓声がまだ遠くに残響している。
ステージ裏ではスタッフが走り回り、モニターにはエンドロールが流れていた。
ルナリアはその中心にいて、
いつも通りの笑顔で関係者に感謝を告げ、軽口を交わしていた。
完璧なスターの姿。
誰一人として、彼女の呼吸がいつもより少し乱れていることに気づかない。
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控室のドアが閉まり、アンと二人きりになる。
途端にルナリアは力が抜けたように椅子へ腰を落とした。
ハイヒールが床にコトンと転がり、背もたれに沈み込む。
肩で息をしながら、額を押さえる姿は、いつもの堂々とした“世界の女王”とは似ても似つかなかった。
アンがそっとタオルを差し出しながら首をかしげる。
「どうしたんですか? あんなに光くんを煽って。
それにそんなに疲れ果てて……いつものあなたらしくもない。」
ルナリアは乾いた笑みを浮かべた。
「……私、光に見せつけられたかしら?」
アンはわずかに目を見開き、微笑む。
「あら。そんなことを私に聞くなんて本当に珍しい。
いつも通りどころか、正直いつも以上の出来でしたよ。
光くんも、スタッフも、観客も、みんな圧倒されていました。」
「それならよかった。」
ルナリアは息を吐く。
「一応、世界のトップに立っている先輩として、無様なところは見せられないからね。」
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静かにタオルで頬を拭いながら、
ルナリアはふと、遠くを見るような目をした。
「……私ね、自分のことを“センスは二流”だと思ってるの。」
アンは思わず苦笑する。
「また始まった。あなたが二流なら、世界は五流以下ですよ。」
「本気よ。」
ルナリアは唇の端だけで笑った。
「だからこそ、最高に準備して、最高に鍛えて、最高に計算する。
そうしてやっと、ひとつの“世界”を作り上げられるの。
でも——今日、わかったの。」
彼女の指が、汗で少し濡れた髪を耳にかける。
「あの子のセンスは異次元。
音が生まれる瞬間の判断も、間の取り方も、呼吸も。
鍛錬も準備も理屈もないのに、感覚だけで世界の温度を変えていく。
私の視界の、少し下あたりまでかな。すでに手が届いてた。
もう、背中に息がかかるくらいのところまで。」
アンが小さく息をのむ。
「光くんが、そこまで……?」
「ええ。しかもまだまったく鍛えていない。
配信とライブを繰り返してるだけ。楽譜もろくに読めないし、
疲れてきたら楽なアレンジに逃げるし。
……まるで、だいぶ昔の私みたい。」
ルナリアは小さく笑い、
椅子の肘掛けに頭を預ける。
「久しぶりに“脅威”って感じたわ。
でもそれ以上に、あの子が鍛えたらどうなるのか、想像するだけで震えるの。
きっと——いま以上に頭の中で鳴っている音を、そのまま世界に出せるようになる。
そうなったら、もう誰にも止められない。」
アンは肩をすくめて、冗談めかす。
「なるほど。じゃあ、昔のあなたのように——鍛えてもらうということですね?」
ルナリアが微笑む。
「さすが、言う前からよくわかってる。
すぐに、とは言わないけれど……手配しておいて。」
「はい、わかりました。日本風に言うと、“敵に塩を送る”ってやつですね。」
「ふふ、だいぶ日本語が上手になったじゃない。
でも違うのよ。」
ルナリアの瞳に、再びステージの光が宿る。
「私はあの子にはやく“世界一位の歌姫の隣に並ぶ存在”になってほしいの。
世界一の歌姫と、その横で同じクオリティで音を創る、世界初の男性アーティスト。
……とっても、そそる構図だと思わない?」
アンは小さく笑い、ノートにメモを取る。
「舞台としても、物語としても完璧です。
——それにしても、二流とか言っておきながら、
自分が世界一位なことは疑わないんですね?」
「ええ、私は“ルナリア・エストリア”だからね。」
アンはくすっと笑い、タブレットを閉じた。
「ふふ。調子、戻ってきてよかったです。
では——手配しておきます。」
ルナリアは目を閉じ、ソファの背に頭を預けた。
「頼んだわ。」
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静寂。
外ではまだ観客の名残の歓声が響いている。
ルナリアは瞼の裏に、光の姿を思い浮かべた。
あの無邪気な笑顔と、未完成な即興。
まだ粗削りで、でも恐ろしいほどの生命力を持つ音。
唇がかすかに動く。
「……はやく来てね、光。
鍛えて、並んで、一緒にあの先を見に行きましょう。」
そして、微笑んだ。
「ふふ……楽しみね。」
———
世界を揺らした夜は、
二人の心にたしかな跡を残した。
それこそが——次の音を生む、最初の静寂だった。
同じ夜の沈黙の中で、光もまたひとつの答えを見つけていた。
“音楽をやる意味”を胸に抱き、立ち止まっていた場所からそっと一歩を踏み出した。




