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牛丼と生卵と自由の味

 夜のスタジオ打ち合わせが終わった直後。

 ルナリアがストレッチをしながら、勢いよく宣言した。


「お腹空いたわ! 光! あなたの“よく行くお店”に連れて行きなさい!」


 光は少し考えてから、笑みを浮かべる。

「……じゃあ、牛丼屋でもいい?」

「ギュウドン? いい響きね!」


 そう言うが早いか、ルナリアはもう出口へ向かっていた。

 光も笑いながらその後を追う。


 少し後ろで、マリ姐がそっと詩音の肩に声をかけた。

「詩音さん、今日は私と光だけで行こうと思う。

 お店が小さいから、大人数だとご迷惑になっちゃう」


 詩音はすぐに頷き、穏やかに微笑む。

「了解しました。みんなには私から伝えておきます。……光さんとルナリアさんをよろしくお願いします。」

「ありがと。すぐ戻るわ」


 マリ姐は軽く苦笑してから、前を行く二人を目で追った。

 すでに光とルナリアは、出口のドアを開けながら盛り上がっている。


 その少し後ろで、アンが早足で追いつきながら言った。

「急にすみません、今回のお食事代は私たちの方で持ちますので……」

 マリ姐は穏やかに微笑んで応じた。

「まぁ、それではご馳走になります。ありがとうございます」


 アンが安心したように小さく頷く。

 二人が追いつく頃には、前方ではすでに光とルナリアが歩き出していた。



 そのまま4人は、ごく近所にある男性認定マーク付きの牛丼チェーンへ向かった。

 店内は男性のプライベートを守るため、スマホ使用禁止・撮影禁止。

 セキュリティも常駐しており、客層は落ち着いている。

 海外スターが来ても、騒ぎにはならない――そういう判断だった。


 ルナリアと光が自動ドアをくぐった瞬間、店内の空気がふっと静まった。

 深夜の柔らかな照明の下、数人の客が箸を止めてこちらを見たが、

 誰も声を上げたり、スマホを構えたりはしない。

 ただ、驚きと敬意が入り混じったような視線が一瞬だけ交わされ、すぐにまた食事へ戻っていった。


 ルナリアはその様子を見て、感心したように微笑んだ。

「日本は……本当に礼儀正しいわね」

 アンも静かに頷く。

「文化レベルが高いというか……落ち着いてますね」


 光とマリ姐は顔を見合わせた。

「ん? なにが?」

 ルナリアは肩をすくめて笑う。

「いいの。なんでもないわ」


 カウンター席に並ぶと、店員が明るく声をかけた。

「いらっしゃいませ!」

 ルナリアは即座に手を挙げる。

「ギュウドンを4人分ください!」


 光が苦笑した。

「牛丼が何かわかってる?」

「食べれば分かるわ!」

 その即答にマリ姐が思わず吹き出す。

「ルナリアさんって、いつもこんな感じですか?」

 アンが小声で答えた。

「はい……通常営業です」



 注文を終えて間もなく、湯気の立つ丼が運ばれてきた。

 アンが思わず声を上げる。

「は、早っ……!? まだ座って二分も経ってませんよ!」

 マリ姐が笑う。

「日本の“はやい・やすい・うまい”文化ね」


 ルナリアは湯気を立てる丼をじっと見つめ、恐る恐る一口すくった。

 その瞬間、目を見開く。

「……なにこれ! 薄い牛肉に、甘辛いタレ……こんなの初めて!」

 箸を止めて、思わず笑顔がこぼれる。

「シンプルなのに、完璧!」


 その横で、カウンターの奥から店員が声をかけた。

「光くん、今日もありがとね。はい、いつもの!」


 光はぱっと顔を上げ、にこっと笑った。

「わ、ありがとうございます!」


 その笑顔に、お姉さんの頬がわずかに赤く染まる。

「……あら、もう、いつもサービスしすぎかしらね」

 そう言いながら、小鉢に入った生卵をそっと差し出した。


 光は嬉しそうに受け取り、軽く会釈する。


 ルナリアが首を傾げる。

「光! それはなによ?」


 光は軽く笑って答える。

「生卵。これをかけると旨いんだ」

「生の……卵? おもしろいわ、試してみたい」


 光は卵を丼に落とす。

「こうやって混ぜて——」

 そして、自然に一口食べた箸を差し出した。

「ルナ、ちょっと食べてみる?」


 アンが絶叫する。

「え、それ、生卵……!? ってルナ! 食べちゃダメ……って、もう食べてるし!」


 マリ姐は額に手を当てた。

(男性が食べかけをあげるなんて……ありえないわ)


 だが、ルナリアは気にも留めず一口食べて、目を見開いた。

「……Heaven。」

 数秒の沈黙のあと、満面の笑みを浮かべる。

「これよ! これが“日本の自由”の味ね!」


 そのまま店員に手を上げた。

「Excuse me! 卵を追加で3つ!」

「え、3つ!?」アンが青ざめる。

「もちろんアンの分も!」

「えええ!?」



 食後。

 丼が空になり、テーブルの上に箸を置いたルナリアが満足そうに息をつく。

「……最高。ステージよりテンション上がったわ」

 光が笑う。

「だろ? しかもこれ、テイクアウトできるんだ」

「じゃあ決まりね!」


 勢いそのままにルナリアはカウンターへ向かい、スタッフ分を追加注文した。

「この味、みんなにも食べさせるわ! スタッフとバンドメンバー、全部で二十人分追加!」


 店員が苦笑しながらメモを取る。

 その間、4人は満腹の余韻に浸っていた。

 テーブルの上には、空になった丼と割れた卵の殻だけ。

 湯気の名残が、ほのかに甘い香りを残している。



 数分後。

 アンがレジで恐る恐る伝票を確認した。

 レシートには、牛丼二十四杯と生卵三つ。

 合計金額――11,600円。


 アンは真剣な顔で首を傾げた。

「……あの、すみません。これ、安すぎませんか?もしかして打ち間違いとか……? 追加の卵とか二十人前とか、全部入ってます?」


 マリ姐が少し上を向いて計算しながら答える。

「牛丼24人前でしょ...こんなもんよ」


 アンが絶句している背後で、光がさらりとルナリアに向けて言った。

「牛丼に豚汁もつけると美味しいよ」

 ルナリアが振り向いて叫ぶ。

「そういうのは早く言いなさいよ! また来なきゃじゃない!!」


 マリ姐が吹き出した。

「ほんとに気に入ったのね……」



 その数分後。

 黒く長いリムジンが、牛丼屋の前に静かに停まった。

 庶民的な店の明かりの前に、その車体はひどく場違いに見える。

 両手いっぱいに牛丼のビニール袋をぶら下げたルナリアとアンが、笑いながら乗り込んでいく。


 車が滑り出し、夜の光が窓を流れていく。

 湯気の残る袋の隙間から、ほのかに甘辛いタレの香りが漂った。



 さらにその数分後。

 とある匿名掲示板に、ひとつの書き込みが投稿された。


1 :名無しさん

いま牛丼屋にルナリアと男の子いたんだけど……!?

スマホ禁止の店だから写真はないけど、

食べ終わってすぐ外出てこれ打ってる。

両手いっぱいに袋持って、

見たこともない黒塗りの超長いリムジンに乗って帰ってった。

……たぶんホンモノ。



 小さな投稿が、ゆっくりと拡散を始める。

 そして――翌朝には「#牛丼ルナリア」というタグが静かにトレンドを駆け上がっていった。


 ──そしてここから、ルナリアとアンは連日のように牛丼屋で目撃されていくのであるが、

それはまた別の話。

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