おれの顔
「君……最近、顔が変わったね」
「えっ、ああ、ははは……」
会社の休憩所。コーヒーを片手にした課長が唐突にそんなことを言い出し、おれは曖昧な笑みで返した。
おそらく『頼れる顔つきになった』とか『一人前の風格が出てきた』みたいな好意的な意味ではない。課長の眉間に寄った皺が、コーヒーの苦味によるものなら話は別だが。
「君……頼むよ、ほんとに。まず心だよ、心」
「はい! ははは……」
課長はどうも昔ながらの精神論を信じて疑わないタイプらしい。いちいち真面目に受け止めていたら、こちらの神経が持たない。だからいつものように、適当に笑ってやり過ごすに限る。
そう思っていたのだが、その日を境に妙なことが起こり始めた。
別の同僚にも「なんか……雰囲気変わったよな」と言われ、さらに週末に大学時代の友人と飲みに行ったとき「お前、どうした? なんか怒ってるのか?」と真顔で訊かれたのだ。
気になって、自宅の鏡を覗き込んだ。目の下にうっすらとクマがあり、頬は少しこけて、表情は確かに疲れている。だが、いつものおれだ。少なくとも変わったというほどのものではない。
社会に出て数年。学生時代と比べれば老けたし、それなりに苦労も味わってきたとはいえ、年相応のはず……。
『いや、あんた、変わったよ。ちょっと怖いわ……』
「いやいや、母さん。それは画面越しだからだよ。光の加減とかさ。ほら、これでどうかな?」
少し気になったおれは、母親にビデオ通話で、さりげなく訊ねてみた。しかし、返ってきたのは追い討ちのような言葉だった。
『いやあ、やっぱり変わったよ。で、何? いきなり電話してきたと思ったら、それが用なの? ならもう切るよ。もうすぐドラマが始まるから』
「あっ、ちょっと――」
電話はあっさりと切られた。顔が変わったというなら、もう少し心配してくれてもいいだろうに。薄情な母親だ。
それもしても、ここまで人から顔の変化を指摘されると、さすがに気のせいでは済ませられなくなってきた。おれは不安に押され、ついに病院へ足を運ぶことにした。
「なるほど……顔が変わったと感じる、と」
「ええ、まあ、気のせいだと思うんですけど……そんなに変わりましたかね?」
「いや、私とは今日が初対面なので、以前のあなたの顔は存じ上げませんが」
「あ、それはそうだ! ははははは!」
空回り気味に笑うおれとは対照的に、医者は真剣な顔で黙り込んだ。やがて少し身を乗り出し「実は、こんな説があるんです」と話しを切り出した。
「人間の顔は、他人の記憶や印象によって変容することがあります。つまり、あなたの顔が周囲の人々の認識に引っ張られて、変わっているのかもしれません」
「え、は? そんなことありえないでしょ……」
医者は小さく首を振り、さらに続けた。
「たとえば、誰かがあなたの顔が“怖い”と感じたとします。すると、あなたの顔はその認識に引き寄せられて、わずかに変化し始める。さらに別の誰かが“怖い”と感じると、顔はそのように変化し、その感覚が人々にどんどん広がっていくうちに、やがて“怖い顔”があなたの新たな標準として定着していく。つまり、周囲の認識によって上書きされ続けるんですよ。特に恐ろしいのは、それが連鎖的に広がっていく点です」
唖然とするおれに、医者は「たまにあることなんです」と静かに付け加えた。冗談のつもりではないようだ。その表情には一切の軽さがなかった。
確かに、「かっこよくなったね」と言われれば、きりっと顔を引き締めるし、「優しいね」と言われれば自然と微笑んでしまうものだ。逆に「顔が怖い」と言われ続けた小学校の同級生が、中学で不良になり、最終的にはヤクザになったという話を聞いたことがある。
他人の目や言葉は、思っている以上にその人に影響を与えるのかもしれない。人間のあり方を変えてしまうほどの力が……。
「で、でも、じゃあ、おれはどうすればいいんですか……?」
「周囲の認識を安定させる必要があります。たとえば……そうですね、額に細いゴムを巻くとか」
「それって……『サッカー選手みたいだね』ってなりません?」
「かもしれません。でも、印象が固定されれば、連鎖は止まる可能性があります。いや、やっぱり弱いかな……」
「いや、ははは、そんなに真剣に考えなくても……やっぱりありえないでしょ……」
「しかし、今のままだと非常に不安定ですよ。実を言うと、私も今、あなたの顔がうまく認識できなくなってきているんです」
「そんな馬鹿な……」
帰宅後、鏡を覗いても、やはり変化しているようには見えなかった。
だが、日が経つにつれ、周囲の反応は確実に変わっていった。
会社では挨拶しても返事が返ってこなくなり、視線を合わせようとすると、あからさまに体ごと避けられた。
通勤中、すれ違う人たちに凝視されたかと思えば、息を呑み、さっと目をそらされた。
そしてついに、おれ自身も思い始めた。
――おれの顔って、こんなんだったか?
他人の認識に依存した結果、おれの顔は常に変容し続け、誰の記憶にも定着できなくなっていた。固定されないことで違和感を生み、それがさらに他人を怯えさせていたのだ。
そしてある日、街を歩いていたとき、ショーウィンドウに映った自分の顔を見た瞬間、おれは確信した。
そこにあったのは焦点がどこにも定まらず、芋虫のように蠢く、おぞましい顔だったのだ。
「あ、ああああああ!」
おれは叫び、拳をショーウィンドウに叩きつけた。ガラスが鈍い音を立てて割れ、周囲から悲鳴が上がった。手から血を流しても、おれは止まらなかった。
ガラスの破片を拾い上げると、口元が自然と緩んだ。なぜかはわからない。ただ、おれは笑っていた。
止めに入ろうとした通行人を突き飛ばし、おれはその破片を自分の顔へ――。
『続いてのニュースです。今日午後、都内の繁華街で、男が突然、店舗のガラスを破壊し暴れるという事件がありました。男は止めに入った通行人や店員に暴行を加えたのち、自らの顔をガラスの破片で切りつけるなどし、駆けつけた警官によって現行犯逮捕されました。逮捕されたのは、都内に住む会社員の――』
……おれはただ、この顔を安定させたかっただけなんだ。そして、目的は確かに果たされた。
だが、それは顔に傷をつけたからではない。ニュースで全国に顔が晒され、多くの人の記憶にこの顔が定着したからだった。
今、おれの顔は、とてつもなく凶悪になっている。