表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

おれの顔

作者: 雉白書屋

「君……最近、顔が変わったね」


「えっ、ああ、ははは……」


 会社の休憩所。コーヒーを片手にした課長が唐突にそんなことを言い出し、おれは曖昧な笑みで返した。

 おそらく『頼れる顔つきになった』とか『一人前の風格が出てきた』みたいな好意的な意味ではない。課長の眉間に寄った皺が、コーヒーの苦味によるものなら話は別だが。


「君……頼むよ、ほんとに。まず心だよ、心」


「はい! ははは……」


 課長はどうも昔ながらの精神論を信じて疑わないタイプらしい。いちいち真面目に受け止めていたら、こちらの神経が持たない。だからいつものように、適当に笑ってやり過ごすに限る。

 そう思っていたのだが、その日を境に妙なことが起こり始めた。

 別の同僚にも「なんか……雰囲気変わったよな」と言われ、さらに週末に大学時代の友人と飲みに行ったとき「お前、どうした? なんか怒ってるのか?」と真顔で訊かれたのだ。

 気になって、自宅の鏡を覗き込んだ。目の下にうっすらとクマがあり、頬は少しこけて、表情は確かに疲れている。だが、いつものおれだ。少なくとも変わったというほどのものではない。

 社会に出て数年。学生時代と比べれば老けたし、それなりに苦労も味わってきたとはいえ、年相応のはず……。


『いや、あんた、変わったよ。ちょっと怖いわ……』


「いやいや、母さん。それは画面越しだからだよ。光の加減とかさ。ほら、これでどうかな?」


 少し気になったおれは、母親にビデオ通話で、さりげなく訊ねてみた。しかし、返ってきたのは追い討ちのような言葉だった。


『いやあ、やっぱり変わったよ。で、何? いきなり電話してきたと思ったら、それが用なの? ならもう切るよ。もうすぐドラマが始まるから』


「あっ、ちょっと――」


 電話はあっさりと切られた。顔が変わったというなら、もう少し心配してくれてもいいだろうに。薄情な母親だ。

 それもしても、ここまで人から顔の変化を指摘されると、さすがに気のせいでは済ませられなくなってきた。おれは不安に押され、ついに病院へ足を運ぶことにした。


「なるほど……顔が変わったと感じる、と」


「ええ、まあ、気のせいだと思うんですけど……そんなに変わりましたかね?」


「いや、私とは今日が初対面なので、以前のあなたの顔は存じ上げませんが」


「あ、それはそうだ! ははははは!」


 空回り気味に笑うおれとは対照的に、医者は真剣な顔で黙り込んだ。やがて少し身を乗り出し「実は、こんな説があるんです」と話しを切り出した。


「人間の顔は、他人の記憶や印象によって変容することがあります。つまり、あなたの顔が周囲の人々の認識に引っ張られて、変わっているのかもしれません」


「え、は? そんなことありえないでしょ……」


 医者は小さく首を振り、さらに続けた。


「たとえば、誰かがあなたの顔が“怖い”と感じたとします。すると、あなたの顔はその認識に引き寄せられて、わずかに変化し始める。さらに別の誰かが“怖い”と感じると、顔はそのように変化し、その感覚が人々にどんどん広がっていくうちに、やがて“怖い顔”があなたの新たな標準として定着していく。つまり、周囲の認識によって上書きされ続けるんですよ。特に恐ろしいのは、それが連鎖的に広がっていく点です」


 唖然とするおれに、医者は「たまにあることなんです」と静かに付け加えた。冗談のつもりではないようだ。その表情には一切の軽さがなかった。

 確かに、「かっこよくなったね」と言われれば、きりっと顔を引き締めるし、「優しいね」と言われれば自然と微笑んでしまうものだ。逆に「顔が怖い」と言われ続けた小学校の同級生が、中学で不良になり、最終的にはヤクザになったという話を聞いたことがある。

 他人の目や言葉は、思っている以上にその人に影響を与えるのかもしれない。人間のあり方を変えてしまうほどの力が……。


「で、でも、じゃあ、おれはどうすればいいんですか……?」


「周囲の認識を安定させる必要があります。たとえば……そうですね、額に細いゴムを巻くとか」


「それって……『サッカー選手みたいだね』ってなりません?」


「かもしれません。でも、印象が固定されれば、連鎖は止まる可能性があります。いや、やっぱり弱いかな……」


「いや、ははは、そんなに真剣に考えなくても……やっぱりありえないでしょ……」


「しかし、今のままだと非常に不安定ですよ。実を言うと、私も今、あなたの顔がうまく認識できなくなってきているんです」


「そんな馬鹿な……」


 帰宅後、鏡を覗いても、やはり変化しているようには見えなかった。

 だが、日が経つにつれ、周囲の反応は確実に変わっていった。

 会社では挨拶しても返事が返ってこなくなり、視線を合わせようとすると、あからさまに体ごと避けられた。

 通勤中、すれ違う人たちに凝視されたかと思えば、息を呑み、さっと目をそらされた。

 そしてついに、おれ自身も思い始めた。


 ――おれの顔って、こんなんだったか?


 他人の認識に依存した結果、おれの顔は常に変容し続け、誰の記憶にも定着できなくなっていた。固定されないことで違和感を生み、それがさらに他人を怯えさせていたのだ。

 そしてある日、街を歩いていたとき、ショーウィンドウに映った自分の顔を見た瞬間、おれは確信した。

 そこにあったのは焦点がどこにも定まらず、芋虫のように蠢く、おぞましい顔だったのだ。


「あ、ああああああ!」


 おれは叫び、拳をショーウィンドウに叩きつけた。ガラスが鈍い音を立てて割れ、周囲から悲鳴が上がった。手から血を流しても、おれは止まらなかった。

 ガラスの破片を拾い上げると、口元が自然と緩んだ。なぜかはわからない。ただ、おれは笑っていた。

 止めに入ろうとした通行人を突き飛ばし、おれはその破片を自分の顔へ――。




『続いてのニュースです。今日午後、都内の繁華街で、男が突然、店舗のガラスを破壊し暴れるという事件がありました。男は止めに入った通行人や店員に暴行を加えたのち、自らの顔をガラスの破片で切りつけるなどし、駆けつけた警官によって現行犯逮捕されました。逮捕されたのは、都内に住む会社員の――』


 ……おれはただ、この顔を安定させたかっただけなんだ。そして、目的は確かに果たされた。

 だが、それは顔に傷をつけたからではない。ニュースで全国に顔が晒され、多くの人の記憶にこの顔が定着したからだった。


 今、おれの顔は、とてつもなく凶悪になっている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ