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残り香

作者: 通りすがり

大学生の和司は自宅から歩いてすぐにあるコンビニでバイトをしている。

今は大学が夏休み中のため、時給の高い夜間のシフトに入っていた。

その日もバイトに向かうため、21時過ぎにマンション12階にある自宅を出た。

夜だというのにひどい暑さで、熱せられたじっとりとした空気が体にまとわりつく。

エレベーターに乗り込み一階のボタンを押す。

エレベーターは軽い振動と共に下に向かって動き出したが、すぐに停まった。エレベーター内のフロア表示は『10』を示している。扉が開くとそこには俯き加減の女性が立っていた。

今まで見たことがない女性だった。年齢は40前後くらいだろうか、白のブラウスに黒いズボンというラフな格好をしていて、黒く長い髪が特徴的だった。

エレベーターに乗り込んできた女性は、奥側に立っていた和司の目の前に背を向けて立った。

扉が閉まり再び下に向けてエレベーターが動き出す。夜のエレベーター内で女性と二人はちょっと気まずいと和司が思っていると、その女性が唐突に何か呟いた。

和司には「においますか」と聞こえた。

「えっ!」

突然のことに和司は驚いて思わず声が出てしまった。

女性は俯き加減で前を向いたままの姿勢から動いてはいない。

これは和司に話しかけているのだろうか。わからず和司が困惑していると、その女性は今度ははっきりとした声で「においはしませんか」と言った。

エレベーター内には二人しかいないのだから、これは和司に話しかけたのは間違いない。

でもいったいどういう意味なんだろうか。においとはこのエレベーター内のことなのか、女性のことなのか、それとも他のことなのだろうか。

だが、そう言われると女性から微かにだか、何とも言えない臭いがする。

僅かな揺れとともにエレベーターが一階に着いた。扉がゆっくりと開くが女性は微動だにしない。

「あの、、、着きましたよ」

和司は恐る恐るといった感じで話しかけた。

それでも女性は動こうとしない。そして再び「においはしませんか」と和司に訊いてくる。

和司は横から手を伸ばし、扉の開くボタンを押した。とりあえずこれで扉が閉まることはない。

早くこの状況から抜け出したかった和司は適当に返事をすることにした。

「何もにおいませんよ」

すると女性は「そうですか」と言うと、スッとエレベーターから降りて脇にずれた。

和司はエレベーターを降りると女性の前を急足で通り過ぎてマンションの外に出た。

後ろを振り返るとエレベーターの前にはまだ女性が立っているのが見える。

あの女性はいったい何なんだろうか。不気味なものを感じながらも和司はバイト先のコンビニへと向かっていった。


翌日、その日も夜勤のバイトに向かうため21時過ぎに自宅を出た和司はエレベーターに乗り込んだ。少し昨日のことが思い出されたが、たまたま乗り合わせただけだと気にはしないようにしていた。

しかしエレベーターは昨日と同じように『10』の表示が出たところで止まる。扉がスッと開くとそこには昨日とまったく同じ格好をした女性が立っていた。和司はさすがに顔が強張る。二日連続で同じ人に、しかもこんな時間にエレベーターが一緒になるとは。偶然の可能性もあり得るが、どちらかと言うと必然のような気がして、嫌な想像が膨らんでしまう。

警戒する和司の様子も気にせず女性はエレベーターに乗り込むと昨日と同じように和司に背中を向けて立った。エレベーターの扉が閉じて動き始める。

和司はそのとき女性から昨日よりもはっきりと臭いを感じた。思わず顔を顰める。酷い臭いだ。

少しすると女性は昨日と同じように「においはしませんか」と訊いてくる。

思わず正直ににおいますと言いたくなったが、この女性は普通ではないように思える。そんなことを言ったらどんな反応をするのか分からないのに迂闊なことは言えない。

和司は昨日と同じように「においはしません」と答えた。

そのときちょうどエレベーターが一階に着く。

女性は「そうですか」と言うとエレベーターから降りて脇にずれた。和司は女性の前を通り過ぎると今日は振り返ることはなく早足でマンションから遠ざかっていった。

翌日、和司は昼過ぎに外が騒がしいため目が覚めた。夜勤明けで9時くらいに就寝したばかりだったためにまだ眠たかった和司は、「うるさいなぁ」と文句を言いながら枕元に置かれていたヘッドホンを耳につけて音を遮断すると再び眠りについた。

夕方になり目が覚めた和司は部屋を出るとキッチンへと向かった。キッチンには夕食の準備をする母親がいた。

「今日もコンビニのバイトは夜勤なの」

「うん、そうだよ」

返事をしながらキッチンを覗く。どうやら今日の晩御飯はトンカツみたいだ。和司にとっては朝食になるが。

「昼間外が騒がしかったけど何かあったの」

そう訊くと、母の表情が一気に曇った。

「ああ、あれね。下の階の部屋で死体が見つかったって警察が来てたのよ。もう大騒ぎだったのよ」

「死体?何それ、事件かなにかあったの」

「事件なのかはよく分からないけど、死後数日たった女性の死体が見つかったんだって。隣の部屋の人が酷い臭いがするって管理会社に連絡してわかったみたいだけど」

それを聞いて和司は何か引っかかるものを感じた。

酷い臭い、、、女性、、、。

「その死体が見つかった部屋って何階?」

「たしか10階だったはずよ」

10階、、、まさか、、、。

和司は自身の頭に浮かんだ嫌な想像を打ち消そうと頭を左右に強く振った。


その日も21時過ぎ、コンビニのバイトに向かうために家を出た。

エレベーターの前に立ち、呼び出しのボタンを押そうとするが、ボタンの直前で手が止まる。

今日は階段で降りるか、そのような考えが頭を過ぎる。

いや、考えすぎだ。まさかあの女性が死体の女性と何らかの関係があると決まったわけではない。何を恐れているのか、馬鹿馬鹿しい。

ボタンを押しエレベーターを呼ぶ。緩やかなシャフトの鳴る音がしてエレベーターが上がってくる。エレベーターの扉が開き、暗い通路がエレベーター内の明かりに照らされる。

意を決したように足を進めてエレベーターに乗り込む。一階のボタンを押すとエレベーターの扉が閉まりゆっくりと下に向けて動き出した。

11階を過ぎた辺りでエレベーターにブレーキがかかる振動を感じた。「あっ」と思ったがもはやどうにもならない。10階でエレベーターは停止し、扉が開く。

目の前にはあの女性が立っている。女性は立ったままで動かない。和司は手を伸ばし「閉」のボタンを押すが扉は閉まらない。ガシャガシャと何度も押すがどうしても扉は閉まらなかった。

そのとき女性がボソッと呟いた。

「嘘つき」

「えっ、嘘つき?何が」

震える声で和司がそう答えると、女性は頭をピクッと僅かに動かした。

「今日、私の部屋に大勢の人が来たけど、みんなが同じことを言っていた」

そこまで言うと女性は一歩前に前に出てエレベーターのギリギリに立った。

「ひいっ!」

和司は悲鳴をあげてエレベーターの奥の壁に張り付いた。

「みんなが私に言うの、『酷い臭いだ』って。あなたはにおわないって言ったのに」

そう言って女性は俯き加減だった顔をあげた。

その顔は紫色に浮腫み、目は白濁していた。

「うわぁー!」

和司は悲鳴をあげエレベーターの中に座り込む。

頭を抱えて固く目を閉じ、どこかに行ってくれと必死に心の中で願った。

しばらくするとエレベーターの扉が閉まる音がした。そして振動とともにエレベーターは下へと向かい動き出した。エレベーターの動く音以外は何も聞こえない。

和司は恐る恐る目を開けてみる。エレベーターの中には女性の姿はなかった。ただあの何とも言えない酷い臭いだけがエレベーター内に漂っていた。


翌日、和司は母親からあの女性は病気で亡くなったのだと教えられた。孤独死というやつだった。

もしかしたらあの女性は生前自身の臭いを気にする人だったのかもしれない。だから日に日に臭いが酷くなっていく自分の遺体を早く見つけてほしくて自分の前に現れた、そう和司は思った。

そして、それから和司は女性の姿をエレベーターで見ることはなくなった。

ただ、たまにエレベーターに乗ると、微かにだけどもあの酷い臭いを感じることがある。

それは気のせいなのだろうか、それともそれはあの女性の残り香なのだろうか。

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