ほつれ
夕暮れの川べりで、彼女に初めて会った。
冬の終わりの、ぬるく湿った風が草を揺らしていた。
僕は何をするでもなく、ただ手すりにもたれて川の流れを見ていた。
彼女は、いつの間にか隣にいた。
「あなた、少しほつれてますよ」と、彼女は言った。
冗談かと思ったが、その声には笑いの成分が一滴も混ざっていなかった。
視線を落とすと、確かに左の手首から細くて淡い糸のようなものが一筋、空に向かって伸びていた。
最初はただの服の糸だと思った。だが、手で引きちぎろうとすると、ビリッ、と頭の奥で音がした。
感覚が遠のく。まるで意識の端がふわりとほどけて、風に飛ばされたようだった。
「そのままにしておいたほうがいいですよ。無理に戻すと、もっと変になるから」
彼女はそう言って、僕のほつれた部分にそっと触れた。
すると不思議と、そこだけが静まった。
まるで、ぬかるみに埋もれていた足が一瞬だけ軽くなったような感じだった。
その日から僕たちは何度も会った。
川べり、公園のベンチ、駅のホーム、書店の隅。
どこで会っても彼女は変わらなかった。
ただ、僕の方だけが少しずつ変わっていった。
ほつれが、増えていったのだ。
右肩、うなじ、胸のあたり。
朝になると、新しい糸がふわりと空気の中に漂っている。
風が吹くと、それが小さく揺れるのが見えた。
だが周囲の人々は、まるで何も気づかない。
職場でも、電車の中でも、僕だけがほつれていく。
彼女に会っているときだけ、それは静まった。
「このまま全部、ほどけたらどうなるのかな」と僕は言った。
彼女は少し考えてから、「たぶん、誰にも思い出されなくなるだけ」と答えた。
その声に、なぜだかひどく安らぎを感じた。
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ある夜、強い風が吹いた。
彼女と最後に会った夜だった。
彼女は僕のほつれをそっと指でなぞってから、小さな声で言った。
「わたし、もうすぐここからいなくなるの。だから、あなたも早くどこかへ行ったほうがいい」
その時にはもう、僕の両脚はほとんど輪郭を持っていなかった。
足元には、ほどけた糸が蓄積していた。
まるで誰かがそこで、“僕”を編み直そうとしているようだった。
「でも……あなたに会えてよかった」
そう言うと、彼女は笑った。それは一瞬で、まるで幻のようだった。
その笑顔ごと、風が連れ去っていった。
次に目を覚ましたとき、僕はもう手のひらしか残っていなかった。
自分の存在が、空気の中に溶けていくのがわかる。
言葉も感情も、形を持たず、ただ薄く伸びていく。
記憶の中で、彼女の姿だけがなぜかくっきりと残っている。
それが最後まで残るというのは、きっと、悪くないことだったのだろう。
……ただ、ふと気づく。
僕の意識の中にあった彼女の面影も、少しずつ、やわらかく“ほつれ”始めていた。