八、誰の青い影か
次の日、自販機の前に美羽はいた。
「おはよ」
いつも通りの笑顔と姿勢正しい美羽の佇まいに航星は改めてホッとする。
昨日は疲れた顔しか見ていないかった。
「今日は平気?」
「うん」
二人で歩き始めた。
これはいつもどおり。日常のはずなのに、何だか照れくさい。
昨夜のやりとりのせいだ。
「教室で話しかけてくれて嬉しかった。あと、久々に夜話せたね」
美羽はフフと笑う。
「うん。ありがとう」
航星はむず痒くてつい顔をそらす。
美羽は気にせず話を続けた。
「昨日も一昨日も夢を見たんだよ。琴音ちゃんの。そんなに闇深かったのかな」
「夢?」
航星は何故か胸がざわついた。
「一昨日はさ、琴音ちゃんの背中から青くてぼんやりとした、煙みたいなのが出てきたの」
ぎょっとして美羽を見た。
「それって青い影みたいな感じ?」
「そうそう」
美羽はニコニコしながら話しを続ける。
「私の首を絞めて、お兄ちゃんを返してっていうんだよね。相当な悪夢。
ものすごく怖くて、眠れなくなって。ようやく寝たのに、朝起きたらものすごくだるくて起き上がれなかった。ただの夢なのに」
青い影。
これは偶然だろうか。
美羽の顔をじっと見つめた。
「そんな顔しないでよ。夢だから」
美羽はくすくす笑う。
「それに、昨晩は琴音ちゃん、夢の中で謝りに来たんだよ。ごめんね、お兄ちゃんと仲良くしてねって。
昨日航星が教室で話しかけてくれて、安心したから怖い夢が消えたのかな。ありがとう」
返事ができないでいると、美羽が立ち止まる。
青い影への疑問はとりあえず置いておこう。
照れたとき、感情がこんがらがったとき、美羽は一瞬立ち止まる。
この感じは、アレだ。
走る前の精神集中だ。
「待って」
航星は美羽の前に立ちはだかった。
「待って。走らないで」
また、走って逃げる気なのだ。美羽は焦ると走る癖があるから。
「今日はいかないでほしい」
航星は正直に伝えた。
「今日は教室まで一緒に行こう」
航星の提案に美羽は頷いた。
耳を赤くして。
その日、航星は昨日より幸福な気持ちで家に帰った。
やがて、夜9時は訪れる。
「絵本、読まないでいいよ」
ベッドに入るなり、琴音が言った。
「スマホも見てていい」
航星は目を丸くする。
「いいの?」
「いいの!」
琴音はさっさと横になり、布団をかぶる。
(昨日の効果なのかな)
琴音に悪いと思いつつも、夜9時から10時が自由になった喜びは大きい。
ベッド脇の椅子に座り、美羽とやりとりを始めた。
ウキウキしていた。
初めて時間通りに美羽とつながる。
夢中になって話していたら、いつの間に10時近くになっていた。
美羽から、そろそろ親がうるさいか終わりにすると連絡がきて、航星はスマホを置いた。
こんな満たされた気持ちで夜10時を迎えるなんて。
(いつもなら、何もかも諦めているころだ)
その時だった。
玄関の鍵を開ける音がした。
(母さんだ)
それを合図に琴音が起き上がった。
「起きてたの?」
琴音はうつむいたまま、布団をきゅっと握りしめる。
「お兄ちゃん。秘密にしていてほしいの」
「なにを?」
秘密って何?
そう訊ねることもできず、琴音の顔をじっと見つめた。
その瞳は赤く光っていたのだ。
背中から青い影がユラユラと現れる。
ーー今からすること、秘密ね。
青い影が囁いた。
「まさか、今までの青い影は琴音の仕業なのか?」
「昨日は違うよ。あれは多分お兄ちゃんの生霊。これはわたしの。まあ、わたしが呼んだようなものだけど」
妹の実体が淡々と生霊について説明をしている。
妹は何もかも知っている。
「何をするつもりなんだ」
航星は目眩をこらえて妹に問いかけた。
「お兄ちゃん、わたしね。誰が一番悪いのか。わかったの」
琴音がそう言うと、青い影は琴音を象り、部屋を飛び出ていった。
実体のほうはというと、まだ航星に微笑みかけている。
やがて、玄関のほうから母親の悲鳴が聞こえた。
琴音の実体は、目を見開き、密やかな声を漏らした。
「ざまあみろ」
その唇はどこまでもあどけなく、柔らかな笑みを湛えていた。