五、美羽
朝起きると、琴音は普段通り朝食を食べていた。
父親はすでに出社。
母親は洗面所でドライヤーをかけている。
「おはよう」
琴音は笑顔で挨拶する。
(覚えていないのか?)
航星は向かいに座る。
「昨日の夜のこと覚えてる?」
訊ねると、琴音はぽかんと航星を見た。
「昨日ってなに?」
「怖かったんだろ?」
何のことを言っているのかさっぱりわからないようで、琴音の気持ちはもう朝食に移ってしまった。
「なんか、忘れちゃった」
そういいながら、琴音は食パンをかじる。
やっぱりいつも通りだ。むしろ機嫌がいい。
琴音が何も覚えていないのは幸いだ。
(とりあえずよかった)
バタバタと準備を進める母親の足音が聞こえた。
保育園へ送っていくために、毎朝忙しい。
「お母さん、早く帰れたら一緒にお風呂に入るって」
その言葉で、琴音の機嫌がいい理由がわかった。
でも、早く帰れたらという条件付き約束は果たされないだろう。時々、無責任にそういうことを言うが、早く帰れたことなんてないのだから。
母親だって気にしているから喜ぶようなことを言うのだろうけど、夜、琴音の機嫌が悪くなるからやめてほしいものだ。
航星の脳裏にふと、昨夜の出来事が蘇る。
(あんなこと、二度とあってはいけない)
そのために美羽に別れを切り出すつもりでいた。
★
待ち合わせの場所、自宅から徒歩3分のところにあるその自販機こそ、美羽に告白された場所だった。
中1の終わりの頃だ。
その時のことは鮮明に覚えている。
夕暮れ時。早春とはいえ、暗くて殆ど夜だった。
家を抜け出してコーンポタージュ缶を買いに来た航星の後ろに突然立っていた。
マフラーをぐるぐるに巻いて。
美羽の事は小学生の頃から知っていて、何度も同じクラスになっている。珍しく航星を避けない女子だ。
どうしたの?
そう聞こうと口を開きかけたその時、
「航星の彼氏にして」
どストレートに言った。
あんまり突然だったから状況を理解できず、航星は思わず首を傾げる。
「なんで?」
「なんでって。彼氏になってほしいから」
驚きで停止していた思考をなんとか働かせ、航星はうつむいた。
冷静に考えるほど、美羽が自分に好意を寄せるはずなかったから。
「俺は小5のとき、殴ったよね」
美羽はうなずいた。
「うん。殴られた。小5のとき殴られた」
「今は校則違反して先生に呼び出されたりしている」
「知ってる。ピアスあけたり、先生と喧嘩してみたり、授業サボったりしてる」
「そんなやつの彼氏なりたいの?」
「なりたい」
美羽ははっきりと言い切る。
陸上部の一年女子のエースで、後期学級委員で、成績もまあまあ良くて、教室では友だちに囲まれていて、男子にも人気のあるタイプなのに。
美羽は孤立したイタい男には勿体ない。
それが混乱しつつも出した答えだった。
でも、美羽は目をキラキラさせていた。
「航星と一緒に登校したい。いい?」
その目の輝きに負けて、肯いてしまった。
「別にいいけど」
本当はドキドキしていた。
すごく嬉しかった。
でも、同時に怖かったのだ。
そのことを悟られたくなくて、顔をしかめてみせる。猛烈にカッコつけてしまった。
でも、美羽は違った。
「ありがとう!」
涙を浮かべながら弾けんばかりの笑顔を溢した。
嬉しいという感情を隠さず航星にぶつけた。
それから、くるりと背を向ける。
「走って帰るね」
後ろ姿でもわかる。耳が赤い。
「明日の朝、ここで待っててね」
マフラーをたなびかせ、走り去っていった。
★
あの日から、美羽と毎日登校することになった。毎朝幸福だったけど、今日終わりする。
ーーするつもりだったのに、美羽は来なかった。
その日、美羽は2時間目後の休み時間に教室に現れた。
航星は声をかけずには居られなかった。
「どうかしたの?」
その顔から普段の明るさが削げ落ち、憔悴しきっていた。
「教室では話さないんじゃ……」
ロッカーに荷物を置いた美羽は、あからさまには驚いていた。
「普通に心配だから」
正直に言うと、美羽はうつむく。
「実はね、どうしても起きれなくて、ママが遅刻していいって言ってくれたの」
「体調不良?」
無理して学校に来たのだろうか。
「ーー夢を見た。琴音ちゃんの……」
「琴音の?」
美羽が黙る。
まだ顔色が悪い。
「保健室に行ったほうがいい。それとも帰る?」
美羽は首を振った。
「いいから」
タイミングよくチャイムがなって、仕方なく航星は席についた。
クラスの幾人かがヒソヒソと何かを話している。
どんな気持ちで別れを切り出そうとしたかも、美羽をどれだけ心配したかも知らずに。
(うるさい)
航星は舌打ちして睨みつけてやった。