四、赤い瞳と青い影
祖母が帰り、また夜9時が来た。
不安と苛立ちが両脇にピタリと居座っている。
琴音と二人寝室へ入り、絵本を読み終えても、琴音はベッドの上に座ったまま布団を脚にだけかけていた。
まるで眠る気などないと兄にアピールするようだった。
「今日はカーテンに人はいる?」
もう面倒くさいのでこちらから切り出した。
琴音はコクンと頷く。
電気は消さない。
スマホも見ない。
眠りにつくまでそばにいる。
もう諦めたんだ。
航星は乱暴にカーテンを開け放った。
(そら見ろ)
窓には自分が映っているだけだ。
ーーホントに?
耳元で小さな声がした。
その冷たい声に全身の皮膚が粟立つ。
(誰だ)
ガラス窓に映し出されていた自分の姿に、航星は立ちすくむ。
右肩の後ろに青い人影が見えたのだ。
ーーここで待っててよ
青い影は航星そっくりに姿を変えると、不意に航星を窓の方へと突き飛ばした。
よろめいてそのままガラスにぶつかると思ったが、
体はそのまま窓の向こうに押しやられた。
粘着質な液体に取り込まれたような息苦しさと、ドロドロとした感触が肌を舐めていく。
(気持ち悪い)
体をこわばらせている間に、ガラスの中へと吸い込まれてしまった。
(これはーー窓の中に閉じ込められたのか?)
窓の中から眺める琴音の部屋は、強制的に航星を傍観者にした。
部屋を照らしているはずの明かりが青暗く、どこか陰湿に世界を壊し、包み込んでいる。
ガラスを叩いても音すらしない。
ーー本当にしたいこと、してあげるよ
偽物の航星はこちらにほほえみを一つ向けてから、琴音へと振り返った。
自分の姿をしたそいつは妹に近づいていく。
(まさか、あれは俺の生霊?)
祖母の言葉が脳裏で響いた。
ーー生きた人間の怨念がお化けになって苦しめに来るんだよーー
偽物の航星は琴音を睨みつけた。
(やめろ)
妹へとにじりよる。
偽物はベッドに片膝を乗せ、琴音を見下ろした。
「消えろよ」
口走った言葉の禍々しさに涙がこみ上げる。
それなのに、アイツは微笑んでいるのだ。
琴音の首に手を伸ばす。
琴音の顔は青ざめ、小さく震えている。
(やめてくれ)
その時、カシャリと音がした。
偽物の航星の首にかかっていたネックレスが落ちたのだ。
琴音がくれたおもちゃのネックレス。
お菓子のおまけだけあって、留め具も小さな子どもでも扱えるような作りだった。
それはつまり、外れやすいわけでもあり、こんな時に、スルリと落ちたのだった。
わずかに、その音に注意を奪われた。
偽物の航星の動きが止まり、窓から見つめる本物の航星に激しい後悔が流れ込んだ。
涙を含ませた感情の波が押し寄せる。
なんてことを言ってしまったんだ。
こんなこと、言いたくなかった。
消えてしまいたい。
本当に一瞬だったと思う。
空白になった思考の隙を突くようにして、
意識が体に戻った。
もう元の場所、カーテンの前に立っていた。
もう自分の意志に反して動いたりはしない。
ガラスの中に閉じ込められたりしていない。
琴音は気を失っていた。
しかし、まだ窓には赤い瞳の自分が映っている。
そいつは好き勝手に、畳み掛けるように喋る。
ーー美羽と別れなよ。お前には釣り合わないよ。
ーーそれに、そのほうが家のことに集中できるだろ?
ーー琴音を一人きりにする気か?
赤い瞳のそいつは囁いた。
今その琴音の首を締めようとしたくせに。
ーー美羽と別れなよ。お前なんかが彼氏じゃ、美羽が可哀相だ。
美羽と別れるなんて嫌だった。
でも、それが正しい気がした。
自分から違う誰かが現れて、琴音を手にかけてしまうようなら。
「そうだね」
美羽にはもっといいヤツがいるはずだ。
かっこよくて明るくて優しい男が似合う。
「俺なんかじゃダメだよね」
殴ったやつなんて。
妹の首を絞めるやつなんて。
わかっている。
わかっているのに、胸が痛くて、声を殺して泣いた。
苦しすぎてうずくまった。
美羽だけだ。
変わらずに航星を航星として話してくれたのは。
家では、妹の世話をする人。家事を手伝う人。
学校ではぼっちなのに。
彼氏にしてくれと言ってくれた美羽を、自分から突き放すなんて。できない。
琴音の寝息が聞こえる。
多分、このまま眠るだろう。
航星は涙を拭いてカーテンの向こうを見る。
自分だけが映るはずのガラス窓に、また青い影が航星の背後に立っていて、その瞳が赤く光りニヤリと笑う。
「お前は俺なのか?」
訊ねても答えることなく、青い影は煙のように消えた。
生霊という言葉が蘇る。
あれは自分の生霊なのではないだろか。
自分の時間を邪魔され、苛立ちを募らせた結果、あんなにも恐ろしい航星の本音が、ついに現れたのではないだろうか。