二、俺が殴った女の子
美羽の朝練がない日は二人で登校している。
待ち合わせ場所である自販機の前に、いつも航星より先に立っていた。
細身で背筋の伸びた、凛とした美羽の姿にドキリとする。
細いというと怒るので、あまり口にはしないが。
「おはよう」
今朝の美羽は、機嫌が悪い。
原因は昨夜のことだろう。
「昨日は相談に乗ってくれる約束だったのに」
「だから、妹が寝なくて」
「また妹の話」
口を尖らせてフンッと拗ねてみせる。
「ごめん」
「仕方ないなぁ」
何度も約束を果たせずにいるのに、ちょっと小言を言うだけで許してくれる美羽にずっと甘えている。
美羽の家でのスマホ使用可能時間は夜9時から10時まで。
塾や部活から帰宅後、明日の準備が完璧に終わったら使用していいというのが両親との約束だった。
だから、航星とやり取りをするチャンスは塾が始まる前と後のわずかな時間と、夜9時からの10時なのだ。
ここのところ、妹にその貴重な1時間の殆どを削られている。
「相談って何?」
話を変えたくて切り出してみる。
「修学旅行の実行委員を一緒にやろうって、相談したかったの」
またその話かと、ついムッとしてしまった。
それは既に断ったはずだったから。
航星はいわゆるぼっちなのに、実行委員なんてやっても腫れ物扱いになることはわかっていた。
「教室では話さないって約束だけど?」
周りの目が鬱陶しいからそう決めたはずだ。
航星がわかりやすく顔をしかめたのを見て、美羽は視線をそらす。
「大丈夫。他の人に譲ることにしたから」
その声がすごくガッカリしているから申し訳なくなった。気持ちがグラついた。落ち込んだ横顔を見ていたら、やってもいいと思い始める。
「委員決めるの今日の総合の時間でしょ? まだ間に合うよ。一緒にやるよ」
思わず提案していた。本当のところは、やっぱりやりたくなかったけれど。
でも美羽は首を振る。
「もうダメだよ。決める前に決めてるの。2年女子っていうグループがあって、そこでの決定は絶対。急に立候補したら裏切り者になる」
女子には女子同士の情報網があって、その中で話し合われているらしい。
女子は大変だな。
そんな言葉は反感を買いそうなので飲み込んだ。
「付き合ってる実感が全然ないから、一緒に実行委員になって仕事してみたかっただけ。航星がイイヤツだってみんなに知ってほしかっただけ。ちょっとワガママ言ってみただけ」
美羽は足を止めた。
「ああもう! 妹にヤキモチ。ごめん」
美羽はそう呟くとあっという間に走っていってしまった。
美羽には、話の途中で走って逃げる癖がある。
(さすが陸上部……)
航星には追いつけない。
それに、学校ではあまり二人でいるところを見られたくない。走り去るのはそんな航星への気遣いなのだろうか。
美羽には嫌われたくない。
航星の胸には不安な気持ちがいつも掠めていた。
(だいたい何故、彼女になってくれたのかわからない)
美羽といると、思い出すことがあった。
あの感触を忘れたことはない。
妹が産まれで、すごく可愛くて、大切にした。
母親は琴音が1歳になると仕事を始めて、航星が琴音の遊び相手になることが更に増えた。
その頃、母の帰りは今ほど遅くなかったが、その代わりに、祖母はまだ働いていたから手伝いに来ていなかった。
だから、琴音が保育園から帰ると航星が面倒をみて、その間に母は家事を済ませていたのだ。
だから、友だちに遊びに誘われても全部断っていた。
「夕方の忙しい時間に琴音と遊んでくれてありがとう。とても助かる」
「航星は本当に頼りになる」
母はよく褒めてくれた。
そのことを何度もからかわれて、同級生を殴ったことがある。
女子も男子も殴った。
日頃の鬱憤を晴らしただけの、もう八つ当たりみたいな惨状だった。
もちろん大問題となり、両親が呼び出された後、全ての子どもとその親に謝りに行った。
それ以来、航星はヤバいやつになった。
仕方がない。
親は終わった出来事と思っているが、知らないだろう。
謝罪のその後を。
家ではいい子でも、学校じゃわからない。
航星も学校では自分をヤバいやつだと信じていた。
友だちは離れていって、一人ぼっちのイタい人間をやり通すつもりだった。
それなのに、何故か美羽は違った。
変わらず航星に話しかけてくれた。
ついには彼氏になってくれと言ってきた。
美羽だって、あのとき航星が殴ったやつの一人なのに。
美羽を殴ったという事実も、手の感触も、忘れることができなかった。